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長い経典

DN18. ジャナヴァサバの経

翻訳【21】

ジャナヴァサバの経

ナーティカ〔村〕の者たち等への説き明かし

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーティカ〔村〕に住んでおられます。煉瓦作りの居住所において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かします(授記する)──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。「その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲()と憤怒()と迷妄()の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです」と。

まさに、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、「世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。『その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです』」と耳にしました。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成りました〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕。

まさに、尊者アーナンダは、「世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。『その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです』と。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成った〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕」と耳にしました。

アーナンダのほのめかしの言説

そこで、まさに、尊者アーナンダに、この〔思い〕が有りました。「また、まさに、これらのマガダ〔国〕の世話人たちで逝去し命終した世話人たちもまた、まさしく、そして、多くの者たちが、かつまた、経歴ある者たちとして、〔世に〕有った。思うに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちは〔言及が〕空無なるも、逝去し命終したアンガ〔国〕とマガダ〔国〕の世話人たち〔という観点〕からすると、また、まさに、彼らもまた、覚者にたいし清信した者たちとして、法(教え)にたいし清信した者たちとして、僧団にたいし清信した者たちとして、諸戒における円満成就を為す者たちとして、〔世に〕有った。彼らは、逝去し命終したが、世尊によって説き明かされていない。彼らにもまた、善き説き明かし(授記)が存するべきである。多くの人々が清信するであろうし、そののち、善き境遇に赴くであろう。また、まさに、この者が、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として〔世に〕有った──婆羅門や家長たちにとって、まさしく、そして、町の者たちにとって、さらに、地方の者たちにとって、利益ある者として。さてまた、まさに、人間たちは、〔彼を〕賛じ称える様子で〔世に〕住む。『このように、彼は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、わたしたちを安楽にして、命を終えたのだ。このように、わたしたちは、彼の、法(正義)にかなう法(正義)の王の、領土において、平穏のうちに〔世に〕住んだ』と。また、まさに、彼もまた、覚者にたいし清信した者として、法(教え)にたいし清信した者として、僧団にたいし清信した者として、諸戒における円満成就を為す者として、〔世に〕有った。さてまた、まさに、人間たちは、このように言った。『死の時に至るまでもまた、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、世尊を賛じ称える様子で命を終えたのだ』と。彼は、逝去し命終したが、世尊によって説き明かされていない。彼にもまた、善き説き明かしが存するべきである。多くの人々が清信するであろうし、そののち、善き境遇に赴くであろう。また、まさに、世尊の正覚は、マガダ〔国〕におけるものである。また、まさに、すなわち、世尊の正覚が、マガダ〔国〕におけるものであるなら、そこで、どうして、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないというのだろう。また、まさに、もし、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないなら、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちは、卑屈な意の者たちとして〔世に〕存するであろう。また、まさに、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちが、卑屈な意ある者たちとして〔世に〕存するなら、どうして、世尊が、彼らのことを説き明かさないというのだろう」と。

