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翻訳【30】

ウパーリの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ナーランダーに住んでおられます。パーヴァーリカのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、ナーランダーに滞在しています——大いなるニガンタの衆と共に。そこで、まさに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)のディーガ・タパッシンは、ナーランダーにおいて〔行乞の〕食のために歩んで、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンに、世尊は、こう言いました。「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタに、『行為』『行為』と報知する習行はありません。友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタには、『棒(暴力)』『棒』と報知する習行があります」と。

「タパッシンよ、また、ニガンタ・ナータプッタは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

「友よ、ゴータマよ、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、三つの棒を報知します——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の棒であり、言葉の棒であり、意の棒です」と。

「タパッシンよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があるのですか」と。

「友よ、ゴータマよ、まさしく、他なるものとして、身体の棒があり、まさしく、他なるものとして、言葉の棒があり、他なるものとして、意の棒があります」と。

「タパッシンよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、どの棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の棒でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の棒でしょうか、あるいは、すなわち、意の棒でしょうか」と。

「友よ、ゴータマよ、まさに、このように区分され、このように区別された、これらの三つの棒のなかでは、身体の棒を、ニガンタ・ナータプッタは、より罪過を有する大いなるものと報知します——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、言葉の棒を〔報知せ〕ず、そのように、意の棒を〔報知し〕ません」と。

「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕

「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕

「タパッシンよ、『身体の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「友よ、ゴータマよ、『身体の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。

かくのごとく、世尊は、ニガンタのディーガ・タパッシンに、この議論の基盤(論事)について、三度に至るまで確認させました。

このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、こう言いました。「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の棒を報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

「タパッシンよ、まさに、如来に、『棒』『棒』と報知する習行はありません。タパッシンよ、まさに、如来には、『行為』『行為』と報知する習行があります」と。

「友よ、ゴータマよ、また、あなたは、どれだけの諸々の行為を報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして」と。

「タパッシンよ、まさに、わたしは、三つの行為を報知します——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。それは、すなわち、この、身体の行為であり、言葉の行為であり、意の行為です」と。

「友よ、ゴータマよ、また、どうでしょう、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があるのですか」と。

「タパッシンよ、まさしく、他なるものとして、身体の行為があり、まさしく、他なるものとして、言葉の行為があり、他なるものとして、意の行為があります」と。

「友よ、ゴータマよ、また、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、どの行為を、より罪過を有する大いなるものと報知するのですか——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。あるいは、すなわち、身体の行為でしょうか、あるいは、すなわち、言葉の行為でしょうか、あるいは、すなわち、意の行為でしょうか」と。

「タパッシンよ、まさに、わたしは、このように区分され、このように区別された、これらの三つの行為のなかでは、意の行為を、より罪過を有する大いなるものと報知します——悪しき行為の作用あるためのものとして、悪しき行為の転起あるためのものとして。そのように、身体の行為を〔報知せ〕ず、そのように、言葉の行為を〔報知し〕ません」と。

「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕

「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕

「友よ、ゴータマよ、『意の棒』と、〔あなたは〕説くのですね」〔と〕

「タパッシンよ、『意の棒』と、〔わたしは〕説きます」と。

かくのごとく、ニガンタのディーガ・タパッシンは、世尊に、この議論の基盤について、三度に至るまで確認させて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。

また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリを筆頭とするバーラカ〔村〕の衆たる大いなる在家の衆と共に、坐った状態でいます。まさに、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、さて、いったい、どこから、あなたはお帰りかな——昼のさなかに」と。「尊き方よ、まさに、この、沙門ゴータマの現前から、まさに、わたしは帰るところです」と。「タパッシンよ、また、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。「尊き方よ、まさに、わたしに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。「タパッシンよ、また、すなわち、どのように、あなたに、沙門ゴータマを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのかな」と。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、すなわち、世尊を相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ニガンタ・ナータプッタに告げました。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「タパッシンよ、善きかな、善きかな。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのだ。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのだろう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものである——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はない」と。

