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中部経典

MN61. アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経

翻訳【35】

アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、尊者ラーフラは、アンバラッティカー〔の園地〕に住んでいます。そこで、まさに、世尊は、夕刻時に、静坐から出起し、アンバラッティカー〔の園地〕のあるところに、尊者ラーフラのいるところに、そこへと近づいて行きました。まさに、尊者ラーフラは、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、坐を設けました——さらに、〔両の〕足のための水を。世尊は、設けられた坐に坐りました。坐って、〔両の〕足を洗いました。まさに、尊者ラーフラもまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。

そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を水入れのなかに据え置いて、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この僅かな残り水が水入れのなかに据え置かれているのを」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「ラーフラよ、このように僅かなものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります——正知の者として虚偽を説くこと(故意の嘘)にたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、僅かな残り水を捨て放って、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、僅かな残り水が捨て放たれたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように捨て放たれたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります——正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを倒して、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが倒されたのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように倒されたものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります——正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには」と。そこで、まさに、世尊は、その水入れを起こして、尊者ラーフラに告げました。「ラーフラよ、まさに、あなたは見ますか、この水入れが空虚で虚妄であるのを」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「ラーフラよ、このように空虚で虚妄のものとして、まさに、それらの者たちの沙門の資質はあります——正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しない、それらの者たちには。ラーフラよ、それは、たとえば、また、轅(車に着ける二本の長い棒)の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守るとします。そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為すも、まさしく、鼻を守る。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られていない(命を惜しんでいる)』と。ラーフラよ、すなわち、まさに、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象が、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し……略……尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為すことから、そこにおいて、象に乗る者に、このような〔思いが〕有ります。『まさに、この、轅の牙があり、巨大にして、善き生まれの、戦場を行境とする王の象は、戦場に赴き、〔両の〕前足によってもまた行為を為し、〔両の〕後足によってもまた行為を為し、前身によってもまた行為を為し、後身によってもまた行為を為し、頭によってもまた行為を為し、〔両の〕耳によってもまた行為を為し、〔両の〕牙によってもまた行為を為し、尾によってもまた行為を為し、鼻によってもまた行為を為す。まさに、王の象の生命は、完全に捨て去られている(命を惜しんでいない)。今や、王の象に、何であれ、為さずにいられることは存在しない(どんなことでもする)』と。ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、誰であれ、彼に、正知の者として虚偽を説くことにたいし、恥〔の思い〕が存在しないなら、『彼には、何であれ、為さずにいられる悪はない』と、わたしは説きます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、あなたは、『たとえ、笑い事でも、〔わたしは〕虚偽を語らないのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。

ラーフラよ、それを、どう思いますか。鏡は、何を義(目的)とするのですか」と。「尊き方よ、注視を義(目的)とします」と。「ラーフラよ、まさしく、このように、まさに、注視しては注視して、身体による行為が為されるべきであり、注視しては注視して、言葉による行為が為されるべきであり、注視しては注視して、意による行為が為されるべきです。ラーフラよ、あなたが、まさしく、その身体による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報い(異熟)があるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為が為されるべきです。

ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の身体による行為を堅持するべきです。

ラーフラよ、あなたが、身体による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その身体による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この身体による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の身体による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この身体による行為であるが、わたしの、この身体による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この身体による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです——諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

ラーフラよ、あなたが、まさしく、その言葉による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為が為されるべきです。

ラーフラよ、あなたが、言葉による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の言葉による行為を堅持するべきです。

ラーフラよ、あなたが、言葉による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その言葉による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この言葉による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の言葉による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この言葉による行為であるが、わたしの、この言葉による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この言葉による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです——諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

ラーフラよ、あなたが、まさしく、その意による行為を為すことを欲する者と成ったなら、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになるのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになり、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することになる。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、可能であるかぎりは、為されるべきではありません。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為すことを欲する、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはなく、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起することはない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為が為されるべきです。

ラーフラよ、あなたが、意による行為を為しながらもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を取り払うべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為す、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、このような形態の意による行為を堅持するべきです。

ラーフラよ、あなたが、意による行為を為してもまた、あなたによって、まさしく、その意による行為が注視されるべきです。『いったい、まさに、すなわち、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起するのでは。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがあるのでは』と。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起する。この意による行為は、善ならざるものであり、苦痛を生成するものであり、苦痛の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたによって、このような形態の意による行為は、あるいは、教師にたいし、あるいは、梵行を共にする識者たちにたいし、説示されるべきであり、開顕されるべきであり、明瞭と為されるべきです。説示して、開顕して、明瞭と為して、未来に、統御が惹起されるべきです。ラーフラよ、また、それで、もし、あなたが、注視しながら、『すなわち、まさに、わたしが為した、この意による行為であるが、わたしの、この意による行為は、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起しない。この意による行為は、善なるものであり、安楽を生成するものであり、安楽の報いがある』と、このように知るなら、ラーフラよ、あなたは、まさしく、その喜悦と歓喜とともに〔世に〕住むべきです——諸々の善なる法(性質)において、昼夜に随学する者となり。

ラーフラよ、まさに、彼らが誰であれ、過去の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めたなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めました。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、未来の時に、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるであろうなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めるでしょう。ラーフラよ、まさに、また、彼らが誰であれ、今現在、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、身体による行為を完全に清め、言葉による行為を完全に清め、意による行為を完全に清めるなら、彼らの全てが、まさしく、このように、注視しては注視して、身体による行為を完全に清め、注視しては注視して、言葉による行為を完全に清め、注視しては注視して、意による行為を完全に清めます。ラーフラよ、それゆえに、ここに、『注視しては注視して、身体による行為を完全に清めのだ。注視しては注視して、言葉による行為を完全に清めのだ。注視しては注視して、意による行為を完全に清めるのだ』と、ラーフラよ、まさに、このように、あなたは学ぶべきです」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ラーフラは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

アンバラッティカー〔の園地〕におけるラーフラへの教諭の経は終了となり、〔以上が〕第一となる。

注釈【4】