このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、大勢の〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園に滞在しています。それは、すなわち、この、アンナバーラ〔遍歴遊行者〕であり、ヴァラダラ〔遍歴遊行者〕であり、そして、サクルダーイン遍歴遊行者であり、さらに、他の、〔世の人々に〕証知されたうえにも証知された遍歴遊行者たちが。そこで、まさに、世尊は、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、ラージャガハに〔行乞の〕食のために入りました。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「ラージャガハを〔行乞の〕食のために歩むには、まさに、まだ、早過ぎる。それなら、さあ、わたしは、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行くのだ」と。そこで、まさに、世尊は、モーラ・ニヴァーパの遍歴遊行者の林園のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、サクルダーイン遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、坐った状態でいます——狂躁の者たちとなり、高い声をあげ大きな音をたて、無数〔の流儀〕に関した畜生の議論(無用論・無駄話)を議論している〔衆〕とともに。それは、すなわち、この、王についての議論、盗賊についての議論、大臣についての議論、軍団についての議論、恐怖についての議論、戦争についての議論、食べ物についての議論、飲み物についての議論、衣についての議論、臥具についての議論、花飾についての議論、香料についての議論、親族についての議論、乗物についての議論、村についての議論、町についての議論、城市についての議論、地方についての議論、女についての議論、勇士についての議論、道端の議論、井戸端の議論、過去の亡者(祖先)についての議論、種々なることについての議論、世についての言論、海についての言論、かく有り〔かく〕無しについての議論、あるいは、かくのごときものです。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊が、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、自らの衆を〔安息させ〕安定させました。「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。この者が、沙門ゴータマがやってくる。また、まさに、その尊者は、声少なき〔生き方〕を欲し、声少なき〔生き方〕の栄誉を説く者である。まさしく、おそらく、まさに、〔わたしたちのことを〕声少なき衆と知って、近づいて行くべきと思い考えるであろう」と。そこで、まさに、それらの遍歴遊行者たちは、沈黙の者たちと成りました。そこで、まさに、世尊は、サクルダーイン遍歴遊行者のいるところに、そこへと近づいて行きました。そこで、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、まさに、世尊は、来たれ。尊き方よ、世尊にとって、善き訪問と〔成れ〕。尊き方よ、長きのはてに、まさに、世尊は、この時機を作られました——すなわち、この、ここにやってくるために。尊き方よ、世尊は、坐りたまえ——設けられた、この坐に」と。世尊は、設けられた坐に坐りました。まさに、サクルダーイン遍歴遊行者もまた、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、サクルダーイン遍歴遊行者に、世尊は、こう言いました。
「ウダーイン(サクルダーイン)よ、いったい、どのような議論のために、ここにおいて、今現在、着坐しているのですか。また、そして、どのようなものが、あなたたちの〔いまだ決着なく〕中断した合間の議論なのですか」と。「尊き方よ、この議論は、さておくとしましょう——その議論のために、今現在、わたしたちが着坐しているとして。尊き方よ、この議論は、世尊にとって、得難きものとは成らないでしょう——のちにまた、聞くための〔機会を得るでしょう〕。尊き方よ、過日のことですが、以前、種々なる異教の沙門や婆羅門たちが、公会堂において着坐し参集していると、この合間の議論が起こりました。『ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の利得がある。ああ、まさに、アンガ〔国〕とマガダ〔国〕の者たちには、諸々の善く得られた利得がある。そこで、僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、これらの沙門や婆羅門たちが、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このプーラナ・カッサパもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。彼もまた、ラージャガハの雨期の居住所に訪れているのだ。僧団をもち、衆徒をもち、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている、これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかでは、いったい、まさに、誰が、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、誰を、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むのか』と。
そこで、一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このプーラナ・カッサパは、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのプーラナ・カッサパの弟子が、「諸君よ、プーラナ・カッサパに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、プーラナ・カッサパは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、プーラナ・カッサパの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している——糾弾された者として」「歩め——論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、プーラナ・カッサパは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、プーラナ・カッサパを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、プーラナ・カッサパは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。
