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翻訳【20】

チュンダの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、パーヴァーに住んでおられます。鍛冶屋の子のチュンダのアンバ林(マンゴーの果樹園)において。そこで、まさに、鍛冶屋の子のチュンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、鍛冶屋の子のチュンダに、世尊は、こう言いました。「チュンダよ、まさに、あなたは、どのような者の諸々の清廉を喜びますか」と。「尊き方よ、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知します。わたしは、彼らの諸々の清廉を喜びます」と。

「チュンダよ、また、すなわち、どのように、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知するのですか」と。「尊き方よ、ここに、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、彼らは、弟子に、このように受持させます。『さて、人士たる者よ、さあ、あなたは、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるのだ。もし、地を撫でられないなら、諸々の水気のある牛糞を撫でるのだ。もし、諸々の水気のある牛糞を撫でられないなら、諸々の緑あざやかな草を撫でるのだ。もし、諸々の緑あざやかな草を撫でられないなら、祭火に奉仕するのだ。もし、祭火に奉仕できないなら、合掌の者となり、太陽に礼拝するのだ。もし、合掌の者となり、太陽に礼拝できないなら、夕方までに三回、水に入り行くのだ』と。尊き方よ、このように、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知します。わたしは、彼らの清廉を喜びます」と。

「チュンダよ、まさに、他なるものとして、長口の水瓶をもち藻の飾り物をつけ祭火の奉仕者にして水行者たちである、西の地の婆羅門たちは、諸々の清廉を報知し、また、そして、他なるものとして、聖者の律における清廉は有ります(両者は別個のあり方をしている)」と。「尊き方よ、また、すなわち、どのように、聖者の律における清廉は有るのですか。尊き方よ、世尊は、どうか、わたしに、すなわち、聖者の律における清廉が有るとおり、そのとおりに、法(教え)を説示してください」と。

「チュンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

「チュンダよ、まさに、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有り、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有り、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有ります。

チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺す者として〔世に〕有ります⸺残忍で、血の手をもち、殺しては殺すことに〔思いが〕固着し、一切の命ある生類たちにたいし憐憫〔の思い〕を起こさない者として。

(2)与えられていないものを取る者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有ります。

(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による清廉なき〔あり方〕が有ります。

チュンダよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説く者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有ります。

(5)中傷の言葉ある者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者として、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者として、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

(6)粗暴な言葉ある者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、激越で、粗野で、他者に辛辣で、他者を不機嫌にし、忿激に近いものであり、禅定を等しく転起しないものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

(7)雑駁な虚論ある者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時ならずに説く者として、事実ならざることを説く者として、義(意味)ならざることを説く者として、法(教え)ならざることを説く者として、律ならざることを説く者として、安置する〔価値〕なき言葉を⸺〔正しい〕時ならずに、理由なく、結末なく、義(道理)を伴わない〔言葉〕を⸺語る者として、〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による清廉なき〔あり方〕が有ります。

チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求める者として〔世に〕有ります。

(9)憎悪している心の者として、汚れた意と思惟ある者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、あるいは、殺害されてしまえ、あるいは、結縛されてしまえ、あるいは、断絶されてしまえ、あるいは、消失してしまえ、あるいは、〔世に〕有ってはならない』と。

(10)誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による清廉なき〔あり方〕が有ります。

チュンダよ、まさに、これらの十の善ならざる行為の道があります。チュンダよ、まさに、これらの十の善ならざる行為の道を具備した者は、たとえ、もし、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、地を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でるとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、祭火に奉仕するとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、祭火に奉仕しないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝するとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝しないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、夕方までに三回、水に入り行くとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有り、たとえ、もし、水に入り行かないとしても、まさしく、清らかならざる者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、これらの十の善ならざる行為の道は、まさしく、清らかならざるものとして〔世に〕有るからです⸺かつまた、清らかならざるものを作り為すものとして。

チュンダよ、また、これらの十の善ならざる行為の道ある者たちには、〔それらの〕具備を因として、地獄が覚知され、畜生の胎が覚知され、餓鬼の境域が覚知されます⸺また、あるいは、それらが何であれ、他のまた悪しき境遇悪趣も。

チュンダよ、まさに、三種類のものとして、身体による清廉が有り、四種類のものとして、言葉による清廉が有り、三種類のものとして、意による清廉が有ります。

チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、身体による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有ります。棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

(2)与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、あるいは、村に置かれ、あるいは、林に置かれた、他者の富や資益物であるなら、〔まさに〕その、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取る者として〔世に〕有りません。

(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、それら〔の女性〕たちが、母によって守られた者であり、父によって守られた者であり、母と父によって守られた者であり、兄弟によって守られた者であり、姉妹によって守られた者であり、親族によって守られた者であり、種姓によって守られた者であり、法(正義)によって守られた者であり、主人を有する者であり、刑罰の保護を有する者であるなら、もしくは、花環を巻いた者であるもまた、そのような形態〔の女性〕たちにたいし関係を持つ者として〔世に〕有りません。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、身体による清廉が有ります。

チュンダよ、では、どのように、四種類のものとして、言葉による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として〔世に〕有ります。あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないなら、『知らない』と言い、あるいは、知っているなら、『知る』と言い、あるいは、見ていないなら、『見ない』と言い、あるいは、見ているなら、『見る』と言います。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る者として〔世に〕有りません。

(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有ります。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有ります。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有ります。〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を⸺〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を⸺語る者として、〔世に〕有ります。チュンダよ、このように、まさに、四種類のものとして、言葉による清廉が有ります。

チュンダよ、では、どのように、三種類のものとして、意による清廉が有るのですか。チュンダよ、ここに、一部の者は、(8)強欲〔の思い〕なき者として〔世に〕有ります。すなわち、それが、他者のものであり、他者の富や資益物であるなら、『ああ、まさに、それが、他者のものであるなら、それは、わたしに存するべきである』と、それを貪り求めない者として〔世に〕有ります。

(9)憎悪していない心の者として、汚れた意と思惟なき者として、〔世に〕有ります。『これらの有情たちは、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる者たちとして〔世に〕有り、自己を守り抜け』と。

(10)正しい見解ある者として、転倒なき見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。チュンダよ、このように、まさに、三種類のものとして、意による清廉が有ります。

チュンダよ、まさに、これらの十の善なる行為の道があります。チュンダよ、まさに、これらの十の善なる行為の道を具備した者は、たとえ、もし、まさしく、早朝に、まさしく、起き上がり、臥所から地を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、地を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の水気のある牛糞を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でるとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、諸々の緑あざやかな草を撫でないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、祭火に奉仕するとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、祭火に奉仕しないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝するとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、合掌の者となり、太陽に礼拝しないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。

たとえ、もし、夕方までに三回、水に入り行くとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有り、たとえ、もし、水に入り行かないとしても、まさしく、清らかな者として〔世に〕有ります。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、これらの十の善なる行為の道は、まさしく、清らかなものとして〔世に〕有るからです⸺かつまた、清らかなものを作り為すものとして。

チュンダよ、また、これらの十の善なる行為の道ある者たちには、〔それらの〕具備を因として、天〔の境遇〕が覚知され、人間〔の境遇〕が覚知されます⸺また、あるいは、それらが何であれ、他のまた善き境遇善趣も」と。

このように説かれたとき、鍛冶屋の子のチュンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください⸺今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。

注釈【0】