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翻訳【17】

自らの心の経

或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

「比丘たちよ、もし、比丘が、他者の心の様態に巧みな智ある者と成らないなら、そこで、『〔わたしたちは〕自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです。

比丘たちよ、では、どのように、比丘は、自らの心の様態に巧みな智ある者と成るのですか。比丘たちよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、それで、もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見るなら、まさしく、その、あるいは、塵の、あるいは、穢れの、捨棄のために努力するようなものです。もし、そこにおいて、あるいは、塵を、あるいは、穢れを、見ないなら、まさしく、それによって、わが意を得た者と成り、円満成就した思惟ある者と〔成ります〕⸺『まさに、わたしには、諸々の利得がある。まさに、わたしには、完全なる清浄がある』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、注視は、諸々の善なる法(性質)において、比丘のために多く〔の利益〕を作り為すものと成ります⸺『(1)さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいるのか』『(2)さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいるのか』『(3)さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいるのか』『(4)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいるのか』『(5)さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいるのか』『(6)さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいるのか』『(7)さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいるのか』『(8)さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいるのか』『(9)さてまた、まさに、〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいるのか』『(10)さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいるのでは』『さてまた、まさに、〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいるのか』と。

比丘たちよ、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪している心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気に遍く取り囲まれた者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚している者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑ある者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激する者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染された心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有する身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕怠惰の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められていない者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕(意欲)が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、衣が燃えている者が、あるいは、頭が燃えている者が、まさしく、その、あるいは、衣の、あるいは、頭の、鎮火のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕を、かつまた、努力を、かつまた、邁進を、かつまた、勤勇を、かつまた、反転なき〔精励〕を、かつまた、気づきを、かつまた、正知を、為すであろうように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その比丘によって、まさしく、それらの悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、旺盛なるものとして、かつまた、欲〔の思い〕が、かつまた、努力が、かつまた、邁進が、かつまた、勤勇が、かつまた、反転なき〔精励〕が、かつまた、気づきが、かつまた、正知が、為されるべきです。

比丘たちよ、また、それで、もし、比丘が、注視しながら、『〔わたしは〕強欲〔の思い〕なき者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕憎悪していない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは心の〕沈滞と眠気を離れ去った者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕高揚していない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕疑惑を超え渡った者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕忿激しない者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕汚染されていない心の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕懊悩を有さない身体の者として多くを住んでいる』『〔わたしは〕精進に励む者として多くを住んでいる』『〔わたしは心が〕定められた者として多くを住んでいる』と、このように知るなら、比丘たちよ、その比丘によって、まさしく、それらの善なる法(性質)において、より上なる確立のために、諸々の煩悩の滅尽のために、〔心の〕制止瑜伽が為されるべきです」と。〔以上が〕第一となる。

注釈【0】