このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、カーシ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩んでいます。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、まさに、わたしは、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します(非時の食をとらない)。比丘たちよ、また、まさに、わたしは、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。比丘たちよ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益しなさい。比丘たちよ、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。そこで、まさに、世尊は、カーシ〔国〕において、順次に遊行〔の旅〕を歩みながら、キーターギリという名のカーシ〔国〕の町のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、キーターギリに住んでいます。カーシ〔国〕の町において。
また、まさに、その時点にあって、アッサジとプナッバスカという名の比丘が、キーターギリにおいて、居住者たちとして〔世に〕有ります。そこで、まさに、大勢の比丘たちが、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します——そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう」と。このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、それらの比丘たちに、こう言いました。「友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう」と。
すなわち、まさに、それらの比丘たちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、それらの比丘たちは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します——そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。尊き方よ、このように説かれたとき、アッサジとプナッバスカ比丘は、わたしたちに、こう言いました。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』と。尊き方よ、すなわち、まさに、わたしたちは、アッサジとプナッバスカ比丘を説得することができなかったことから、そこで、わたしたちは、世尊に、この義(意味)を告げます」と。
そこで、まさに、世尊は、或るひとりの比丘に告げました。「比丘よ、さあ、あなたは、わたしの言葉でもって、アッサジとプナッバスカ比丘に告げなさい。『教師が、尊者たちを呼んでいます』」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、アッサジとプナッバスカ比丘のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、アッサジとプナッバスカ比丘に、こう言いました。「教師が、尊者たちを呼んでいます」と。「友よ、わかりました」と、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘は、その比丘に答えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、アッサジとプナッバスカ比丘に、世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、本当に、まさに、大勢の比丘たちが、近づいて行って、あなたたちに、こう言ったのですか。『友よ、まさに、世尊は、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益します——そして、比丘の僧団も。友よ、また、まさに、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。友よ、さあ、あなたたちもまた、夜の食より、まさしく、他なるものとして〔食を〕受益したまえ。友よ、また、まさに、あなたたちもまた、夜の食より他なるものとして〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解するでしょう』と。比丘たちよ、このように説かれたとき、まさに、あなたたちは、それらの比丘たちに、このように言ったのですか。『友よ、まさに、わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益します。〔まさに〕その、わたしたちは、さしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益しながら、かつまた、病苦少なく、かつまた、病悩少なく、かつまた、軽快の状況にあり、かつまた、活力があり、かつまた、平穏の住あることを了解します。〔まさに〕その、わたしたちが、どうして、現に見られるものを捨棄して、時を要するものを追いかけるというのでしょう。わたしたちは、まさしく、そして、夕に、さらに、朝に、かつまた、日中の非時において、〔食を〕受益するでしょう』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、いったい、どうなのでしょう、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのですか。『それが何であれ、あるいは、安楽〔の感受〕を、あるいは、苦痛〔の感受〕を、あるいは、苦でもなく楽でもない〔感受〕を、この人士たる人が得知するなら、彼には、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは、わたしによって、このように、法(教え)が説示されたと了知するのではないですか。『すなわち、ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する。ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する。また、一部の者には、このような形態の苦痛の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、善きかな。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の安楽の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の安楽の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦痛の感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦痛の感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が激しく増大し、諸々の善なる法(性質)が遍く衰退する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を捨棄しなさい』と説きます。比丘たちよ、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、もし、わたしによって、このことが、〔いまだ〕知られず、〔いまだ〕見られず、〔いまだ〕見出されず、〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されずに有ったとして、このように、わたしが知っていないのに、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説くなら、比丘たちよ、さて、いったい、このことは、わたしにとって、適切なることと成るでしょうか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、『ここに、一部の者には、このような形態の苦でもなく楽でもない感受を感受していると、諸々の善ならざる法(性質)が遍く衰退し、諸々の善なる法(性質)が激しく増大する』と、わたしによって、このことが、〔すでに〕知られ、〔すでに〕見られ、〔すでに〕見出され、〔すでに〕実証され、智慧によって体得されていることから、それゆえに、わたしは、『〔あなたたちは〕このような形態の苦でもなく楽でもない感受を成就して、〔世に〕住みなさい』と説きます。
比丘たちよ、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きません。比丘たちよ、また、わたしは、まさしく、全ての比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きません。比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼らには、不放逸によって為されたことがあり、彼らは、放逸となることができないからです。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者(有学)たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安(軛安穏)という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、比丘たちよ、わたしは、そのような形態の比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、これらの尊者たちは、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、これらの比丘たちに、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、七つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、七つのものなのですか。両部の解脱者であり、智慧による解脱者であり、身体による実証者であり、〔正しい〕見解に至り得た者であり、信による解脱者であり、法(教え)に従い行く者であり、信に従い行く者です。