ここに、尊者アーナンダは、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、独り、静所にあり、熟慮して、夜の早朝の時分に起きて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『世尊は、どうやら、周囲から周囲へと諸々の地方において逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かすらしい──カーシ〔国〕とコーサラ〔国〕の者たちについて、ヴァッジ〔国〕とマッラ〔国〕の者たちについて、チェーティ〔国〕とヴァンサ〔国〕の者たちについて、クル〔国〕とパンチャ〔国〕の者たちについて、マッジャ〔国〕とスーラセーナ〔国〕の者たちについて。「その者は、某所に再生したのです。その者は、某所に再生したのです。五十を超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者たちとなり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者たちとなり、その世から戻り来る法(性質)なき者たちとなります。九十を優に超えるナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者たちであり、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すでしょう。五百を優に超過するナーティカ〔村〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです」と。そして、それによって、ナーティカ〔村〕の世話人たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成りました〕──世尊の、問いへの説き明かしを聞いて〔そののち〕』と。尊き方よ、また、まさに、これらのマガダ〔国〕の世話人たちで逝去し命終した世話人たちもまた、まさしく、そして、多くの者たちが、かつまた、経歴ある者たちとして、〔世に〕有りました。思うに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちは〔言及が〕空無なるも、逝去し命終したアンガ〔国〕とマガダ〔国〕の世話人たち〔という観点〕からすると、また、まさに、彼らもまた、覚者にたいし清信した者たちとして、法(教え)にたいし清信した者たちとして、僧団にたいし清信した者たちとして、諸戒における円満成就を為す者たちとして、〔世に〕有りました。彼らは、逝去し命終したのですが、世尊によって説き明かされていません。彼らにもまた、善き説き明かしが存するべきです。多くの人々が清信するでしょうし、そののち、善き境遇に赴くでしょう。尊き方よ、また、まさに、この者が、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、法(正義)にかなう法(正義)の王として〔世に〕有りました──婆羅門や家長たちにとって、まさしく、そして、町の者たちにとって、さらに、地方の者たちにとって、利益ある者として。さてまた、まさに、人間たちは、〔彼を〕賛じ称える様子で〔世に〕住みます。『このように、彼は、法(正義)にかなう法(正義)の王として、わたしたちを安楽にして、命を終えたのだ。このように、わたしたちは、彼の、法(正義)にかなう法(正義)の王の、領土において、平穏のうちに〔世に〕住んだ』と。尊き方よ、また、まさに、彼もまた、覚者にたいし清信した者として、法(教え)にたいし清信した者として、僧団にたいし清信した者として、諸戒における円満成就を為す者として、〔世に〕有りました。さてまた、まさに、人間たちは、このように言いました。『死の時に至るまでもまた、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、世尊を賛じ称える様子で命を終えたのだ』と。彼は、逝去し命終したのですが、世尊によって説き明かされていません。彼にもまた、善き説き明かしが存するべきです。多くの人々が清信するでしょうし、そののち、善き境遇に赴くでしょう。尊き方よ、また、まさに、世尊の正覚は、マガダ〔国〕におけるものである。尊き方よ、また、まさに、すなわち、世尊の正覚が、マガダ〔国〕におけるものであるなら、そこで、どうして、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないというのでしょう。尊き方よ、また、まさに、もし、世尊が、マガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちのことを、〔彼らの〕再生について説き明かさないなら、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちは、卑屈な意の者たちとして〔世に〕存するでしょう。また、まさに、それによって、マガダ〔国〕の世話人たちが、卑屈な意ある者たちとして〔世に〕存するなら、どうして、世尊が、彼らのことを説き明かさないというのでしょう」と。ここに、尊者アーナンダは、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、世尊の面前で、ほのめかしの言説を為して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、立ち去りました。

そこで、まさに、世尊は、尊者アーナンダが立ち去ったすぐあと、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ナーティカ〔村〕に〔行乞の〕食のために入りました。ナーティカ〔村〕において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、設けられた坐に坐りました。「彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』」と。まさに、世尊は、マガダ〔国〕の世話人たちを見ました。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」と。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、煉瓦作りの居住所から出て、精舎の影のもとに設けられた坐に坐りました。

そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、世尊は、寂静に見え、世尊の顔色も、光り輝いているかのようであり、諸々の〔感官の〕機能の清らかさがあります。尊き方よ、まちがいなく、今日、世尊は、寂静の住によって〔世に〕住みました」と。「アーナンダよ、まさしく、すなわち、あなたが、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、まさに、わたしの面前で、ほのめかしの言説を為して、坐から立ち上がって、立ち去ったとき、まさしく、そのとき、わたしは、ナーティカ〔村〕において〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔両の〕足を洗って、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して、設けられた坐に坐りました。『彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」』と。アーナンダよ、まさに、わたしは、マガダ〔国〕の世話人たちを見ました。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』と。

ジャナヴァサバ夜叉

アーナンダよ、そこで、まさに、消没した〔状態〕の夜叉が、声を上げました。『世尊よ、わたしは、ジャナヴァサバです。善き至達者たる方よ、わたしは、ジャナヴァサバです』と。アーナンダよ、まさに、あなたは証知しますか(記憶していますか)──これより過去において、このような形態の命名が聞かれたことを。すなわち、この、『ジャナヴァサバ(人の牛王)』〔という命名です〕」と。

