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翻訳【21】

スバの経

スバ学徒の事

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者アーナンダは、サーヴァッティーに住んでいます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において、世尊が完全なる涅槃に到達したすぐあと。また、まさに、その時点にあって、トーデイヤの子であるスバ学徒が、サーヴァッティーに滞在しています──何らかの或る用事があって。

そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、或るひとりの学生に告げました。「学生よ、さあ、あなたは、沙門アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、わたしの言葉でもって、沙門アーナンダに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねなさい。『トーデイヤの子であるスバ学徒は、貴君アーナンダに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます』と。さらに、このように説きなさい。『どうか、まさに、貴君アーナンダは、トーデイヤの子であるスバ学徒の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。

「君よ、わかりました」と、まさに、その学生は、トーデイヤの子であるスバ学徒に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、その学生は、尊者アーナンダに、こう言いました。「トーデイヤの子であるスバ学徒は、貴君アーナンダに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。『どうか、まさに、貴君アーナンダは、トーデイヤの子であるスバ学徒の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて』」と。

このように説かれたとき、尊者アーナンダは、その学生に、こう言いました。「学生よ、まさに、時ではありません。わたしに、今日、少しばかりの薬が存在します──所飲のものとして(体調が悪く薬を服用したところです)。まさしく、おそらく、まさに、明日にもまた、〔わたしどもは〕近づいて行くでしょう──かつまた、時を、かつまた、時分を、見計らって」と。

「君よ、わかりました」と、まさに、その学生は、尊者アーナンダに答えて、坐から立ち上がって、トーデイヤの子であるスバ学徒のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、トーデイヤの子であるスバ学徒に、こう言いました。「まさに、わたしどもは、貴君の言葉でもって、彼に、貴君アーナンダに言いました。『トーデイヤの子であるスバ学徒は、貴君アーナンダに、病苦少なく、病悩少なく、軽快の状況にあり、活力があり、平穏の住があるかを尋ねます。さらに、このように説きます。「どうか、まさに、貴君アーナンダは、トーデイヤの子であるスバ学徒の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きたまえ──慈しみ〔の思い〕を抱いて」』と。君よ、このように説かれたとき、沙門アーナンダは、わたしに、こう言いました。『学生よ、まさに、時ではありません。わたしに、今日、少しばかりの薬が存在します──所飲のものとして。まさしく、おそらく、まさに、明日にもまた、〔わたしどもは〕近づいて行くでしょう──かつまた、時を、かつまた、時分を、見計らって』と。すなわち、まさに、彼が、貴君アーナンダが、明日にもまた、近づいて行くための機会を作ったことから、君よ、このことからもまた、まさに、この〔伝言〕は、まさしく、為されたことになります(十分に用件を果たした)」と。

そこで、まさに、尊者アーナンダは、その夜が明けると、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、チェータカ比丘を随伴の沙門として、トーデイヤの子であるスバ学徒の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。

そこで、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、トーデイヤの子であるスバ学徒は、尊者アーナンダに、こう言いました。「まさに、貴君アーナンダは、彼の、貴君ゴータマの、長夜にわたり、奉仕者であり、側近者であり、近侍者です。貴君アーナンダは、このことを知っているはずです──彼が、貴君ゴータマが、それらの法(教え)の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔そのとおりに〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔そのとおりに〕。貴君アーナンダよ、彼は、貴君ゴータマは、まさに、どのような諸々の法(教え)の栄誉を説く者として〔世に〕有ったのですか。そして、どこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させたのですか」と。

「学徒よ、彼は、世尊は、まさに、三つの範疇()の栄誉を説く者として〔世に〕有りました。そして、ここにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させました。どのようなものが、三つのものなのですか。聖なる戒の範疇であり、聖なる禅定の範疇であり、聖なる智慧の範疇です。学徒よ、彼は、世尊は、まさに、これらの三つの範疇の栄誉を説く者として〔世に〕有りました。そして、ここにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させました」と。

戒の範疇

「貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、その聖なる戒の範疇なのですか──彼が、貴君ゴータマが、その〔聖なる戒の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔ということであり〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔ということであるなら〕」と。

