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翻訳【34】

身体の在り方についての気づきの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。「友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、修められ、多く為されたなら、大いなる果となり、大いなる福利となると、これほどまでに、〔見事に〕説かれたのは」と。まさに、このことはあり、そして、それらの比丘たちの、この合間の議論は、〔いまだ決着なく〕中断するところと成ります。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、集会所のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、設けられた坐に坐りました。坐って、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、ここに、わたしたちが、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、集会所において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『友よ、めったにないことです。友よ、はじめてのことです。さてまた、すなわち、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為されたなら、大いなる果となり、大いなる福利となると、これほどまでに、〔見事に〕説かれたのは』と。尊き方よ、これが、まさに、わたしたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論です。そこで、世尊がお越しになったのです」と。

「比丘たちよ、では、どのように、身体の在り方についての気づきが修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります——結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このように、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします——それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——あるいは、死んで一日の、あるいは、死んで二日の、あるいは、死んで三日の、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を——他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず……略……。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。彼が、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、すなわち、家〔の生活〕に依拠した諸々の思念と思惟は、それらは捨棄されます。それらの捨棄あることから、まさしく、内に、心は、確立し、静止し、専一と成り、定められます。比丘たちよ、このようにもまた、比丘は、身体の在り方についての気づきを修めます。

比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼には、諸々の善なる法(性質)が——それらが何であれ、明知を部分とするものであるなら——内含されています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、すなわち、誰にとってであれ、心によって、大海を充満したなら、彼〔の心〕には、諸々の小川が——それらが何であれ、海に赴くものであるなら——内含されているように、比丘たちよ、まさしく、このように、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが、修められ、多く為されたなら、彼には、諸々の善なる法(性質)が——それらが何であれ、明知を部分とするものであるなら——内含されています。

比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、重い岩塊を、水気のある粘土の堆積のうえに放り投げるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その重い岩塊は、水気のある粘土の堆積のなかに侵入〔の機会〕を得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、干涸び乾燥した薪があり、そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この干涸び乾燥した薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、空っぽで、空の水瓶があり、そこで、人が、水の荷を携えてやってくるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、水を注ぐことを得るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められず、多く為されていないなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ます。

比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、人が、軽い糸玉を、全てが硬材で作られている戸板のうえに放り投げるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、その軽い糸玉の、全てが硬材で作られている戸板のなかへの侵入〔の機会〕を得るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、樹液を有し水気のある薪があり、そこで、人が、擦り木を携えてやってくるとします。『火を起こすのだ。熱を出現させるのだ』と。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、この樹液を有し水気のある薪を、擦り木を携えて摩擦しながら、火を起こせるでしょうか、熱を出現させるでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている水瓶があるとします。そこで、人が、水の荷を携えてやってくるとします。比丘たちよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、水を注ぐことを得るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、悪魔は、彼への侵入〔の機会〕を得ず、悪魔は、〔侵入の〕対象を得ません。

比丘たちよ、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知(神知・神通)による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、置台のうえに据え置かれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている水瓶があるとします。〔まさに〕その、この〔水瓶〕を、どこからであれ、力ある人が傾けるなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、平坦な土地の部分に、四方が堤防に囲まれた、烏が飲めるほど、縁まで一杯に水で満ちている蓮池が存するとします。〔まさに〕その、この〔蓮池〕を、どこからであれ、力ある人が堤防を解き放つなら、水が流れ来るでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、善き土地の大きな四つ辻において、結び止められて待機する、鞭が置かれた良馬の車が存するとします。〔まさに〕その、この〔馬車〕に、能ある調教師にして調御されるべき馬の馭者たる者が乗って、左手に手綱を掴んで、右手に鞭を掴んで、求めるところ求めるところへと、行かせもまたするでしょうし、戻らせもまたするでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、すなわち、誰にとってであれ、身体の在り方についての気づきが修められ、多く為されたなら、彼が、証知による実証のために、証知によって実証されるべき、その〔法〕その法(性質)に、心を向かわせるなら、気づき〔の場所〕気づきの場所において、まさしく、その場その場において、実証の可能性に至り得ます。

比丘たちよ、身体の在り方についての気づきが、習修され、修められ、多く為され、乗物(手段)として作り為され、地所(基盤)として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、十の福利が期待できます。(1)不満〔の思い〕と歓楽〔の思い〕を打ち負かす者と成り、かつまた、不満〔の思い〕が彼を打ち負かすことはなく、生起した不満〔の思い〕を征服して〔世に〕住みます。

(2)恐怖と恐ろしさを打ち負かす者と成り、かつまた、恐怖と恐ろしさが彼を打ち負かすことはなく、生起した恐怖と恐ろしさを征服して〔世に〕住みます。

(3)寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として、〔世に〕有ります。

(4)卓越の心のあり方であり、所見の法(現世)における安楽の住である、四つの瞑想を、欲するままに得る者として、苦難なく得る者として、困難なく得る者として、〔世に〕有ります。

(5)彼は、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。……略……。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。

(6)人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます——それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。

(7)他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。

(8)無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

(9)人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

(10)諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。

比丘たちよ、身体の在り方についての気づきが、習修され、修められ、多く為され、乗物として作り為され、地所として作り為され、奮起され、蓄積され、善く正しく勉励されたなら、これらの十の福利が期待できます」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

身体の在り方についての気づきの経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

注釈【3】