このように説かれたとき、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな——ディーガ・タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、幸いなるタパッシンによって、沙門ゴータマに説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しましょう。それで、もし、沙門ゴータマが、すなわち、幸いなるタパッシンが確認させたように、そのように、わたしを確認させるなら、それは、たとえば、また、まさに、力ある人が、長い毛の羊を、諸々の毛を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒造業者が、大きな酒造用の筵を深い湖水に入れて、端を掴んで、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、引き寄せ、引き回し、等しく引き回すでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、力ある酒職人が、篩の端を掴んで、振り落とし、振り払い、打ち払うように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマを、論によって論を、振り落とし、振り払い、打ち払うでしょうし、それは、たとえば、また、まさに、六十歳の象が、深い蓮池に入って行って、麻洗いという名の遊びの類に打ち興じるように、まさしく、このように、わたしは、沙門ゴータマに打ち興じるでしょう——思うに、麻洗いの遊びの類として。尊き方よ、では、さあ、わたしは赴きます。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しましょう」と。「家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。

このように説かれたとき、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、このことは、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。家長よ、あなたは赴きなさい。この議論の基盤について、沙門ゴータの論を論破しなさい。家長よ、なぜなら、沙門ゴータの論を論破するべきは、あるいは、わたしであり、あるいは、ニガンタのディーガ・タパッシンであり、あるいは、あなたなのだから」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、坐から立ち上がって、ニガンタ・ナータプッタを敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、パーヴァーリカのアンバ林のあるところに、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきましたか」と。

「家長よ、まさに、ここに、ニガンタのディーガ・タパッシンがやってきました」と。

「尊き方よ、また、まさに、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りましたか」と。

「家長よ、まさに、わたしに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有りました」と。

「家長よ、また、すなわち、どのように、あなたに、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に、何らかの或る議論と談論が有ったのですか」と。

そこで、まさに、世尊は、すなわち、ニガンタのディーガ・タパッシンを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、ウパーリ家長に告げました。

このように説かれたとき、ウパーリ家長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、善きかな、善きかな——タパッシンは。すなわち、まさしく、正しく、教師の教えを了知している、有聞の弟子によって〔為される〕、そのとおりに、まさしく、このように、ニガンタのディーガ・タパッシンによって、世尊に説き明かされたのです。まさに、どうして、卑賎なる意の棒が、このように、この粗大なる身体の棒と比較して、美しく輝くというのでしょう。そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。「家長よ、それで、もし、まさに、あなたが、真理()に立脚して思い考えるなら、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)が、病苦の者となり、苦しみの者となり、激しい病の者となり、〔世に〕存するとします——冷水を拒絶する者であり、熱水を受用する者です。彼が、冷水を得ずにいながら、命を終えるとします。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、この者には、どこにおいて、再生があると報知しますか」と。

「尊き方よ、マノーサッタ(意に執着している者)という名の天〔の神々〕たちが存在します。そこにおいて、彼は再生します」と。

「家長よ、それは、何を因とするのですか」と。

「尊き方よ、なぜなら、この者は、意に結縛された者として、命を終えるからです」と。

「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、ニガンタ・ナータプッタが、四つの制戒による統御によって統御された者として〔世に〕存するとします——全ての水によって防護された者として、全ての水によって結合された者として、全ての水によって払拭された者として、全ての水によって充満された者として。彼は、前進しながら、後進しながら、多くの小さな命あるものたちに、殺害を惹起させます(踏み殺してしまう)。家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、このことの報い(異熟)を、どのようなものと報知しますか」と。

「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタは、思欲なきものを、罪過を有する大いなるものにあらずと報知します」と。

「家長よ、また、それで、もし、思欲するなら」と。

「尊き方よ、罪過を有する大いなるものと成ります」と。

「家長よ、また、ニガンタ・ナータプッタは、思欲を、どこにおいて報知しますか」と。

「尊き方よ、意の棒において」と。

「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れていますか」と。

「尊き方よ、そのとおりです。このナーランダーは、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、多くの人たちがいて、人間たちで満ち溢れています」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、剣を引き抜いた人がやってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その剣を引き抜いた人は、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことができますか」と。

「尊き方よ、たとえ、十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、二十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、三十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、四十者の人なるも、尊き方よ、たとえ、五十者の人なるも、すなわち、このナーランダーにいるかぎりの命あるものたちである、それらのものたちを、一つの瞬間をもって、一つの寸時をもって、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すことはできません。まさに、どうして、一者の卑賎なる人が、美しく輝くというのでしょう」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。ここに、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、やってくるとします。彼が、このように説くとします。『わたしは、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すであろう』と。家長よ、それを、どう思いますか。いったい、まさに、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができますか」と。

