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翻訳【22】

十の加上の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、チャンパーに住んでおられます。ガッガラーの蓮池の岸辺において。大いなる比丘の僧団である、五百ばかりの比丘たちと共に。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

〔そこで、詩偈に言う〕「『十の加上ある法(性質)を、〔わたしは〕言示する──涅槃に至り得るために、苦しみの終極を為すために、一切の拘束を解き放つものとして』〔と〕。

一つの法

友よ、(1)一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)一つの修行されるべき法(性質)があります。(3)一つの遍知されるべき法(性質)があります。(4)一つの捨棄されるべき法(性質)があります。(5)一つの退失を部分とする法(性質)があります。(6)一つの殊勝を部分とする法(性質)があります。(7)一つの理解し難き法(性質)があります。(8)一つの生起させられるべき法(性質)があります。(9)一つの証知されるべき法(性質)があります。(10)一つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。諸々の善なる法(性質)における不放逸です。この一つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、一つの修行されるべき法(性質)なのですか。快楽(安楽)を共具したものとしてある、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)です。この一つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、一つの遍知されるべき法(性質)なのですか。煩悩を有するもの(有漏)としてある、〔凡夫によって〕執取されるべき接触()です。この一つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、一つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。『〔わたしは〕存在する』という思量(我慢:自我意識)です。この一つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、一つの退失を部分とする法(性質)なのですか。根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。この一つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、一つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。根源のままに意を為すこと(如理作意)です。この一つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、一つの理解し難き法(性質)なのですか。直後(無間)なるものとしての心の禅定()です。この一つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、一つの生起させられるべき法(性質)なのですか。不動なる知恵()です。この一つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、一つの証知されるべき法(性質)なのですか。一切の有情たちは、食(動力源・エネルギー)に立脚する者たちです。この一つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、一つの実証されるべき法(性質)なのですか。不動なる〔止寂の〕心による解脱(阿羅漢果の心解脱)です。この一つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

二つの法

(1)二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)二つの修行されるべき法(性質)があります。(3)二つの遍知されるべき法(性質)があります。(4)二つの捨棄されるべき法(性質)があります。(5)二つの退失を部分とする法(性質)があります。(6)二つの殊勝を部分とする法(性質)があります。(7)二つの理解し難き法(性質)があります。(8)二つの生起させられるべき法(性質)があります。(9)二つの証知されるべき法(性質)があります。(10)二つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。そして、気づき()であり、さらに、正知です。これらの二つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、二つの修行されるべき法(性質)なのですか。そして、〔心の〕止寂(奢摩他・止:集中瞑想)であり、さらに、〔あるがままの〕観察(毘鉢舎那・観:観察瞑想)です。これらの二つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、二つの遍知されるべき法(性質)なのですか。そして、(:精神的事象)であり、さらに、形態(:物質的形態)です。これらの二つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、二つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。そして、無明であり、さらに、生存の渇愛(有愛)です。これらの二つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、二つの退失を部分とする法(性質)なのですか。そして、頑固であることであり、さらに、悪しき朋友あることです。これらの二つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、二つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。そして、素直であることであり、さらに、善き朋友あることです。これらの二つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、二つの理解し難き法(性質)なのですか。有情たちの汚染のための、そして、すなわち、因であり、さらに、すなわち、縁であり、有情たちの清浄のための、そして、すなわち、因であり、さらに、すなわち、縁です。これらの二つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、二つの生起させられるべき法(性質)なのですか。二つの知恵()があります。滅尽についての知恵であり、生起なきものについての知恵です。これらの二つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、二つの証知されるべき法(性質)なのですか。二つの界域()があります。そして、形成されたもの(有為)の界域であり、さらに、形成されたものではないもの(無為)の界域です。これらの二つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、二つの実証されるべき法(性質)なのですか。そして、明知であり、さらに、解脱です。これらの二つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの二十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

三つの法

(1)三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)三つの修行されるべき法(性質)があります。……略……。(10)三つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。正なる人士に慣れ親しむことであり、正なる法(教え)を聞くことであり、法(教え)を法(教え)のままに実践することです。これらの三つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、三つの修行されるべき法(性質)なのですか。三つの禅定()があります。〔粗雑なる〕思考を有し〔微細なる〕想念を有する禅定(有尋有伺定)であり、〔粗雑なる〕思考なく〔微細なる〕想念のみある禅定(無尋唯伺定)であり、思考なく想念なき禅定(無尋無伺定)です。これらの三つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、三つの遍知されるべき法(性質)なのですか。三つの感受()があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です。これらの三つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、三つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。三つの渇愛()があります。欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。これらの三つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、三つの退失を部分とする法(性質)なのですか。三つの善ならざるものの根元(不善根)があります。貪欲()は、善ならざるものの根元であり、憤怒()は、善ならざるものの根元であり、迷妄()は、善ならざるものの根元です。これらの三つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、三つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。三つの善なるものの根元(善根)があります。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものの根元であり、憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものの根元であり、迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものの根元です。これらの三つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、三つの理解し難き法(性質)なのですか。三つの出離するべき界域があります。諸々の欲望〔の対象〕にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、離欲です。諸々の形態()にとっては、これが、出離となります。すなわち、この、形態なきもの(無色)です。また、まさに、それが何であれ、『成ったもの()』『形成されたもの(有為)』『縁によって生起したもの(縁已生)』であるなら、それにとっては、止滅〔の界域〕(涅槃)が、出離となります。これらの三つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、三つの生起させられるべき法(性質)なのですか。三つの知恵があります。過去の時についての知恵であり、未来の時についての知恵であり、現在の時についての知恵です。これらの三つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、三つの証知されるべき法(性質)なのですか。三つの界域()があります。欲望の界域(欲界)であり、形態の界域(色界)であり、形態なき界域(無色界)です。これらの三つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、三つの実証されるべき法(性質)なのですか。三つの明知(三明)があります。過去における居住(過去世)の随念の知恵は、明知であり、有情たちの死滅と再生の知恵は、明知であり、諸々の煩悩の滅尽の知恵(漏尽智)は、明知です。

