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翻訳【15】

ニガンタの経

或る時のことです。尊者アーナンダは、ヴェーサーリーに住んでいます。マハー林の楼閣堂重閣講堂において。そこで、まさに、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のアバヤが、かつまた、リッチャヴィ〔族〕のパンディタ・クマーラカが、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、リッチャヴィ〔族〕のアバヤは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。『わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている』と。彼は、諸々の古い行為の、苦行による終息の状態を報知し、諸々の新しい行為の、作用なきによる橋の殲滅(悪習の打破)〔報知します〕。『かくのごとく、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう。このように、この、現に見られる衰尽による清浄の、超越〔の境地〕が有る』〔と〕。尊き方よ、ここに、世尊は、どのようなことを言いますか」と。

「アバヤよ、三つのものがあります。まさに、これらの衰尽による清浄が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました⸺有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。どのようなものが、三つのものなのですか。アバヤよ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処において学びます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。

アバヤよ、それで、まさに、このように、戒を成就した、その比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。

アバヤよ、それで、まさに、このように、禅定を成就した、その比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。彼は、そして、新しい行為を為さず、さらに、古い行為に接触しては接触して終息を為します。衰尽は、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。アバヤよ、まさに、これらの三つの衰尽による清浄が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しく告げ知らされました⸺有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために」と。

このように説かれたとき、リッチャヴィ〔族〕のパンディタ・クマーラカは、リッチャヴィ〔族〕のアバヤに、こう言いました。「友よ、アバヤよ、また、どうして、あなたは、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないのですか」と。「友よ、パンディタ・クマーラカよ、どうして、わたしが、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないというのでしょう。その者が、尊者アーナンダの見事に語られた〔言葉〕に、『見事に語られた〔言葉〕である』と、大いに随喜しないなら、彼の頭もまた打ち砕かれるでしょう」と。〔以上が〕第四となる。

注釈【0】