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翻訳【24】

ゴータムカの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。尊者ウデーナは、バーラーナシーに住んでいます。ケーミヤのアンバ林において。また、まさに、その時点にあって、ゴータムカ婆羅門が、バーラーナシーに到着するところと成ります——何らかの或る用事があって。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、ゆったりした歩調で、こちらを歩いては、あちらを歩みつつ、ケーミヤのアンバ林のあるところに、そこへと近づいて行きました。また、まさに、その時点にあって、尊者ウデーナは、野外において、歩行〔瞑想〕をしています。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ウデーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、歩行〔瞑想〕をしている尊者ウデーナに従って歩行しながら、このように言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに」と。

このように説かれたとき、尊者ウデーナは、歩行場から降りて、精舎に入って、設けられた坐に坐りました。まさに、ゴータムカ婆羅門もまた、歩行場から降りて、精舎に入って、一方に立ちました。一方に立った、まさに、ゴータムカ婆羅門に、尊者ウデーナは、こう言いました。「婆羅門よ、まさに、諸々の坐が等しく見出されます。それで、もし、望むなら、坐りたまえ」と。「また、まさに、わたしどもは、貴君ウデーナの、まさしく、この〔言葉〕を待っている者として坐りましょう。まさに、どうして、まさに、わたしのような者が、前もって招かれていないのに、坐に坐るべきと思い考えましょうか」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、或るどこかの下坐を収め取って、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「さて、沙門よ、『出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに」と。「婆羅門よ、また、まさに、それで、もし、あなたが、わたしに、承認するべきことを承認し、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するなら、また、そして、すなわち、わたしの語ったことの義(意味)を、〔あなたが〕知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、わたしに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするなら、このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに存するでしょう」と。「まさに、わたしは、貴君ウデーナに、まさしく、そして、承認するべきことを承認するでしょうし、かつまた、弾劾するべきことを弾劾するでしょう。また、そして、すなわち、貴君ウデーナの語ったことの義(意味)を、わたしが知らずにいるとして、そこにおいて、まさしく、貴君ウデーナに、『貴君ウデーナよ、これは、どのようにあるのですか。これに、どのような義(意味)があるのですか』と、さらなる問い返しをするでしょう。このように為して〔そののち〕、ここにおいて、〔公正なる〕議論と談論が、わたしたちに有れ」と。

「婆羅門よ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。婆羅門よ、また、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、これらの四つの人たちのなかでは、どの人が、あなたの心を喜ばせますか」と。

「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、この人もまた、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、まさしく、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。

「婆羅門よ、また、何ゆえに、これらの三つの人は、あなたの心を喜ばせないのですか」と。「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する自己を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、すなわち、また、この人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であるなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、熱苦させ、遍く苦しめます。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせません。貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、まさに、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、彼は、安楽を欲し苦痛を嫌悪する、そして、自己を、さらに、他者を、まさしく、熱苦させることもなく、遍く苦しめることもありません。このことによって、この人は、わたしの心を喜ばせます」と。

「婆羅門よ、二つのものがあります。これらの衆です。どのようなものが、二つのものなのですか。婆羅門よ、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。

婆羅門よ、また、ここに、一部の衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあります。婆羅門よ、〔まさに〕その、この人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、あなたは、どちらの人を、どちらの衆において、多くあると等しく随観しますか。そして、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まり、子や妻を遍く探し求め、奴隷や奴婢を遍く探し求め、田畑や地所を遍く探し求め、金や銀を遍く探し求めます。さらに、すなわち、この衆は、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあります」と。

「貴君ウデーナよ、すなわち、この人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、彼が、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住むなら、わたしは、この人を、すなわち、この衆が、諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まらず、子や妻を捨棄して、奴隷や奴婢を捨棄して、田畑や地所を捨棄して、金や銀を捨棄して、家から家なきへと出家した者としてあるなら、この衆において、多くあると等しく随観するでしょう」と。

「婆羅門よ、また、まさに、まさしく、今や、あなたによって語られました。わたしたちは、このように了知します。『さて、沙門よ、「出家は、法(正義)にかなうものとして存在しない」〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、あるいは、すなわち、ここにおいて、法(正義)があるとして、そして、まさに、それを、あるいは、貴君たちの形態のなかに見ることなくあるがゆえに』」と。「貴君ウデーナよ、たしかに、この言葉は、〔あなたの〕資助を有するものとして、わたしによって語られました。〔しかしながら、今は〕『出家は、法(正義)にかなうものとして存在する』〔と〕、ここにおいて、わたしに、このような〔思いが〕有ります。また、そして、貴君ウデーナは、このように認めてください。さらに、すなわち、貴君ウデーナによって、簡略〔の観点〕によって説かれ、詳細〔の観点〕によって区分されていない、これらの四つの人ですが、どうか、貴君ウデーナは、わたしに、これらの四つの人を、詳細〔の観点〕によって区分したまえ——慈しみ〔の思い〕を抱いて」と。「婆羅門よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「君よ、わかりました」と、まさに、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに答えました。尊者ウデーナは、こう言いました。