「尊き方よ、たとえ、十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、二十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、三十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、四十のナーランダーなるも、尊き方よ、たとえ、五十のナーランダーなるも、その、神通があり、心の自在に至り得た、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、このナーランダーを、一つの意の憤怒によって、灰と為すことができます。まさに、どうして、一つの卑賎なるナーランダーが、美しく輝くというのでしょう」と。

「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。

「尊き方よ、たとえ、何であれ、世尊が、このように言ったとして、そこで、まさに、身体の棒こそは、より罪過を有する大いなるものです——悪しき行為の作用あるための、悪しき行為の転起あるための。そのように、言葉の棒はなく、そのように、意の棒はありません」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

「尊き方よ、そのとおりです。わたしは聞いたことがあります。ダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

「家長よ、それを、どう思いますか。あなたは聞いたことがありますか。どのようなわけで、誰によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

「尊き方よ、このことを、わたしは聞いたことがあります。聖賢たちの意の憤怒によって、そのダンダキー林とカーリンガ林とマッジャ林とマータンガ林が、林と成った林であることを」と。

「家長よ、意を為しなさい。家長よ、意を為して、まさに、説き明かしなさい。まさに、あなたの〔言葉は〕、あるいは、前と後が、あるいは、後と前が、結び付いていません。家長よ、また、まさに、あなたによって、この言葉が語られました。『尊き方よ、わたしは、真理に立脚して思い考えます。ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ』」と。

「尊き方よ、わたしは、世尊の、まさしく、最初の喩えによって、わが意を得た者となり、満悦した者となるも、しかしながら、また、わたしは、世尊の、これらの種々様々な問いへの応答を聞くことを欲する者となり、このように、わたしは、世尊に反論が為されるべきと思い考えました。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

「家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すこと(吟味・検証)を為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、なぜなら、〔教えを〕他にする異教の者の弟子であるわたしを得て、全面あまねく、ナーランダーに、『ウパーリ家長は、わたしたちの弟子として入門したのだ』と、〔告知の〕幟を行き渡らせるべきであるからです。そこで、また、しかしながら、世尊は、このように言いました。『家長よ、まさに、随知して〔そののち〕為すことを為しなさい。随知して〔そののち〕為すことは、あなたたちのような知名人にとって、善きこととして有ります』と。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、再度また、世尊を帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

「家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者(施者)として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです」と。「尊き方よ、わたしは、世尊の、この〔教相〕によってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、世尊は、わたしに、このように言いました。『家長よ、長夜にわたり、まさに、あなたの家は、ニガンタたちの給水者として有ります。それによって、彼らが〔あなたの家に〕近しく赴いたなら、〔行乞の〕食を施すべきと、〔あなたは〕思い考えるべきです』と。尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、このように言った。「まさしく、わたしに、布施は施されるべきである。他の者たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしの弟子たちに、布施は施されるべきである。他の者たちの弟子たちに、布施は施されるべきではない。まさしく、わたしに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちに施されたものは、大いなる果とならない。まさしく、わたしの弟子たちに施されたものは、大いなる果となる。他の者たちの弟子たちに施されたものは、大いなる果とならない」』と。そこで、また、しかしながら、世尊は、わたしに、ニガンタたちにたいしてもまた、布施を受持させます。尊き方よ、そして、また、わたしたちは、ここにおいて、〔正しい〕時を知るでしょう。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、三度また、世尊を帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。世尊は、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

そこで、まさに、世尊は、ウパーリ家長に、〔適切な〕順序にもとづく講話(次第説法)を話しました。それは、すなわち、この、布施についての講話を、戒についての講話を、天上についての講話を、諸々の欲望〔の対象〕の危険と卑賎と汚染を、離欲における福利を、〔順次に〕明示しました。世尊は、ウパーリ家長のことを、健全なる心の者と、柔和なる心の者と、妨げを離れる心の者と、勇躍する心の者と、清信した心の者と、了知した、そのとき、そこで、すなわち、覚者たちにとっての、高尚なる法(教え)の説示としてある、〔まさに〕その、苦しみと〔苦しみの〕集起と〔苦しみの〕止滅と〔苦しみの止滅のための〕道を明示しました。それは、たとえば、また、まさに、汚れを落とした清浄の衣が、まさしく、正しく、染料を吸収するように、まさしく、このように、ウパーリ家長に、まさしく、その坐において、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。そこで、まさに、ウパーリ家長は、法(真理)を見た者となり、法(真理)に至り得た者となり、法(真理)を見出した者となり、法(真理)を深解した者となり、疑惑を超え渡った者となり、懐疑を離れ去った者となり、離怖に至り得た者となり、教師の教えにおいて他を縁としない者となり、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、さあ、では、今や、わたしたちは赴きます。わたしたちは、多くの義務があり、多くの用事があるのです」と。「家長よ、今が、そのための時と、あなたが思うのなら〔思いのままに〕」と。

