そこで、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。(1)「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
(2)「貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久ではないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
(3)「貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極があるのですか。……略……(4)世〔界〕は、終極がないのですか。……(5)そのものとして生命があり、そのものとして肉体があるのですか。……(6)他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体があるのですか。……(7)如来は、死後に有るのですか。……(8)如来は、死後に有ることがないのですか。……(9)如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。……(10)如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか」と。「ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
(1)「『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久なのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
(2)『貴君ゴータマよ、また、どうなのでしょう、世〔界〕は、常久ではないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
(3)『貴君ゴータマよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、世〔界〕は、終極があるのですか。……略……(4)世〔界〕は、終極がないのですか。……(5)そのものとして生命があり、そのものとして肉体があるのですか。……(6)他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体があるのですか。……(7)如来は、死後に有るのですか。……(8)如来は、死後に有ることがないのですか。……(9)如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。……(10)如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ウッティヤよ、まさに、このことは、わたしによって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。そこで、そうしますと、何が、貴君ゴータマによって説き明かされたのですか」と。
「ウッティヤよ、まさに、わたしは、証知して〔そののち〕、弟子たちに、法(教え)を説示します⸺有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために」と。
「また、すなわち、このことがあり、貴君ゴータマが、証知して〔そののち〕、弟子たちに、法(教え)を説示するなら⸺有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために⸺それによって、世〔の人々〕は、あるいは、全てが導かれるか、あるいは、半分が〔導かれるか〕、あるいは、三分の一が〔導かれるかです〕」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者と成りました。
そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「まさに、このように、まさに、ウッティヤ遍歴遊行者が、悪しきものである悪しき見解を獲得してはならない。『沙門ゴータマは、まさに、わたしによって尋ねられた、全てが高尚なる問いを放置し、回答しない。まちがいなく、〔何も〕できないのだ』と。それは、ウッティヤ遍歴遊行者にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するであろう」と。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、ウッティヤ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、ウッティヤよ、それでは、あなたのために、譬えを作り為しましょう。譬えによって、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。友よ、ウッティヤよ、それは、たとえば、また、堅固な土塁があり、堅固な塀と楼門があり、一つの門がある、王の最辺境の城市があるとします。そこに、門番が、所知ならざる者たちを阻止し、所知の者たちを通行させる、賢者として、明敏なる者として、思慮ある者として、〔そのような者として〕存するとします。彼は、その城市の、遍きにわたり、巡回する道を巡り行きします。巡回する道を巡り行きながら、あるいは、塀の境目を、あるいは、塀の隙間を、もしくは、たとえ、山猫が出るほどのものであろうと、〔それらの全てを〕見ることはありません。かつまた、まさに、彼に、このような知恵は有りません。『これだけの命あるものたちが、この城市を、あるいは、入り、あるいは、出る』と。そこで、まさに、ここにおいて、彼に、このような〔知恵が〕有ります。『まさに、彼らが誰であれ、粗大なる命あるものたちが、この城市を、あるいは、入るなら、あるいは、出るなら、彼らの全てが、この門をとおり、あるいは、入り、あるいは、出る』と。
友よ、ウッティヤよ、まさしく、このように、まさに、如来には、このような思い入れは有りません。『それによって、世〔の人々〕は、あるいは、全てが導かれるか、あるいは、半分が〔導かれるか〕、あるいは、三分の一が〔導かれるかです〕』と。そこで、まさに、ここにおいて、如来には、このような〔知恵が〕有ります。『まさに、彼らが誰であれ、〔この〕世から、あるいは、導かれたとして、あるいは、導かれるとして、あるいは、導かれることになるとして、彼らの全てが、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、四つの気づきの確立(四念処・四念住)において心が善く確立した者たちとなり、七つの覚りの支分(七覚支)を事実のとおりに修めて、このように、これらの者たちは、〔この〕世から、あるいは、導かれたのであり、あるいは、導かれるのであり、あるいは、導かれることになる』と。友よ、ウッティヤよ、まさしく、すなわち、まさに、あなたは、世尊に、問いを尋ねましたが、まさしく、その、この問いを、他の教相によって、世尊に尋ねたのです。それゆえに、世尊は、あなたに、それを説き明かさなかったのです」と。〔以上が〕第五となる。
注釈【0】