このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。サーマ村において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住みます。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している——糾弾された者として」「歩め——論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。思うに、まさしく、殺戮が、まさに、ニガンタ・ナータプッタの者たちにおいて転起します。すなわち、また、ニガンタ・ナータプッタの弟子である白衣の在家者たちは、彼らもまた、ニガンタ・ナータプッタの者たちにたいし、厭離している様子であり、離貪している様子であり、反発している様子です。すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。
そこで、まさに、見習い沙門のチュンダが、パーヴァーにおいて雨期を過ごし、サーマ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては」と。このように説かれたとき、尊者アーナンダは、見習い沙門のチュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、チュンダよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに答えました。
そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、見習い沙門のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この見習い沙門のチュンダが、このように言いました。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては』と。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『まさしく、まさに、世尊の死後、僧団において、論争が生起してはならない。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の——天〔の神々〕と人間たちの——義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するであろう』」と。
「アーナンダよ、それを、どう思いますか。すなわち、あなたたちに、諸々の法(教え)が、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのですが、それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道ですが、アーナンダよ、まさに、あなたは、これらの法(教え)において、たとえ、二者の比丘であれ、種々なる論ある者たちを見ますか」と。「尊き方よ、すなわち、わたしに、諸々の法(教え)が、世尊によって、証知して〔そののち〕説示されたのですが、それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道ですが、尊き方よ、まさに、わたしは、これらの法(教え)において、たとえ、二者の比丘であれ、種々なる論ある者たちを見ません。尊き方よ、しかしながら、すなわち、まさに、世尊に敬虔と敬慕の形態ある人たちが〔世に〕住むとして、彼らもまた、世尊の死後、僧団において、論争を生じさせるでしょう——あるいは、厳格なる生き方についても、あるいは、卓越の戒条(増上波羅提木叉:戒律条項)についても。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の——天〔の神々〕と人間たちの——義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するでしょう」と。「アーナンダよ、その論争は、少しばかりのものです。すなわち、この、あるいは、厳格なる生き方についても、あるいは、卓越の戒条についても。アーナンダよ、まさに、あるいは、〔聖なる〕道について、あるいは、〔実践の〕道について、僧団において、論争が生起しつつ生起するなら、その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の——天〔の神々〕と人間たちの——義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、存するでしょう」と。
アーナンダよ、六つのものがあります。これらの論争の根元です。どのようなものが、六つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、忿激する者として、怨念ある者として、〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……略……僧団にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の——天〔の神々〕と人間たちの——義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に露出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に露出なきことが有ります。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、偽装ある者として、加虐ある者として、〔世に〕有ります。……略……嫉妬ある者として、物惜ある者として、〔世に〕有ります。……略……狡猾ある者として、幻惑ある者として、〔世に〕有ります。……略……悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、〔世に〕有ります。……略……自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、自らの見解に偏執し、保持するものに執持し、放棄し難き者として〔世に〕有るなら、彼は、教師にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、僧団にたいしてもまた、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、学びにおいてもまた円満成就を為す者ではなく〔世に〕有ります。アーナンダよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、尊重〔の思い〕なき者として、敬虔〔の思い〕なき者として、〔世に〕住み、法(教え)にたいし……僧団にたいし……学びにおける円満成就を為す者でないなら、彼は、僧団において、論争を生じさせます。その論争は、多くの人々の利益ならざるもののために、多くの人々の安楽ならざるもののために、多くの人々の——天〔の神々〕と人間たちの——義(目的)ならざるもののために、利益ならざるもののために、苦痛のために、成ります。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観するなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、捨棄のために努めるべきです。アーナンダよ、もし、あなたたちが、このような形態の論争の根元を、あるいは、内に、あるいは、外に、等しく随観しないなら、アーナンダよ、そこで、あなたたちは、まさしく、その、悪しき論争の根元の、未来に露出なきために実践するべきです。このように、この、悪しき論争の根元の、捨棄が有ります。このように、この、悪しき論争の根元の、未来に露出なきことが有ります。アーナンダよ、まさに、これらの六つの論争の根元があります。