「尊き方よ、まさに、わたしは証知しません──これより過去において、このような形態の命名が聞かれたことを。すなわち、この、『ジャナヴァサバ』という〔命名です〕。尊き方よ、そして、また、わたしに、諸々の身の毛のよだちがあります──『ジャナヴァサバ』という命名を聞いて。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。『まさに、まちがいなく、その夜叉は、低劣ならざる者として〔世に〕有るのだ。すなわち、この、このような形態の命名が、しっかりと報知されたのだ。すなわち、この、『ジャナヴァサバ』〔という命名が〕』」と。「アーナンダよ、まさに、声が出現した直後に、わたしの面前において、秀逸なる色艶の夜叉が出現し、再度また、声を上げました。『世尊よ、わたしは、ビンビサーラです。善き至達者たる方よ、わたしは、ビンビサーラです。尊き方よ、まさに、わたしが、ヴェッサヴァナ大王(多聞天・毘沙門天)の同類として再生するのは、これが、七回目となります。その〔わたし〕は、そこから死滅し、人間の王として〔世に〕有ることができます。

〔そこで、詩偈に言う〕「ここから、七〔回〕、そこから、七〔回〕、十四〔回〕の輪廻がある。〔過去の〕居住を、〔わたしは〕証知する。かつて、そこにおいて、わたしが住していた、〔その居住を〕」と。

尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します。また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します』と。『めったにないことです。尊者の、ジャナヴァサバ夜叉の、この〔言葉〕は。はじめてのことです。尊者の、ジャナヴァサバ夜叉の、この〔言葉〕は。そして、〔あなたは〕「尊き方よ、まさに、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します」と説きます。さらに、〔あなたは〕「また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します」と説きます。また、どのような因縁あることから、尊者は、ジャナヴァサバ夜叉は、このような形態の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達を了解するのですか』と。『世尊よ、あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。善き至達者たる方よ、あなたの教えより他に、〔何も存在し〕ません。尊き方よ、わたしが、世尊にたいし、絶対的に大いに清信した、それ以後、尊き方よ、それ以後、わたしは、長夜にわたり、堕所なき者として、堕所なきことを了解します。また、そして、わたしには、一来たることへの願望が確立します。尊き方よ、ここに、わたしは、ヴィルーラカ大王(増長天)の現前において、何らかの或る用事があり、ヴェッサヴァナ大王によって送り出されたところ、中途の道において、世尊が、煉瓦作りの居住所に入って、マガダ〔国〕の世話人たちに関して、義(意味)あるものと為して、意を為して、心をもって、全てに集中して坐っているのを見ました。「彼らの、〔死後の〕境遇を、未来の運命を、〔わたしは〕知るのだ。『彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る』」と。尊き方よ、また、まさに、このことは、めったにないことです。それを、その衆において語っている、ヴェッサヴァナ大王の、面前で聞き、面前で受けたのです。「彼らは、それを〔死後の〕境遇として、それを未来の運命として、〔今現在、世に〕有る」と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、この〔思い〕が有りました。「では、世尊に、お目にかかるのだ。そして、このことを、世尊に、お告げするのだ」と。尊き方よ、まさに、わたしには、世尊と会見するために近づいて行くべき、これらの二つの縁があります。

天の集会場

尊き方よ、過日のことですが、以前、斎戒(布薩)のその日、十五〔日〕において、雨期が近づくとき、満ちた満月の夜、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場(善法講堂)において、着坐し参集した状態でいます。かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいます。かつまた、〔天の〕四大王(四天王)が、四方にあって、坐った状態でいます。東の方角において、ダタラッタ大王(持国天)が、西に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。南の方角において、ヴィルーラカ大王(増長天)が、北に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。西の方角において、ヴィルーパッカ大王(広目天)が、東に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。北の方角において、ヴェッサヴァナ大王(多聞天・毘沙門天)が、南に向かって、天〔の神々〕たちを前にして、坐った状態でいます。尊き方よ、すなわち、そして、全面あまねく、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいるとき、かつまた、大いなる天の衆が、遍きにわたり、坐った状態でいるとき、かつまた、四大王が、四方にあって、坐った状態でいるとき、これが、彼らの、坐における〔坐り方〕と成ります。そこで、後ろに、わたしたちの坐が有ります。尊き方よ、すなわち、世尊のもと、梵行を歩んで、三十三〔天〕の身体に新しく再生した、それらの天〔の神々〕たちは、彼らは、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。「ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する」と。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちの清信を見出して、これらの詩偈によって随喜しました。

