「比丘たちよ、洞察(決択)の教相を、法(教え)の教相として、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、では、どのようなものが、その、洞察の教相であり、法(教え)の教相なのですか。(1)比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり、諸々の欲望の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の欲望の相違性が知られるべきであり、諸々の欲望の報い(異熟)が知られるべきであり、欲望の止滅が知られるべきであり、欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(2)比丘たちよ、感受(受)が知られるべきであり、諸々の感受の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の感受の相違性が知られるべきであり、諸々の感受の報いが知られるべきであり、感受の止滅が知られるべきであり、感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(3)比丘たちよ、表象(想)が知られるべきであり、諸々の表象の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の表象の相違性が知られるべきであり、諸々の表象の報いが知られるべきであり、表象の止滅が知られるべきであり、表象の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(4)比丘たちよ、諸々の煩悩(漏)が知られるべきであり、諸々の煩悩の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の煩悩の相違性が知られるべきであり、諸々の煩悩の報いが知られるべきであり、煩悩の止滅が知られるべきであり、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(5)比丘たちよ、行為(業)が知られるべきであり、諸々の行為の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の行為の相違性が知られるべきであり、諸々の行為の報いが知られるべきであり、行為の止滅が知られるべきであり、行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(6)比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです。
(1)『比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり、諸々の欲望の因縁と発生が知られるべきであり、諸々の欲望の相違性が知られるべきであり、諸々の欲望の報いが知られるべきであり、欲望の止滅が知られるべきであり、欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性(妙欲)です。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、そして、また、まさに、これらのものは、欲望ではなく、これらのものは、まさに、欲望の属性と、聖者の律において説かれます。
〔そこで、詩偈に言う〕『妄想の貪欲が、人にとって、欲望〔の対象〕となる。すなわち、世における諸々の彩りあざやかなものは、それらは、欲望〔の対象〕ではない。妄想の貪欲が、人にとって、欲望〔の対象〕となる。世における諸々の彩りあざやかなものは、まさしく、そのとおりに、〔妄想のままに〕止住する。そこで、ここにおいて、慧者たちは、欲〔の思い〕を取り除く』と。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触(触)は、諸々の欲望の因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の相違性なのですか。比丘たちよ、他なるものとして、諸々の形態にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の音声にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の臭気にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の味感にたいする欲望があり、他なるものとして、諸々の感触にたいする欲望があります。比丘たちよ、これは、諸々の欲望の相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の欲望の報いなのですか。比丘たちよ、まさに、それを欲しているなら、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます⸺あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の欲望の報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、欲望の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、欲望の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)は、欲望の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の欲望を覚知し、このように、諸々の欲望の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の欲望の相違性を覚知し、このように、諸々の欲望の報いを覚知し、このように、欲望の止滅を覚知し、このように、欲望の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、欲望の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、諸々の欲望が知られるべきであり……略……欲望の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(2)『比丘たちよ、諸々の感受が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、三つのものがあります。これらの感受です。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の感受の因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の相違性なのですか。比丘たちよ、財貨を有する財貨を有するもの(世俗のもの)である、安楽の感受が存在し、財貨なきもの(非俗のもの)である、安楽の感受が存在します。比丘たちよ、財貨を有するものである、苦痛の感受が存在し、財貨なきものである、苦痛の感受が存在します。比丘たちよ、財貨を有するものである、苦でもなく楽でもない感受の感受が存在し、財貨なきものである、苦でもなく楽でもない感受の感受が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の感受の相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の感受の報いなのですか。比丘たちよ、まさに、それを感受しているなら、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます⸺あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の感受の報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、感受の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、感受の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、感受を覚知し、このように、諸々の感受の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の感受の相違性を覚知し、このように、諸々の感受の報いを覚知し、このように、感受の止滅を覚知し、このように、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、感受の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、感受が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(3)『比丘たちよ、表象が知られるべきであり……略……感受の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、六つのものがあります。これらの表象です。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の表象の因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の相違性なのですか。