このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、静所に赴き静坐している世尊に、このような心の思索が浮かびました。「まさに、ラーフラに、解脱を亢進させる諸々の法(性質)が円熟している。それなら、さあ、わたしは、ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。サーヴァッティーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、坐具を収め取りなさい。〔わたしたちは〕アンダ林のあるところに、そこへと近づいて行くのです——昼の休息(昼住:熱暑の回避)のために」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、尊者ラーフラは、世尊に答えて、坐具を取って、背後から背後へと、世尊に付き従いました。
また、まさに、その時点にあって、幾千の天神たちが、世尊に付き従う者たちと成ります。「今日、世尊は、尊者ラーフラを、より以上に、諸々の煩悩の滅尽について教え導くであろう」と。そこで、まさに、世尊は、アンダ林に深く分け入って、或るどこかの木の根元において、設けられた坐に坐りました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ラーフラに、世尊は、こう言いました。
「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。眼の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ラーフラよ、それを、どう思いますか。耳は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。鼻は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。舌は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。身は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。諸々の法(意の対象)は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。意の識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。意の接触は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「ラーフラよ、それを、どう思いますか。すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それもまた、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ラーフラよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいし厭離し、諸々の形態にたいし厭離し、眼の識知〔作用〕にたいし厭離し、眼の接触にたいし厭離し、すなわち、この、眼の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。……略……。耳にたいし厭離し、諸々の音声にたいし厭離し……。鼻にたいし厭離し、諸々の臭気にたいし厭離し……。舌にたいし厭離し、諸々の味感にたいし厭離し……。身にたいし厭離し、諸々の感触にたいし厭離し……。意にたいし厭離し、諸々の法(意の対象)にたいし厭離し、意の識知〔作用〕にたいし厭離し、意の接触にたいし厭離し、すなわち、この、意の接触という縁あることから生起する、感受〔作用〕の在り方をしたものも、表象〔作用〕の在り方をしたものも、諸々の形成〔作用〕の在り方をしたものも、識知〔作用〕の在り方をしたものも、それにたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者ラーフラの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。さらに、それらの幾千の天神たちに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。
小なるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
注釈【3】
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