このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、ケーサムッタという名のコーサラ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、ケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、ケーサムッタ〔町〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は……略……。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。
そこで、まさに、ケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらのケーサムッタ〔町〕のカーラーマ〔族〕の者たちは、世尊に、こう言いました。
「尊き方よ、ケーサムッタ〔町〕にやってくる、或る沙門や婆羅門たちが存在します。彼らは、自らの論だけを提示し、顕示します。いっぽう、他者の論説を責め、謗り、貶め、排斥を為します。尊き方よ、他にもまた、ケーサムッタ〔町〕にやってくる、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らもまた、自らの論だけを提示し、顕示します。いっぽう、他者の論説を責め、謗り、貶め、排斥を為します。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしたちには、まさに、まさしく、疑いが有り、疑惑が有ります。『これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかの、いったい、まさに、誰が、真理を言っているのか、誰が、虚偽を〔言っているのか〕』」と。「カーラーマ〔族〕の者たちよ、まさに、あなたたちには、疑うに十分なるものがあり、疑惑するに十分なるものがあります。また、まさしく、疑うべき状況において、あなたたちに、疑惑が生起したのです。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証)によってではなく、見解の納得による受認(受諾)によってではなく、有能なる形態あること(外見)によってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する』と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。
「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、貪る者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き(不倫をする)、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。
「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、怒る者は、この人士たる人は、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、迷妄が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。
「尊き方よ、利益ならざるもののためになります」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、迷う者は、この人士たる人は、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、命あるものをもまた殺し、与えられていないものをもまた取り、他者の妻のもとにもまた赴き、虚偽をもまた話し、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔成り〕、苦痛のために成ります」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。
「尊き方よ、善ならざるものです」〔と〕。
「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。
「尊き方よ、罪過を有するものです」〔と〕。
「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。
「尊き方よ、識者たちに難詰されるものです」〔と〕。
「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。
「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕⸺『カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善ならざるものである。これらの法(性質)は、罪過を有するものである。これらの法(性質)は、識者たちに難詰されるものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益ならざるもののために、苦痛のために、等しく転起する」と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕捨棄するのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、『わたしたちの導師たる沙門である』ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、『これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する』と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、貪欲なき〔あり方〕(無貪)が生起しつつ生起するなら、あるいは、利益のためになりますか、あるいは、利益ならざるもののためになりますか」と。
「尊き方よ、利益のためになります」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、また、貪らない者は、この人士たる人は、貪欲〔の思い〕に征服されない者であり、心が完全に奪い去られない者であり、まさしく、命あるものを殺さず、与えられていないものを取らず、他者の妻のもとに赴かず、虚偽を話さず、他者をもまた、そのとおりそのままに受持させます。すなわち、彼にとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。人の内に、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)が生起しつつ生起するなら……略……人の内に、迷妄なき〔あり方〕(無痴)が生起しつつ生起するなら……略……利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。
「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、それを、どう思いますか。これらの法(性質)は、あるいは、善なるものですか、あるいは、善ならざるものですか」と。
「尊き方よ、善なるものです」〔と〕。
「あるいは、罪過を有するものですか、あるいは、罪過なきものですか」と。
「尊き方よ、罪過なきものです」〔と〕。
「あるいは、識者たちに難詰されるものですか、あるいは、識者たちに賞賛されるものですか」と。
「尊き方よ、識者たちに賞賛されるものです」〔と〕。
「〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起しますか、あるいは、〔そのようなことは〕ないですか。あるいは、ここにおいて、どのような〔思いが〕有りますか」と。
「尊き方よ、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起します。かくのごとく、ここにおいて、わたしたちに、このような〔思いが〕有ります」と。
「カーラーマ〔族〕の者たちよ、かくのごとく、まさに、すなわち、〔わたしたちが〕言った、その〔言葉〕⸺『カーラーマ〔族〕の者たちよ、さあ、あなたたちは、聴聞によってではなく、相伝によってではなく、伝聞によってではなく、典籍の成就によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索によってではなく、見解の納得による受認によってではなく、有能なる形態あることによってではなく、「わたしたちの導師たる沙門である」ということではなく、カーラーマ〔族〕の者たちよ、すなわち、あなたたちが、まさしく、自己みずから、「これらの法(性質)は、善なるものである。これらの法(性質)は、罪過なきものである。これらの法(性質)は、識者たちに賞賛されるべきものである。これらの法(性質)は、〔それらが〕完結され受持されたなら、利益のために、安楽のために、等しく転起する」と知るとき、カーラーマ〔族〕の者たちよ、そこで、あなたたちは、〔それらを〕受持して〔世に〕住むのです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕(慈)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕(悲)を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕(喜)を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕(捨)を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、四つの安堵が到達するところと成ります。『また、まさに、それで、もし、他の世が存在し、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがあるとして、そこで、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生するであろう』と、彼には、この第一の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、他の世が存在せず、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがないとして、そこで、わたしは、まさしく、所見の法(現世)において、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる自己を守り抜く』と、彼には、この第二の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されるとして、また、まさに、わたしは、誰にであれ、悪しきことを思い考えない。また、まさに、悪しき行為を為さずにいるわたしに、どうして、苦しみが触れるというのだろう』と、彼には、この第三の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されないとして、そこで、わたしは、まさしく、両者〔の観点〕によって、清浄なる自己を等しく随観するであろう』と、彼には、この第四の安堵が到達するところと成ります。
カーラーマ〔族〕の者たちよ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの四つの安堵が到達するところと成ります」と。
「世尊よ、このように、このことはあります。善き至達者たる方よ、このように、このことはあります。尊き方よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、四つの安堵が到達するところと成ります。『また、まさに、それで、もし、他の世が存在し、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがあるとして、そこで、わたしは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と、彼には、この第一の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、他の世が存在せず、諸々の善行と悪行の行為の果たる報いがないとして、そこで、わたしは、まさしく、所見の法(現世)において、怨念〔の思い〕なく、憎悪〔の思い〕なく、煩悶〔の思い〕なく、安楽なる自己を守り抜く』と、彼には、この第二の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されるとして、また、まさに、わたしは、誰にであれ、悪しきことを思い考えない。また、まさに、悪しき行為を為さずにいるわたしに、どうして、苦しみが触れるというのだろう』と、彼には、この第三の安堵が到達するところと成ります。
『また、まさに、それで、もし、〔悪行を〕為している者に、悪しき〔報い〕が作り為されないとして、そこで、わたしは、まさしく、両者〔の観点〕によって、清浄なる自己を等しく随観するであろう』と、彼には、この第四の安堵が到達するところと成ります。
尊き方よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、怨念〔の思い〕なき心の者となり、憎悪していない心の者となり、このように、汚染なき心の者となり、このように、清浄なる心の者となります。彼には、まさしく、所見の法(現世)において、これらの四つの安堵が到達するところと成ります。
尊き方よ、すばらしいことです。……略……。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしたちは、世尊を帰依所に赴きます⸺そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方は、世尊は、わたしたちを、在俗信者として認めてください⸺今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。〔以上が〕第五となる。
注釈【0】