「学徒よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します──最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない──絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます──善なる身体の行為と言葉の行為を具備した者として、完全なる清浄の生き方ある者として、戒を成就した者として、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として、気づきと正知を具備した者として、〔常に〕満ち足りている者として。

学徒よ、では、どのように、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。学徒よ、ここに、比丘が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。学徒よ、すなわち、また、比丘が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住むなら、これもまた、彼の戒のうちに有ります。……略……(すなわち、194-210において断絶なくあるように、このように詳知されるべきである)。

また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知(無益な呪術)である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、寂静〔祈願〕の儀礼、誓願〔成就〕の儀礼、精霊の儀礼、土地の儀礼、精力増強の儀礼、精力減退の儀礼、地所の儀礼、地所の事前儀礼、洗浄、沐浴、供犠、吐剤、下剤、上の下剤、下の下剤、頭の下剤、耳の油、眼の手入れ、鼻の治療、塗薬、塗油、眼科術、外科術、小児医療、諸々の根薬の供与、諸々の薬草の除染であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。学徒よ、すなわち、また、比丘が──また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちが、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らが、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営むも、それは、すなわち、この、寂静〔祈願〕の儀礼、誓願〔成就〕の儀礼……略……諸々の薬草の除染であり、あるいは、かくのごときものです──かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有るなら、これもまた、彼の戒のうちに有ります。

学徒よ、それで、まさに、その比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。学徒よ、それは、たとえば、また、即位灌頂した王たる士族が、対立者を打破したなら、すなわち、この、義(利益)に反する者〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しないように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。学徒よ、このように、まさに、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。

学徒よ、まさに、これが、その聖なる戒の範疇です──彼が、世尊が、その〔聖なる戒の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔そのとおりに〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔そのとおりに〕。まさしく、しかしながら、ここにおいて、より上なる為すべきことが存在します」と。

「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。貴君アーナンダよ、そして、その聖なる戒の範疇は、これは、円満成就したものとしてあります──円満成就していないものではなく。貴君アーナンダよ、かつまた、わたしは、このように円満成就した聖なる戒の範疇を、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちにおいて等しく随観しません。貴君アーナンダよ、さらに、このように円満成就した聖なる戒の範疇を、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちが、自己のうちに等しく随観するなら、彼らは、まさしく、それだけのことで、わが意を得た者たちとして〔世に〕存するでしょう。『これだけで、十分だ。これだけで、〔為すべきことは〕為された。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちに、より上なる為すべきことは、何であれ、存在しない』と。そこで、また、しかしながら、貴君アーナンダは、このように言いました。『まさしく、しかしながら、ここにおいて、より上なる為すべきことが存在します』と。

禅定の範疇

貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、その聖なる禅定の範疇なのですか──彼が、貴君ゴータマが、その〔聖なる戒の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔ということであり〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔ということであるなら〕」と。

「学徒よ、では、どのように、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有るのですか。学徒よ、ここに、比丘が、眼によって、形態()を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声()を聞いて……略……。鼻によって、臭気()を嗅いで……。舌によって、味感()を味わって……。身によって、感触(所触)と接触して……。意によって、法(:意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。学徒よ、このように、まさに、比丘は、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として〔世に〕有ります。

学徒よ、では、どのように、比丘は、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有るのですか。学徒よ、ここに、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。学徒よ、このように、まさに、比丘は、気づきと正知を具備した者として〔世に〕有ります。

学徒よ、では、どのように、比丘は、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有るのですか。学徒よ、ここに、比丘が、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。学徒よ、それは、たとえば、また、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。学徒よ、このように、まさに、比丘は、〔常に〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。

彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御(律儀)を具備した者となり、かつまた、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、さらに、この聖なる満足(知足)を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります──結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。

彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕()を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、負債を負って、諸々の生業に従事し、彼の、それらの生業が等しく成功するとします。彼は、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為すでしょうし、さらに、彼には、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在するでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、負債を負って、諸々の生業に従事したが、〔まさに〕その、わたしの、それらの生業は等しく成功した。〔まさに〕その、わたしは、そして、それらが過去の根元の負債であるなら、かつまた、それらの終息を為したのであり、さらに、わたしには、妻を養うための、より以上の残余〔の収益〕が存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします。そして、食事は、彼を喜ばせず、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在しません。彼は、他時にあって、その病苦から解き放たれます。そして、食事は、彼を喜ばせ、さらに、彼の身体においては、力そのものが存在します。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕有った。そして、食事は、わたしを喜ばせず、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在しなかった。その〔わたし〕は、今現在、その病苦から解き放たれ、〔世に〕存している。そして、食事は、わたしを喜ばせ、さらに、わたしの身体においては、力そのものが存在する』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、獄舎に結縛され、〔世に〕存するとします。彼は、他時にあって、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれます。そして、彼の諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しません。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、獄舎に結縛され、〔世に〕有った。その〔わたし〕は、今現在、その獄舎から、〔無事〕安穏に、恐怖なく、解き放たれ、〔世に〕存している。そして、わたしの諸々の財物に、何であれ、衰失は存在しない』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、奴隷として〔世に〕存するとします──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。彼は、他時にあって、その奴隷の身分から解き放たれます──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、奴隷として〔世に〕有った──自己に依止せず他者に依止する者として、欲するところに赴く者ではなく。その〔わたし〕は、今現在、その奴隷の身分から解き放たれ、〔世に〕存している──自己に依止し他者に依止しない自由の者として、欲するところに赴く者となり』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、財産を有し財物を有する者が、飢饉にして恐怖を有する荒野の旅の道を行くとします。彼は、他時にあって、その荒野を、〔無事〕安穏に超え出、平安にして恐怖なき村の外れに至り得ます。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、過去において、財産を有し財物を有する者としてあり、飢饉にして恐怖を有する荒野の旅の道を行った。その〔わたし〕は、今現在、その荒野を、〔無事〕安穏に超え出た者として〔世に〕存している──平安にして恐怖なき村の外れに至り得た者として』と。彼は、それを因縁として、歓喜を得るでしょうし、悦意に到達するでしょう。

学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あたかも、負債のように、あたかも、病のように、あたかも、獄舎のように、あたかも、奴隷の身分のように、あたかも、荒野の旅の道のように、このように、これらの五つの〔修行の〕妨害(五蓋)が〔いまだ〕捨棄されていないのを、自己のうちに等しく随観します。

学徒よ、それは、たとえば、また、あたかも、無負債のように、あたかも、無病のように、あたかも、結縛からの解放のように、あたかも、自由のように、あたかも、平安の極地のように、まさしく、このように、比丘は、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観します。

彼が、これらの五つの〔修行の〕妨害が〔すでに〕捨棄されているのを、自己のうちに等しく随観していると、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

彼は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

学徒よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。学徒よ、すなわち、また、比丘は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。これもまた、彼の禅定のうちに有ります。

学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。

学徒よ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。これもまた、彼の禅定のうちに有ります。

学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。

学徒よ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。これもまた、彼の禅定のうちに有ります。

学徒よ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘が……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。これもまた、彼の禅定のうちに有ります。

学徒よ、まさに、これが、その聖なる禅定の範疇です──彼が、世尊が、その〔聖なる禅定の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔そのとおりに〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔そのとおりに〕。まさしく、しかしながら、ここにおいて、より上なる為すべきことが存在します」と。

「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。貴君アーナンダよ、そして、その聖なる禅定の範疇は、これは、円満成就したものとしてあります──円満成就していないものではなく。貴君アーナンダよ、かつまた、わたしは、このように円満成就した聖なる禅定の範疇を、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちにおいて等しく随観しません。貴君アーナンダよ、さらに、このように円満成就した聖なる禅定の範疇を、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちが、自己のうちに等しく随観するなら、彼らは、まさしく、それだけのことで、わが意を得た者たちとして〔世に〕存するでしょう。『これだけで、十分だ。これだけで、〔為すべきことは〕為された。沙門たることの義(目的)は、わたしたちの至り得るところとなった。わたしたちに、より上なる為すべきことは、何であれ、存在しない』と。そこで、また、しかしながら、貴君アーナンダは、このように言いました。『まさしく、しかしながら、ここにおいて、より上なる為すべきことが存在します』と。

