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翻訳【39】

衣装の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

「比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、悪しく染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄ならざる色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄ならざることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されているとき、悪しき境遇が待っています。比丘たちよ、それは、たとえば、また、完全なる清浄にして完全なる清白の衣装があるとします。〔まさに〕その、この〔衣装〕を、染色師が、もしくは、青のものにするために、もしくは、黄のものにするために、もしくは、赤のものにするために、もしくは、深紅のものにするために、それぞれの染料の類のなかに設置するなら、まさしく、善く染められた色艶のものとして存するでしょうし、まさしく、完全なる清浄の色艶のものとして存するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、衣装の、完全なる清浄なることからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、心が汚染されていないとき、善き境遇が待っています。

比丘たちよ、では、どのようなものが、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)なのですか。強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れです。忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れです。怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れです。偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れです。加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れです。嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れです。物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れです。幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れです。狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れです。強情は、心の、付随する〔心の〕汚れです。激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れです。思量は、心の、付随する〔心の〕汚れです。高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れです。放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れです。

比丘たちよ、それで、まさに、その比丘は、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕を捨棄し、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕を捨棄し、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激を捨棄し、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨を捨棄し、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装を捨棄し、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐を捨棄し、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬を捨棄し、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜を捨棄し、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑を捨棄し、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾を捨棄し、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情を捨棄し、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂を捨棄し、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量を捨棄し、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢を捨棄し、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢を捨棄し、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸を捨棄します。

比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘に、『強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強欲〔の思い〕と正義ならざる貪り〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『憎悪〔の思い〕は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、憎悪〔の思い〕が捨棄されたものと成り、『忿激は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、忿激が捨棄されたものと成り、『怨恨は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、怨恨が捨棄されたものと成り、『偽装は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、偽装が捨棄されたものと成り、『加虐は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、加虐が捨棄されたものと成り、『嫉妬は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、嫉妬が捨棄されたものと成り、『物惜は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、物惜が捨棄されたものと成り、『幻惑は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、幻惑が捨棄されたものと成り、『狡猾は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、狡猾が捨棄されたものと成り、『強情は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、強情が捨棄されたものと成り、『激昂は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、激昂が捨棄されたものと成り、『思量は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、思量が捨棄されたものと成り、『高慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、高慢が捨棄されたものと成り、『驕慢は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、驕慢が捨棄されたものと成り、『放逸は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、かくのごとく見出して、心の、付随する〔心の〕汚れである、放逸が捨棄されたものと成ることから——

彼は、覚者にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『法(教え)は、世尊によって見事に告げ知らされたものであり、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものである』と。僧団にたいする確固たる清信を具備した者として〔世に〕有ります。『世尊の弟子の僧団は、善き実践者であり、世尊の弟子の僧団は、真っすぐな実践者であり、世尊の弟子の僧団は、正理の実践者であり、世尊の弟子の僧団は、適正の実践者であり、すなわち、この、四つの人士の組(四双:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計四組)にして、八者の人士たる人(八輩:預流・一来・不還・阿羅漢の各々における道にある者と果にある者の計八人)であり、〔まさに〕この、世尊の弟子の僧団は、〔供物を〕捧げられるべき者であり、〔供物を〕贈られるべき者であり、〔供物を〕施与されるべき者であり、合掌を為されるべき者であり、世〔の人々〕にとって、無上なる功徳の田畑(福田)である』と。

また、まさに、すなわち、限界まで、彼の、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものと成り、吐き捨てられたものと〔成り〕、解き放たれたものと〔成り〕、捨棄されたものと〔成り〕、放棄されたものと〔成ります〕。彼は、『覚者にたいする確固たる清信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『法(教え)にたいする……略……。『僧団にたいする確固たる清信を具備した者として、〔わたしは〕存している』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。『また、まさに、すなわち、限界まで、わたしの、〔付随する心の汚れが〕捨てられたものとなり、吐き捨てられたものとなり、解き放たれたものとなり、捨棄されたものとなり、放棄されたものとなる』と、義(意味)の信受を得、法(教え)の信受を得、法(真理)を伴った歓喜を得ます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。

比丘たちよ、それで、まさに、その比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。比丘たちよ、それは、たとえば、また、汚染され垢にまみれた衣装が、澄んだ水に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、また、金が、あるいは、溶炉口に由来して、完全なる清浄にして完全なる清白のものと成るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、このような戒ある者であり、このような法(教え)ある者であり、このような智慧ある者であるなら、たとえ、もし、黒米を選り分けた諸々の米の飯と幾多の汁と幾多の香味ある〔行乞の〕施食を受けるとして、彼にとって、それは、まさしく、障りと成りません。

彼は、慈愛〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。慈悲〔の思い〕()を共具した心で……略……。歓喜〔の思い〕()を共具した心で……略……。放捨〔の思い〕()を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕を〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。

彼は、『これが存在する』『下劣なるものが存在する』『精妙なるものが存在する』『この表象を具したものには、より上なる出離が存在する』と覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。比丘たちよ、この者は、『比丘として、内なる沐浴によって沐浴した者である』〔と〕説かれます」と。

また、まさに、その時点にあって、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門が、世尊から遠く離れていないところで、坐った状態でいます。そこで、まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「さてまた、貴君ゴータマは、バーフカー川に赴きますか——沐浴するべく」と。「婆羅門よ、バーフカー川に、何があるというのでしょう。バーフカー川が、何を為すというのでしょう」と。「貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、浄域として敬われています。貴君ゴータマよ、まさに、バーフカー川は、多くの人々に、功徳として敬われています。また、バーフカー川において、多くの人々は、〔過去に〕為した悪しき行為(悪業)を流し去ります」と。そこで、まさに、世尊は、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門に、諸々の詩偈をもって語りかけました。

〔そこで、詩偈に言う〕「バーフカー〔川〕に、そして、アディカッカー〔川〕に、ガヤー〔川〕に、また、スンダリカー〔川〕に、サラッサティー〔川〕に、そして、パヤーガー〔川〕に、さらに、バーフマティー川に、愚者が、たとえ、常に飛び込むも、黒き行為は清まらない。

スンダリカー〔川〕が、何を為すというのだろう——パヤーガー〔川〕が、何を——バーフカー川が、何を。怨みある者を、罪障を作った者を、悪しき行為あるその人を、まさに、清めない。

まさに、清浄の者には、常に春がある。清浄の者には、常に斎戒(布薩)がある。清浄の者にして清らかな行為ある者には、常に掟が成就する。婆羅門よ、まさしく、ここに、沐浴せよ。一切の生類たちにたいし、平安なることを為せ。

それで、もし、〔あなたが〕虚偽を話さないなら、それで、もし、命あるものを害さないなら、それで、もし、与えられていないものを取らないなら、〔あなたが〕信ある者であり、物惜なき者であるなら、ガヤー〔川〕に赴いて、何を為すというのだろう。あなたにとって、ガヤー〔川〕が飲み水であるもまた」と。

このように説かれたとき、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。わたしが、貴君ゴータマの現前において、出家を得られますように——〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。まさに、スンダリカ・バーラドヴァージャ婆羅門は、世尊の現前において、出家を得ました——〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者バーラドヴァージャは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして——その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者バーラドヴァージャは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

衣装の経は終了となり、〔以上が〕第七となる。

注釈【5】