アーナンダよ、四つのものがあります。これらの問題です。どのようなものが、四つのものなのですか。論争の問題であり、批判の問題であり、罪の問題であり、義務の問題です。アーナンダよ、まさに、これらの四つの問題があります。アーナンダよ、また、まさに、これらの七つの問題の止寂があります。諸々の生起しては生起した問題が止寂し止み静まるために、面前の調伏(現前毘尼:関係者全員による裁定)が施されるべきであり、記憶による調伏(憶念毘尼:違犯者の潔白宣言による裁定)が施されるべきであり、迷乱なき調伏(不痴毘尼:違犯者が心神喪失の場合の裁定)が施されるべきであり、明言によって執行されるべきもの(自言治:違犯者の自白による裁定)であり、多数決(多人語:関係者以外を含む多数者による裁定)であり、彼の悪行の告発(覓罪相:言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)であり、草の覆い(如草覆地:弁論と和解による裁定)です。
アーナンダよ、では、どのように、面前の調伏(関係者全員による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、あるいは、『法(教え)である』と、あるいは、『法(教え)ならざるものである』と、あるいは、『律である』と、あるいは、『律ならざるものである』と、論争します。アーナンダよ、それらの比丘たちは、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、法(教え)の指針を熟思するべきです。法(教え)の指針を熟思して、すなわち、そこにおいて、合致するとおり、そのとおりに、その問題を寂止させるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、面前の調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、面前の調伏によって。
アーナンダよ、では、どのように、多数決(関係者以外を含む多数者による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、もし、それらの比丘たちが、その居住所において、その問題を寂止することができないなら、アーナンダよ、すなわち、それらの比丘たちよりもより多くの比丘たちがいる居住所があるなら、その居住所に赴くべきです。アーナンダよ、そこにおいて、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、法(教え)の指針を熟思するべきです。法(教え)の指針を熟思して、すなわち、そこにおいて、合致するとおり、そのとおりに、その問題を寂止させるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、多数決と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、多数決によって。
アーナンダよ、では、どのように、記憶による調伏(違犯者の潔白宣言による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪(波羅夷)によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。アーナンダよ、まさに、その比丘には、記憶による調伏が施されるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、記憶による調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、記憶による調伏によって。
アーナンダよ、では、どのように、迷乱なき調伏(違犯者が心神喪失の場合の裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、狂気に至り得ました——心の転倒に。〔まさに〕その、狂者であるわたしによって、多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。わたしは、それを思い出しません。迷乱したわたしによって、このことが為されたのです』と。アーナンダよ、まさに、その比丘には、迷乱なき調伏が施されるべきです。アーナンダよ、このように、まさに、迷乱なき調伏と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、迷乱なき調伏です。
アーナンダよ、では、どのように、明言されたものによる執行(違犯者の自白による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、叱責された者として、あるいは、叱責されていない者として、罪を思い出し、開顕し、明瞭と為します。アーナンダよ、その比丘によって、より年長の比丘が——近づいて行って、一つの肩に上衣を掛けて、〔両の〕足を敬拝して、ひざまずいて坐って、合掌を差し出して——このように説かれるべき者として存するでしょう。『尊き方よ、わたしは、某名の罪を犯したのです。それを懺悔します』と。彼は、このように言います。『〔あなたは〕見ますか』と。『たしかに、〔わたしは〕見ます』と。『未来に、統御できますか』と。『統御します』と。アーナンダよ、このように、まさに、明言されたものによる執行と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、明言されたものによる執行によって。
アーナンダよ、では、どのように、彼の悪行の告発(言い逃れをする違犯者への弾劾による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、比丘に、このような形態の重罪によって叱責します——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪によって、あるいは、極罪に近いものによって。『尊者は、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。友よ、しかしながら、まさに、わたしは、このような形態の少しばかりの罪を、〔罪を〕犯した者として思い出します』と。〔まさに〕その、弁明している、この者に、彼(叱責者)は、『さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と迫ります。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、まさに、この少しばかりの罪を犯して、尋ねられていないのに明言するでしょう。また、どうして、わたしが、このような形態の重罪を犯して、尋ねられたのに明言しないというのでしょう——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、あなたが、まさに、この少しばかりの罪を犯して、尋ねられていないのに明言することはないでしょう。また、どうして、あなたが、このような形態の重罪を犯して、尋ねられたのに明言するというのでしょう——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。