「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。世尊は、この〔言葉〕を言って、善き至達者は、坐から立ち上がって、精舎に入りました。
そこで、まさに、それらの比丘たちに、世尊が立ち去ったすぐあと、この〔思いが〕有りました。「友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか」と。
そこで、まさに、それらの比丘たちに、この〔思い〕が有りました。「この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ」と。
そこで、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに、こう言いました。
「友よ、カッチャーナよ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。
友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。
友よ、〔まさに〕その、わたしたちに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ」と。
「友よ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、〔そこに〕立っている硬材ある大木の、まさしく、根を超え行って、幹を超え行って、枝葉において硬材を遍く探し求めるべきと思い考えるようなものです。このように、これと同様に、尊者たちの教師が面前の状態にあるとき、彼を、世尊を、見過ごして、わたしどもに、この義(意味)を質問するべきと、〔あなたたちは〕思い考えます。友よ、まさに、彼は、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、あなたたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。
「友よ、カッチャーナよ、たしかに、世尊は、〔あるがままに〕知っている者として知り、〔あるがままに〕見ている者として見ます。眼と成った方であり、知と成った方であり、法(真理)と成った方であり、梵と成った方であり、説者たる方であり、伝授する方であり、義(意味)を与え導く方であり、不死を与える方であり、法(教え)の主人であり、如来です。また、まさしく、そして、このための時として、それは有りました。すなわち、わたしたちが、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべき、〔その時として〕。すなわち、世尊が、わたしたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです。しかしながら、また、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところです。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができます。尊者マハー・カッチャーナは、区分したまえ⸺重からざるものと為して」と。
「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナに答えました。そこで、尊者マハー・カッチャーナは、こう言いました。
「友よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、法(正義)が〔知られるべきであり〕、さらに、義(利益)ならざるものが知られるべきであり、かつまた、義(利益)が〔知られるべきです〕。そして、法(正義)ならざるものを知って、かつまた、法(正義)を〔知って〕、さらに、義(利益)ならざるものを知って、かつまた、義(利益)を〔知って〕、法(正義)のとおり、義(利益)のとおり、そのとおりに実践するべきです』と。
友よ、そして、どのようなものが、法(正義)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、法(正義)なのですか。さらに、どのようなものが、義(利益)ならざるものであり、かつまた、どのようなものが、義(利益)なのですか。(1)友よ、命あるものを殺すことは、法(正義)ならざるものであり、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、命あるものを殺すという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(2)友よ、与えられていないものを取ることは、法(正義)ならざるものであり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、与えられていないものを取るという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(3)友よ、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないは、法(正義)ならざるものであり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(4)友よ、虚偽を説くことは、法(正義)ならざるものであり、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、虚偽を説くという縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(5)友よ、中傷の言葉は、法(正義)ならざるものであり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、中傷の言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、中傷の言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(6)友よ、粗暴な言葉は、法(正義)ならざるものであり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、粗暴な言葉という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(7)友よ、雑駁な虚論は、法(正義)ならざるものであり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、雑駁な虚論という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(8)友よ、強欲〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、強欲〔の思い〕から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、強欲〔の思い〕という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、強欲〔の思い〕から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(9)友よ、憎悪〔の思い〕は、法(正義)ならざるものであり、憎悪〔の思い〕から離れている〔生き方〕は、法(正義)です。さらに、すなわち、憎悪〔の思い〕という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、憎悪〔の思い〕から離れている〔生き方〕という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
(10)友よ、誤った見解は、法(正義)ならざるものであり、正しい見解は、法(正義)です。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これは、義(利益)ならざるものです。そして、正しい見解という縁あることから、無数の善なる法(性質)が修行の円満成就に赴きます。これは、義(利益)です。
友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。
「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者マハー・カッチャーナの語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、すなわち、まさに、世尊は、誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのです。『比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが……略……そのように実践するべきです』と。
尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、世尊が立ち去ったすぐあと、まさに、この〔思いが〕有りました。『友よ、まさに、世尊は、この誦説を、簡略〔の観点〕によって、わたしたちに誦説して、詳細〔の観点〕によって義(意味)を区分せずして、坐から立ち上がって、精舎に入ったのだ。「比丘たちよ、そして、法(正義)ならざるものが知られるべきであり……そのように実践するべきです」と。いったい、まさに、誰が、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分するべきなのか』と。
尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちに、まさに、この〔思い〕が有りました。『この者は、まさに、尊者マハー・カッチャーナは、まさしく、そして、世尊の褒め称えるところであり、さらに、梵行を共にする識者たちの敬愛するところである。そして、尊者マハー・カッチャーナは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって誦説され、詳細〔の観点〕によって義(意味)が区分されていない、この誦説の義(意味)を、詳細〔の観点〕によって区分することができる。それなら、さあ、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行くのだ。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問するのだ。すなわち、尊者マハー・カッチャーナが、わたしたちに説き明かすであろうとおり、そのとおりに、それを保持するのだ』と。
尊き方よ、そこで、まさに、わたしたちは、尊者マハー・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者マハー・カッチャーナに、この義(意味)を質問しました。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちのために、義(意味)は、尊者マハー・カッチャーナによって、これらの語によって、これらの句によって、これらの文によって、見事に区分されました」と。
「比丘たちよ、善きかな、善きかな。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、賢者です。比丘たちよ、マハー・カッチャーナは、大いなる智慧ある者です。比丘たちよ、もし、また、あなたたちが、近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、そして、わたしもまた、これを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、マハー・カッチャーナによって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、その〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第六となる。
注釈【0】