〔そこで、詩偈に言う〕「ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──

そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。

彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。

このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら」と。

尊き方よ、それによって、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、より一層激しく、わが意を得た者たちと成り、歓喜した者たちと〔成り〕、喜悦と悦意を生じた者たちと〔成ります〕。「ああ、まさに、天の身体ある者たちは遍く満ち、阿修羅の身体ある者たちは衰退する」と。尊き方よ、そこで、まさに、その義(目的)によって、三十三天〔の神々〕たちが、スダンマーの集会場において、着坐し参集した状態でいる、その義(目的)を思弁して、その義(目的)を考量して、それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を説かれたこともまた有り──それで、〔天の〕四大王は、その義(目的)について、〔三十三天の神々たちによって〕言葉を教示されたこともまた有り──それぞれの自らの坐において、去ることなく立っています。

〔そこで、詩偈に言う〕「それらの王たちは、言葉を説かれ、教示を受け取って、清信した意ある寂静なる者たちとなり、自らの坐において、〔去ることなく〕立った」と。

尊き方よ、そこで、まさに、北の方角において、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現しました──天〔の神々〕たちの天の威光を、まさしく、超え行って。尊き方よ、そこで、まさに、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕は、三十三天〔の神々〕たちに告げました。「敬愛なる者たちよ、すなわち、まさに、秀逸なる光明が生み出され、光輝が出現し、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するでしょう。なぜなら、梵〔天〕には、出現するにあたり、これが前兆となるからです。すなわち、この、光明が生み出され、光輝が出現します」と。

〔そこで、詩偈に言う〕「すなわち、諸々の形相が見られるように、〔長からずして〕梵〔天〕が出現するであろう。なぜなら、梵〔天〕には、広大にして大いなる光輝が、これが、〔出現の〕形相となるからである」と。

サナンクマーラの話

尊き方よ、そこで、まさに、三十三天〔の神々〕たちは、すなわち、自らの坐において坐りました。「この光輝を、〔わたしたち〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたち〕赴くのだ」と。〔天の〕四大王もまた、すなわち、自らの坐において坐りました。「この光輝を、〔わたしたち〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたち〕赴くのだ」と。この〔言葉〕を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは、一境に入定しました(思いを一つにした)。「この光輝を、〔わたしたち〕知るのだ。すなわち、報いが有るであろう、〔そのとおりに〕。それを、まさしく、実証して〔そののち〕、〔わたしたち〕赴くのだ」と。

尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するときは、粗大なる自己状態を化作して出現します。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕の元来の色艶は、それは、三十三天〔の神々〕たちの眼の視野においては対処できません。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、それは、たとえば、また、黄金の姿形が、人間の姿形に輝きまさるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、彼は、他の天〔の神々〕たちに輝きまさります──まさしく、そして、色艶によって、さらに、福徳によって。尊き方よ、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、三十三天〔の神々〕たちに出現するとき、その衆において、誰であれ、天〔の神〕が、あるいは、敬拝することも、あるいは、立礼することも、あるいは、坐によって招くことも、ありません。まさしく、全ての者たちが、沈黙の状態で、合掌の者たちとなり、結跏をもって坐っています。「今や、その天〔の神〕に、梵〔天〕のサナンクマーラが、長椅子を求めるなら、その天〔の神〕の長椅子のうえに、〔彼は〕坐るであろう」と。