そこで、まさに、ウパーリ家長は、世尊の語ったことを大いに喜んで、随喜して、坐から立ち上がって、世尊を敬拝して、右回り〔の礼〕を為して、自らの住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、門番に告げました。「友よ、門番よ、今日以後、〔わたしは〕ニガンタたちと女性のニガンタたちには、門を閉ざす。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者(優婆塞)たちと女性在俗信者(優婆夷)たちには、門が閉ざされることはない。それで、もし、誰であれ、ニガンタがやってくるなら、〔まさに〕その、この者に、あなたは、このように説くのだ。『尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えました。

まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』と耳にしました。そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『どうやら、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したらしい』」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは……略……。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。「尊き方よ、さあ、わたしは赴きます。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、まずは、〔それを〕知るのです」と。「タパッシンよ、あなたは赴きなさい。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、〔それを〕知りなさい」と。

そこで、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタのディーガ・タパッシンが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタのディーガ・タパッシンに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、わたしに、〔行乞の〕食に義(目的)はありません」と説いて、そののち、引き返して、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。まさに、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのは。尊き方よ、このことを、まさに、あなたの〔承諾を〕、わたしは得ませんでした。『尊き方よ、すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの論を論破するのは、まさに、わたしにとって好ましくありません。尊き方よ、なぜなら、幻術師の沙門ゴータマは、誘引の幻術を知っているからです。それによって、〔教えを〕他にする異教の者たちの弟子たちを転向させます』と〔言うも〕。尊き方よ、まさに、あなたの〔弟子である〕ウパーリ家長は、沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引されました」と。「タパッシンよ、まさに、このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、ウパーリ家長が、沙門ゴータの弟子として入門することになるのは。しかしながら、まさに、この状況は見出される。すなわち、沙門ゴータが、ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。再度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは」と。三度また、まさに、ニガンタのディーガ・タパッシンは、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさしく、本当です。……略……ウパーリ家長の弟子として入門することになるのは。タパッシンよ、では、さあ、わたしは赴く。あるいは、もしくは、ウパーリ家長が、沙門ゴータマの弟子として入門したのか、あるいは、もしくは、〔そのようなことは〕ないのか、そして、まずは、〔それを〕知るのだ」と。

そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、ウパーリ家長の住居地のあるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、止まりたまえ。入ってはいけません。今日以後、ウパーリ家長は、沙門ゴータマの弟子として入門したのです。ニガンタたちと女性のニガンタたちに、門は閉ざされました。世尊の比丘たちと比丘尼たちと在俗信者たちと女性在俗信者たちには、門が閉ざされることはありません。尊き方よ、それで、もし、あなたに、〔行乞の〕食に義(目的)があるなら、まさしく、ここにおいて、立ちたまえ。まさしく、ここにおいて、あなたにお持ちするでしょう」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ウパーリ家長に、このように説きなさい。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ニガンタ・ナータプッタに答えて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、大いなるニガンタの衆と共に、門小屋の外に立っています。彼は、あなたと会見することを欲しています」と。「友よ、門番よ、まさに、それでは、中央の門堂に諸々の坐を設けなさい」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、中央の門堂に諸々の坐を設けて、ウパーリ家長のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ウパーリ家長に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、中央の門堂に諸々の坐が設けられました。今が、そのための時と思うのなら〔思いのままに〕」と。