かくのごとく、これらの三十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

四つの法

(1)四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。(2)四つの修行されるべき法(性質)があります。……略……。(10)四つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。四つの輪があります。適切なる地に住することであり、正なる人士に近しく依拠することであり、自己についての正しい誓願であり、そして、過去(過去世)に作り為した功徳あることです。これらの四つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、四つの修行されるべき法(性質)なのですか。四つの気づきの確立(四念処・四念住)があります。友よ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……略……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。これらの四つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、四つの遍知されるべき法(性質)なのですか。四つの食(動力源・エネルギー)があります。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。これらの四つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、四つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。四つの激流(暴流)があります。欲望の激流であり、生存の激流であり、見解の激流であり、無明の激流です。これらの四つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、四つの退失を部分とする法(性質)なのですか。四つの束縛()があります。欲望の束縛であり、生存の束縛であり、見解の束縛であり、無明の束縛です。これらの四つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、四つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。四つの束縛を離れるものがあります。欲望の束縛による束縛を離れるものであり、生存の束縛による束縛を離れるものであり、見解の束縛による束縛を離れるものであり、無明の束縛による束縛を離れるものです。これらの四つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、四つの理解し難き法(性質)なのですか。四つの禅定があります。退失を部分とする禅定であり、止住を部分とする禅定であり、殊勝を部分とする禅定であり、洞察を部分とする禅定です。これらの四つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、四つの生起させられるべき法(性質)なのですか。四つの知恵があります。法(性質)についての知恵であり、類推についての知恵であり、探知についての知恵であり、慣習についての知恵です。これらの四つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、四つの証知されるべき法(性質)なのですか。四つの聖なる真理(四聖諦)があります。苦しみという聖なる真理(苦諦)であり、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)であり、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)です。これらの四つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、四つの実証されるべき法(性質)なのですか。四つの沙門の果があります。預流果であり、一来果であり、不還果であり、阿羅漢果です。これらの四つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの四十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

五つの法

(1)五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)五つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。五つの精励の支分があります。友よ、ここに、比丘が、(1)信ある者として〔世に〕有り、如来の覚りに信を置きます。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。(2)病苦少なき者として、病悩少なき者として、〔世に〕有ります──寒過ぎず暑過ぎず中なる精励と忍耐ある、正しく消化する消化器官を具備した者として。(3)狡猾なき者として、幻惑なき者として、〔世に〕有ります──あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、自己のことを、事実のとおりに明らかと為す者として。(4)精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。(5)智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。これらの五つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、五つの修行されるべき法(性質)なのですか。五つの支分ある正しい禅定があります。喜悦が充満することであり、安楽が充満することであり、心が充満することであり、光明が充満することであり、注視の形相です。これらの五つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、五つの遍知されるべき法(性質)なのですか。五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)があります。形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。これらの五つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、五つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。五つの〔修行の〕妨害(五蓋)があります。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)であり、憎悪〔の思い〕(瞋恚)であり、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)であり、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)であり、疑惑〔の思い〕()です。これらの五つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、五つの退失を部分とする法(性質)なのですか。五つの心の鬱積があります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。友よ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第一の心の鬱積です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し……略……僧団にたいし、疑い、疑惑し……略……学びにたいし、疑い、疑惑し……略……梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、これは、第五の心の鬱積です。これらの五つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、五つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。五つの機能(五根)があります。信の機能(信根)であり、精進の機能(精進根)であり、気づきの機能(念根)であり、禅定の機能(定根)であり、智慧の機能(慧根)です。これらの五つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、五つの理解し難き法(性質)なのですか。五つの出離するべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、欲望〔の対象〕に意を為していると、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、離欲に意を為していると、離欲にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、諸々の欲望〔の対象〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、諸々の欲望〔の対象〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、諸々の欲望〔の対象〕の出離と告げ知らされました。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、憎悪〔の思い〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、憎悪〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、憎悪〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、憎悪〔の思い〕の出離と告げ知らされました。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、悩害〔の思い〕に意を為していると、悩害〔の思い〕にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕に意を為していると、悩害〔の思い〕なき〔生き方〕にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、悩害〔の思い〕から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、悩害〔の思い〕という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、悩害〔の思い〕の出離と告げ知らされました。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、形態に意を為していると、形態にたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、形態なきものに意を為していると、形態なきものにたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、形態から、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、形態という縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、形態の出離と告げ知らされました。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、身体を有すること(有身)に意を為していると、身体を有することにたいし、心は、跳入せず、清信せず、確立せず、解脱しません。また、まさに、彼が、身体を有することの止滅に意を為していると、身体を有することの止滅にたいし、心は、跳入し、清信し、確立し、解脱します。彼の、その心は、善く赴き、善く修められ、善く出起し、善く解脱し、身体を有することから、善く束縛を離れたものとなり、さらに、それらが、身体を有するという縁あることから生起する、諸々の煩悩であり、諸々の悩苦と苦悶であるとして、彼は、それらのものから解き放たれ、彼は、その〔苦痛の〕感受を感受しません。これは、身体を有することの出離と告げ知らされました。これらの五つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、五つの生起させられるべき法(性質)なのですか。五つの知恵の正しい禅定があります。『この禅定は、まさしく、そして、現在の安楽あるものであり、さらに、未来に安楽の報い(異熟)あるものである』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、聖なるものであり、財貨なきもの(非俗のもの)である』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、俗人が慣れ親しむものではない』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『この禅定は、寂静で、精妙で、安息を得たものであり、専一なる状態に到達したものであり、形成〔作用〕を有し制御して阻止に至ったものではない(意識的に作り上げたものではない)』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。『また、それで、まさに、わたしは、この禅定に、まさしく、気づきある者として入定し、気づきある者として出起する』と、まさしく、各自それぞれに、知恵が生起します。これらの五つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、五つの証知されるべき法(性質)なのですか。五つの解脱のための〔認識の〕場所()があります。友よ、ここに、比丘のために、教師(ブッダ)が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示するなら、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第一の解脱のための〔認識の〕場所です。