一部の者たちは、このように言いました。『まさに、このマッカリ・ゴーサーラもまた……略……アジタ・ケーサカンバラもまた……パクダ・カッチャーナもまた……サンジャヤ・ベーラッタプッタもまた……ニガンタ・ナータプッタもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。しかしながら、彼は、まさに、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりのニガンタ・ナータプッタの弟子が、「諸君よ、ニガンタ・ナータプッタに、この義(意味)を尋ねてはならない。彼は、このことを知らない。わたしたちは、このことを知る。わたしたちに、この義(意味)を尋ねよ。わたしたちは、このことを、貴君たちに説き明かすであろう」と、声を上げた。過去の事だが、ニガンタ・ナータプッタは、〔両の〕腕を突き上げて泣き叫びながら、「諸君よ、声少なき者たちと成れ。諸君よ、声を上げてはならない。これらの者たちは、貴君たちに尋ねるのではない。わたしたちに、これらの者たちは尋ねる。わたしたちは、これらの者たちに説き明かすであろう」と〔言っても、承諾を〕得ない。また、まさに、多くの、ニガンタ・ナータプッタの弟子たちは、「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。〔あなたは〕存している——糾弾された者として」「歩め——論から解放されるために。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と、〔師の〕論を論破して、立ち去ったのだ。かくのごとく、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちにとって、尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されない者であり、また、そして、ニガンタ・ナータプッタを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことがない。また、さらに、ニガンタ・ナータプッタは、法(教え)への罵倒によって罵倒されたのだ』と。
一部の者たちは、このように言いました。『まさに、この沙門ゴータマもまた、まさしく、そして、僧団をもち、さらに、衆徒をもち、かつまた、衆徒の師匠として知られ、盛名ある教祖として、多くの人々に善く敬われている。そして、まさに、彼は、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む。過去の事だが、沙門ゴータマは、幾百の衆に、法(教え)を説示する。そこで、或るひとりの沙門ゴータマの弟子が、咳払いをした。まさしく、ただちに、或るひとりの梵行を共にする者が、「尊者よ、声少なき者と成れ。尊者よ、声を上げてはならない。教師が、世尊が、わたしたちに、法(教え)を説示する」と、膝で打った。その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と、待ち構える者と成る。それは、たとえば、また、まさに、人が、大きな四つ辻において、純粋なる小蜂の蜜を搾るなら、まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、待ち構える者として存するように、まさしく、このように、その時点において、沙門ゴータマが、幾百の衆に、法(教え)を説示するなら、その時点において、沙門ゴータマの弟子たちに、あるいは、くしゃみの音が有ることも、あるいは、咳払いの音が〔有ることも〕、まさしく、ない。まさしく、ただちに、大勢の人の衆は、願い求める様子で、「すなわち、世尊が、わたしたちに、法(教え)を語るなら、それを、わたしたちは聞くのだ」と、待ち構える者と成る。すなわち、また、沙門ゴータマの弟子たちが、梵行を共にする者たちと言い合いをして、学びを拒絶して、下劣なところへと逆戻りするとして(戒を捨てて還俗する)、彼らもまた、まさしく、そして、教師の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、かつまた、法(教え)の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、さらに、僧団の栄誉を説く者たちとして〔世に〕有り、「まさしく、わたしたちは、不運の者たちとして〔世に〕存している。わたしたちは、功徳少なき者たちである。〔まさに〕その、わたしたちは、このように、見事に告げ知らされた法(教え)と律において出家して、生あるかぎり、円満成就した完全なる清浄の梵行を歩むことができなかった」と、まさしく、自己を難ずる者たちとして〔世に〕有る——他者を難ずる者たちではなく。彼らは、あるいは、園丁と成り、あるいは、在俗信者と成り、五つの学びの境処(五戒)を受持して行持する。かくのごとく、沙門ゴータマは、弟子たちにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養される者であり、また、そして、沙門ゴータマを、弟子たちは、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住む』」と。
「ウダーインよ、また、あなたは、わたしにおいて、どれだけの諸々の法(性質)を等しく随観しますか。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして」と。「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。尊き方よ、まさに、世尊は、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第一の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第二の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第三の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第四の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、さらに、また、他に、世尊は、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者です。尊き方よ、すなわち、また、世尊が、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者であるのは、尊き方よ、これを、まさに、わたしは、世尊において、第五の法(性質)と等しく随観します。その〔法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
尊き方よ、まさに、わたしは、世尊において、これらの五つの法(性質)を等しく随観します。それら〔の法〕によって、世尊を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。
「ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、存在します。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、この鉢で縁まで一杯のものをもまた食べ、より一層のものをもまた食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、食少なき者であり、そして、食少なきことの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分の鞘箱〔ほどの量〕を食とする者たちもまた、ベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、半分のベールヴァ〔果ほどの量〕を食とする者たちもまた、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちが、粗末な衣料の保持者たちが、存在します。彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けます。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、諸々の家長の衣料を、諸々の堅固なものを、諸々の刃による粗末なものを、諸々の瓜の毛のようなものを、〔身に〕付けます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる衣料によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、糞掃衣の者たちは、粗末な衣料の保持者たちは、彼らは、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕付けますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちが、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちが、残飯食を掟として喜ぶ者たちが、存在します。彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、招待においてはまた、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味あるものを食べます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、〔行乞の〕施食の者たちは、〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者たちは、残飯食を掟として喜ぶ者たちは、彼らは、家の中に入り、〔そのように〕存しつつ、たとえ、坐によって招かれながらも受けませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちが、野外にある者たちが、存在します。彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきません。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、内と外が塗装され、無風で、閂が掛かり、窓が閉められた、諸々の楼閣においてもまた住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者であり、そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、木の根元にある者たちは、野外にある者たちは、彼らは、八月のあいだ、覆われたものに近づきませんが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、また、まさに、わたしの弟子たちで、林にある者たちが、辺地の臥坐所にある者たちが、存在し、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住みます。彼らは、半月ごとに、戒条(波羅提木叉:戒律条項)の誦説のために訪問し、僧団の中にあります。ウダーインよ、また、まさに、わたしは、或る時にあってはまた、比丘たちや比丘尼たちや在俗信者たちや女性在俗信者たちや王たちや王の大臣たちや異教の者たちや異教の者の弟子たちによって〔生活を〕掻き乱され、〔世に〕住みます。ウダーインよ、『沙門ゴータマは、遠離している者であり、そして、遠離の栄誉を説く者である』と、かくのごとく、もし、わたしを、弟子たちが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むとして、ウダーインよ、すなわち、それらの、わたしの弟子たちで、林にある者たちは、辺地の臥坐所にある者たちは、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に、深く分け入って住み、彼らは、半月ごとに、戒条の誦説のために訪問し、僧団の中にありますが、この法(性質)によって、わたしを、彼らが、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、かくのごとく、まさに、わたしを、弟子たちが、これらの五つの法(性質)によって、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住むことはありません。
ウダーインよ、しかしながら、まさに、他の、五つの法(性質)が存在します。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。ウダーインよ、ここに、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、戒ある者であり、最高の戒の範疇を具備した者である』と、卓越の戒について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第一の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する。証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する。因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変(変容)を有するものとして、法(教え)を説示する。神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛します。ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、まさしく、知っている者として、「〔わたしは〕知る」と言う。沙門ゴータマは、まさしく、見ている者として、「〔わたしは〕見る」と言う。沙門ゴータマは、証知して〔そののち〕、法(教え)を説示する。証知せずして、ではなく。沙門ゴータマは、因縁を有するものとして、法(教え)を説示する。因縁なきものとして、ではなく。沙門ゴータマは、神変を有するものとして、法(教え)を説示する。神変なきものとして、ではなく』と、崇高なる知見について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第二の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしを、弟子たちは、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その未来の論の道を見ずにあるであろう——あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう——という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛します。ウダーインよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、わたしの弟子たちは、このように知っているなら、このように見ているなら、中途中途で議論に割り込むでしょうか」と。
「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「ウダーインよ、また、まさに、わたしは、弟子たちにたいし、教示を願い求めません。何はともあれ、弟子たちが、まさしく、わたしに、教示を願い求めます。
ウダーインよ、すなわち、また、わたしを、弟子たちが、『沙門ゴータマは、智慧ある者であり、最高の智慧の範疇を具備した者である。まさに、その未来の論の道を見ずにあるであろう——あるいは、生起した異論を、法(真理)を共にするものによって、善く制御されたものに制御せずにあるであろう——という、この状況は見出されない』と、卓越の智慧について敬愛するのは、ウダーインよ、これは、まさに、第三の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしの弟子たちは、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理(苦諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)を……苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、すなわち、また、わたしの弟子たちが、すなわち、苦しみによって、苦しみに沈んだ者たちであり、苦しみに打ち負かされた者たちであるも、彼らは、近づいて行って、わたしに、苦しみという聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみという聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。彼らは、わたしに、苦しみの集起という聖なる真理を……苦しみの止滅という聖なる真理を……苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を尋ねます。尋ねられたわたしは、彼らに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理を説き明かします。