さあ、尊者は、まさしく、しっかりと知りたまえ。すなわち、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しますか——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを』と。彼は、このように言います。『友よ、まさに、わたしは、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出します——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを。戯れから、わたしによって、このことが説かれました。焦りから、わたしによって、このことが説かれました。「わたしは、〔まさに〕その、このような形態の重罪を、〔罪を〕犯した者として思い出しません——あるいは、〔僧団追放に値する〕極罪を、あるいは、極罪に近いものを」』と。アーナンダよ、このように、まさに、彼の悪行の告発と成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、彼の悪行の告発によって。
アーナンダよ、では、どのように、草の覆い(弁論と和解による裁定)と成るのですか。アーナンダよ、ここに、比丘たちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られるところと成ります。アーナンダよ、それらの比丘たちの、まさしく、全ての者たちが、和合の者たちとなり、参集するべきです。参集して、一方の側の比丘たちのなかで、明敏なる比丘によって——坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、合掌を手向けて——僧団が説諭されるべきです。
『尊き方よ、僧団は、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。わたしたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、この多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。すなわち、僧団にとって健全なるものに至り得るところであるなら、わたしは、まさしく、そして、すなわち、これらの尊者たちの罪も、さらに、すなわち、自己の罪も、まさしく、そして、これらの尊者たちの義(利益)のために、さらに、自己の義(利益)のために、僧団の中において、草の覆いによって説示しましょう——重大な罪過を除いて、在家に関係したものを除いて』と。
そこで、他の一方の側の比丘たちのなかで、明敏なる比丘によって——坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、合掌を手向けて——僧団が説諭されるべきです。
『尊き方よ、僧団は、わたしの〔言葉を〕聞きたまえ。わたしたちが、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住んでいると、この多くの沙門ならざることが、行作され、語り回られたのです。すなわち、僧団にとって健全なるものに至り得るところであるなら、わたしは、まさしく、そして、すなわち、これらの尊者たちの罪も、さらに、すなわち、自己の罪も、まさしく、そして、これらの尊者たちの義(利益)のために、さらに、自己の義(利益)のために、僧団の中において、草の覆いによって説示しましょう——重大な罪過を除いて、在家に関係したものを除いて』と。
アーナンダよ、このように、まさに、草の覆いと成ります。また、そして、このように、ここに、諸々の一部の問題の寂止と成ります。すなわち、この、草の覆いによって。
アーナンダよ、六つのものがあります。これらの記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。どのようなものが、六つのものなのですか。アーナンダよ、ここに、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある身体の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある言葉の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘に、梵行を共にする者たちにたいし、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、慈愛〔の思い〕ある意の行為が現起されたものとして有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの利得が、法(正義)にかない、法(正義)によって得たものであり、もしくは、鉢に満ちるほどのものであろうが、そのような形態の諸々の利得から、差別なく受益する者として、梵行を共にする戒ある者たちと共通に受益する者として、〔世に〕有ります。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、それらの諸戒が、破断ならず、切断ならず、斑紋ならず、雑色ならず、〔渇愛から〕自由で、識者たちに賞賛され、偏執されず、禅定を等しく転起させるものであるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の諸戒において同等の戒を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、さらに、また、他に、比丘が、すなわち、この見解が、聖なる出脱〔の教え〕として、それを為す者のために、正しく苦しみの滅尽への出脱となるなら、梵行を共にする者たちとともに、まさしく、そして、公然に、さらに、内密にも、そのような形態の見解において同等の見解を具した者として〔世に〕住みます。これもまた、記憶されるべき法(性質)です。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。アーナンダよ、まさに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)があります。愛慕〔の思い〕を作り為すものであり、尊重〔の思い〕を作り為すものであり、愛護のために、論争なきために、和合のために、一なる状態のために、等しく転起します。
アーナンダよ、もし、あなたたちが、これらの六つの記憶されるべき法(性質)を受持して転起させるなら、アーナンダよ、まさに、あなたたちは見ますか。すなわち、あなたたちが甘受できない、その言葉の道を、あるいは、微細なるものも、あるいは、粗大なるものも」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず(見ません)」〔と〕。「アーナンダよ、それゆえに、ここに、これらの六つの記憶されるべき法(性質)を受持して転起させなさい。それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るでしょう」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アーナンダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
サーマ村の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
注釈【4】
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