友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示するなら、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第二の解脱のための〔認識の〕場所です。

友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すなら、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第三の解脱のための〔認識の〕場所です。

友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、しかしながら、また、まさに、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検します。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘が、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検するなら、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第四の解脱のための〔認識の〕場所です。

友よ、さらに、また、他に、まさしく、まさに、比丘のために、教師が──あるいは、或るひとりの、導師の境位ある者にして、梵行を共にする者が──法(教え)を説示することがなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、他者たちに説示することもまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、詳細〔の観点〕によって、〔その〕読誦を為すこともまたなく、所聞のとおりに、学得のとおりに、法(教え)を、心によって、刻々に思考し、刻々に想念し、意によって点検することもまたなく、しかしながら、また、まさに、彼に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成り、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成ります〕。友よ、そのとおり、そのとおりに、比丘に、彼に、何らかの或る禅定の形相が、善く収め取られたものと成るなら、善く意が為され、善く保ち置かれ、智慧によって善く理解されたものと〔成るなら〕、そのとおり、そのとおりに、彼は、その法(教え)において、そして、義(意味)の得知者として、さらに、法(教え)の得知者として、〔世に〕有ります。義(意味)の得知者であり、法(教え)の得知者である、彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。これは、第五の解脱のための〔認識の〕場所です。これらの五つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、五つの実証されるべき法(性質)なのですか。五つの法(性質)の範疇があります。戒の範疇(戒蘊)であり、禅定の範疇(定蘊)であり、智慧の範疇(慧蘊)であり、解脱の範疇であり、解脱の知見の範疇です。これらの五つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの五十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

六つの法

(1)六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)六つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。六つの記憶されるべき法(性質)があります。友よ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。

友よ、さらに、また、他に、比丘に、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が……略……一なる状態のために、等しく転起します。

友よ、さらに、また、他に、比丘に、慈愛〔の思い〕ある意の行為が……略……一なる状態のために、等しく転起します。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。……略……一なる状態のために、等しく転起します。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。これらの六つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、六つの修行されるべき法(性質)なのですか。六つの随念の拠点があります。覚者の随念であり、法(教え)の随念であり、僧団の随念であり、戒の随念であり、施捨の随念であり、天神たちの随念です。これらの六つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、六つの遍知されるべき法(性質)なのですか。六つの内なる〔認識の〕場所(六内処)があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。これらの六つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、六つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。六つの渇愛の体系があります。形態への渇愛であり、音声への渇愛であり、臭気への渇愛であり、味感への渇愛であり、感触への渇愛であり、法(意の対象)への渇愛です。これらの六つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、六つの退失を部分とする法(性質)なのですか。六つの尊重〔の思い〕なきことがあります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし……学びにたいし……不放逸にたいし……友愛にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住みます。これらの六つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、六つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。六つ尊重〔の思い〕あることがあります。友よ、ここに、比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし……学びにたいし……不放逸にたいし……友愛にたいし、尊重〔の思い〕ある者として、敬虔〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。これらの六つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、六つの理解し難き法(性質)なのですか。六つの出離するべき界域があります。友よ、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈愛()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、慈愛という〔止寂の〕心による解脱が、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたとき、そこで、また、そして、憎悪〔の思い〕が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、憎悪〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈愛という〔止寂の〕心による解脱です』と。

比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、慈悲()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたが、そこで、また、そして、悩害〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、悩害〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、慈悲という〔止寂の〕心による解脱です』と。

比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、歓喜()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、不満〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、不満〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、歓喜という〔止寂の〕心による解脱です』と。

比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、放捨()という〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、貪欲〔の思い〕が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、貪欲〔の思い〕にとっての出離であるからです。すなわち、この、放捨という〔止寂の〕心による解脱です』と。

比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『まさに、無相なる〔止寂の〕心による解脱が、まさに、わたしによって、修められ……略……そこで、また、そして、わたしの識知〔作用〕が、形相に従い行くものとして有る』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。……略……。友よ、なぜなら、これは、一切の形相にとっての出離であるからです。すなわち、この、無相なる〔止寂の〕心による解脱です』と。

比丘たちよ、また、ここに、比丘が、このように説くとします。『「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕、まさに、わたしから離れ去り、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観することはないのだが、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、わたしの心を完全に奪い去って止住する』と。彼は、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者として存するでしょう。『尊者は、このように言ってはいけません。世尊を誹謗してはいけません。まさに、善きことならずは、世尊を誹謗すること。まさに、世尊は、このように説きません。友よ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、「〔わたしは〕存在する」という〔思いが〕離れ去ったとき、「これは、わたしとして存在する」と等しく随観せずにいながら、そこで、また、そして、疑惑と懐疑の矢が、彼の心を完全に奪い去って止住するであろう、この状況は見出されません。友よ、なぜなら、これは、疑惑と懐疑の矢にとっての出離であるからです。すなわち、この、「〔わたしは〕存在する」という思量(我慢:自我意識)の根絶です』と。これらの六つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、六つの生起させられるべき法(性質)なのですか。六つの常なる住があります。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。これらの六つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、六つの証知されるべき法(性質)なのですか。六つの無上なるものがあります。無上なる見であり、無上なる聞であり、無上なる利得であり、無上なる学びであり、無上なる世話であり、無上なる随念です。これらの六つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、六つの実証されるべき法(性質)なのですか。六つの神知(六神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)があります。友よ、ここに、比丘が、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます──それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します──それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます──それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます──それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます(神足通)。

