このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者が、ダンマディンナー比丘尼のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼に、こう言いました。「尊貴なる方よ、『身体を有すること(有身)』『身体を有すること』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有すること』と説かれたのですか——世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)が、『身体を有すること』と説かれました——世尊によって。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの五つの〔心身を構成する〕執取の範疇が、『身体を有すること』と説かれました——世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、善きかな」と、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、ダンマディンナー比丘尼に、さらなる問いを尋ねました。「尊貴なる方よ、『身体を有することの集起』『身体を有することの集起』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの集起』と説かれたのですか——世尊によって」と。「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛(愛)です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの集起』と説かれました——世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅』『身体を有することの止滅』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅』と説かれたのですか——世尊によって」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底(阿頼耶:執着)なき〔状態〕です。友よ、ヴィサーカよ、まさに、これが、『身体を有することの止滅』と説かれました——世尊によって」と。
「尊貴なる方よ、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれます。尊貴なる方よ、いったい、まさに、どのようなものが、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれたのですか——世尊によって」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)が、『身体を有することの止滅に至る〔実践の〕道』と説かれました——世尊によって。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして執取(取)があり、そのものとして五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのですか(両者は別のものですか)」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、そのものとして執取があり、そのものとして五つの〔心身を構成する〕執取の範疇があるのではなく、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇より他に、執取があるのでもまたありません。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が、それが、そこにおいて、執取となります」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が有るのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態(色)を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕(受)を……略……。表象〔作用〕(想)を……。諸々の形成〔作用〕(行)を……。識知〔作用〕(識)を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解が有ります」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、身体を有するという見解は有ることなくあるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、ここに、有聞の聖なる弟子が、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。感受〔作用〕を……略……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観せず、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観せ〕ず、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕を〔等しく随観せ〕ず、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観し〕ません。友よ、ヴィサーカよ、このように、まさに、身体を有するという見解は有ることなくあります」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、聖なる八つの支分ある道なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です」と。「尊貴なる方よ、また、聖なる八つの支分ある道は、形成されたもの(有為)ですか、それとも、形成されたものではないもの(無為)ですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道は、形成されたものです」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇(戒・定・慧の三学)が包摂されるのですか、それとも、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道が包摂されるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、聖なる八つの支分ある道によって、三つの範疇が包摂されるのではありません。友よ、ヴィサーカよ、しかしながら、まさに、三つの範疇によって、聖なる八つの支分ある道は包摂されます。友よ、ヴィサーカよ、そして、すなわち、正しい言葉は、かつまた、すなわち、正しい行業は、さらに、すなわち、正しい生き方は、これらの法(性質)は、戒の範疇(戒蘊)に包摂されます。そして、すなわち、正しい努力は、かつまた、すなわち、正しい気づきは、さらに、すなわち、正しい禅定は、これらの法(性質)は、禅定の範疇(定蘊)に包摂されます。そして、すなわち、正しい見解は、さらに、すなわち、正しい思惟は、これらの法(性質)は、智慧の範疇(慧蘊)に包摂されます」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、禅定(定・三昧)なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の形相なのですか。どのような諸々の法(性質)が、禅定の必需品なのですか。どのようなものが、禅定の修行なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、心の一境性は、これは、禅定です。四つの気づきの確立(四念処・四念住)は、禅定の形相です。四つの正しい精励(四正勤)は、禅定の必需品です。すなわち、まさしく、それらの法(性質)を、習修し、修め、多く為すことは、これは、禅定の修行です」と。
「尊貴なる方よ、また、どれだけの形成〔作用〕(行)があるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、身体の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、言葉の形成〔作用〕なのですか。どのようなものが、心の形成〔作用〕なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象〔作用〕は、さらに、感受〔作用〕は、心の形成〔作用〕です」と。
「尊貴なる方よ、また、何ゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕なのですか。何ゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、出息と入息は、身体の属性であり、これらの法(性質)は、身体と連結しています。それゆえに、出息と入息は、身体の形成〔作用〕です。家長よ、まさに、過去において、思考して、想念して、未来に、言葉を発します。それゆえに、思考と想念は、言葉の形成〔作用〕です。そして、表象は、さらに、感受は、心の属性であり、これらの法(性質)は、心と連結しています。それゆえに、そして、表象は、さらに、感受は、心の形成〔作用〕です」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅への入定が有るのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅に入定したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に止滅するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅に入定しつつある比丘には、最初に、言葉の形成〔作用〕が止滅し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔止滅し〕、そののち、心の形成〔作用〕が〔止滅します〕」と。