智慧の範疇

貴君アーナンダよ、また、どのようなものが、その聖なる智慧の範疇なのですか──彼が、貴君ゴータマが、その〔聖なる智慧の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔ということであり〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔ということであるなら〕」と。

「彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕()は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。

学徒よ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで混濁なく、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が──あるいは、薄黄色の糸が──結び付けられている』と。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、このように覚知します。……略……ここにおいて結縛されている』と。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、意によって作られる身体を化作するために、心を導引し、向かわせます。彼は、この身体から、他の身体を化作します──形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』と。学徒よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された』と。学徒よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた』と。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、意によって作られる身体を化作するために、心を導引し、向かわせます。……略……。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

学徒よ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、陶工が、あるいは、陶工の内弟子が、善く事前作業が為された粘土において、まさしく、それぞれの容器類を望むなら、まさしく、それぞれ〔の容器類〕を作り、完遂させるように、学徒よ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、象牙の細工師が、あるいは、象牙の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された象牙において、まさしく、それぞれの象牙品を望むなら、まさしく、それぞれ〔の象牙品〕を作り、完遂させるように、学徒よ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された金において、まさしく、それぞれの金具を望むなら、まさしく、それぞれ〔の金具〕を作り、完遂させるように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔種々なる〕神通の種類〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、天耳の界域〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。学徒よ、それは、たとえば、また、人が、旅の道を行く者としてあり、彼が、太鼓の音声をもまた〔聞き〕、小鼓の音声をもまた〔聞き〕、法螺貝や銅鼓や鐘鼓の音声をもまた聞くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『太鼓の音声である』ともまた、『小鼓の音声である』ともまた、『法螺貝や銅鼓や鐘鼓の音声である』ともまた。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、天耳の界域〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

学徒よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、あるいは、染みを有するものを、『染みを有するものである』と知り、あるいは、染みなきものを、『染みなきものである』と知るように、学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、〔他者の〕心を探知する知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた──このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

学徒よ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に赴いた。そこで、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、過去における居住の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

学徒よ、それは、たとえば、また、十字路の中央に高楼があるとします。そこにおいて、眼ある人が立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、車道から街路へと行き来もまたするのを、十字路の中央に坐ってもまたいるのを、見るようなものです。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『人間たちが──これらの者たちが、家に入る、これらの者たちが、〔家から〕出る、これらの者たちが、車道から街路へと行き来する、これらの者たちが、十字路の中央に坐っている』と。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……。学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩()である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵()が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

学徒よ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、澄んでいて清らかで混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた──歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが──見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、澄んでいて清らかで混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。学徒よ、まさしく、このように、まさに、比丘は……略……学徒よ、すなわち、また、比丘は、このように、心が、定められたものとなり……略……不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。これもまた、彼の智慧のうちに有ります。

学徒よ、まさに、これが、その聖なる智慧の範疇です──彼が、世尊が、その〔聖なる智慧の範疇〕の栄誉を説く者として〔世に〕有った、〔そのとおりに〕──そして、そこにおいて、この〔世の〕人々を、受持させ、固着させ、確立させた、〔そのとおりに〕。まさしく、そして、ここにおいて、より上なる為すべきことは存在しません」と。

「貴君アーナンダよ、めったにないことです。貴君アーナンダよ、はじめてのことです。貴君アーナンダよ、そして、その聖なる智慧の範疇は、これは、円満成就したものとしてあります──円満成就していないものではなく。貴君アーナンダよ、かつまた、わたしは、このように円満成就した聖なる智慧の範疇を、この〔僧団〕より外に、他の沙門や婆羅門たちにおいて等しく随観しません。まさしく、そして、ここにおいて、より上なる為すべきことは存在しません。貴君アーナンダよ、すばらしいことです。貴君アーナンダよ、すばらしいことです。貴君アーナンダよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、貴君アーナンダよ、まさしく、このように、貴君アーナンダによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。貴君アーナンダよ、〔まさに〕この、わたしは、彼を、貴君ゴータマを、帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君アーナンダは、わたしを、在俗信者として認めてください──今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

スバの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

注釈【3】