「婆羅門よ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……略……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……略……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。彼は、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。彼は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。婆羅門よ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

婆羅門よ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として、捕鳥者として、捕鹿者として、猟師として、漁夫として、盗賊として、刑罰執行者として、屠牛者として、獄卒として、〔世に〕有ります——また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。婆羅門よ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

婆羅門よ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。婆羅門よ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り、あるいは、婆羅門の大家として〔世に〕有ります。彼は、城市の東に新しい公会堂を作らせて、髪と髭を剃り落として、粗い鹿皮を着衣して、酥と油で身体を塗って、鹿の角で背をこすりながら、王妃と共に、さらに、婆羅門の司祭と〔共に〕、新しい公会堂に入り行きます。彼は、そこにおいて、何もない地面のうえに草を敷いた臥床を営みます。同色の子牛をもつ一頭の雌牛の、すなわち、一つの乳房に有る乳で、それによって、王は〔身を〕保ち行き、すなわち、第二の乳房に有る乳で、それによって、王妃は〔身を〕保ち行き、すなわち、第三の乳房に有る乳で、それによって、婆羅門の司祭は〔身を〕保ち行き、すなわち、第四の乳房に有る乳で、それによって、祭火に捧げ、残りによって、子牛は〔身を〕保ち行きます。彼は、このように言います。『祭祀を義(目的)として、これだけの雄牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雄の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの雌の子牛たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの山羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの羊たちを殺すのだ』『祭祀を義(目的)として、これだけの馬たちを殺すのだ』『祭柱を義(目的)として、これだけの木々を切るのだ』『祭坐を義(目的)として、これだけの吉祥草を刈るのだ』と。すなわち、また、彼の、あるいは、『奴隷』ということで、あるいは、『召使』ということで、あるいは、『労夫』ということで、それらの者たちが〔世に〕有るなら、彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。婆羅門よ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

婆羅門よ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。婆羅門よ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として、明知と行ないの成就者として、善き至達者として、世〔の一切〕を知る者として、無上なる者として、調御されるべき人の馭者として、天〔の神々〕と人間たちの教師として、覚者として、世尊として、世に生起します。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせます。彼は、法(教え)を説示します——最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示します。その法(教え)を、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、あるいは、或るどこかの家に生まれ落ちた者が、聞きます。彼は、その法(教え)を聞いて、如来にたいする信を獲得します。彼は、その信の獲得を具備した者として、かくのごとく深慮します。『在家の居住は煩わしく、塵の〔積もる〕道である。出家は、〔塵の積もらない〕野外にある。このことは、家に居住しながらでは、為し易きことではない——絶対的に円満成就した、絶対的に完全なる清浄の、法螺貝の磨きある〔完全無欠の〕梵行を歩むことは。それなら、さあ、わたしは、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家するのだ』と。彼は、他時にあって、あるいは、少なき財物の範疇を捨棄して、あるいは、大いなる財物の範疇を捨棄して、あるいは、少なき親族の集団を捨棄して、あるいは、大いなる親族の集団を捨棄して、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家します。彼は、このように出家者として〔世に〕存しながら、比丘たちの学びである正しい生き方に入定し、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。

与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として〔世に〕有り、与えられたものを取る者として、与えられたものを待つ者として、そこで、この、清らかな状態の自己によって〔世に〕住みます。

梵行ならざることを捨棄して、梵行者として、遠く離れて歩む者として、淫事から、村の法(淫習)から、離れた者として〔世に〕有ります。

虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、実直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕にとって言葉を違えない者として、〔世に〕有ります。

中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として〔世に〕有り、こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕有ります。

粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として〔世に〕有り、すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕有ります。

雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として〔世に〕有り、〔正しい〕時に説く者として、事実を説く者として、義(意味)を説く者として、法(教え)を説く者として、律を説く者として、安置する〔価値〕ある言葉を——〔正しい〕時に、理由を有し、結末がある、義(道理)を伴った〔言葉〕を——語る者として、〔世に〕有ります。

彼は、種子類や草木類を損壊することから離間した者として〔世に〕有ります。一食の者として、夜〔の食事〕を止めた者として、非時に食事することから離れた者として、〔世に〕有ります。舞踏と歌詠と音楽と演芸の見物から離間した者として〔世に〕有ります。花飾や香料や塗料を保持し装飾し装着する境位から離間した者として〔世に〕有ります。高い臥具や大きな臥具〔の使用〕から離間した者として〔世に〕有ります。金や銀を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の穀物を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。生の肉を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。婦女や少女を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。奴婢や奴隷を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。山羊や羊を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。鶏や豚を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。象や牛や馬や騾馬を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。田畑や地所を納受することから離間した者として〔世に〕有ります。使者や使節として赴くことに従事することから離間した者として〔世に〕有ります。売買から離間した者として〔世に〕有ります。秤の詐欺や銅貨の詐欺や量の詐欺から離間した者として〔世に〕有ります。賄賂や騙しや欺きや邪行から離間した者として〔世に〕有ります。切断や殴打や結縛や追剥や強奪や強制から離間した者として〔世に〕有ります。

