このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。
「友よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知します。友よ、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しません。友よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知します。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、下劣なる人と告げ知らされます。友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、この者は、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、最勝の人と告げ知らされます」と。
このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか。友よ、サーリプッタよ、また、何を因として、何を縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ、一者は、最勝の人と告げ知らされるのですか」と。
「友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせないでしょうし、努力しないでしょうし、精進に励まないでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。
友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、かつまた、塵に、かつまた、錆に、覆い包まれているとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、完全なる清浄にして完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れを有する者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れが存在する』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。その穢れの捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせるでしょうし、努力するでしょうし、精進に励むでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。
友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益せず、かつまた、遍く清めず、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きます。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、錆にまみれたものとなり、より汚染されたものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知しない、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為すでしょうし、浄美の形相へと意を為すことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させるでしょう。彼は、貪欲を有し、憤怒を有し、迷妄を有し、穢れを有する者として、汚染された心の者として、命を終えるでしょう。
友よ、そこで、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、主人たちが、まさしく、そして、遍く受益し、かつまた、遍く清め、さらに、それを、塵ある道のうえに捨て置きません。友よ、まさに、このように〔為すなら〕、その銅の鉢は、他時にあって、完全なる清浄にして完全なる清白のものとして存するでしょうか」と。「友よ、そのとおりです」と。「友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、まさしく、穢れなき者として〔世に〕存しつつ、『わたしの内に、穢れは存在しない』と、事実のとおりに覚知する、この人ですが、彼には、このことが待っています。浄美の形相に意を為さないでしょうし、浄美の形相へと意を為さないことから、貪欲〔の思い〕が、彼の心を転落させることはないでしょう。彼は、貪欲なく、憤怒なく、迷妄なく、穢れなき者として、汚染されていない心の者として、命を終えるでしょう。
友よ、モッガッラーナよ、まさに、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れを有する者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます。友よ、モッガッラーナよ、また、これを因として、これを縁として、それによって、まさしく、穢れなき者たちとして〔世に〕存している、これらの二者の人のなかの、一者は、下劣なる人と告げ知らされ一者は、最勝の人と告げ知らされます」と。
「友よ、『穢れ』『穢れ』と説かれます。友よ、いったい、まさに、これは、何の同義語なのですか。すなわち、この、『穢れ』〔とは〕」と。「友よ、まさに、これは、諸々の悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、〔わたしは〕罪を犯した者として存している。しかしながら、わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知るべきにあらず』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、『罪を犯した者である』と知ることです。『わたしのことを、比丘たちは、「罪を犯した者である」〔と〕知る』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。わたしのことを、比丘たちは、内密に叱責するべきである——僧団の中において、ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、その比丘のことを、比丘たちが、僧団の中において叱責することです——内密に、ではなく。『わたしのことを、比丘たちは、僧団の中において叱責する——内密に、ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『さてまた、まさに、罪を犯した者として、〔わたしは〕存している。対する人を有する者(同等の者)が、わたしを叱責するべきである——対する人なき者ではなく』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、対する人なき者が、その比丘を叱責することです——対する人を有する者ではなく。『対する人なき者が、わたしを叱責する——対する人を有する者ではなく』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、教師は、まさしく、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、教師が、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示することです。教師が、その比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『教師は、他の比丘に質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示する。