1107. (1101)かくのごとく、尊者バドラーヴダが 〔言った〕⸺家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、 〔わたしは〕 乞い願います。龍たる方の 〔言葉を〕聞いて、 〔集いあつまった者たちは、満足して〕 ここから立ち去るでありましょう。(1)
「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に」とは、「家を捨棄し」とは、形態の界域にたいし、それが、欲 〔の思い〕 としてあるなら、それが、貪欲 〔の思い〕としてあるなら、それが、愉悦 〔の思い〕 としてあるなら、それが、渇愛〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の確立や固着や悪習としてあるなら、覚者たる世尊の、それらは、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 (切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、家を捨棄した方である。感受 〔作用〕の界域にたいし……略……。表象 〔作用〕 の界域にたいし……。形成〔作用〕 の界域にたいし……。識知 〔作用〕 の界域にたいし、それが、欲 〔の思い〕としてあるなら、それが、貪欲 〔の思い〕 としてあるなら、それが、愉悦〔の思い〕 としてあるなら、それが、渇愛 〔の思い〕としてあるなら、それらが、接近や執取としてあるなら、心の確立や固着や悪習としてあるなら、覚者たる世尊の、それらは、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質) としてある。それゆえに、覚者は、家を捨棄した方である。
「渇愛を断ち」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法(意の対象)への渇愛。覚者たる世尊の、その渇愛は、断たれ、断ち切られ、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、渇愛を断った方である。「動揺なき方」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([207]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その動揺としての渇愛は、 〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。動揺が 〔すでに〕捨棄されたことから、動揺なき方。世尊は、利得にたいしてもまた、動じず、利得なきにたいしてもまた、動じず、盛名にたいしてもまた、動じず、盛名なきにたいしてもまた、動じず、賞賛にたいしてもまた、動じず、非難にたいしてもまた、動じず、安楽にたいしてもまた、動じず、苦痛にたいしてもまた、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。それゆえに、覚者は、動揺なき方である。ということで、「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に」。「かくのごとく、尊者バドラーヴダが〔言った〕 」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略 ([197]参照) ……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略 ([197]参照) ……。「バドラーヴダ」とは、その婆羅門の、名前としての……略 ([197]参照) ……話法。ということで、「かくのごとく、尊者バドラーヴダが 〔言った〕 」。
「愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に」とは、愉悦は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([207]参照)……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。覚者たる世尊の、その愉悦も、その渇愛も、 〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、愉悦を捨棄する方である。「激流を超えた」とは、世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「愉悦を捨棄し激流を超えた」。「解脱者たる方に」とは、世尊には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は……迷妄から、心は……略([250]参照)……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。ということで、「愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に」。
「妄想を捨棄する思慮深き方に、 〔わたしは〕 乞い願います」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([283]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([284]参照)……これが、見解の妄想である。覚者たる世尊の、渇愛の妄想は 〔すでに〕捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、それゆえに、覚者は、妄想を捨棄する方である。「 〔わたしは〕乞い願います」とは、 〔わたしは〕 乞い求める、 〔わたしは〕 乞い願う、 〔わたしは〕 要請する、〔わたしは〕 愛用する、 〔わたしは〕 切望する、 〔わたしは〕 熱望する、〔わたしは〕 渇望する、 〔わたしは〕 固く渇望する。思慮深きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([221]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「妄想を捨棄する思慮深き方に、〔わたしは〕 乞い願います」。
「龍たる方の 〔言葉を〕聞いて、 〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」とは、「龍たる方の」とは、龍 (ナーガ)たる世尊は、 (1) 罪悪 (アーグ) を為さない (ナ・カローティ)、ということで、「龍」。 (2) 赴かない (ナ・ガッチャティ) 、ということで、「龍」。 (3)帰り来ない (ナ・アーガッチャティ) 、ということで、「龍」。……略([454-458]参照)……。このように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」。「龍の 〔言葉を〕聞いて、 〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て、ここから、〔彼らは〕 立ち去るであろう、 〔彼らは〕 行くであろう、 〔彼らは〕 去るであろう、〔彼らは〕 方々に赴くであろう。ということで、「龍の 〔言葉を〕 聞いて、 〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」。それによって、その婆羅門は言った。
かくのごとく、尊者バドラーヴダが 〔言った〕⸺「家を捨棄し渇愛を断ち動揺なき方に、愉悦を捨棄し激流を超えた解脱者たる方に、妄想を捨棄する思慮深き方に、 〔わたしは〕 乞い願います。龍たる方の 〔言葉を〕聞いて、 〔集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう」と。