比丘たちよ、では、どのような人が、両部の解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みます——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です。そして、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『両部の解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。
比丘たちよ、では、どのような人が、智慧による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼の諸々の煩悩は、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『智慧による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことはない』と説きます。それは、何を因とするのですか。彼には、不放逸によって為されたことがあり、彼は、放逸となることができないからです。
比丘たちよ、では、どのような人が、身体による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、すなわち、それらの解脱が、寂静にして、諸々の形態を超越して形態なくあるなら、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みます。そして、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『身体による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、〔正しい〕見解に至り得た者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼に、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、しっかりと見られたものと成り、しっかりと探査されたものと〔成ります〕。比丘たちよ、この人は、『〔正しい〕見解に至り得た者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、信による解脱者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする信が、固着し、根元から生じ、確立したものと成ります。比丘たちよ、この人は、『信による解脱者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、法(教え)に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来によって知らされた諸々の法(教え)が、智慧によって、適量に納得があり受認されます。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が——それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が——有ります。比丘たちよ、この人は、『法(教え)に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、では、どのような人が、信に従い行く者なのですか。比丘たちよ、ここに、一部の人は、それら〔の解脱〕を身体によって体得して〔世に〕住みません——すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です。しかしながら、智慧によって見て、彼には、一部の諸々の煩悩が、完全に滅尽したものと成ります。そして、彼には、如来にたいする、信のみが有り、愛情のみが〔有ります〕。さらに、また、彼には、これらの法(性質)が——それは、すなわち、この、信の機能が、精進の機能が、気づきの機能が、禅定の機能が、智慧の機能が——有ります。比丘たちよ、この人は、『信に従い行く者』〔と〕説かれます。比丘たちよ、まさに、わたしは、この比丘にもまた、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。それは、何を因とするのですか。『まさしく、おそらく、まさに、この尊者は、諸々の〔真理に〕随順する臥坐所を受用しながら、善き朋友たちに親近しながら、諸々の機能を喚起しながら——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むであろう』と〔思うからです〕。比丘たちよ、まさに、わたしは、この不放逸の果を正しく見ながら、この比丘に、『不放逸によって為すべきことがある』と説きます。
比丘たちよ、わたしは、まさしく、最初から、了知の達成を説くのではありません。比丘たちよ、そして、また、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成ります。比丘たちよ、では、どのように、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、了知の達成と成るのですか。比丘たちよ、ここに、信が生じた者が、〔師のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。比丘たちよ、まさに、信も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、近づいて行くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、奉侍することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、耳を傾けることも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を聞くことも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)を保持することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、義(意味)を近しく注視することも、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、法(教え)の納得と受認も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、欲〔の思い〕も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、邁進も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、比較も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、まさに、精励も、それもまた、〔あなたたちには〕有りませんでした。比丘たちよ、邪行の実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、誤った実践者たちとして、〔あなたたちは〕存しています。比丘たちよ、これらの愚人たちは、この法(教え)と律から、まさしく、どれだけ遠くにあり、立ち去ったことか。
比丘たちよ、四つの句の説き明かしが存在します。それが誦説されたなら、識者たる人は、まさしく、長からずして、智慧によって、義(意味)を了知するでしょう。〔それを、わたしは〕誦説しましょう。比丘たちよ、あなたたちは、わたしの、その〔誦説〕を了知するでしょうか」と。「尊き方よ、さてまた、わたしたちが、何だというのでしょう、かつまた、どうして、法(教え)の了知者たちとしてあるというのでしょう」と。「比丘たちよ、すなわち、また、その教師が、財貨を重きとする者であり、財貨の相続者であり、諸々の財貨と交わり合っている者として〔世に〕住むも、彼にもまた、『そして、わたしたちに、このように存するなら、そこで、それを、〔わたしたちは〕為すのだ。そして、わたしたちに、このように存さないなら、それを、〔わたしたちは〕為さないのだ』という、このことが、このような形態の売買のようなものが、近しく至ることはありません。比丘たちよ、すなわち、如来が全てにわたり、諸々の財貨から離れ合っている者として〔世に〕住むからには、また、どうして、〔如来に、そのようなことがあるというのでしょう〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『世尊は、教師であり、わたしは、弟子として存している。世尊は、知るが、わたしは、知らない』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、教師の教えは、成長するべきものと成り、滋養あるものと〔成ります〕。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、『かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし』という、このことが、法(教え)のままなるものと成ります。比丘たちよ、信ある弟子が、教師の教えに深解して行持していると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
キーターギリの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
比丘の章は終了となり、〔以上が〕第二となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「象とラーフラと常久なる世〔界〕、そして、マールキャプッタ、バッダーリという名のもの、小さな鳥、さらに、サハンパティの乞い、ナラカと林にある者とキーターギリという名のものがあり、〔章となる〕」〔と〕。
注釈【4】
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