教師は、わたしに質問しては質問して、比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、比丘たちは、まさしく、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきである。比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、比丘たちが、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ることです。比丘たちが、その比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入ること、ではなく。『比丘たちは、他の比丘を先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入る。比丘たちは、わたしを先頭にしては先頭にして、村に、食事のために入らない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきである。他の比丘は、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得るべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ることです。その比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得る。わたしは、食堂において、至高の坐を、至高の水を、至高の〔行乞の〕食を、得ない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきである。他の比丘は、食堂において、食事を終えた者として随喜するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜することです。その比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜すること、ではなく。『他の比丘が、食堂において、食事を終えた者として随喜する。わたしは、食堂において、食事を終えた者として随喜しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った比丘たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、林園に至った比丘尼たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……在俗信者(優婆塞)たちに、法(教え)を説示するべきである。……略……女性在俗信者(優婆夷)たちに、法(教え)を説示するべきである。他の比丘は、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示することです。その比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示すること、ではなく。『他の比丘が、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示する。わたしは、林園に至った女性在俗信者たちに、法(教え)を説示しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、比丘たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、比丘たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしを、比丘尼たちは……略……在俗信者たちは……略……女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきである。他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養することです。その比丘を、女性在俗信者たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養すること、ではなく。『他の比丘を、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。わたしを、女性在俗信者たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養しない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる衣料の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる衣料の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる衣料の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、ここに、一部の比丘に、このように、欲求が生起することです。『ああ、まさに、まさしく、わたしが、諸々の精妙なる〔行乞の〕施食の得者として存するべきである。……略……諸々の精妙なる臥坐具の……略……諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として存するべきである。他の比丘は、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存するべきではない』と。友よ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存することです。その比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存すること、ではなく。『他の比丘が、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存する。わたしは、諸々の精妙なる病のための日用品たる薬の必需品の得者として存さない』と、かくのごとく、彼は、激情した者と成り、満足しない者と〔成ります〕。友よ、まさしく、そして、まさに、その激情は、さらに、その不興は、これは、両者ともに、穢れです。
友よ、まさに、これは、これらの悪しき善ならざる欲求の行境の同義語です。すなわち、この、『穢れ』とは。
友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、あるいは、蛇の死骸を、あるいは、犬の死骸を、あるいは、人間の死骸を、置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適わない〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪〔の思い〕が確立し、さらに、忌避〔の思い〕が確立し、飢えている者たちにもまた、食欲は存さないでしょう——満腹している者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、たとえ、何であれ、彼が、林にある者として、辺地の臥坐所にある者として、〔行乞の〕施食の者として、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として、糞掃衣の者として、粗末な衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、まさしく、そして、尊敬せず、尊重せず、思慕せず、供養しません。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔いまだ〕捨棄されていないのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。