人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます──それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも(天耳通)。

他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。……略……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します(他心通)。

無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します(宿命通)。

人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして──〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。……略……(天眼通)。

諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。これらの六つの実証されるべき法(性質)があります(漏尽通)。

かくのごとく、これらの六十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

七つの法

友よ、(1)七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)七つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。七つの聖なる財があります。信の財であり、戒の財であり、恥〔の思い〕()の財であり、〔良心の〕咎め()の財であり、所聞の財であり、施捨の財であり、智慧(慧・般若)の財です。これらの七つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、七つの修行されるべき法(性質)なのですか。七つの覚りの支分(七覚支)があります。気づきという正覚の支分であり、法(真理)の判別という正覚の支分であり、精進という正覚の支分であり、喜悦という正覚の支分であり、静息という正覚の支分であり、禅定という正覚の支分であり、放捨という正覚の支分です。これらの七つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、七つの遍知されるべき法(性質)なのですか。七つの識知〔作用〕の止住(七識住)があります。友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の識知〔作用〕の止住です。

友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵身天〔の神々〕たちのように。これは、第二の識知〔作用〕の止住です。

友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の識知〔作用〕の止住です。

友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の識知〔作用〕の止住です。

友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから……略……『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第五の識知〔作用〕の止住です。

友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の識知〔作用〕の止住です。

友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の識知〔作用〕の止住です。これらの七つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、七つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。七つの悪習(随眠:潜在煩悩)があります。欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、敵対〔の思い〕の悪習であり、見解の悪習であり、疑惑〔の思い〕の悪習であり、思量の悪習であり、生存にたいする貪り〔の思い〕の悪習であり、無明の悪習です。これらの七つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、七つの退失を部分とする法(性質)なのですか。七つの正ならざる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信なき者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕なき者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めなき者として〔世に〕有り、少聞の者として〔世に〕有り、怠惰の者として〔世に〕有り、気づきが忘却された者として〔世に〕有り、智慧浅き者として〔世に〕有ります。これらの七つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、七つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。七つの正なる法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、信ある者として〔世に〕有り、恥〔の思い〕ある者として〔世に〕有り、〔良心の〕咎めある者として〔世に〕有り、多聞の者として〔世に〕有り、精進に励む者として〔世に〕有り、気づきが現起された者として〔世に〕有り、智慧ある者として〔世に〕有ります。これらの七つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、七つの理解し難き法(性質)なのですか。七つの正なる人士の法(性質)があります。友よ、ここに、比丘が、かつまた、法(教え)を知る者として、かつまた、義(意味)を知る者として、かつまた、自己を知る者として、かつまた、量を知る者として、かつまた、時を知る者として、かつまた、衆を知る者として、かつまた、人を知る者として、〔世に〕有ります。これらの七つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、七つの生起させられるべき法(性質)なのですか。七つの表象があります。無常の表象であり、無我の表象であり、不浄の表象であり、危険の表象であり、捨棄の表象であり、離貪の表象であり、止滅の表象です。これらの七つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、七つの証知されるべき法(性質)なのですか。七つの非十者(煩悩の滅尽者)の基盤があります。友よ、ここに、比丘が、学びの受持にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、学びの受持にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。法(事象)の感知にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、法(事象)の感知にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。欲求の調伏(取り除き)にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、欲求の調伏にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。静坐にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、静坐にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。精進勉励にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、精進勉励にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。気づきと賢明さにたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、気づきと賢明さにたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。〔正しい〕見解による理解にたいし強き欲〔の思い〕ある者として〔世に〕有ります──さらに、未来にも、〔正しい〕見解による理解にたいし愛慕〔の思い〕を離れ去らない者として。これらの七つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、七つの実証されるべき法(性質)なのですか。七つの煩悩の滅尽者の力があります。友よ、ここに、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕(諸行)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。友よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘にとって、無常〔の観点〕から、一切の形成〔作用〕が、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、火坑の如き諸々の欲望〔の対象〕(女性)は、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘にとって、心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成り〕、遠離を義(目的)とするものと〔成り〕、離欲を喜び楽しむものと〔成り〕、諸々の煩悩が止住するべき法(性質)から、全てにわたり、終息と成ったものと〔成ります〕。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、四つの気づきの確立(四念処四念住)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、五つの機能(五根)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、七つの覚りの支分(七覚支)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また……略……。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。

友よ、さらに、また、他に、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成ります。友よ、すなわち、また、煩悩が滅尽した比丘の、聖なる八つの支分ある道が、〔すでに〕修められ、善く修められたものと成るなら、これもまた、煩悩が滅尽した比丘にとって、力と成ります。その力に由来して、煩悩が滅尽した比丘は、諸々の煩悩の滅尽を明言します。『わたしの諸々の煩悩は、滅尽したのだ』と。これらの七つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの七十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。

八つの法

友よ、(1)八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)八つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。八つのものを因として、八つのものを縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。どのようなものが、八つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有ります。これが、第一の因として、第一の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

また、まさに、その教師に──あるいは、導師の地位にあり梵行を共にする或る誰かに──依拠して〔世に〕住み、そこにおいて、彼に、強き恥〔の思い〕と良心〔の咎め〕が──そして、愛慕〔の思い〕が、さらに、尊重〔の思い〕が──現起されたものとして有り、彼らに、〔その〕時〔その〕時に近づいて行って、『尊き方よ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、遍く問い尋ね、遍く質問し、それらの尊者たちは、その〔比丘〕のために、まさしく、そして、開顕されていないものを開顕し、かつまた、明瞭と為されていないものを明瞭と為し、さらに、無数〔の流儀〕に関した疑いの状況ある法(性質)において疑いを除去します。これが、第二の因として、第二の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

また、まさに、その法(教え)を、聞いて〔そののち〕、両者の隠棲によって成就させます──かつまた、身体の隠棲によって、かつまた、心の隠棲によって。これが、第三の因として、第三の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

