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翻訳【26】

ナラカパーナの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕に住んでおられます。ナラカパーナのパラーサ林において。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちが、世尊を指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちとして〔世に〕有ります——かつまた、尊者アヌルッダであり、かつまた、尊者バッディヤであり、かつまた、尊者キミラであり、かつまた、尊者バグであり、かつまた、尊者コンダンニャであり、かつまた、尊者レーヴァタであり、かつまた、尊者アーナンダであり、さらに、他の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された良家の子息たちです。また、まさに、その時点にあって、世尊は、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でいます。そこで、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。このように説かれたとき、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。再度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。再度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。三度また、まさに、世尊は、それらの良家の子息たちに関して、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、すなわち、彼らが、わたしを指定して、信によって家から家なきへと出家した者たちであるなら、比丘たちよ、どうでしょう、それらの比丘たちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。三度また、まさに、それらの比丘たちは、沈黙の者たちと成りました。

そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「それなら、さあ、わたしは、それらの良家の子息たちに尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、尊者アヌルッダに告げました。「アヌルッダよ、どうでしょう、あなたたちは、梵行を喜び楽しむ者たちですか」と。「尊き方よ、たしかに、わたしたちは、梵行を喜び楽しむ者たちです」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、まさに、このことは、信によって家から家なきへと出家した良家の子息たちである、あなたたちにとって、適切なることです。すなわち、あなたたちが、梵行を喜び楽しむことです。アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちとして、すなわち、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者たちとして、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益できるのに、アヌルッダよ、あなたたちは、若き黒髪の者たちでありながら、〔まさに〕その、幸いなる若さの初年期を具備した者たちでありながら、家から家なきへと出家したのです。アヌルッダよ、また、まさに、そして、〔まさに〕その、あなたたちは、まさしく、王に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、盗賊に強制され、家から家なきへと出家したのでもなく、借金に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、恐怖に苦悩し、家から家なきへと出家したのでもなく、生き方として〔生来の〕性向であるから、家から家なきへと出家したのでもなく、そして、また、まさに、『生に、老に、死に、諸々の憂いに、諸々の嘆きに、諸々の苦痛に、諸々の失意に、諸々の葛藤に、〔これらに〕沈んだ者として、〔わたしは〕存している。苦しみに沈んだ者であり、苦しみに打ち負かされた者であるも、まさしく、また、まさに、この全部の苦しみの範疇の終極を為すことが、覚知されるはずなのだ』と、アヌルッダよ、まさに、あなたたちは、このように、信によって家から家なきへと出家したのではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」と。「アヌルッダよ、また、そして、このように出家した良家の子息が為すべきこととして、何が、存するべきですか。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に——〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住し、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住します。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に——〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、他の、それよりもより寂静なるものに〔到達しないなら〕

アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に——〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕、彼には、強欲〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、憎悪〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕沈滞と眠気もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、〔心の〕高揚と悔恨もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、疑惑〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、不満〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住せず、倦怠〔の思い〕もまた、〔彼の〕心を完全に奪い去って止住しません。アヌルッダよ、諸々の欲望〔の対象〕からの遠離に、諸々の悪しき法(性質)からの遠離に——〔すなわち、遠離による〕喜悦と安楽に到達するなら、あるいは、他の、より寂静なるものに〔到達するなら〕

アヌルッダよ、あなたたちに、わたしにたいし、どうでしょう、かくのごとく〔思いが〕有りますか。『すなわち、諸々の煩悩()である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いは〕有りません。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔いまだ〕捨棄されていない。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』と。尊き方よ、まさに、わたしたちに、世尊にたいし、このような〔思いが〕有ります。『すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものが、さらなる生存あるものが、懊悩を有するものが、苦痛の報いあるものが、未来に生と老と死となるものが、それらが、如来には、〔すでに〕捨棄されている。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去する』」と。「アヌルッダよ、善きかな、善きかな。アヌルッダよ、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。アヌルッダよ、それは、たとえば、また、ターラ〔樹〕が、頭頂を断ち切られたなら、ふたたび成長することが不可能となるように、アヌルッダよ、まさしく、このように、まさに、如来の、すなわち、諸々の煩悩である、〔心の〕汚染あるものは、さらなる生存あるものは、懊悩を有するものは、苦痛の報いあるものは、未来に生と老と死となるものは、〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。それゆえに、如来は、究明して〔そののち〕、或るものを受用し、究明して〔そののち〕、或るものを甘受し、究明して〔そののち〕、或るものを回避し、究明して〔そののち〕、或るものを除去します。

アヌルッダよ、それを、どう思いますか。どのような義(利益)たる所以を正しく見ながら、如来は、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かすのですか(授記するのか)。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』」と。「尊き方よ、わたしたちにとって、諸々の法(教え)は、世尊を根元とするものであり、世尊を導きとするものであり、世尊を帰依所とするものです。尊き方よ、どうか、まさに、まさしく、世尊に、この語られたことの義(意味)が明白となれ(世尊みずから答えてください)。世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「アヌルッダよ、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「了知において確立した」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するもの(五下分結:人を欲界に束縛する五つの煩悩)の完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するもの(三結:有身見・疑・戒禁取)の完全なる滅尽あることから、貪欲()と憤怒()と迷妄()の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘が耳にします。『某名の比丘が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「了知において確立した」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、比丘尼が耳にします。『某名の比丘尼が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、比丘尼に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、在俗信者が耳にします。『某名の在俗信者が命を終えたところ、彼は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼にとって、その尊者は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その尊者は〔世に〕有った』ともまた。彼は、その〔尊者〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者となり、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者となり、その世から戻り来る法(性質)なき者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為すであろう」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として……略……『このような智慧ある者として……『このような住ある者として……『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、ここに、女性在俗信者が耳にします。『某名の女性在俗信者が命を終えたところ、彼女は、世尊によって説き明かされた。「三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者となり、堕所の法(性質)なき者となり、決定の者となり、正覚を行き着く所とする者となる」』と。また、まさに、彼女にとって、その姉妹は、あるいは、自ら見たことがある者として有り、あるいは、聞き伝えによって聞いたことがある者として〔有ります〕。『このような戒ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような法(教え)ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような智慧ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような住ある者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた、『このような解脱者として、その姉妹は〔世に〕有った』ともまた。彼女は、その〔姉妹〕の、かつまた、信を、かつまた、戒を、かつまた、所聞を、かつまた、施捨を、かつまた、智慧を、〔それらを〕隨念しながら、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、このようにもまた、まさに、女性在俗信者に、平穏の住が有ります。

アヌルッダよ、かくのごとく、まさに、如来は、人をたぶらかすことを義(目的)とせず、人に取り入ることを義(目的)とせず、利得や尊敬や名声という福利を義(目的)とせず、『かくのごとく、人は、わたしのことを知るのだ』ということではなく、弟子たちが逝去し命終したなら、諸々の再生について説き明かします。『彼は某所に再生したのだ』『彼は某所に再生したのだ』と。アヌルッダよ、そして、まさに、信ある者たちであり、秀逸なる信受ある者たちであり、秀逸なる歓喜ある者たちである、良家の子息たちが存在します。彼らは、それを聞いて、それを義(目的)として、心を近しく集中します。アヌルッダよ、それは、彼らにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成ります」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者アヌルッダは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

ナラカパーナの経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

注釈【4】