「比丘たちよ、四つのものがあります。これらの束縛(軛)です。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の束縛なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愉悦〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする固執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、欲望の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があります。
比丘たちよ、では、どのように、生存の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の生存にたいし、すなわち、生存にたいする貪り〔の思い〕が、生存にたいする愉悦〔の思い〕が、生存にたいする愛執〔の思い〕が、生存にたいする耽溺〔の思い〕が、生存にたいする涸渇〔の思い〕が、生存にたいする苦悶〔の思い〕が、生存にたいする固執〔の思い〕が、生存にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、生存の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があります。
比丘たちよ、では、どのように、見解の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、諸々の見解にたいし、すなわち、見解にたいする貪り〔の思い〕が、見解にたいする愉悦〔の思い〕が、見解にたいする愛執〔の思い〕が、見解にたいする耽溺〔の思い〕が、見解にたいする涸渇〔の思い〕が、見解にたいする苦悶〔の思い〕が、見解にたいする固執〔の思い〕が、見解にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、見解の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があり、見解の束縛があります。
比丘たちよ、では、どのように、無明の束縛と成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません。彼が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していないと、六つの接触ある〔認識の〕場所にたいし、すなわち、無明が、無知が、それが、悪習となります。比丘たちよ、これは、無明の束縛と説かれます。かくのごとく、欲望の束縛があり、生存の束縛があり、見解の束縛があり、無明の束縛があります⸺諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染あるものによって、さらなる生存あるものによって、懊悩を有するものによって、苦痛の報いあるものによって、未来に生と老と死となるものによって、束縛されたものとして。それゆえに、『束縛からの平安(軛安穏)なきもの』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの束縛があります。
比丘たちよ、四つのものがあります。これらの束縛を離れるものです。どのようなものが、四つのものなのですか。欲望の束縛による束縛を離れるものであり、生存の束縛による束縛を離れるものであり、見解の束縛による束縛を離れるものであり、無明の束縛による束縛を離れるものです。比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の束縛による束縛を離れるものなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の欲望〔の対象〕の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、すなわち、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愉悦〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする愛執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする耽溺〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする涸渇〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする苦悶〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする固執〔の思い〕が、欲望〔の対象〕にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、欲望の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあります。
比丘たちよ、では、どのように、生存の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の生存の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の生存にたいし、すなわち、生存にたいする貪り〔の思い〕が、生存にたいする愉悦〔の思い〕が、生存にたいする愛執〔の思い〕が、生存にたいする耽溺〔の思い〕が、生存にたいする涸渇〔の思い〕が、生存にたいする苦悶〔の思い〕が、生存にたいする固執〔の思い〕が、生存にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、生存の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあります。
比丘たちよ、では、どのように、見解の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、諸々の見解の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、諸々の見解にたいし、すなわち、見解にたいする貪り〔の思い〕が、見解にたいする愉悦〔の思い〕が、見解にたいする愛執〔の思い〕が、見解にたいする耽溺〔の思い〕が、見解にたいする涸渇〔の思い〕が、見解にたいする苦悶〔の思い〕が、見解にたいする固執〔の思い〕が、見解にたいする渇愛〔の思い〕が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、見解の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあり、見解の束縛による束縛を離れるものがあります。
比丘たちよ、では、どのように、無明の束縛による束縛を離れるものと成るのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知します。彼が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知していると、六つの接触ある〔認識の〕場所にたいし、すなわち、無明が、無知が、それが、悪習となりません。比丘たちよ、これは、無明の束縛による束縛を離れるものと説かれます。かくのごとく、欲望の束縛による束縛を離れるものがあり、生存の束縛による束縛を離れるものがあり、見解の束縛による束縛を離れるものがあり、無明の束縛による束縛を離れるものがあります⸺諸々の悪しき善ならざる法(性質)である、〔心の〕汚染による、さらなる生存あるものによる、懊悩を有するものによる、苦痛の報いあるものによる、未来に生と老と死となるものによる、束縛を離れたものとして。それゆえに、『束縛からの平安あるもの』と説かれます。比丘たちよ、まさに、これらの四つの束縛を離れるものがあります」と。
〔そこで、詩偈に言う〕「欲望の束縛によって束縛された者たち、さらに、同様に、生存の束縛によって〔束縛された者たち〕、見解によって束縛された者たち、無明を偏重する者たち⸺
〔これらの〕有情たちは、輪廻に赴く⸺生と死〔の輪廻〕に至る者たちとして。しかしながら、すなわち、諸々の欲望〔の対象〕を遍知して、かつまた、全てにわたり、生存の束縛を〔遍知して〕⸺
見解の束縛を完破して、そして、無明を離貪させながら、一切の束縛による束縛から離れた者たち⸺彼らは、まさに、束縛を超え行く牟尼たちである」と。
〔以上が〕第十となる。
バンダ村の章が第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「随覚されたもの、落伍した者、二つの掘り崩されたもの、第五のものとして、流れのままなる者、そして、少聞の者、荘厳する者、離怖、渇愛があり、束縛とともに、それらの十がある」と。
注釈【0】