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翻訳【15】

クシナーラーの経

或る時のことです。世尊は、クシナーラーに住んでおられます。バリハラナの密林において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。

「比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、五つの法(性質)を注視して、内に、五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです。どのような五つの法(性質)が、内に注視されるべきですか。(1)比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕完全なる清浄の身体の励行ある者として〔世に〕存しているのか。〔わたしは〕瑕疵なく過失なき完全なる清浄の身体の励行を具備した者として〔世に〕存しているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、完全なる清浄の身体の励行ある者として、瑕疵なく過失なき完全なる清浄の身体の励行を具備した者として、〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、身体についてのものを学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕完全なる清浄の言葉の励行ある者として〔世に〕存しているのか。〔わたしは〕瑕疵なく過失なき完全なる清浄の言葉の励行を具備した者として〔世に〕存しているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、完全なる清浄の言葉の励行ある者として、瑕疵なく過失なき完全なる清浄の言葉の励行を具備した者として、〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、言葉についてのものを学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、わたしに、梵行を共にする者たちにたいし憤懣〔の思い〕なき慈愛の心が現起されているのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし憤懣〔の思い〕なき慈愛の心が現起されたものとして〔世に〕有ることがないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、梵行を共にする者たちにたいし慈愛の心を現起させたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

(4)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕存しているのか⸺すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、わたしには、そのような形態の諸々の法(教え)が有る⸺多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ることがないなら⸺すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります⸺多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして⸺彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、聖教を遍く学得したまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。

(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、このように注視するべきです。『また、まさに、わたしの、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有るのか。さてまた、まさに、わたしに、この法(性質)が等しく見出されるのか、それとも、〔等しく見出され〕ないのか』と。比丘たちよ、もし、比丘の、両の戒条が、詳細〔の観点〕によって、善く精通されたものとして、善く区分されたものとして、善き行持あるものとして、経〔の観点〕から、付随する特徴〔の観点〕から、善く判別されたものとして、〔世に〕有ることがないなら、『尊者よ、また、この〔言葉〕は、世尊によって、どこにおいて説かれたのですか』と、かくのごとく尋ねられ、解答しないなら、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。『尊者よ、さあ、まずは、律を学びたまえ』と、かくのごとく、彼に説く者たちが〔世に〕有ります。これらの五つの法(性質)が、内に注視されるべきです。

どのような五つの法(性質)が、内に現起されるべきですか。『(6)〔正しい〕時に、〔わたしは〕説くのだ⸺〔正しい〕時ならずに、ではなく』『(7)事実によって、〔わたしは〕説くのだ⸺事実ならざることによって、ではなく』『(8)優しい〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ⸺粗暴な〔言葉〕によって、ではなく』『(9)(道理)を伴った〔言葉〕によって、〔わたしは〕説くのだ⸺義(道理)を伴わない〔言葉〕によって、ではなく』『(10)慈愛の心ある者として、〔わたしは〕説くのだ⸺憤怒を内にする者として、ではなく』と、これらの五つの法(性質)が、内に現起されるべきです。比丘たちよ、叱責者として、他者を叱責することを欲する比丘は、内に、これらの五つの法(性質)を注視して、内に、これらの五つの法(性質)を現起させて〔そののち〕、他者を叱責するべきです」と。〔以上が〕第四となる。

注釈【0】