「尊貴なる方よ、また、どのように、表象と感覚の止滅の入定からの出起が有るのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘に、このような〔思いは〕有りません。あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起するであろう』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起する』と、あるいは、『わたしは、表象と感覚の止滅の入定から出起したのだ』と。そこで、まさに、彼の心は、まさしく、過去において修められた、そのとおりに有ります。すなわち、彼を、そのとおりそのままに導くように」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、どのような諸々の法(性質)が、最初に生起するのですか。あるいは、すなわち、身体の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、言葉の形成〔作用〕ですか、あるいは、すなわち、心の形成〔作用〕ですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起しつつある比丘には、最初に、心の形成〔作用〕が生起し、そののち、身体の形成〔作用〕が〔生起し〕、そののち、言葉の形成〔作用〕が〔生起します〕」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、どれだけの接触(触)が接触するのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘に、三つの接触が接触します。空性の接触であり、無相の接触であり、無願の接触です」と。
「尊貴なる方よ、また、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、何に向かい行くものと成り、何に傾倒するものと〔成り〕、何に傾斜するものと〔成るのですか〕」と。「友よ、ヴィサーカよ、まさに、表象と感覚の止滅の入定から出起した比丘の心は、遠離に向かい行くものと成り、遠離に傾倒するものと〔成り〕、遠離に傾斜するものと〔成ります〕」と。
「尊貴なる方よ、また、どれだけの感受(受)があるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、これらの三つの感受があります。安楽の感受(楽受)であり、苦痛の感受(苦受)であり、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)です」と。
「尊貴なる方よ、また、どのようなものが、安楽の感受なのですか。どのようなものが、苦痛の感受なのですか。どのようなものが、苦でもなく楽でもない感受なのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、安楽と快楽が感受されたなら、これは、安楽の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、苦痛と不快が感受されたなら、これは、苦痛の感受です。友よ、ヴィサーカよ、すなわち、まさに、あるいは、身体の属性として、あるいは、心の属性として、まさしく、快楽でもなく、不快でもなく、感受されたなら、これは、苦でもなく楽でもない感受です」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦痛の感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか。苦でもなく楽でもない感受は、何を安楽とし、何を苦痛とするのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受は、止住を安楽とし、変化を苦痛とします。苦痛の感受は、止住を苦痛とし、変化を安楽とします。苦でもなく楽でもない感受は、知を安楽とし、無知を苦痛とします」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、どのような悪習(随眠:潜在煩悩)が悪しき習いとなるのですか。苦痛の感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか。苦でもなく楽でもない感受において、どのような悪習が悪しき習いとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなります。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなります」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が悪しき習いとなるのではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が悪しき習いとなるのではありません」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦痛の感受において、何が捨棄されるべきですか。苦でもなく楽でもない感受において、何が捨棄されるべきですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきです。苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきです」と。
「尊貴なる方よ、いったい、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきですか。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、一切の安楽の感受において、貪り〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦痛の感受において、敵対〔の思い〕の悪習が捨棄されるべきではありません。一切の苦でもなく楽でもない感受において、無明の悪習が捨棄されるべきありません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、貪欲を捨棄します。そこにおいて、貪り〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かくのごとく深慮します。『その〔認識の〕場所(処)を、今現在、聖者たちが成就して〔世に〕住むとして、いったい、いつ、まさに、わたしは、その〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住むのだろう』と。かくのごとく、諸々の無上なる解脱にたいし、羨望〔の思い〕を現起させていると、羨望という縁あることから、失意〔の思い〕が生起します。それによって、敵対〔の思い〕を捨棄します。そこにおいて、敵対〔の思い〕の悪習は悪しき習いとなりません。友よ、ヴィサーカよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。それによって、無明を捨棄します。そこにおいて、無明の悪習は悪しき習いとなりません」と。
「尊貴なる方よ、また、安楽の感受において、何が、相似のもの(対となるもの)となるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、安楽の感受において、苦痛の感受が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、苦痛の感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦痛の感受において、安楽の感受が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、苦でもなく楽でもない感受において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、苦でもなく楽でもない感受において、無明が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、無明において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、無明において、明知が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、明知において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、明知において、解脱が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、解脱において、何が、相似のものとなるのですか」と。
「友よ、ヴィサーカよ、まさに、解脱において、涅槃が、相似のものとなります」と。
「尊貴なる方よ、また、涅槃において、何が、相似のものとなるのですか」と。「友よ、ヴィサーカよ、〔あなたは〕問い〔の限度〕を超え行きました。〔あなたは〕問いの最極を収め取ることができませんでした。友よ、ヴィサーカよ、なぜなら、梵行は、涅槃への沈潜であり、涅槃を行き着く所とするからであり、涅槃を結末とするからです。友よ、ヴィサーカよ、そして、望んでいるなら、あなたは、近づいて行って、世尊に、この義(意味)を尋ねるべきです。そして、すなわち、世尊が、あなたに説き明かすとおり、そのとおりに、それを保持するべきです」と。
そこで、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、ダンマディンナー比丘尼の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、ダンマディンナー比丘尼を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴィサーカ在俗信者は、すなわち、ダンマディンナー比丘尼を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。このように説かれたとき、世尊は、ヴィサーカ在俗信者に、こう言いました。「ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、賢者です。ヴィサーカよ、ダンマディンナー比丘尼は、大いなる智慧ある者です。ヴィサーカよ、もし、また、あなたが、わたしに、この義(意味)を質問するなら、わたしもまた、それを、まさしく、このように説き明かすでしょう。すなわち、ダンマディンナー比丘尼によって説き明かされた、そのとおりに。まさしく、そして、これが、この〔言葉〕の義(意味)であり、さらに、このように、それを保持しなさい」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たヴィサーカ在俗信者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
小なる問答の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。
注釈【4】
English
Việt Ngữ