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翻訳【16】

ヴェーラーマの経

或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、アナータピンディカ家長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アナータピンディカ家長に、世尊は、こう言いました。

「家長よ、さて、いったい、あなたの家において、布施は施されますか」と。「尊き方よ、わたしの家において、布施は施されます。しかしながら、それは、まさに、粗末な屑米であり、酸えた粥を添え物とします」と。「家長よ、もし、また、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、布施を施すとして、そして、それを、恭しくなく施すなら、心作なく施すなら、自らの手でなく施すなら、捨てられたものを施すなら、〔報いとして〕帰り来るものを見ない者として施すなら、そこかしこにおいて、その〔布施〕その布施の報いが発現するままに、秀逸なる食事の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる衣装の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる乗物の受益に、〔彼の〕心は傾かず、秀逸なる五つの欲望の属性五妙欲:色・声・香・味・触)の受益に、〔彼の〕心は傾きません。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『子たち』ということで、あるいは、『妻たち』ということで、あるいは、『奴隷たち』ということで、あるいは、『労夫たち』ということで、あるいは、『召使たち』ということで、〔世に〕有る、それらの者たちも、彼らもまた、〔話を〕聞こうとせず、〔話に〕耳を傾けず、了知の心を現起させません。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、このように、このことは有るからです⸺諸々の恭しくなく為された行為の報いとして。

家長よ、もし、また、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、布施を施すとして、そして、それを、恭しく施すなら、心作して施すなら、自らの手で施すなら、捨てられていないものを施すなら、〔報いとして〕帰り来るものを見る者として施すなら、そこかしこにおいて、その〔布施〕その布施の報いが発現するままに、秀逸なる食事の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる衣装の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる乗物の受益に、〔彼の〕心は傾き、秀逸なる五つの欲望の属性の受益に、〔彼の〕心は傾きます。すなわち、また、彼にとって、あるいは、『子たち』ということで、あるいは、『妻たち』ということで、あるいは、『奴隷たち』ということで、あるいは、『労夫たち』ということで、あるいは、『召使たち』ということで、〔世に〕有る、それらの者たちも、彼らもまた、〔話を〕聞こうとし、〔話に〕耳を傾け、了知の心を現起させます。それは、何を因とするのですか。家長よ、なぜなら、このように、このことは有るからです⸺諸々の恭しく為された行為の報いとして。

家長よ、過去の事(過去世)ですが、ヴェーラーマという名の婆羅門が〔世に〕有りました。彼は、このような形態の布施を、大いなる布施を施しました。(1)銀に満ちた、八万四千の金の鉢を施し、(2)金に満ちた、八万四千の銀の鉢を施し、(3)金貨に満ちた、八万四千の銅の鉢を施し、(4)金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、八万四千の象を施し、(5)獅子の皮を付属品とし、虎の皮を付属品とし、豹の皮を付属品とし、黄の毛布を付属品とし、金の外装がされ、金の旗があり、金の網に覆われた、八万四千の車を施し、(6)黄麻のつなぎ紐と銅の容器ともに、八万四千の乳牛を施し、(7)宝珠の耳飾を付けた、八万四千の少女を施し、(8)毛布が敷かれ、敷布が敷かれ、綿布が敷かれ、カダリー鹿の最も優れた敷物があり、天蓋を有し、両端に赤い枕がある、八万四千の寝台を施し、(9)繊細なる麻布の、繊細なる絹布の、繊細なる毛布の、繊細なる木綿の、八万四千コーティ(数の単位・千万)の衣装を施しました。食べ物と飲み物と固形の食料と軟らかい食料と舐める食料と飲む食料のばあいは、また、何の論があるというのでしょう。思うに、諸々の川のように、〔それらは〕流れ出ます。

家長よ、また、まさに、あなたに、このような〔思いが〕存するであろうし、存するはずです。『その時点にあって、まちがいなく、〔世尊とは〕他の者が、ヴェーラーマ婆羅門として〔世に〕有ったのだ。彼が、その布施を、大いなる布施を施したのだ』と。家長よ、また、まさに、このことは、このように見るべきではありません。その時点にあって、わたしが、ヴェーラーマ婆羅門として〔世に〕有ったのです。わたしは、その布施を、大いなる布施を施しました。家長よ、また、まさに、その布施があるとき、誰であれ、施与されるべき者は〔世に〕有りませんでしたし、誰であれ、その施物を清めません。

家長よ、すなわち、ヴェーラーマ婆羅門が、布施を、大いなる布施を施したとして、しかしながら、すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した者を受益させるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。

さらに、すなわち、百者の〔正しい〕見解を成就した者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の一来たる者を受益させるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。

さらに、すなわち、百者の一来たる者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の不還たる者を受益させるなら……略……。さらに、すなわち、百者の不還たる者たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の阿羅漢を受益させるなら……。さらに、すなわち、百者の阿羅漢たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、一者の独覚を受益させるなら……。さらに、すなわち、百者の独覚たちを受益させるとして、しかしながら、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来を受益させるなら……しかしながら、すなわち、覚者を筆頭とする比丘の僧団を受益させるなら……しかしながら、すなわち、四方の僧団を指定して、精舎を作らせるなら……しかしながら、すなわち、清信した心の者となり、そして、覚者を、かつまた、法(教え)を、さらに、僧団を、帰依所に赴くなら……しかしながら、すなわち、清信した心の者となり、諸々の学びの境処を⸺命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を⸺受持するなら、もしくは、そして、すなわち、たとえ、匂いを嗅ぎつける間ほどであれ、慈愛の心を修めるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります。

家長よ、そして、すなわち、ヴェーラーマ婆羅門が、布施を、大いなる布施を施したとして、しかしながら、すなわち、一者の〔正しい〕見解を成就した者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の一来たる者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の不還たる者を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の阿羅漢を受益させるなら……しかしながら、すなわち、一者の独覚を受益させるなら……しかしながら、すなわち、阿羅漢にして正等覚者たる如来を受益させるなら……しかしながら、すなわち、覚者を筆頭とする比丘の僧団を受益させるなら……しかしながら、すなわち、四方の僧団を指定して、精舎を作らせるなら……しかしながら、すなわち、清信した心の者となり、そして、覚者を、かつまた、法(教え)を、さらに、僧団を、帰依所に赴くなら……しかしながら、すなわち、清信した心の者となり、諸々の学びの境処を⸺命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕を、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕を、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕を、虚偽を説くことから離れている〔生き方〕を、穀物酒や果実酒や〔他の〕酔わせるものによる放逸の境位から離れている〔生き方〕を⸺受持するなら、もしくは、そして、すなわち、たとえ、匂いを嗅ぎつける間ほどであれ、慈愛の心を修めるなら、さらに、すなわち、たとえ、指を弾く間ほどであれ、無常の表象を修めるなら、これは、それよりも、より大いなる果となります」と。〔以上が〕第十となる。

獅子吼の章が第二となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕〔獅子〕吼、そして、〔生存の〕依り所という残りものを有する者があり、コッティカとともに、サミッディとともに、腫物と表象、家、慈愛、天神があり、そして、ヴェーラーマとともに、〔章となる〕」と。

注釈【0】