そこで、まさに、ウパーリ家長は、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、門番に告げました。「友よ、門番よ、まさに、それでは、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、このように説きなさい。『尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。「尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら」』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、門番は、ウパーリ家長に答えて、ニガンタ・ナータプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、ウパーリ家長は、このように言いました。『尊き方よ、まさに、入りたまえ。それで、もし、望むなら』」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタは、大いなるニガンタの衆と共に、中央の門堂のあるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、ウパーリ家長は、すなわち、まさに、過去においては、すなわち、ニガンタ・ナータプッタが、はるか遠くから、やってくるのを見るなら、見て、そののち、〔彼を〕出迎えて、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、それを、上衣で掃き清めて、遍く収め取って、坐らせたのですが、それが、今や、そこにおいて、その坐が、かつまた、至高であり、かつまた、最勝であり、かつまた、精妙であるなら、そこにおいて、自ら坐って、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。このように説かれたとき、ニガンタ・ナータプッタは、ウパーリ家長に、こう言いました。「家長よ、狂者として、あなたは存している。家長よ、愚者として、あなたは存している。『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、それは、たとえば、また、人が、睾丸を奪う者として赴いて、〔両の〕睾丸を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、眼を奪う者として赴いて、〔両の〕眼を引き抜かれ、戻ってくるようなものだ。家長よ、まさしく、このように、まさに、あなたは、『尊き方よ、わたしは赴きます。沙門ゴータの論を論破しましょう』と赴いて、大いなる論の群結によって縺れ絡まった者として存し、戻ってきたのだ。家長よ、まさに、あなたは存している——沙門ゴータマによって、誘引の幻術によって、誘引された者として」と。

「尊き方よ、幸いなるものは、誘引の幻術です。尊き方よ、善きものなるは、誘引の幻術です。尊き方よ、わたしの愛しい親族や血縁たちが、この誘引によって転向するなら、わたしの愛しい親族や血縁たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての士族たちが、この誘引によって転向するなら、全ての士族たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、全ての婆羅門たちが……庶民たちが……奴隷たちが、この誘引によって転向するなら、全ての奴隷たちにとってもまた、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、もし、また、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕が、天〔の神〕や人間を含む人々が、この誘引によって転向するなら、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとってもまた、天〔の神〕や人間を含む人々にとっても、長夜にわたり、利益のために〔存し〕、安楽のために存するでしょう。尊き方よ、まさに、それでは、あなたのために、喩えを為しましょう。喩えによってもまた、ここに、一部の識者たる人たちは、語られたことの義(意味)を了知します。

尊き方よ、過去の事ですが、或るひとりの、老い朽ち、年長となり、老練の婆羅門に、妊婦で臨月の、若く幼い夫人が有りました。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。このように説かれたとき、その婆羅門は、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、まずは、待ってください。すなわち、出産するまで。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童子を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雄の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう。尊き方よ、それで、もし、あなたが、童女を出産するなら、〔まさに〕その、あなたのために、わたしは、雌の小猿を、店から買って、連れてきましょう。それは、あなたの童女の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、再度また、まさに、その若い〔夫人〕は……略……。尊き方よ、三度また、まさに、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、雄の小猿を、店から買って、連れてきてくださいな。それは、わたしの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、雄の小猿を、店から買って、連れてきて、その若い〔夫人〕に、こう言いました。『尊き方よ、これが、あなたのために、店から買って、連れてきた、雄の小猿です。それは、あなたの童子の遊び相手と成るでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、その若い〔夫人〕は、その婆羅門に、こう言いました。『婆羅門よ、赴きなさい。あなたは、この雄の小猿を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、このように説きなさい。「友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を」』と。

尊き方よ、そこで、まさに、その若い〔夫人〕にたいし貪染し、心が結縛された者である、その婆羅門は、その雄の小猿を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この雄の小猿を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この雄の小猿は、まさに、染料への忍耐あるも、まさに、打ち叩くには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、愚者であるニガンタたちの論はあります。まさに、愚者であり賢者ならざる者たちの〔論は〕、まさに、染料への忍耐あるも、専念するには忍耐がなく、磨くには忍耐がありません。尊き方よ、そこで、まさに、その婆羅門は、他時にあって、新しいひと組の布地を携えて、染色師の子のラッタパーニのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、染色師の子のラッタパーニに、こう言いました。『友よ、ラッタパーニよ、わたしは求めます。黄染めという名の染料の類に染められ、表裏に打ち叩かれ、両面が磨かれた、この新しいひと組の布地を』と。尊き方よ、このように説かれたとき、染色師の子のラッタパーニは、その婆羅門に、こう言いました。『まさに、あなたの、この新しいひと組の布地は、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、打ち叩くにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります』と。尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼の、阿羅漢にして正等覚者たる世尊の、論はあります。賢者であり愚者ならざる者たちの〔論は〕、まさしく、そして、染料への忍耐もあり、かつまた、専念するにも忍耐があり、さらに、磨くにも忍耐があります」と。