友よ、さらにまた、他に、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条(波羅提木叉:戒律条項)による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。これが、第四の因として、第四の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

友よ、さらにまた、他に、比丘が、多聞の者として、所聞の保持ある者として、所聞の蓄積ある者として、〔世に〕有ります──すなわち、それらの法(教え)が、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとしてあり、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとしてあり、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を宣説するなら、彼には、そのような形態の諸々の法(教え)が有ります──多聞のものとして、充足のものとして、言葉によって蓄積されたものとして、意によって点検されたものとして、〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。これが、第五の因として、第五の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

友よ、さらにまた、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。これが、第六の因として、第六の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

友よ、さらにまた、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。これが、第七の因として、第七の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。

友よ、さらにまた、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)における生成と衰失の随観ある者として〔世に〕住みます──『かくのごとく、形態()があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕()があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕()があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕()があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕()があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と。これが、第八の因として、第八の縁として、初等の梵行たる智慧の、〔いまだ〕獲得していないものの獲得のために、〔すでに〕獲得しているものの、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、等しく転起します。これらの八つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、八つの修行されるべき法(性質)なのですか。聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)があります。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。これらの八つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、八つの遍知されるべき法(性質)なのですか。八つの世の法(八世間法)があります。そして、利得であり、さらに、利得なきであり、そして、盛名であり、さらに、盛名なきであり、そして、非難であり、さらに、賞賛であり、そして、安楽であり、さらに、苦痛です。これらの八つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、八つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。八つの誤った〔道〕たることがあります。誤った見解(邪見)であり、誤った思惟(邪思惟)であり、誤った言葉(邪語)であり、誤った行業(邪業)であり、誤った生き方(邪命)であり、誤った努力(邪精進)であり、誤った気づき(邪念)であり、誤った禅定(邪定)です。これらの八つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、八つの退失を部分とする法(性質)なのですか。八つの怠惰の基盤があります。友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みません。これは、第一の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしが作業を為していると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第二の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するであろう。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第三の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしが道を赴いていると、身体は疲弊するところとなった。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……精進に励みません。これは、第四の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は疲弊するところとなり、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第五の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は重く、行為に適するものならず。思うに、濡れた豆のようなもの。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第六の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したものとして存在する。適確なるは横になること。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第七の怠惰の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。〔まさに〕その、わたしの、身体は力弱く、行為に適するものならず。さあ、わたしは横になるのだ』と。彼は横になり……略……。これは、第八の怠惰の基盤です。これらの八つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、八つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。八つの勉励の基盤があります。友よ、ここに、作業が有ります──比丘が〔のちに〕為すべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには為すべき作業が有るが、また、まさに、わたしが作業を為しているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第一の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、作業が有ります──比丘が〔すでに〕為したものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは作業を為したが、また、まさに、わたしは作業を為しつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第二の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔のちに〕赴くべきものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしには赴くべき道が有るが、また、まさに、わたしが道を赴いているなら、覚者たちの教えに意を為すことは為し易からず。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第三の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、道が有ります──比丘が〔すでに〕赴いたものとして。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは道を赴いたが、また、まさに、わたしは道を赴きつつ、覚者たちの教えに意を為すことができなかった。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第四の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ません。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得なかった。〔まさに〕その、わたしの、身体は軽く、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第五の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得ます。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、あるいは、村を、あるいは、町を、〔行乞の〕食のために歩みつつ、まさしく、義(目的)とするものを遍く満たす食料を、あるいは、粗末なものであれ、あるいは、精妙なるものであれ、得た。〔まさに〕その、わたしの、身体は力があり、行為に適するものである。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第六の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘に、少しばかりの病苦が、生起したものとして有ります。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしに、この、少しばかりの病苦が、生起したのだ。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕増大するであろうことは。さあ、わたしは、精進に励むのだ……略……。これは、第七の勉励の基盤です。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、病からの出起者として〔世に〕有ります──病から出起したばかりの者として。彼に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、わたしは、病からの出起者であり、病から出起したばかりの者である。また、まさに、この状況は見出される。すなわち、わたしの病苦が、〔いずれ〕回復するであろうことは。さあ、わたしは、さあ、わたしは、精進に励むのだ──〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために』と。彼は、〔いまだ〕至り得ていないものに至り得るために、〔いまだ〕到達していないものに到達するために、〔いまだ〕実証していないものを実証するために、精進に励みます。これは、第八の勉励の基盤です。これらの八つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、八つの理解し難き法(性質)なのですか。八つの、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものがあり、〔為すべき〕時点ならざるものがあります。友よ、ここに、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、地獄に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第一の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起し、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されます。しかしながら、この人は、畜生の胎に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第二の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に……略……餓鬼の境域に生起した者として〔世に〕有ります。これは、第三の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に……略……或るどこかの長寿の天の身体に再生した者として〔世に〕有ります。これは、第四の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に……略……諸々の最辺境の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります──識知なき蛮族たちのなかにおいて。そこにおいては、比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちの赴く所は存在しません。これは、第五の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、誤った見解ある者として、転倒した見ある者として、〔世に〕有ります。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。これは、第六の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に……略……。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。しかしながら、彼は、智慧浅き者として、痴者として、蒙者として、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力なき者として、〔世に〕有ります。これは、第七の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。

