「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、三つのものなのですか。荒々しい〔実践の〕道であり、焼尽する〔実践の〕道であり、中なる〔実践の〕道(中道)です。比丘たちよ、では、どのようなものが、荒々しい〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、このような論ある者として、このような見解ある者として、〔世に〕有ります。『諸々の欲望〔の対象〕のうちに、汚点は存在しない』と。彼は、諸々の欲望〔の対象〕のうちに落ち行く〔性向〕を惹起します。比丘たちよ、これは、荒々しい〔実践の〕道と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、焼尽する〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。
彼は、野菜を食物とする者ともまた成り、粟を食物とする者ともまた成り、野生米を食物とする者ともまた成り、革屑を食物とする者ともまた成り、苔を食物とする者ともまた成り、糠を食物とする者ともまた成り、飯汁を食物とする者ともまた成り、胡麻粉を食物とする者ともまた成り、草を食物とする者ともまた成り、牛糞を食物とする者ともまた成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。
彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、焼尽する〔実践の〕道と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、中なる〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの〔実践の〕道があります」と。
「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの〔実践の〕道です。どのようなものが、三つのものなのですか。荒々しい〔実践の〕道であり、焼尽する〔実践の〕道であり、中なる〔実践の〕道です。比丘たちよ、では、どのようなものが、荒々しい〔実践の〕道なのですか。……略……。比丘たちよ、これは、荒々しい〔実践の〕道と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、焼尽する〔実践の〕道なのですか。……略……。比丘たちよ、これは、焼尽する〔実践の〕道と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、中なる〔実践の〕道なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。……。
……欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と……略……。心(専心)の禅定と……略……。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。……略……。
……信の機能を修めます。……精進の機能を修めます。……気づきの機能を修めます。禅定の機能を修めます。……智慧の機能を修めます。……。
……信の力を修めます。……精進の力を修めます。……気づきの力を修めます。……禅定の力を修めます。……智慧の力を修めます。……。
……気づきという正覚の支分を修めます。……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。……放捨という正覚の支分を修めます。……。
……正しい見解を修めます。……正しい思惟を修めます。……正しい言葉を修めます。……正しい行業を修めます。……正しい生き方を修めます。……正しい努力を修めます。……正しい気づきを修めます。……正しい禅定を修めます。比丘たちよ、これは、中なる〔実践の〕道と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの三つの〔実践の〕道があります」と。
無衣の者の章が第六となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「気づきの確立、正しい精励があり、そして、神通の足場と機能とともに、力、覚りの支分、さらに、道があり、〔実践の〕道と結び付けるべきである」と。
注釈【0】