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翻訳【15】

ウッジャヤの経

そこで、まさに、ウッジャヤ婆羅門が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウッジャヤ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマもまた、まさに、祭祀を褒め称えますか」と。「婆羅門よ、まさに、わたしは、一切の祭祀を褒め称えることもなく、婆羅門よ、また、わたしは、一切の祭祀を褒め称えないこともありません。(1)婆羅門よ、まさに、そのような形態の祭祀において、牛たちが殺され、山羊や羊たちが殺され、鶏や豚たちが殺され、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起するなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦を有する祭祀を褒め称えません。(2)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦を有する祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行かないからです。

(3)婆羅門よ、しかしながら、まさに、そのような形態の祭祀において、まさしく、牛たちが殺されず、山羊や羊たちが殺されず、鶏や豚たちが殺されず、様々な種類の命あるものたちの殺害を惹起しないなら、婆羅門よ、まさに、わたしは、このような形態の辛苦なき祭祀を褒め称えます。すなわち、この、常なる布施を、先祖のための祭祀として。(4)それは、何を因とするのですか。婆羅門よ、なぜなら、このような形態の辛苦なき祭祀に、あるいは、阿羅漢たちは、あるいは、阿羅漢の資質の道に入定した者たちは、近づいて行くからです」と。

〔そこで、詩偈に言う〕「馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕は、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕は⸺それらの大いなる辛苦ある大いなる祭祀は、大いなる果と成らない。

そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、そこにおいて、様々な種類の者たちが殺されるなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、その祭祀には近しく至らない。

しかしながら、それらの者たちが、祭祀に辛苦なく、常に先祖のための〔祭祀〕を執り行なうなら、そして、山羊や羊たちが、さらに、牛たちが、ここにおいて、様々な種類の者たちが殺されないなら、正しき至達者たる偉大なる聖賢たちは、そして、その祭祀へと近しく至る。

思慮ある者は、この〔祭祀〕を執り行なうべきである。この祭祀は、大いなる果となる。まさに、この〔祭祀〕を執り行なっている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。そして、祭祀は、広大なるものと成り、さらに、天神たちも清信する」と。

〔以上が〕第九となる。

注釈【0】