1108. (1102)勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕 説き明かしてください。まさに、この法 (事象) は、あなたによって、そのとおり 〔あるがままに〕知られたのです。 (2)
「種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです」とは、「種々なる人たちが」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕たち、そして、人間たちが。「諸々の地方から集いあつまったのです」とは、かつまた、アンガから、かつまた、マガダから、かつまた、カリンガから、かつまた、カーシから、かつまた、コーサラから、かつまた、ヴァッジーから、かつまた、マッラから、かつまた、チェーティヤから、かつまた、ヴァンサから、かつまた、クルから、かつまた、パンチャーラから、かつまた、マッチャから、かつまた、スラセーナから、かつまた、アッサカから、かつまた、アヴァンティから、かつまた、ヨーナから、かつまた、カンボージャから。「集いあつまったのです」とは、集いあつまった者たちであり、合流した者たちであり、結集した者たちであり、集合した者たちである。ということで、「種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです」。
「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」とは、「勇者よ」とは、勇者たる世尊は、精進ある方、ということで、「勇者」。可能なる方、ということで、「勇者」。発出ある方、ということで、「勇者」。十分なる自己ある方、ということで、「勇者」。身の毛のよだつことを離れ去った方、ということでもまた、「勇者」。
〔そこで、詩偈に言う〕「この 〔世において〕 、一切の悪しき 〔行為〕 から離れた者は、地獄の苦しみを超え行って、精進ある者として、彼は 〔世に有る〕 。彼は、精進ある者として、精励ある者として、真実なることから、如なる者は、『勇者』〔と〕 呼ばれる」と。
「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを。「待ち望んでいる」とは、待ち望んでいる者たち、欲求している者たち、愛用している者たち、切望している者たち、熱望している者たち、渇望している者たち。ということで、「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる」。
「あなたは、彼らのために、どうか、 〔真実の法を〕説き明かしてください」とは、「彼らのために」とは、それらの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕 たち、人間たちのために。「あなたは」とは、世尊に話す。「どうか、〔真実の法を〕説き明かしてください」とは、どうか、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕 説き明かしてください」。
「まさに、この法 (事象)は、あなたによって、そのとおり 〔あるがままに〕知られたのです」とは、まさに、この法 (事象) は、あなたによって、そのとおり、〔あるがままに〕知られた、比較された、推量された、明確にされた、分明された。ということで、「まさに、この法 (事象) は、あなたによって、そのとおり 〔あるがままに〕知られたのです」。それによって、その婆羅門は言った。
「勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々なる人たちが、諸々の地方から集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕 説き明かしてください。まさに、この法 (事象) は、あなたによって、そのとおり 〔あるがままに〕知られたのです」と。
1109. (1103)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺バドラーヴダよ、執取 〔の対象〕 への渇愛を、 〔その〕一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕中間において、まさに、 〔一切の〕 世において、そのもの、そのものに、〔彼らが〕 執取するなら、まさしく、その 〔一つ一つ〕 によって、人に、悪魔が従い行くのです。 (3)
「執取 〔の対象〕への渇愛を、 〔その〕 一切を、取り除くように」とは、執取 〔の対象〕 への渇愛は、形態への渇愛……略……と説かれる。「執取 〔の対象〕 への渇愛」とは、何を契機とすることから、執取 〔の対象〕 への渇愛と説かれるのか。その渇愛によって、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕 を……表象 〔作用〕を……諸々の形成 〔作用〕 を……識知 〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、執取〔の対象〕 への渇愛と説かれる。「執取 〔の対象〕 への渇愛を、 〔その〕一切を、取り除くように」とは、執取 〔の対象〕 への渇愛を、〔その〕一切を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「執取〔の対象〕 への渇愛を、 〔その〕一切を、取り除くように」。「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕⸺バドラーヴダよ」とは、「バドラーヴダよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊 (バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺バドラーヴダよ」。
「上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、「上に」とは、未来。「下に」とは、過去。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、現在。「上に」とは、天の世。「下に」とは、地獄の世。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、人間の世。さらに、あるいは、「上に」とは、諸々の善なる法(事象) 。「下に」とは、諸々の善ならざる法 (事象) 。「さらに、また、横に、 〔その〕中間において」とは、諸々の 〔善悪が〕 説き明かされない法 (事象) 。「上に」とは、形態なき界域 (無色界 ) 。「下に」とは、欲望の界域 (欲界 ) 。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、形態の界域 (色界 ) 。「上に」とは、安楽の感受 (楽受 ) 。「下に」とは、苦痛の感受 (苦受 ) 。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、苦でもなく楽でもない感受 (不苦不楽受 )。「上に」とは、足の裏から上に。「下に」とは、髪の頂から下に。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、 〔その〕中間において。ということで、「上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕中間において」。
