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翻訳【18】

チャンナの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、チャンナ遍歴遊行者が、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、チャンナ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、あなたたちもまた、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知しますか」と。「友よ、わたしたちは、まさに、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知します」と。

「友よ、また、あなたたちは、どのような危険患・過患を見て、貪欲の捨棄を報知し、憤怒の捨棄を報知し、迷妄の捨棄を報知するのですか」と。

「友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。友よ、貪る者は、まさに、貪欲〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。貪欲〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。友よ、貪欲は、まさに、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。

友よ、怒る者は、まさに、憤怒〔の思い〕に……略……。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた思弁します。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意をもまた得知します。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために思弁せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために思弁しません。〔彼は〕心の属性としての苦痛と失意を得知しません。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、まさしく、身体による悪しき行ないを行なわず、言葉による悪しき行ないを行なわず、意による悪しき行ないを行ないません。友よ、迷う者は、まさに、迷妄〔の思い〕に征服された者であり、心が完全に奪い去られた者であり、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知せず、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知しません。迷妄〔の思い〕が捨棄されたときは、自己の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、他者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知し、両者の義(利益)をもまた事実のとおりに覚知します。友よ、迷妄は、まさに、盲者を作り為すものであり、無眼を作り為すものであり、無知を作り為すものであり、智慧の止滅あるものであり、悩苦を項目とするものであり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものです。友よ、わたしたちは、まさに、貪欲のうちに、この危険を見て、貪欲の捨棄を報知し、憤怒のうちに、この危険を見て、憤怒の捨棄を報知し、迷妄のうちに、この危険を見て、迷妄の捨棄を報知します」と。

「友よ、また、〔聖なる〕道は存在しますか、〔実践の〕道は存在しますか⸺この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、〔聖なる〕道は存在します、〔実践の〕道は存在します⸺この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、また、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか⸺この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための」と。「友よ、まさに、幸いなる〔聖なる〕道です、幸いなる実践〔の道〕です⸺この貪欲と憤怒と迷妄の捨棄のための。友よ、アーナンダよ、また、そして、不放逸たるに十分なるものがあります」と。〔以上が〕第一となる。

注釈【0】