尊き方よ、また、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、それは、たとえば、また、王権によって、新たに灌頂し即位灌頂した王たる士族が、彼が、秀逸なる信受の獲得を得るように、彼が、秀逸なる悦意の獲得を得るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、その天〔の神〕の長椅子のうえに、梵〔天〕のサナンクマーラが坐るなら、その天〔の神〕は、秀逸なる信受の獲得を得ますし、その天〔の神〕は、秀逸なる悦意の獲得を得ます。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、粗大なる自己状態を化作して、パンチャシカ(音楽神の天子)の少年の色艶と成って、三十三天〔の神々〕たちに出現しました。彼は、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐りました。尊き方よ、それは、たとえば、また、力ある人が、あるいは、善く広げられた長椅子のうえに、あるいは、平坦な土地の部分において、結跏をもって坐るように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、宙に舞い上がって、虚空において、空中において、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちの清信を見出して、これらの詩偈によって随喜しました。

〔そこで、詩偈に言う〕「ああ、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは歓喜する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら──

そして、色艶と福徳ある新参の天〔の神々〕たちを見ながら──善き至達者たる方のもと、梵行を歩んで、ここに到来した者たちを〔見ながら〕。

彼らは、色艶によって、福徳と寿命によって、他の者たちに輝きまさる──広き智慧ある方の弟子たちとして、殊勝〔の境地〕に近しく赴いた者たちとして、ここに。

このことを見て、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは愉悦する──如来を、そして、法(教え)の善き法(教え)たることを、礼拝しながら」と。

尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、この義(意味)を語っている、梵〔天〕のサナンクマーラには、八つの支分を具備した声が有ります。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。尊き方よ、また、まさに、すなわち、梵〔天〕のサナンクマーラが、衆に声で伝えるとおりに、そして、彼の話し声は、衆の外に放たれることがありません。尊き方よ、また、まさに、彼には、このように、八つの支分を具備した声が有り、彼は、「梵の声ある者」と説かれます。

尊き方よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、諸々の三十三〔天〕の自己状態を化作して、三十三天〔の神々〕たちの各自の長椅子のうえに、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。「それを、どう思いますか──貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは。さてまた、どれほどまでに、彼が、世尊が実践したのかを──多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために。君よ、まさに、彼らが誰であれ、覚者を帰依所に赴いた者たちであり、法(教え)を帰依所に赴いた者たちであり、僧団を帰依所に赴いた者たちであり、諸戒における円満成就を為す者たちであるなら、彼らは、身体の破壊ののち、死後において、一部の者たちはまた、他化自在天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、化楽天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、兜率天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、耶摩天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、三十三天〔の神々〕たちの同類として再生し、一部の者たちはまた、四大王天〔の神々〕たちの同類として再生します。すなわち、全てに劣る身体を円満成就させる、それらの者たちは、音楽神の身体を円満成就させます」と。

尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、この義(意味)を語っている、梵〔天〕のサナンクマーラには、〔一つの〕話し声だけがあり、天〔の神々〕たちは思います。「すなわち、わたしの長椅子のうえにいる、この者であるが、〔まさに〕その、この者は、一者であるかのように語る」と。

〔そこで、詩偈に言う〕「一者が語っているとき、化作された者たちの全てが語る。一者が沈黙して坐ったとき、彼らの全てが沈黙の者たちと成る。

そのとき、まさに、インダと共に、三十三天〔の神々〕たちは思う。『すなわち、わたしの長椅子のうえにいる、この者であるが、〔まさに〕その、この者は、一者であるかのように語る』」と。

尊き方よ、そこで、まさに、梵〔天〕のサナンクマーラは、一なるものとして自己を近しく集中します。一なるものとして自己を近しく集中して、天〔の神々〕たちのインダたる帝釈〔天〕の長椅子のうえに、結跏をもって坐って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。

神通の足場を修めた者

「それを、どう思いますか──貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは。さてまた、どれほどまでに、善く報知されたのかを──これらの四つの神通の足場(四神足)が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、神通の可能性のために、神通の発出性のために、神通の変異性のために、報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕(意欲)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。君よ、まさに、これらの四つの神通の足場が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、神通の可能性のために、神通の発出性のために、神通の変異性のために、報知されました。