問いへの説き明かしによって、わたしは、彼らの心を喜ばせます。ウダーインよ、これは、まさに、第四の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの気づきの確立(四念処・四念住)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます……。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの正しい精励(四正勤)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの神通の足場(四神足)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、欲〔の思い〕の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。精進の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。心の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの機能(五根)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の機能を修めます。……略……精進の機能を修めます。……気づきの機能を修めます。……禅定の機能を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の機能を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、五つの力(五力)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、寂止に至るものであり、正覚に至るものである、信の力を修めます。……略……精進の力を修めます。……気づきの力を修めます。……禅定の力を修めます。寂止に至るものであり、正覚に至るものである、智慧の力を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、七つの覚りの支分(七覚支)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……精進という正覚の支分を修めます。……喜悦という正覚の支分を修めます。……静息という正覚の支分を修めます。……禅定という正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、正しい見解を修めます。正しい思惟を修めます。正しい言葉を修めます。正しい行業を修めます。正しい生き方を修めます。正しい努力を修めます。正しい気づきを修めます。正しい禅定を修めます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの解脱(八解脱)を修めます。(1)形態ある者(色界の瞑想者)として、諸々の形態を見ます。これは、第一の解脱です。(2)内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を見ます。これは、第二の解脱です。(3)『浄美である』とだけ信念した者と成ります。これは、第三の解脱です。(4)全てにわたり、諸々の形態の表象の超越あることから、諸々の敵対の表象の滅至あることから、諸々の種々なる表象に意を為さないことから、『虚空は、終極なきものである』と、虚空無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第四の解脱です。(5)全てにわたり、虚空無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『識知〔作用〕は、終極なきものである』と、識知無辺なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第五の解脱です。(6)全てにわたり、識知無辺なる〔認識の〕場所を超越して、『何であれ、存在しない』と、無所有なる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第六の解脱です。(7)全てにわたり、無所有なる〔認識の〕場所を超越して、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を成就して〔世に〕住みます。これは、第七の解脱です。(8)全てにわたり、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所を超越して、表象と感覚の止滅を成就して〔世に〕住みます。これは、第八の解脱です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、八つの征服ある〔認識の〕場所(八勝処)を修めます。ウダーインよ、(1)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第一の征服ある〔認識の〕場所です。
(2)或る者は、内に形態の表象ある者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第二の征服ある〔認識の〕場所です。
(3)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、微小にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第三の征服ある〔認識の〕場所です。
(4)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、無量にして、善き色艶と悪しき色艶あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第四の征服ある〔認識の〕場所です。
(5)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、亜麻の花が、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、青にして、青の色艶と青の外見と青の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第五の征服ある〔認識の〕場所です。
(6)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、カニカーラの花が、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、黄にして、黄の色艶と黄の外見と黄の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第六の征服ある〔認識の〕場所です。
(7)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、バンドゥジーヴァカの花が、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、赤にして、赤の色艶と赤の外見と赤の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第七の征服ある〔認識の〕場所です。