友よ、さらに、また、他に、かつまた、阿羅漢にして正等覚者たる如来が、世に生起することなく、〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、〔心を〕寂止させるものとして、完全なる涅槃に到達させるものとして、正覚に至るものとして、善き至達者によって知らされたものとして、〔世に〕説示されません。そして、この人は、諸々の中央の地方において生まれ落ちた者として〔世に〕有ります。さらに、彼は、智慧ある者として、痴者ならざる者として、蒙者ならざる者として、善く語られたものと悪しく語られたものの義(意味)を了知する能力ある者として、〔世に〕有ります。これは、第八の、梵行の住のための、〔為すべき〕瞬間ならざるものであり、〔為すべき〕時点ならざるものです。これらの八つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、八つの生起させられるべき法(性質)なのですか。八つの大いなる人の思考があります。『少なき欲求の者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、大いなる欲求ある者のためならず』『満ち足りている者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、満ち足りていない者のためならず』『遠離している者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、社交を喜びとする者のためならず』『精進に励む者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、怠惰の者のためならず』『気づきが現起された者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、気づきが忘却された者のためならず』『〔心が〕定められた者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、〔心が〕定められていない者のためならず』『智慧ある者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、智慧浅き者のためならず』『虚構なき者のために、この法(教え)はある。この法(教え)は、虚構を喜びとする者のためならず』と。これらの八つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、八つの証知されるべき法(性質)なのですか。八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)があります。或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。

或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。これらの八つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、八つの実証されるべき法(性質)なのですか。八つの解脱(八解脱)があります。形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。

内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。

『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。

全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。

全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。

全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。

全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。

全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。これらの八つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの八十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

九つの法

友よ、(1)九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)九つの実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。九つの根源のままに意を為すことを根元とする法(性質)があります。根源のままに意を為していると、(1)歓喜が生じます。歓喜した者には、(2)喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、(3)身体が静息します。静息の身体ある者は、(4)安楽を感受します。安楽ある者には、(5)心が定められます。心が定められたとき、(6)事実のとおりに知り見ます。事実のとおりに知り見ている者は、(7)厭離します。厭離しながら、(8)離貪します。離貪あることから、(9)解脱します。これらの九つの多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、九つの修行されるべき法(性質)なのですか。九つの完全なる清浄のための精励の支分があります。(1)戒の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(2)心の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(3)見解の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(4)疑いの超渡の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(5)道と道ならざるものの知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(6)〔実践の〕道の知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(7)知見の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(8)智慧の清浄という完全なる清浄のための精励の支分であり、(9)解脱の清浄という完全なる清浄のための精励の支分です。これらの九つの修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、九つの遍知されるべき法(性質)なのですか。九つの有情の居住所(九有情居)があります。(1)友よ、種々なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、人間たちのように、そして、一部の天〔の神々〕たちのように、さらに、一部の堕所にある者たちのように。これは、第一の有情の居住所です。

(2)友よ、種々なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、最初に発現した梵身天〔の神々〕たちのように。これは、第二の有情の居住所です。

(3)友よ、一なる身体と種々なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、光音天〔の神々〕たちのように。これは、第三の有情の居住所です。

(4)友よ、一なる身体と一なる表象ある有情たちが存在します。それは、たとえば、また、遍浄天〔の神々〕たちのように。これは、第四の有情の居住所です。

(5)友よ、表象なく得知なき有情たちが存在します。それは、たとえば、また、表象なき有情たる天〔の神々〕たちのように。これは、第五の有情の居住所です。

(6)友よ、全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第六の有情の居住所です。

(7)友よ、全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第七の有情の居住所です。

(8)友よ、全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第八の有情の居住所です。

(9)友よ、全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に近しく赴く有情たちが存在します。これは、第九の有情の居住所です。これらの九つの遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、九つの捨棄されるべき法(性質)なのですか。九つの渇愛の根元の法(性質)があります。渇愛を縁として、(1)遍き探し求めがあります。遍き探し求めを縁として、(2)利得があります。利得を縁として、(3)〔断定的〕判断があります。〔断定的〕判断を縁として、(4)欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕があります。欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を縁として、(5)固執があります。固執を縁として、(6)執持があります。執持を縁として、(7)物惜があります。物惜を縁として、(8)守護があります。守護を事因として、(9)棒を与えることがあり、刃を与えることがあり、諸々の紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことがあり、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生します。これらの九つの捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、九つの退失を部分とする法(性質)なのですか。九つの憤懣の基盤があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった』と、憤懣を結びます。(5)……略……義(利益)ならざることを行なう』と、憤懣を結びます。(6)……略……義(利益)ならざることを行なうであろう』と、憤懣を結びます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった』と、憤懣を結びます。(8)……略……義(利益)を行なう』と、憤懣を結びます。(9)……略……義(利益)を行なうであろう』と、憤懣を結びます。これらの九つの退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、九つの殊勝を部分とする法(性質)なのですか。九つの憤懣の調伏(取り除き)があります。(1)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なった。それ(他者の阻止)が、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう(他者の行為はどうにもならない)』と、憤懣を取り除きます。(2)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(3)『〔彼は〕わたしに、義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(4)『〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義(利益)ならざることを行なった。……略……(5)義(利益)ならざることを行なう。……略……(6)義(利益)ならざることを行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。(7)『〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義(利益)を行なった。……略……(8)義(利益)を行なう。……略……(9)義(利益)を行なうであろう。それが、どうして、ここにおいて、得られるというのだろう』と、憤懣を取り除きます。これらの九つの殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、九つの理解し難き法(性質)なのですか。九つの種々なることがあります。(1)界域の種々なることを縁として、(2)接触の種々なることが生起します。接触の種々なることを縁として、(3)感受の種々なることが生起します。感受の種々なることを縁として、(4)表象の種々なることが生起します。表象の種々なることを縁として、(5)思惟の種々なることが生起します。思惟の種々なることを縁として、(6)欲〔の思い〕の種々なることが生起します。欲〔の思い〕の種々なることを縁として、(7)苦悶の種々なることが生起します。苦悶の種々なることを縁として、(8)遍き探し求めの種々なることが生起します。遍き探し求めの種々なることを縁として、(9)利得の種々なることが生起します。これらの九つの理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、九つの生起させられるべき法(性質)なのですか。九つの表象があります。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象です。これらの九つの生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、九つの証知されるべき法(性質)なのですか。九つの順次の住があります。(1)友よ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。(2)〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。(3)さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。(4)かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。(5)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから……略……虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(6)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)を成就して〔世に〕住みます。(7)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を成就して〔世に〕住みます。(8)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)を成就して〔世に〕住みます。(9)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅(想受滅)を成就して〔世に〕住みます。これらの九つの証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、九つの実証されるべき法(性質)なのですか。九つの順次の止滅があります。(1)第一の瞑想に入定した者には、欲望の表象が止滅したものと成ります。(2)第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念が止滅したものと成ります。(3)第三の瞑想に入定した者には、喜悦が止滅したものと成ります。(4)第四の瞑想に入定した者には、出息と入息が止滅したものと成ります。(5)虚空無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、形態の表象が止滅したものと成ります。(6)識知無辺なる〔認識の〕場所に入定した者には、虚空無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(7)無所有なる〔認識の〕場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(8)表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所に入定した者には、無所有なる〔認識の〕場所の表象が止滅したものと成ります。(9)表象と感覚の止滅に入定した者には、そして、表象が、さらに、感受が、止滅したものと成ります。これらの九つの実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの九十の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました。

