このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。
彼には、どのような五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼の、この第一の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。
(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。
(4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑い、疑惑し、信念せず、正しく清信しないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。
(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者として、わが意を得ない者として、害心ある者として、鬱積が生じた者として、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないものとして有ります。
彼には、どのような五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります——欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有るなら——欲〔の思い〕を離れ去っていない者として、愛情〔の思い〕を離れ去っていない者として、涸渇〔の思い〕を離れ去っていない者として、苦悶〔の思い〕を離れ去っていない者として、渇愛〔の思い〕を離れ去っていない者として——彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第二の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。
(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れていない者として〔世に〕有ります……略……このように、彼には、この第三の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。
(4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住むなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。
(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みます。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩むなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きません。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾かないなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないものとして有ります。
比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔いまだ〕捨棄されていないなら、これらの五つの心の結縛が〔いまだ〕断絶されていないなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されません。
比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。
彼には、どのような五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、教師にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、法(教え)にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。……略……このように、彼には、この第二の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。
(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、僧団にたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。……略……このように、彼には、この第三の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。
(4)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信します。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、学びにたいし、疑わず、疑惑せず、信念し、正しく清信するなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。
(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有ります。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、梵行を共にする者たちにたいし、激情した者ではなく、わが意を得ない者ではなく、害心ある者ではなく、鬱積が生じた者ではなく、〔世に〕有るなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたものとして有ります。
彼には、どのような五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有るのですか。(1)比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります——欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有るなら——欲〔の思い〕を離れ去った者として、愛情〔の思い〕を離れ去った者として、涸渇〔の思い〕を離れ去った者として、苦悶〔の思い〕を離れ去った者として、渇愛〔の思い〕を離れ去った者として——彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第一の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、身体にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(3)形態にたいし、貪り〔の思い〕を離れた者として〔世に〕有ります……略……(4)〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住みません。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、〔欲の思いで〕義(目的)とするだけ腹一杯に食べて、横臥の楽しみに、休憩の楽しみに、睡眠の楽しみに、専念する者として〔世に〕住まないなら、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第四の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。
(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩みません。『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとり(天神の従者)と〔成るのだ〕』と。比丘たちよ、すなわち、その比丘が、或るどこかの天の衆〔への再生〕を誓願して、梵行を歩まないなら、『わたしは、この、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、苦行によって、あるいは、梵行によって、あるいは、天〔の神〕と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕たちの或るひとりと〔成るのだ〕』と、彼の心は、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾きます。彼の心が、熱情に、専念に、堅忍に、精励に、傾くなら、このように、彼には、この第五の心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。彼には、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたものとして有ります。
比丘たちよ、彼が誰であれ、比丘の、これらの五つの心の鬱積が〔すでに〕捨棄されたなら、これらの五つの心の結縛が〔すでに〕善く断絶されたなら、彼が、まさに、この法(教え)と律において、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するであろう、という、この状況は見出されます。
彼は、欲〔の思い〕(意欲)の禅定(定)と精励の形成〔作用〕(行)を具備した神通の足場(神足)を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心(専心)の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。まさしく、勤勇を、第五のものとして〔修めます〕。比丘たちよ、それで、まさに、彼が、このように、勤勇とともに十五の支分を具備した比丘であるなら、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものへの到達の可能ある者です。比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、八つの、あるいは、十二の、鶏の卵があるとします。鶏によって、それら〔の卵〕が、正しく抱かれ、正しく温められ、正しく世話され、〔そのように〕存するなら、たとえ、何であれ、その鶏に、このように、欲求が生起しないとして、『ああ、まさに、これらのひよこたちは、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化するのだ』と、そこで、まさに、それらのひよこたちが、あるいは、足の爪先で、あるいは、顔の嘴で、卵の殻を破って、〔無事〕安穏に孵化することは、まさしく、できます。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、このように、勤勇とともに十五の支分を具備した比丘は、孵化の可能ある者であり、正覚の可能ある者であり、束縛からの平安という無上なるものへの到達の可能ある者です」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
心の鬱積の経は終了となり、〔以上が〕第六となる。
注釈【4】
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