(8)或る者は、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。それは、たとえば、また、まさに、明けの明星が、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、また、あるいは、それは、たとえば、また、バーラーナシー産のその衣が、両面が艶やかで、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるように、まさしく、このように、内に形態の表象なき者として、外に諸々の形態を、白にして、白の色艶と白の外見と白の似姿あるものと見ます。〔彼は〕『それらを征服して、〔わたしは〕知り、〔わたしは〕見る』と、このような表象ある者と成ります。これは、第八の征服ある〔認識の〕場所です。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、十の遍満の〔認識の〕場所(十遍処)を修めます。(1)或る者は、地の遍満(地遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。(2)或る者は、水の遍満(水遍)を……略……表象します。(3)或る者は、火の遍満(火遍)を……表象します。(4)或る者は、風の遍満(風遍)を……表象します。(5)或る者は、青の遍満(青遍)を……表象します。(6)或る者は、黄の遍満(黄遍)を……表象します。(7)或る者は、赤の遍満(赤遍)を……表象します。(8)或る者は、白の遍満(白遍)を……表象します。(9)或る者は、虚空の遍満(空遍)を……表象します。(10)或る者は、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、上に、下に、横に、無二なるものと〔表象し〕、無量なるものと表象します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、四つの瞑想(四禅)を修めます。ウダーインよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、沐浴師が、あるいは、沐浴師の内弟子が、諸々の沐浴粉を、銅皿のなかに降り注いで、水を振り掛け振り掛け、こねるようなものです。〔まさに〕その、この沐浴用の団子は、潤いが至り行き、潤いに取り巻かれ、内外共に潤いで充満し、そして、〔水が〕流れ出ることもありません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、遠離から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、遠離から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、〔底が〕深く、水が湧き出ている、湖水のようなものです。その〔湖〕には、まさしく、東の方角に水の流入口が存在せず、西の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、北の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、南の方角に水の流入口が〔存在せ〕ず、そして、天が、〔その〕時〔その〕時に、正しく流雨を授けないとします。そこで、まさに、まさしく、その湖水から、冷たい水流が湧き出て、まさしく、その湖水を、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。その湖水の一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、禅定から生じる喜悦と安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、禅定から生じる喜悦と安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかで生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するようなものです。それら〔の蓮〕は、そして、すなわち、先端まで、さらに、すなわち、根元まで、冷たい水によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満ち、遍く充満しています。その〔池〕の、あるいは、諸々の青蓮の、あるいは、諸々の赤蓮の、あるいは、諸々の白蓮の、一切すべてにわたり、何であれ、冷たい水で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、喜悦〔の思い〕なき安楽によって、充溢し、遍く充溢し、遍く満たし、遍く充満します。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、喜悦〔の思い〕なき安楽で充満していないものは有りません。
ウダーインよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。彼は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、白の衣を頭まで着込んで坐った〔状態〕で存在するようなものです。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、白い衣で充満していないものは存在しません。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、まさしく、この身体を、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満して、坐った状態でいます。彼の身体の一切すべてにわたり、何であれ、完全なる清浄にして完全なる清白の心で充満していないものは有りません。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』〔と〕。ウダーインよ、それは、たとえば、また、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠があるとします。そこで、その〔宝珠〕に、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が——あるいは、薄黄色の糸が——結び付けられているとします。〔まさに〕その、この〔宝珠〕を、眼ある人が、手のうえに為して注視します。『これは、まさに、善く事前作業が為された八面体の、澄んでいて清らかで、一切の行相を成就した、浄美にして天然の瑠璃の宝珠である。そこで、この、あるいは、青の、あるいは、黄の、あるいは、赤の、あるいは、白の、糸が——あるいは、薄黄色の糸が——結び付けられている』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、このように覚知します。『まさに、わたしのこの身体は、形態あるものとして、四つの大いなる元素からなり、母と父を発生とし、飯と粥の蓄積にして、無常と捻転と圧搾と破壊と砕破の法(性質)あるものである。また、そして、わたしのこの識知〔作用〕は、ここにおいて依拠し、ここにおいて結縛されている』と。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します——形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、ムンジャ〔草〕から、葦を取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、ムンジャ〔草〕である。これは、葦である。他なるものとして、ムンジャ〔草〕があり、他なるものとして、葦がある。まさしく、しかし、ムンジャ〔草〕から、葦が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、剣を、鞘から取り出すなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、剣である。これは、鞘である。他なるものとして、剣があり、他なるものとして、鞘がある。まさしく、しかし、鞘から、剣が取り出された』と。ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、人が、蛇を、脱け殻から引き抜くなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『これは、蛇である。これは、脱け殻である。他なるものとして、蛇があり、他なるものとして、脱け殻がある。まさしく、しかし、脱け殻から、蛇が引き抜かれた』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、この身体から、他の身体を化作します——形態あるものとして、意によって作られるものにして、全ての手足と肢体ある、劣ることなき〔感官の〕機能あるものとして。