十の法

友よ、(1)十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。……略……。(10)十の実証されるべき法(性質)があります。

(1)どのようなものが、十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。十の庇護者を作り為す法(性質)があります。(1)友よ、ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り、戒条による統御によって統御された者として〔世に〕住み、〔正しい〕習行と〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます。友よ、すなわち、また、比丘が、戒ある者として〔世に〕有り……略……諸々の学びの境処において学ぶなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(2)友よ、さらに、また、他に、比丘が、多聞の者として……略……〔正しい〕見解によって善く理解されたものとして。友よ、すなわち、また、比丘が、多聞の者として……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(3)友よ、さらに、また、他に、比丘が、善き朋友ある者として、善き道友ある者として、善き友人ある者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……善き友人ある者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(4)友よ、さらに、また、他に、比丘が、素直で、諸々の〔人を〕素直に作り為す法(性質)を具備し、忍耐があり、〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……〔他者の〕教示を上手に把握できる者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(5)友よ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、梵行を共にする者たちに、それらの高下諸々の業務があり、そこにおいて、能ある者として、怠けない者として、為すに十分なるものがあり、差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……差配するに十分なるものがあり、そこにあって手段と考察を具備した者として、〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(6)友よ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)を欲する者であり、愛慕ある応接者であり、高次の法理(阿毘達磨・対法・勝法)において、高次の律(対律・勝律)において、秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……秀逸なる歓喜ある者として〔世に〕有るなら、これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(7)友よ、さらに、また、他に、比丘が、いかなる衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として〔世に〕有ります。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(8)友よ、さらに、また、他に、比丘が、精進に励む者として〔世に〕住みます──諸々の善ならざる法(性質)の捨棄のために、諸々の善なる法(性質)の成就のために、諸々の善なる法(性質)において、強靭なる者となり、断固たる勤勉ある者となり、重荷を捨て置かない者となり。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(9)友よ、さらに、また、他に、比丘が、気づきある者として〔世に〕有ります──最高の気づきと賢明さを具備した者となり、長きにわたり為したことをもまた、長きにわたり語ったことをもまた、思念し随念する者として。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。

(10)友よ、さらに、また、他に、比丘が、智慧ある者として〔世に〕有ります──聖なる洞察にして、正しく苦しみの滅尽に至るものである、生成と滅至の智慧を具備した者として。友よ、すなわち、また、比丘が……略……これもまた、庇護者を作り為す法(性質)となります。これらの十の多く〔の利益〕を作り為す法(性質)があります。

(2)どのようなものが、十の修行されるべき法(性質)なのですか。十の遍満の〔認識の〕場所があります。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。これらの十の修行されるべき法(性質)があります。

(3)どのようなものが、十の遍知されるべき法(性質)なのですか。十の〔認識の〕場所があります。(1)眼の〔認識の〕場所であり、(2)形態の〔認識の〕場所であり、(3)耳の〔認識の〕場所であり、(4)音声の〔認識の〕場所であり、(5)鼻の〔認識の〕場所であり、(6)臭気の〔認識の〕場所であり、(7)舌の〔認識の〕場所であり、(8)味感の〔認識の〕場所であり、(9)身の〔認識の〕場所であり、(10)感触の〔認識の〕場所です。これらの十の遍知されるべき法(性質)があります。

(4)どのようなものが、十の捨棄されるべき法(性質)なのですか。十の誤った〔道〕たることがあります。(1)誤った見解であり、(2)誤った思惟であり、(3)誤った言葉であり、(4)誤った行業であり、(5)誤った生き方であり、(6)誤った努力であり、(7)誤った気づきであり、(8)誤った禅定であり、(9)誤った知恵であり、(10)誤った解脱です。これらの十の捨棄されるべき法(性質)があります。

(5)どのようなものが、十の退失を部分とする法(性質)なのですか。十の善ならざる行為の道があります。(1)命あるものを殺すことであり、(2)与えられていないものを取ることであり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないであり、(4)虚偽を説くことであり、(5)中傷の言葉であり、(6)粗暴な言葉であり、(7)雑駁な虚論であり、(8)強欲〔の思い〕であり、(9)憎悪〔の思い〕であり、(10)誤った見解です。これらの十の退失を部分とする法(性質)があります。

(6)どのようなものが、十の殊勝を部分とする法(性質)なのですか。十の善なる行為の道があります。(1)命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、(2)与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕であり、(4)虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、(5)中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、(6)粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、(7)雑駁な虚論から離れている〔生き方〕であり、(8)強欲〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(9)憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕であり、(10)正しい見解です。これらの十の殊勝を部分とする法(性質)があります。

(7)どのようなものが、十の理解し難き法(性質)なのですか。十の聖者の居住があります。友よ、ここに、比丘が、(1)五つの支分を捨棄した者として、(2)六つの支分を具備した者として、(3)一つの守護ある者として、(4)四つの依託ある者として、(5)各自の真理を除去した者として、(6)探し求めることを正しく完全に放棄した者として、(7)混濁なき思惟ある者として、(8)身体の形成〔作用〕を静息した者として、(9)善く解脱した心の者として、(10)善く解脱した智慧の者として、〔世に〕有ります。