君よ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現したなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。君よ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するであろうなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。君よ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことからであり、多く為したことからなのです。まさに、貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは、見ますか──わたしにもまた、このような形態の、この神通の威力があるのを」と。「大いなる梵〔天〕よ、そのとおりです(見ます)」と。「君よ、わたしもまた、まさに、まさしく、これらの四つの神通の足場を、修めたことから、多く為したことから、このように、このように大いなる神通ある者であり、このように大いなる威力ある者なのです」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。

三種類の機会の到達

「それを、どう思いますか──貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは。さてまた、これが、どれほどまでのものであるかを──三つの機会の到達が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために、随覚されました。どのようなものが、三つのものなのですか。君よ、ここに、一部の者は、諸々の欲望〔の対象〕と交わりある者として、諸々の善ならざる法(性質)と交わりある者として、〔世に〕住みます。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼は、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者として、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者として、〔世に〕住みます。彼には、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者には、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者には、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、諸々の欲望〔の対象〕と交わりなき者には、諸々の善ならざる法(性質)と交わりなき者には、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第一の機会の到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために、随覚されました。

君よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者には、諸々の粗大なる身体の形成〔作用〕が安息なく有り、諸々の粗大なる言葉の形成〔作用〕が安息なく有り、諸々の粗大なる心の形成〔作用〕が安息なく有ります。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼には、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、諸々の粗大なる身体の形成〔作用〕が安息し、諸々の粗大なる言葉の形成〔作用〕が安息し、諸々の粗大なる心の形成〔作用〕が安息します。彼には、諸々の粗大なる身体の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗大なる言葉の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗大なる心の形成〔作用〕の安息あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、諸々の粗大なる身体の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗大なる言葉の形成〔作用〕の安息あることから、諸々の粗大なる心の形成〔作用〕の安息あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第二の機会の到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために、随覚されました。

君よ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知せず、『これは、罪過を有するものである』『これは、罪過なきものである』『これは、慣れ親しむべきものである』『これは、慣れ親しむべきではないものである』『これは、下劣なるものである』『これは、精妙なるものである』『これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである』と、事実のとおりに覚知しません。彼は、他時にあって、聖なる法(教え)を聞き、根源のままに意を為し、法(教え)を法(教え)のままに実践します。彼は、聖なる法(教え)を聞くことに由来して、根源のままに意を為すことに〔由来して〕、法(教え)を法(教え)のままに実践することに〔由来して〕、『これは、善なるものである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、善ならざるものである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、罪過を有するものである』『これは、罪過なきものである』『これは、慣れ親しむべきものである』『これは、慣れ親しむべきではないものである』『これは、下劣なるものである』『これは、精妙なるものである』『これは、黒と白と〔黒と白の〕両部分を有するものである』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、無明は捨棄され、明知が生起します。彼には、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、それは、たとえば、また、喜びから歓喜が生まれるように、君よ、まさしく、このように、まさに、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、安楽が生起します。安楽あることから、より一層、喜悦があります。君よ、この、第三の機会の到達が、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために、随覚されました。君よ、まさに、これらの三つの機会の到達が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、安楽の到達のために、随覚されました」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。

四つの気づきの確立

「それを、どう思いますか──貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは。さてまた、どれほどまでに、善く報知されたのかを──これらの四つの気づきの確立(四念処四念住)が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、善なるものの到達のために報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。君よ、ここに、比丘が、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みつつ、そこにおいて、正しく定められ、正しく清らかとなります。彼は、そこにおいて、正しく定められ、正しく清らかとなり、外に、他者の身体において、知見を発現させます。内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……略……外に、他者の諸々の感受において、知見を発現させます。内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……略……外に、他者の心において、知見を発現させます。内に、諸々の法(性質)における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みつつ、そこにおいて、正しく定められ、正しく清らかとなります。彼は、そこにおいて、正しく定められ、正しく清らかとなり、外に、他者の諸々の法(性質)において、知見を発現させます。君よ、まさに、これらの四つの気づきの確立が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、善なるものの到達のために報知されました」と。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語って、三十三天〔の神々〕たちに告げました。

