或る時のことです。世尊は、カジャンガラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、大勢のカジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちが、カジャンガリカー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、カジャンガリカー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、カジャンガリカー比丘尼に、こう言いました。
「尊貴なる方よ、この〔言葉〕が、諸々の大いなる問いについて、世尊によって説かれました。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります。二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります。三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります。四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります。五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります。六つの問いがあり、六つの誦説があり、六つの説き明かしがあります。七つの問いがあり、七つの誦説があり、七つの説き明かしがあります。八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります。九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります。十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と。尊貴なる方よ、まさに、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)は、詳細〔の観点〕によって、どのように見られるべきですか」と。
「友よ、また、まさに、このことを、世尊の、面前で聞き、面前で受けたことはなく、意を修めることができる比丘たちの、面前で聞き、面前で受けたこともまたありません。しかしながら、また、すなわち、ここにおいて、わたしの思うところとして、それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、カジャンガリカー比丘尼に答えました。カジャンガリカー比丘尼は、こう言いました。
「(1)『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。友よ、『一切の有情たちは、食に立脚する者たちである』と、まさに、この、一つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(2)『二つの問いがあり、二つの誦説があり、二つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、二つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、二つの法(性質)なのですか。友よ、そして、名前であり、さらに、形態であり……略……。(3)どのようなものが、三つの法(性質)なのですか。友よ、三つの感受であり、まさに、これらの三つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『三つの問いがあり、三つの誦説があり、三つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(4)『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、四つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、四つの法(性質)なのですか。友よ、四つの気づきの確立(四念処・四念住)であり、まさに、これらの四つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『四つの問いがあり、四つの誦説があり、四つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(5)『五つの問いがあり、五つの誦説があり、五つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、五つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、五つの法(性質)なのですか。友よ、五つの機能(五根)であり……略……。(6)どのようなものが、六つの法(性質)なのですか。友よ、六つの出離するべき界域(六出離界)であり……略……。(7)どのようなものが、七つの法(性質)なのですか。友よ、七つの覚りの支分(七覚支)であり……略……。(8)どのようなものが、八つの法(性質)なのですか。友よ、八つの聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)であり、まさに、これらの八つの法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極六を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『八つの問いがあり、八つの誦説があり、八つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(9)『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、九つの法(性質)なのですか。友よ、九つの有情の居住所であり、まさに、これらの九つの法(性質)にたいし、比丘は、正しく厭離しながら、正しく離貪しながら、正しく解脱しながら、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『九つの問いがあり、九つの誦説があり、九つの説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(10)『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。友よ、十の法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。どのようなものが、十の法(性質)なのですか。友よ、十の善なる行為の道(十善業道)であり、まさに、これらの十の法(性質)について、比丘は、正しく心が善く修められた者と〔成り〕、正しく完全なる終極を見る者と〔成り〕、正しく義(意味)を知悉して、まさしく、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。『十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と、かくのごとく、〔世尊によって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
友よ、かくのごとく、まさに、すなわち、その〔言葉〕が、諸々の大いなる問いについて、世尊によって説かれました。『一つの問いがあり、一つの誦説があり、一つの説き明かしがあります。……略……。十の問いがあり、十の誦説があり、十の説き明かしがあります』と。友よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、このように了知します。友よ、また、そして、望んでいるなら、あなたたちは、近づいて行って、まさしく、世尊に、この義(意味)を質問するべきです。すなわち、世尊が、あなたたちに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。「尊貴なる方よ、わかりました」と、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、まさに、カジャンガリカー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、カジャンガリカー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、カジャンガラー〔の住者〕たる在俗信者たちは、すなわち、カジャンガリカー比丘尼を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。
「家長たちよ、善きかな、善きかな。家長たちよ、カジャンガリカー比丘尼は、賢者です。家長たちよ、カジャンガリカー比丘尼は、大いなる智慧ある者です。家長たちよ、もし、また、あなたたちが、近づいて行って、わたしに、この義(意味)を質問するなら、そして、わたしもまた、これを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、カジャンガリカー比丘尼によって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、その〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。〔以上が〕第八となる。
注釈【0】