(1)友よ、では、どのように、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が捨棄されたものと成り、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、〔心の〕沈滞と眠気が捨棄されたものと成り、〔心の〕高揚と悔恨が捨棄されたものと成り、疑惑〔の思い〕が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、五つの支分を捨棄した者として〔世に〕有ります。

(2)友よ、では、どのように、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕ず、放捨の者として〔世に〕住み、気づきと正知の者として〔世に住みます〕。友よ、このように、まさに、比丘は、六つの支分を具備した者として〔世に〕有ります。

(3)友よ、では、どのように、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、気づきの守護ある思欲を具備した者として〔世に〕有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、一つの守護ある者として〔世に〕有ります。

(4)友よ、では、どのように、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。友よ、このように、まさに、比丘は、四つの依託ある者として〔世に〕有ります。

(5)友よ、では、どのように、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、すなわち、それらの、多々なる沙門や婆羅門たちにとっての多々なる各自の真理が、それらの全てが、除かれたものと成り、除去されたものと〔成り〕、捨てられたものと〔成り〕、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。友よ、このように、まさに、比丘は、各自の真理を除去した者として〔世に〕有ります。

(6)友よ、では、どのように、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘の、欲望〔の対象〕の探し求めが捨棄されたものと成り、〔迷いの〕生存の探し求めが捨棄されたものと成り、〔利得のための〕梵行の探し求めが安息しています。友よ、このように、まさに、比丘は、探し求めることを正しく完全に放棄した者として〔世に〕有ります。

(7)友よ、では、どのように、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘にとって、欲望の思惟が捨棄されたものと成り、憎悪の思惟が捨棄されたものと成り、悩害の思惟が捨棄されたものと成ります。友よ、このように、まさに、比丘は、混濁なき思惟ある者として〔世に〕有ります。

(8)友よ、では、どのように、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。友よ、このように、まさに、比丘は、身体の形成〔作用〕を静息した者として〔世に〕有ります。

(9)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘に、貪欲から解脱した心が有り、憤怒から解脱した心が有り、迷妄から解脱した心が有ります。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した心の者として〔世に〕有ります。

(10)友よ、では、どのように、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有るのですか。友よ、ここに、比丘が、『わたしの、貪欲は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、憤怒は〔すでに〕捨棄され……略……未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知し、『わたしの、迷妄は〔すでに〕捨棄され……略……未来に生起なき法(性質)としてある』と覚知します。友よ、このように、まさに、比丘は、善く解脱した智慧の者として〔世に〕有ります。これらの十の理解し難き法(性質)があります。

(8)どのようなものが、十の生起させられるべき法(性質)なのですか。十の表象があります。(1)不浄の表象であり、(2)死の表象であり、(3)食についての嫌悪の表象であり、(4)一切の世についての歓楽なき表象であり、(5)無常の表象であり、(6)無常についての苦痛の表象であり、(7)苦痛についての無我の表象であり、(8)捨棄の表象であり、(9)離貪の表象であり、(10)止滅の表象です。これらの十の生起させられるべき法(性質)があります。

(9)どのようなものが、十の証知されるべき法(性質)なのですか。十の衰尽の基盤があります。(1)正しい見解ある者にとって、誤った見解は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った見解という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。(2)正しい思惟ある者にとって、誤った思惟は……略……。(3)正しい言葉ある者にとって、誤った言葉は……。(4)正しい行業ある者にとって、誤った行業は……。(5)正しい生き方ある者にとって、誤った生き方は……。(6)正しい努力ある者にとって、誤った努力は……。(7)正しい気づきある者にとって、誤った気づきは……。(8)正しい禅定ある者にとって、誤った禅定は……。(9)正しい知恵ある者にとって、誤った知恵は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。……。(10)正しい解脱ある者にとって、誤った解脱は〔すでに〕衰尽したものとして有ります。さらに、すなわち、誤った解脱という縁あることから、無数の悪しき善ならざる法(性質)が発生するのですが、しかしながら、彼にとって、それらは〔すでに〕衰尽したものとして有ります。これらの十の証知されるべき法(性質)があります。

(10)どのようなものが、十の実証されるべき法(性質)なのですか。十の〔もはや〕学ぶことなき法(性質)があります。(1)〔もはや〕学ぶことなき正しい見解であり、(2)〔もはや〕学ぶことなき正しい思惟であり、(3)〔もはや〕学ぶことなき正しい言葉であり、(4)〔もはや〕学ぶことなき正しい行業であり、(5)〔もはや〕学ぶことなき正しい生き方であり、(6)〔もはや〕学ぶことなき正しい努力であり、(7)〔もはや〕学ぶことなき正しい気づきであり、(8)〔もはや〕学ぶことなき正しい禅定であり、(9)〔もはや〕学ぶことなき正しい知恵であり、(10)〔もはや〕学ぶことなき正しい解脱です。これらの十の実証されるべき法(性質)があります。

かくのごとく、これらの百の法(性質)が、事実として、如実として、真実として、真実を離れざるものとして、他ならざるものとして、如来によって、正しく現正覚されました」と。尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

十の加上の経は終了となり、〔以上が〕第十一となる。

パーティカの部は〔以上で〕終了となる。

その〔部〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「そして、パーティカ、ウドゥンバラ、転輪〔王〕、始源なるもの、等しく清信するものと清信あるもの、偉大なる人士の特相──

シンガーラとアーターナーターの〔護経〕、そして、合誦、十の加上があり、十一の経によって、『パーティカの部』と説かれる」〔と〕。

パーティカの部の聖典は〔以上で〕終了となる。

三つの部によって装飾され、全体となる。

ディーガ・ニカーヤは〔以上で〕完結となる。

注釈【2】