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます——それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します——それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます——それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます——それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、陶工が、あるいは、陶工の内弟子が、善く事前作業が為された粘土において、まさしく、それぞれの容器類を望むなら、まさしく、それぞれ〔の容器類〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、象牙の細工師が、あるいは、象牙の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された象牙において、まさしく、それぞれの象牙品を望むなら、まさしく、それぞれ〔の象牙品〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、また、あるいは、それは、たとえば、能ある、あるいは、金の細工師が、あるいは、金の細工師の内弟子が、善く事前作業が為された金において、まさしく、それぞれの金具を望むなら、まさしく、それぞれ〔の金具〕を作り、完遂させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現します。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成ります。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成ります。明現状態と〔成ります〕。超没状態と〔成ります〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きます——それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為します——それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きます——それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きます——それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわします。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます——それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。ウダーインよ、それは、たとえば、また、力ある法螺貝の吹き手が、まさしく、難少なくして、四方に識知させるように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きます——それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、年少にして、若く、派手好きの、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、完全なる清浄にして完全なる清白の鏡において、あるいは、澄んだ水鉢において、自らの顔の形相を注視しながら、あるいは、染みを有するものを、『染みを有するものである』と知り、あるいは、染みなきものを、『染みなきものである』と知るように、ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知します。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を……略……。あるいは、憤怒を有する心を……。あるいは、憤怒を離れた心を……。あるいは、迷妄を有する心を……。あるいは、迷妄を離れた心を……。あるいは、退縮した心を……。あるいは、散乱した心を……。あるいは、莫大なる心を……。あるいは、莫大ならざる心を……。あるいは、有上なる心を……。あるいは、無上なる心を……。あるいは、定められた心を……。あるいは、定められていない心を……。あるいは、解脱した心を……。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた——このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた——このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、人が、自らの村から、他の村に赴き、その村からもまた、他の村に赴くとします。彼が、その村から、まさしく、自らの村に戻るなら、彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『わたしは、まさに、自らの村から、あの村に赴いた。そこで、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その村からもまた、あの村に赴いた。そこで、また、このように立った、このように坐った、このように語った、このように沈黙の者と成った。その〔わたし〕は、その村から、まさしく、自らの村に戻り、〔世に〕存している』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。ウダーインよ、それは、たとえば、また、門を有する二つの家があるとします。そこにおいて、眼ある人が中間に立ち、人間たちが、家に入りもまたし〔家から〕出たりもまたするのを、こちらを歩きもまたしあちらを歩みもまたするのを、見るようなものです。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。
ウダーインよ、さらに、また、他に、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。ウダーインよ、それは、たとえば、また、山の峡谷において、湖の水が、澄んでいて清らかで混濁なくあるとします。そこにおいて、眼ある人が岸に立ったなら、牡蠣や貝をもまた〔見るでしょうし〕、砂礫や小石をもまた〔見るでしょうし〕、魚の群れをもまた——歩んでいる〔魚の群れ〕であろうが、止住している〔魚の群れ〕であろうが——見るでしょう。彼に、このような〔思いが〕存するでしょう。『まさに、この湖の水は、澄んでいて清らかで混濁なくある。そこに、これらの、牡蠣や貝もまたあり、砂礫や小石もまたあり、魚の群れもまた、歩みもまたし、止住もまたする』と。ウダーインよ、まさしく、このように、まさに、わたしによって、弟子たちに、〔実践の〕道が告げ知らされ、そのとおりに実践する者たちとして、わたしの弟子たちは、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、多くの者たちが、証知の完成と完全態に至り得た者たちとして〔世に〕住みます。ウダーインよ、これは、まさに、第五の法(性質)です。その〔法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます。
ウダーインよ、まさに、これらの五つの法(性質)があります。それら〔の法〕によって、わたしを、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、尊敬して、尊重して、近しく依拠して〔世に〕住みます」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たサクルダーイン遍歴遊行者は、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなるサクルダーインの経は終了となり、〔以上が〕第七となる。
注釈【4】
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