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翻訳【18】

善ならざるものの根元の経

「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善ならざるものの根元です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲は、善ならざるものの根元です。憤怒は、善ならざるものの根元です。迷妄は、善ならざるものの根元です。

比丘たちよ、すなわち、また、貪欲は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、貪る者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、貪る者が、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、貪欲から生じ、貪欲を因縁とし、貪欲を集起とし、貪欲を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。

比丘たちよ、すなわち、また、憤怒は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、怒る者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、怒る者が、憤怒〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、憤怒から生じ、憤怒を因縁とし、憤怒を集起とし、憤怒を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。

比丘たちよ、すなわち、また、迷妄は、それもまた、善ならざるものの根元となります。すなわち、また、迷う者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善ならざるものとなります。すなわち、また、迷う者が、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させるなら、それもまた、善ならざるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、迷妄から生じ、迷妄を因縁とし、迷妄を集起とし、迷妄を縁とする、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。比丘たちよ、そして、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれます。

比丘たちよ、では、何ゆえに、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれるのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、この人は、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させます。また、まさに、事実〔の観点〕によって説かれているなら、〔他者を〕見下し、〔自己の過誤を〕明言しません。事実ならざる〔観点〕によって説かれているなら、『かくのごとくもまた、これは、真実ならず』『かくのごとくもまた、これは、事実ならず』と、それを弁明するために、熱く為しません。それゆえに、このような形態の人は、『〔正しい〕時ならずに説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)ならざることを説く者』ともまた〔説かれ〕、『律ならざることを説く者』ともまた説かれます。

比丘たちよ、このような形態の人は、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇悪趣が待っています。

諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、サーラ〔樹〕が、あるいは、ダヴァ〔樹〕が、あるいは、パンダナ〔樹〕が、三つの蔓草や蔦葛によって、上から覆い包まれたなら、不幸を惹起し、災厄を惹起し、不幸と災厄を惹起するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の人は、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。

諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、まさしく、そして、所見の法(現世)において、悩苦と共に、葛藤と共に、苦悶と共に、苦痛のうちに〔世に〕住み、さらに、身体の破壊ののち、死後において、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善ならざるものの根元があります。

比丘たちよ、三つのものがあります。これらの善なるものの根元です。どのようなものが、三つのものなのですか。貪欲なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。憤怒なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。迷妄なき〔あり方〕は、善なるものの根元です。

比丘たちよ、すなわち、また、貪欲なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、貪らない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、貪らない者が、貪欲〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、貪欲なき〔あり方〕から生じ、貪欲なき〔あり方〕を因縁とし、貪欲なき〔あり方〕を集起とし、貪欲なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。

比丘たちよ、すなわち、また、憤怒なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、怒らない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、怒らない者が、憤怒〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、憤怒なき〔あり方〕から生じ、憤怒なき〔あり方〕を因縁とし、憤怒なき〔あり方〕を集起とし、憤怒なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。

比丘たちよ、すなわち、また、迷妄なき〔あり方〕は、それもまた、善なるものの根元となります。すなわち、また、迷わない者が、身体によって、言葉によって、意によって、行作するなら、それもまた、善なるものとなります。すなわち、また、迷わない者が、迷妄〔の思い〕に征服された者ではなく、心が完全に奪い去られた者ではなく、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させないなら、それもまた、善なるものとなります。かくのごとく、彼に、これらの、迷妄なき〔あり方〕から生じ、迷妄なき〔あり方〕を因縁とし、迷妄なき〔あり方〕を集起とし、迷妄なき〔あり方〕を縁とする、無数の善なる法(性質)が発生します。比丘たちよ、そして、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれます。

比丘たちよ、では、何ゆえに、このような形態の、この人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれるのですか。比丘たちよ、まさに、そのように、この人は、あるいは、殴打によって、あるいは、結縛によって、あるいは、収奪によって、あるいは、難詰によって、あるいは、追放によって、『〔わたしは〕力ある者として〔世に〕存している。力を義(目的)とする者である』〔と〕、かくのごとくもまた、他者に、正しからざることによって苦痛を生起させません。また、まさに、事実〔の観点〕によって説かれているなら、〔自己の過誤を〕明言し、〔他者を〕見下しません。事実ならざる〔観点〕によって説かれているなら、『かくのごとくもまた、これは、真実ならず』『かくのごとくもまた、これは、事実ならず』と、それを弁明するために、熱く為します。それゆえに、このような形態の人は、『〔正しい〕時に説く者』ともまた〔説かれ〕、『事実を説く者』ともまた〔説かれ〕、『義(意味)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『法(教え)を説く者』ともまた〔説かれ〕、『律を説く者』ともまた説かれます。

比丘たちよ、このような形態の人の、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。

諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……完全なる涅槃に到達します。諸々の迷妄〔の思い〕から生じる……略……完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、サーラ〔樹〕が、あるいは、ダヴァ〔樹〕が、あるいは、パンダナ〔樹〕が、三つの蔓草や蔦葛によって、上から覆い包まれているとします。そこで、人が、鋤と籠を携えて、やってくるとします。彼は、その蔓草や蔦葛を、根において断ち切ります。根において断ち切って、掘り尽くします。掘り尽くして、諸々の根を引き上げます。もしくは、諸々の細根や繊維ほどのものをもまた〔引き上げます〕。彼は、その蔓草や蔦葛を、切れ切れに断ち切ります。切れ切れに断ち切って、切り裂きます。切り裂いて、片々と為します。片々と為して、熱風において干上がらせます。熱風において干上がらせて、火で焼きます。火で焼いて、煤と為します。煤と為して、あるいは、大風のなかに吹き放ち、あるいは、川の激しい流れのなかに流し去るとします。比丘たちよ、このように存するなら、それらの蔓草や蔦葛は、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このような形態の人の、諸々の貪欲〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。

諸々の憤怒〔の思い〕から生じる……略……諸々の迷妄〔の思い〕から生じる悪しき善ならざる法(性質)〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。まさしく、所見の法(現世)において、悩苦なく、葛藤なく、苦悶なく、安楽のうちに〔世に〕住み、まさしく、所見の法(現世)において、完全なる涅槃に到達します。比丘たちよ、まさに、これらの三つの善なるものの根元があります」と。〔以上が〕第九となる。

注釈【0】