比丘たちよ、他なるものとして、諸々の形態にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の音声にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の臭気にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の味感にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の感触にたいする表象があり、他なるものとして、諸々の法(意の対象)にたいする欲望があります。比丘たちよ、これは、諸々の表象の相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の表象の報いなのですか。比丘たちよ、わたしは、語用という報いあるものを、表象と説きます。そのとおり、そのとおりに、それを表象するなら、そのとおり、そのとおりに、語用します⸺『〔わたしは〕このような表象ある者と成った』と。比丘たちよ、これは、諸々の表象の報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、表象の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、表象の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、表象を覚知し、このように、諸々の表象の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の表象の相違性を覚知し、このように、諸々の表象の報いを覚知し、このように、表象の止滅を覚知し、このように、表象の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、表象の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、表象が知られるべきであり……略……表象の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(4)『比丘たちよ、諸々の煩悩が知られるべきであり……略……煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、無明は、諸々の煩悩の因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の相違性なのですか。比丘たちよ、地獄に赴くべき諸々の煩悩が存在し、畜生の胎に赴くべき諸々の煩悩が存在し、餓鬼の境域に赴くべき諸々の煩悩が存在し、人間の世に赴くべき諸々の煩悩が存在し、天の世に赴くべき諸々の煩悩が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の煩悩の相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の煩悩の報いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、無明を具した者は、それに応じるもの、それに応じるものを、自己状態として発現させます⸺あるいは、功徳を部分とするものとして、あるいは、功徳ならざるものを部分とするものとして。比丘たちよ、これは、諸々の煩悩の報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、煩悩の止滅なのですか。比丘たちよ、無明の止滅は、煩悩の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の煩悩を覚知し、このように、諸々の煩悩の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の煩悩の相違性を覚知し、このように、諸々の煩悩の報いを覚知し、このように、諸々の煩悩の止滅を覚知し、このように、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、表象の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、諸々の煩悩が知られるべきであり……略……煩悩の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(5)『比丘たちよ、行為が知られるべきであり……略……行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。比丘たちよ、わたしは、思欲(思:心の思い・意志)を、行為と説きます。〔人は〕思欲して、行為を為します⸺身体によって、言葉によって、意によって。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の因縁と発生なのですか。比丘たちよ、接触は、諸々の行為の因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の相違性なのですか。比丘たちよ、地獄として感受されるべき行為が存在し、畜生の胎として感受されるべき行為が存在し、餓鬼の境域として感受されるべき行為が存在し、人間の世として感受されるべき行為が存在し、天の世として感受されるべき行為が存在します。比丘たちよ、これは、諸々の行為の相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の行為の報いなのですか。比丘たちよ、わたしは、三種類のものを、諸々の行為の報いと説きます⸺まさしく、所見の法(現世)において、あるいは、再生において、あるいは、他の時機において。比丘たちよ、これは、諸々の行為の報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、行為の止滅なのですか。比丘たちよ、接触の止滅は、行為の止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、行為を覚知し、このように、諸々の行為の因縁と発生を覚知し、このように、諸々の行為の相違性を覚知し、このように、諸々の行為の報いを覚知し、このように、行為の止滅を覚知し、このように、行為の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、行為の止滅を、覚知します。『比丘たちよ、行為が知られるべきであり……略……行為の止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
(6)『比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、また、まさに、かくのごとく、この〔言葉〕が説かれました。では、この〔言葉〕は、何を縁として説かれたのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。病もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの因縁と発生なのですか。比丘たちよ、渇愛は、苦しみの因縁と発生です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの相違性なのですか。比丘たちよ、旺盛なる苦しみが存在し、微小なる〔苦しみ〕が存在し、遅き離貪ある〔苦しみ〕が存在し、速き離貪ある〔苦しみ〕が存在します。比丘たちよ、これは、苦しみの相違性と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの報いなのですか。比丘たちよ、ここに、一部の者は、すなわち、苦しみに征服され、心が完全に奪い去られ、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打って泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。また、あるいは、すなわち、苦しみに征服され、心が完全に奪い去られ、外に、遍き探し求めを惹起します。『この苦しみの止滅のための、一つの句を、二つの句を、誰が知るのか』と。比丘たちよ、わたしは、あるいは、等しき迷妄という報いあるものを、あるいは、遍き探し求めという報いあるものを、苦しみと説きます。比丘たちよ、これは、苦しみの報いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。比丘たちよ、渇愛の止滅は、苦しみの止滅です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、苦しみを覚知し、このように、苦しみの因縁と発生を覚知し、このように、苦しみの相違性を覚知し、このように、苦しみの報いを覚知し、このように、苦しみの止滅を覚知し、このように、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、この洞察を、梵行を、苦しみの止滅を、覚知します。『比丘たちよ、苦しみが知られるべきであり、苦しみの因縁と発生が知られるべきであり、苦しみの相違性が知られるべきであり、苦しみの報いが知られるべきであり、苦しみの止滅が知られるべきであり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道が知られるべきです』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました。
比丘たちよ、これは、まさに、その、洞察の教相であり、法(教え)の教相です」と。〔以上が〕第九となる。
注釈【0】