「まさに、 〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、 〔彼らが〕執取するなら」とは、そのもの、そのものを、形態の在り方をしたものを、感受 〔作用〕の在り方をしたものを、表象 〔作用〕 の在り方をしたものを、諸々の形成〔作用〕 の在り方をしたものを、識知 〔作用〕 の在り方をしたものを、取り、執取し、収取し、偏執し、固着するなら。「 〔一切の〕 世において」とは、悪所の世において……略 ([196]参照) …… 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「まさに、 〔一切の〕世において、そのもの、そのものに、 〔彼らが〕 執取するなら」。
「まさしく、その 〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」とは、まさしく、その、行為の行作を所以に、結生あるものとして、 〔五つの〕 範疇の悪魔が、 〔十八の〕 界域の悪魔が、〔十二の認識の〕場所の悪魔が、境遇の悪魔が、再生の悪魔が、結生の悪魔が、生存の悪魔が、輪廻の悪魔が、転起の悪魔が、従い行き、従い赴き、随従のものと成る。「人(ジャントゥ) に」とは、有情、人 (ナラ) 、人間 (マーナヴァ) 、人士(ポーサ) 、人物 (プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人 (ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者に。ということで、「まさしく、その 〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」。それによって、世尊は言った。
かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「バドラーヴダよ、執取 〔の対象〕への渇愛を、 〔その〕 一切を、取り除くように。上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕 中間において、まさに、 〔一切の〕 世において、そのもの、そのものに、 〔彼らが〕執取するなら、まさしく、その 〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです」と。
1110. (1104)それゆえに、 〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように⸺死魔の領域において執着するこの人々を、「執取〔の対象〕 に執着する者たちである」と 〔あるがままに〕 見ながら。 (4)
「それゆえに、 〔このことを〕覚知している者として」「執取しないように」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。この危険を、執取の渇愛〔の観点〕 から、正しく見ている者は。ということで、「それゆえに」。「〔このことを〕 覚知している者として」とは、 〔あるがままに〕 知っている者は、 〔あるがままに〕覚知している者は、 〔あるがままに〕 了知している者は、 〔あるがままに〕 識知している者は、 〔あるがままに〕解知している者は、 〔あるがままに〕 理解している者は。「一切の形成〔作用〕 は、無常である」と……略 ([221]参照) ……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、 〔あるがままに〕 知っている者は、 〔あるがままに〕 覚知している者は、 〔あるがままに〕了知している者は、 〔あるがままに〕 識知している者は、 〔あるがままに〕 解知している者は、 〔あるがままに〕理解している者は。「執取しないように」とは、形態を、取るべきではなく、執取するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではなく、感受〔作用〕 を……略……表象 〔作用〕 を……諸々の形成 〔作用〕 を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取るべきではなく、執取するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではない。ということで、「それゆえに、〔このことを〕 覚知している者として」「執取しないように」。
「気づきある比丘は、一切の世において、何も」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、 〔いまだ〕学びある比丘は。「気づきある」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「気づきある比丘は」。「何も」とは、何であれ、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕 の在り方をしたものを、表象 〔作用〕 の在り方をしたものを、諸々の形成 〔作用〕の在り方をしたものを、識知 〔作用〕の在り方をしたものを。「一切の世において」とは、一切の悪所の世において、一切の人間の世において、一切の天の世において、一切の〔五つの〕 範疇の世において、一切の 〔十八の〕 界域の世において、一切の 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「気づきある比丘は、一切の世において、何も」。
「『執取 〔の対象〕に執着する者たちである』と 〔あるがままに〕 見ながら」とは、執取〔の対象〕に執着する者たちは、すなわち、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する者たち、感受 〔作用〕 を……略……表象 〔作用〕 を……諸々の形成〔作用〕 を……識知 〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する者たち、と説かれる。「と」とは、句の連鎖……略([197]参照) ……また、句の順序たること。これが、「と」ということになる。「〔あるがままに〕見ながら」とは、見ながら、視認しながら、観ながら、注目しながら、凝視しながら、近しく注視しながら。ということで、「『執取〔の対象〕 に執着する者たちである』と 〔あるがままに〕 見ながら」。
「死魔の領域において執着するこの人々を」とは、「人々」とは、有情の同義語である。諸々の死魔の領域は、かつまた、諸々の〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。人々は、死魔の領域において、悪魔の領域において、死の領域において、執着し(サッタ) 、強く執着し (ヴィサッタ) 、近く執着し (アーサッタ)、居着き、付着し、障害となっている。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように、人々は、死魔の領域において、悪魔の領域において、死の領域において、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「死魔の領域において執着するこの人々を」。それによって、世尊は言った。
「それゆえに、 〔このことを〕覚知している者として、気づきある比丘は、一切の世において、何も執取しないように⸺死魔の領域において執着するこの人々を、『執取〔の対象〕 に執着する者たちである』と 〔あるがままに〕 見ながら」と。
詩偈の終了と共に……略 ([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。
バドラーヴダ学徒の問いについての釈示が、第十二となる。
注釈【0】