七つの禅定の必需品

「それを、どう思いますか──貴君たちは、三十三天〔の神々〕たちは。さてまた、どれほどまでに、善く報知されたのかを──これらの七つの禅定の必需品が、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、正しい禅定(正定)の完全なる修行のために、正しい禅定の円満成就のために、報知されました。どのようなものが、七つのものなのですか。正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)です。君よ、すなわち、まさに、これらの七つの支分を必需品とする、心の一境性であるなら、君よ、これは、聖なる正しい禅定と説かれます──『機縁を有するもの』ともまた〔説かれ〕、『必需品を有するもの』ともまた〔説かれます〕。君よ、正しい見解ある者には、正しい思惟が発生します。正しい思惟ある者には、正しい言葉が発生します。正しい言葉ある者には、正しい行業が発生します。正しい行業ある者には、正しい生き方が発生します。正しい生き方ある者には、正しい努力が発生します。正しい努力ある者には、正しい気づきが発生します。正しい気づきある者には、正しい禅定が発生します。正しい禅定ある者には、正しい知恵が発生します。正しい知恵ある者には、正しい解脱が発生します。君よ、まさに、すなわち、その〔法〕を、正しく説きつつ説くなら、『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と、まさしく、このことを、その〔法〕として、正しく説きつつ説くべきです。君よ、まさに、法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものです。不死の諸門は、開かれたのです。

君よ、まさに、彼らが誰であれ、覚者にたいする確固たる清信を具備した者たちであるなら、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者たちであるなら、僧団にたいする確固たる清信を具備した者たちであるなら、聖者たちに愛される諸戒を具備した者たちであるなら、さらに、すなわち、これらの化生の者たちである、法(教え)によって教え導かれた、二百四十万を優に超過するマガダ〔国〕の逝去し命終した世話人たちは、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者たちであり、堕所の法(性質)なき者たちであり、決定の者たちであり、正覚を行き着く所とする者たちです。まさしく、そして、ここにおいて、一来たる者たちも存在します。

〔そこで、詩偈に言う〕『そこで、この、他の人々は、功徳を分け持つ者たちとなる。かくのごとく、わたしの意はある。〔その数を〕数えようにも、もはや、できない──虚偽を説くことを咎めつつ』」と。

尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を語りました。尊き方よ、梵〔天〕のサナンクマーラが、この義(意味)を語っていると、ヴェッサヴァナ大王に、このような心の思索が浮かびました。「ああ、まさに、めったにないことだ。ああ、まさに、はじめてのことだ。このような形態の、また、まさに、秀逸なる教師が〔世に〕有るとは。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されるとは」と。尊き方よ、そこで、梵〔天〕のサナンクマーラは、〔自らの〕心をとおして、ヴェッサヴァナ大王の心の思索を了知して、ヴェッサヴァナ大王に、こう言いました。「それを、どう思いますか。貴君は、ヴェッサヴァナ大王は。過去の時にもまた、このような形態の秀逸なる教師が〔世に〕有りました。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されました。未来の時にもまた、このような形態の秀逸なる教師が〔世に〕有るでしょう。このような形態の秀逸なる法(教え)の告知があり、このような形態の諸々の秀逸なる殊勝〔の境地〕への到達が覚知されるでしょう」』〔と、ジャナヴァサバ夜叉は、わたしに言いました〕」と。

梵〔天〕のサナンクマーラは、この義(意味)を、三十三天〔の神々〕たちに語りました。ヴェッサヴァナ大王は、この義(意味)を、三十三天〔の神々〕たちに語っている、梵〔天〕のサナンクマーラの、面前で聞き、面前で受け、自らの衆に告げました。

ジャナヴァサバ夜叉は、この義(意味)を、自らの衆において語っている、ヴェッサヴァナ大王の、面前で聞き、面前で受け、世尊に告げました。世尊は、この義(意味)を、ジャナヴァサバ夜叉の、面前で聞いて、面前で受けて、さらに、自ら証知して、尊者アーナンダに告げました。尊者アーナンダは、この義(意味)を、世尊の、面前で聞いて、面前で受けて、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちに告げました。〔まさに〕その、この梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったのです。すなわち、天〔の神々〕と人間たちによって善く明示されるまでに、ということです。

ジャナヴァサバの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

注釈【2】