そこで、まさに、ポータリヤ遍歴遊行者が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ポータリヤ遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。
「ポータリヤよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。ポータリヤよ、ここに、一部の人は、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。ポータリヤよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。ポータリヤよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。ポータリヤよ、これらの四つの人たちのなかで、どの人が、あなたにとって、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できますか」と。
「貴君ゴータマよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。貴君ゴータマよ、ここに、一部の人は、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。しかしながら、まさに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、また、ここに、一部の人は、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有ります。貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。貴君ゴータマよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者ではなく〔世に〕有る、この者が、わたしにとって、これらの四つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、放捨(捨)です」と。
「ポータリヤよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……。ポータリヤよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。ポータリヤよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有る、この者が、これらの四つの人たちのなかでは、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあります。それは、何を因とするのですか。ポータリヤよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、その場その場において、〔正しい〕時を知ることです」と。
「貴君ゴータマよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。……略……。貴君ゴータマよ、まさに、これらの四つの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。貴君ゴータマよ、これらの四つの人たちのなかでは、すなわち、この人が、まさしく、そして、栄誉に価する者の栄誉を⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有り、さらに、栄誉ならざることに値する者の栄誉ならざることを⸺事実として、真実として、〔正しい〕時に⸺語る者として〔世に〕有る、この者が、わたしにとって、これらの四つの人たちのなかで、かつまた、より崇高であり、かつまた、より精妙でもあり、〔そのような者として〕受認できます。それは、何を因とするのですか。貴君ゴータマよ、なぜなら、これは、崇高であるからです。すなわち、この、その場その場において、〔正しい〕時を知ることです。
貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態(色)を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相(具体的説明・法門)によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます⸺そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を(仏法僧の三宝に帰依する)。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください⸺今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十となる。
阿修羅の章が第五となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「阿修羅、三つの禅定、第五のものとして、火葬の薪とともに、貪欲、感知、自己の利益、学びがあり、そして、ポータリヤとともに、〔章となる〕」と。
第二の五十なるものは〔以上で〕完結となる。
注釈【0】