彼は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満足している者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。それは、たとえば、また、まさに、翼ある鳥が、まさしく、どこそこに飛び立つなら、まさしく、有する翼を荷として飛び立つように、まさしく、このように、比丘は、身体を維持するものとしての衣料によって、腹を維持するものとしての〔行乞の〕施食によって、〔それだけで〕満ち足りている者として〔世に〕有ります。彼は、まさしく、どこそこに出発するなら、まさしく、〔必要なものだけを〕受持して出発します。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。

彼は、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、眼の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔眼〕の統御のために実践し、眼の機能を守護し、眼の機能における統御を惹起します。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成り〕ません。すなわち、意の機能が統御されず、〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法(性質)である強欲〔の思い〕や失意〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起します。彼は、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、内に汚濁なき安楽を得知します。

彼は、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。

彼は、そして、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、かつまた、この聖なる満足を具備した者となり、かつまた、この聖なる〔感官の〕機能における統御を具備した者となり、さらに、この聖なる気づきと正知を具備した者となり、遠離の臥坐所である、林地に、木の根元に、山に、渓谷に、山窟に、墓場に、林野の辺境に、野外に、藁積場に、親近します。彼は、食事のあと、〔行乞の〕施食から戻り、〔瞑想のために〕坐ります——結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、世における強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕が離れ去った心で〔世に〕住み、強欲〔の思い〕から心を完全に清めます。憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者として〔世に〕住み、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者となり、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕から心を完全に清めます。〔心の〕沈滞と眠気を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)を捨棄して、〔心の〕沈滞と眠気が離れ去った者として〔世に〕住み、光明の表象(光明想)ある気づきと正知の者となり、〔心の〕沈滞と眠気から心を完全に清めます。〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)を捨棄して、〔心が〕高揚しない者として〔世に〕住み、内に寂止した心の者となり、〔心の〕高揚と悔恨から心を完全に清めます。疑惑〔の思い〕)を捨棄して、疑惑〔の思い〕を超えた者として〔世に〕住み、諸々の善なる法(性質)について懐疑なき者となり、疑惑〔の思い〕から心を完全に清めます。

彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)にして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨()による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた——このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた——このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。

婆羅門よ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。

このように説かれたとき、ゴータムカ婆羅門は、尊者ウデーナに、こう言いました。「貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、すばらしいことです。貴君ウデーナよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ウデーナによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしは、貴君ウデーナを帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。「婆羅門よ、まさに、わたしを帰依所に赴いてはいけません。あなたは、まさしく、彼を、世尊を帰依所に赴きたまえ。わたしが、彼を帰依所に赴いた者としてある、〔そのとおりに〕」と。「貴君ウデーナよ、また、どこに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマは住んでおられますか」と。「婆羅門よ、まさに、今現在、彼は、阿羅漢にして正等覚者たる世尊は、〔すでにもう〕完全なる涅槃に到達したのです」と。

「貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、十ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)において耳にするなら、わたしどもは、十ヨージャナであろうが赴くでしょう——彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、二十ヨージャナにおいて……三十ヨージャナにおいて……四十ヨージャナにおいて……五十ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、五十ヨージャナであろうが赴くでしょう——彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。貴君ウデーナよ、それで、もし、また、わたしどもが、彼のことを、貴君ゴータマのことを、百ヨージャナにおいて耳にするなら、わたしどもは、百ヨージャナであろうが赴くでしょう——彼と、阿羅漢にして正等覚者たる貴君ゴータマと会見するために。

貴君ウデーナよ、しかしながら、すなわち、彼が、貴君ゴータマが完全なる涅槃に到達したことから、わたしどもは、たとえ、完全なる涅槃に到達したとして、彼を、貴君ゴータマを帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ウデーナは、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として。貴君ウデーナよ、そして、わたしに、毎日、常なる手当を施す、アンガ〔国〕の王が存在します。その〔手当〕から、わたしは、貴君ウデーナに、一つの常なる手当を施します」と。「婆羅門よ、また、アンガ〔国〕の王は、あなたに、毎日、常なる手当として、どのようなものを施すのですか」と。「貴君ウデーナよ、五百カハーパナ(貨幣の単位)です」と。「婆羅門よ、まさに、わたしたちにとって、金や銀を納受することは、適確ならず」と。「それで、もし、貴君ウデーナにとって、それが適確でないなら、貴君ウデーナのために、精舎を作らせましょう」と。「婆羅門よ、それで、もし、まさに、わたしのために、あなたが、精舎を作らせることを欲するなら、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせたまえ」と。「わたしは、貴君ウデーナの、このことによってもまた、より一層しっかりと、わが意を得た者となり、満悦した者となります。すなわち、貴君ウデーナは、わたしに、僧団における布施について勧めます。貴君ウデーナよ、〔まさに〕この、わたしは、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせましょう」と。そこで、まさに、ゴータムカ婆羅門は、そして、この常なる手当によって、さらに、他の常なる手当によって、パータリプッタにおいて、僧団のために、集会所を作らせました。それは、今現在、「ゴータムキー」と説かれる、ということです。

ゴータムカの経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

注釈【4】