「家長よ、まさに、王を含む衆が、このように知る。『ウパーリ家長は、ニガンタ・ナータプッタの弟子である』と。家長よ、あなたのことを、誰の弟子と、〔わたしたちは〕保持するのだ」と。このように説かれたとき、ウパーリ家長は、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、ニガンタ・ナータプッタに、こう言いました。「尊き方よ、まさに、それでは、聞きたまえ。彼の弟子として、わたしがある、〔そのとおりに〕」と。

〔そこで、詩偈に言う〕「慧者にして、迷妄を離れ去り、杭を壊し去り、征圧するべきものを征圧した者の——煩悶なく、心が極めて平静にして、戒が増大し、善き智慧ある者の——〔世俗の〕不正を超え渡り、〔世俗の〕垢を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

懐疑なく、満足し、世の財貨を吐き捨て、歓喜した者の——〔自らを〕沙門と為した人間にして、最後の肉体ある人の——喩えなき者にして、〔世俗の〕塵を離れる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

憂慮なく、智者にして、導き手たる、優れた馭者の——無上なる者にして、光輝の法(教え)ある者の、疑いなき者にして、光り輝く者の——〔我想の〕思量(:自我意識)を断ち切った、勇者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

雄牛たる者にして、無量なる者の、深遠なる者にして、寂黙に至り得た者の——平安を作り為す者にして、知者たる者の、法(正義)に依って立ち、自己が統御された者の——執着を超え行き、解脱者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

龍象たる者にして、辺境に臥す者の、束縛するものが滅尽した、解脱者の——〔他に〕対する明慧ある者にして、清き者の、〔高慢の〕旗を降ろし、貪欲を離れた者の——調御者にして、虚構なき者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

第七の聖賢にして、虚言なき者の、三つの明知ある者にして、梵に至り得た者の——沐浴者にして、詩句に通じる者の、静息者にして、知を見出した者の——都に施す者たる釈迦〔族〕の世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

聖者にして、自己を修めた者の、至り得るものに至り得た者にして、文典の精通者の——気づきある者にして、〔あるがままの〕観察者の、曲がることなき者にして、逸れることなき者の——〔心が〕不動の者にして、〔心の〕自在に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

正しき至達者にして、瞑想者の、障りあるものに従い行くことなく、清浄なる者の——依存なき者にして、利益ある者の、遠離した者にして、至高のものに至り得た者の——超渡した者にして、〔他を〕超渡させる者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

寂静者にして、広き智慧ある者の、偉大なる智慧ある者にして、貪欲を離れた者の——如来にして、善き至達者たる者の、対する人なく、同等の者なき者の——離怖の者にして、精緻の者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している。

渇愛を断つ、覚者の、煙を離れた、汚れなき者の——〔供物を〕捧げられるべき者にして、夜叉たる者の、最上の人にして、無比なる者の——偉大なる者にして、至高の福徳に至り得た者たる世尊の、彼の弟子として、わたしは〔世に〕存している」と。

「家長よ、また、いつ、あなたによって、これらの沙門ゴータマへの褒め称えが集められたのだ」と。「尊き方よ、それは、たとえば、また、種々なる花からなる大いなる花の群落があるとして、〔まさに〕その、この〔大いなる花の群落〕を、能ある、あるいは、花飾師が、あるいは、花飾師の内弟子が、様々な彩りある花飾に結び束ねるように、尊き方よ、まさしく、このように、まさに、彼は、世尊は、幾多の褒め称えある者であり、幾百の褒め称えある者です。尊き方よ、まさに、誰が、褒め称えに値する者の褒め称えを為さないというのでしょう」と。そこで、まさに、ニガンタ・ナータプッタが、世尊への〔ウパーリ家長の〕尊敬に耐えられずにいると、まさしく、その場において、熱血が、口から吹き上がった、ということです。

ウパーリの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

注釈【4】