友よ、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、店から、あるいは、鍛冶屋の家から、運ばれた銅の鉢があり、完全なる清浄にして完全なる清白のものであるとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕に、主人たちが、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味を置き据えて、他の銅の鉢で覆い包んで、市場に行くとします。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、人々は見て、このように説くでしょう。『さて、これは、まさしく、何が運ばれるのだ。由緒ある逸品のようだ』と。〔まさに〕その、この〔銅の鉢〕を、立ち上がって、開いて、眺め見ます。その〔銅の鉢〕を見ると共に、そして、意に適う〔思い〕が確立し、かつまた、嫌悪ならざる〔思い〕が確立し、さらに、忌避ならざる〔思い〕が確立し、満腹している者たちにもまた、食欲が存するでしょう——飢えている者たちであるなら、なおのことです。友よ、まさしく、このように、まさに、彼が誰であれ、比丘の、これらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるなら、さらに、聞かれるなら、彼が、村の外れに住ある者として、〔食事に〕招かれる者として、家長の衣料の保持者として、〔世に〕有るも、そこで、まさに、梵行を共にする者たちは、彼を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養します。それは、何を因とするのですか。なぜなら、その尊者の、それらの悪しき善ならざる欲求の行境が〔すでに〕捨棄されているのが、まさしく、そして、見られるからであり、さらに、聞かれるからです」と。
このように説かれたとき、尊者マハー・モッガッラーナは、尊者サーリプッタに、こう言いました。「友よ、サーリプッタよ、わたしに、喩えが明白となります(喩えが思い浮かびます)」と。「友よ、モッガッラーナよ、あなたに、〔喩えが〕明白となれ(それを語ってください)」と。「友よ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハ(王舎城)に住んでいます。ギリッバジャ(王舎城の別名)において。友よ、そこで、まさに、わたしは、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。また、まさに、その時点にあって、車工の子のサミーティが、車の外輪を加工します、〔まさに〕その、この者のもとに、以前に車工の子であるアージーヴァカ(活命者・邪命外道)のパンドゥプッタが現われるところと成ります。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、このような心の思索が浮かびました。『ああ、まさに、この者は、車工の子のサミーティは、この外輪の、かつまた、この湾曲を、かつまた、この歪曲を、かつまた、この汚点を、加工するべきである。このように、この外輪は、湾曲を離去し、歪曲を離去し、汚点を離去し、清浄なるものとなり、芯において確立したものとなり、存するべきである』と。友よ、そのとおり、そのとおりに、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタに、心の思索が有るなら、そのとおり、そのとおりに、車工の子のサミーティは、その外輪の、かつまた、その湾曲を、かつまた、その歪曲を、かつまた、その汚点を、加工します。友よ、そこで、まさに、以前に車工の子であるアージーヴァカのパンドゥプッタは、わが意を得た者となり、わが意を得た言葉を放ちました。『思うに、心臓から心臓を了知して加工するのだ(わたしの心を読んで作業する)』と。
友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信なき者たちであり、生計を義(目的)とする者たちであり、信によって家から家なきへと出家した者たちではなく、狡猾ある者たちであり、幻惑ある者たちであり、欺瞞ある者たちであり、〔心が〕高揚した者たちであり、傲慢なる者たちであり、軽薄なる者たちであり、駄弁の者たちであり、言葉が乱れ飛ぶ者たちであり、諸々の〔感官の〕機能(根)において門が守られていない者たちであり、食において量を知らない者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念しない者たちであり、沙門の資質において期待なき者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕なき者たちであり、贅沢の者たちであり、緩慢なる者たちであり、堕落させるものにおける先行者たちであり、遠離〔の境地〕にたいし荷を置いた者たちであり、怠惰の者たちであり、精進に劣る者たちであり、気づきが忘却された者たちであり、正知なき者たちであり、〔心が〕定められていない者たちであり、混迷した心の者たちであり、智慧浅き者たちであり、蒙者たちであるなら、尊者サーリプッタは、彼らのために、この法(教え)の教相によって、思うに、心臓から心臓を了知して加工するのです。
いっぽう、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです——まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』と。友よ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン)の花飾を、あるいは、アティムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置くように、友よ、まさしく、このように、まさに、すなわち、それらの人たちが、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちであり、狡猾なき者たちであり、幻惑なき者たちであり、欺瞞なき者たちであり、〔心が〕高揚しない者たちであり、傲慢ならざる者たちであり、軽薄ならざる者たちであり、口悪しくない者たちであり、言葉が乱れ飛ばない者たちであり、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者たちであり、食において量を知る者たちであり、〔眠らずに〕起きていることに専念する者たちであり、沙門の資質において期待ある者たちであり、学びにたいし強き尊重〔の思い〕ある者たちであり、贅沢の者たちではなく、緩慢なる者たちではなく、堕落させるものにたいし荷を置いた者たちであり、遠離〔の境地〕における先行者たちであり、精進に励む者たちであり、自己を精励する者たちであり、気づきが現起された者たちであり、正知の者たちであり、〔心が〕定められた者たちであり、一境の心の者たちであり、智慧ある者たちであり、蒙なき者たちであるなら、彼らは、尊者サーリプッタのこの法(教え)の教相を聞いて、思うに、飲み込み、思うに、飲み下すのです——まさしく、そして、言葉によって、さらに、意によって。『ああ、まさに、善きかな、梵行を共にする者たちを、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる』」と。まさに、かくのごとく、それらの大いなる龍象たる両者は、互いに他の善く語られたものを等しく随喜した、ということです。
穢れなき者の経は終了となり、〔以上が〕第五となる。
Commentaries [4]
English
Việt Ngữ