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翻訳【30】

チャンキンの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。そこで、まさに、世尊は、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門が、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に——コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいる。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する——最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。

そこで、まさに、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴きます。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに。また、まさに、その時点にあって、チャンキン婆羅門は、高楼の上にあり、昼の休憩に入っています。まさに、チャンキン婆羅門は、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちが、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって、天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに、そこへと近づいて行きつつあるのを見ました。見て、侍従に告げました。「君よ、侍従よ、いったい、まさに、どうして、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちは、オーパーサーダ〔村〕から出立して、集団となっては集団となり、群れの状態で、北に向かって赴くのですか。天の林であるサーラ〔樹〕の林のあるところに」と。「君よ、チャンキンよ、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが存在します。コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでいます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。これらの者たちは、彼と、貴君ゴータマと、会見するために赴きます」と。「君よ、侍従よ、まさに、それでは、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きなさい。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、このように説きなさい。『君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。「まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう」』」と。「君よ、わかりました」と、まさに、その侍従は答えて、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、オーパーサーダ〔村〕の婆羅門や家長たちに、こう言いました。「君よ、チャンキン婆羅門は、このように言っています。『まさに、貴君たちは、待ちたまえ。チャンキン婆羅門もまた、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くでしょう』」と。

また、まさに、その時点にあって、種々なる国々の婆羅門たちのなかの五百ばかりの婆羅門たちが、オーパーサーダ〔村〕に滞在しています——何らかの或る用事があって。まさに、それらの婆羅門たちは、「どうやら、チャンキン婆羅門が、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くらしい」と耳にしました。そこで、まさに、それらの婆羅門たちは、チャンキン婆羅門のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、チャンキン婆羅門に、こう言いました。「本当に、まさに、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのですか」と。「君よ、まさに、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『わたしは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのだ』」と。「貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行ってはいけません。貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。すなわち、また、貴君チャンキンが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります。まさに、貴君チャンキンは、富裕で、大いなる財産があり、大いなる財物がある者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、読誦者として、呪文の保持者として、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、戒ある者であり、増大した戒ある者であり、増大した戒を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠であり、三百の学生たちに、諸々の呪文を享受します。……略……。まさに、貴君チャンキンは、コーサラ〔国〕のパセーナディ王にとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、婆羅門のポッカラサーティにとって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭される者です。……略……。まさに、貴君チャンキンは、オーパーサーダ〔村〕に居住しています。有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に——コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に。すなわち、また、貴君チャンキンが、オーパーサーダ〔村〕に居住しているなら、有情たちで隆盛し、草と薪と水を有し、穀物を有する、王領地に——コーサラ〔国〕のパセーナディ王によって施された、王施にして梵施たる〔王領地〕に、この支分によってもまた、貴君チャンキンは、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。まさしく、しかし、沙門ゴータマは、貴君チャンキンと会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。

このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、それらの婆羅門たちに、こう言いました。「君よ、まさに、それでは、わたしの〔言葉を〕もまた聞きたまえ。すなわち、わたしたちこそが、彼と、沙門ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしく、まさしく、しかし、彼が、貴君ゴータマが、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくないとおりに。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されません。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、かつまた、母〔の家系〕から、かつまた、父〔の家系〕から、両者ともに善き出生の者として、正しく清浄なる血統の者として、第七の祖父の代に至るまで、出生の論によって排斥されず弾劾されないなら、この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、沙門ゴータマは、かつまた、地に在るものも、かつまた、宙に立脚するものも、多大なる金貨と黄金を捨棄して、出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、まさしく、年少の者として〔世に〕存しつつ、若者であり、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期(青年期)を具備した者であるも、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣をまとって、家から家なきへと出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、形姿麗しく、美しく、清らかで、最高の蓮華の色艶を具備した者であり、梵の色艶ある者であり、梵の威厳ある者であり、見るに小さき箇所なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、戒ある者であり、聖なる戒ある者であり、善なる戒ある者であり、善なる戒を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、善き言葉の者であり、善き言葉遣いの者であり、上品で、明瞭で、誤解なく、義(意味)を識知させる、〔そのような〕言葉を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、多くの者たちにとって、師匠のなかの大師匠です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕が滅尽した者であり、軽薄さが離れ去った者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、行為論者であり、業作論者であり、梵の資質ある人々による悪しき尊奉なき者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、混物なしの士族の家系である、高貴な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、大いなる財産があり、大いなる財物がある、富裕な家から出家したのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに等しく尋ねるために、国土を超えて、地方を超えて、〔人々が〕やってきます。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、幾千の天神たちが懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっています。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、三十二の偉大なる人士の特相を具備した者です。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、コーサラ〔国〕のパセーナディ王が、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマを帰依所に、婆羅門のポッカラサーティが、子と妻と共に、懸命になって赴いたのです。……略……。君よ、まさに、沙門ゴータマは、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。すなわち、まさに、それらの、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、わたしたちの村落地にやってくるなら、彼らは、わたしたちにとって、客として有ります。また、まさに、客たちは、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。君よ、すなわち、また、沙門ゴータマが、オーパーサーダ〔村〕に到着し、オーパーサーダ〔村〕に住んでおられます。オーパーサーダ〔村〕の北にある天の林であるサーラ〔樹〕の林において。沙門ゴータマは、わたしたちにとって、客です。また、まさに、客は、わたしたちによって、尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭されるべきです。この支分によってもまた、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります。君よ、まさに、わたしは、これだけのものを、彼の、貴君ゴータマの、諸々の栄誉として遍く学得します。しかしながら、まさに、彼は、貴君ゴータマは、これだけの栄誉ある者ではありません。まさに、彼は、貴君ゴータマは、無量の栄誉ある者です。たとえ、一つ一つの支分であれ、それを具備しているなら、彼は、貴君ゴータマは、わたしたちと会見するために近づいて行くにふさわしくありません。そこで、まさに、わたしたちこそが、彼と、貴君ゴータマと、会見するために近づいて行くにふさわしくあります」と。「君よ、まさに、それでは、わたしたちは、まさしく、全ての者たちが、沙門ゴータマと会見するために近づいて行くのです」と。

そこで、まさに、チャンキン婆羅門は、大いなる婆羅門の衆徒と共に、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。また、まさに、その時点にあって、世尊は、それぞれの年長の婆羅門たちを相手に、それぞれの何らかの記憶されるべき話を交わして、坐った状態でいます。また、まさに、その時点にあって、カーパティカという名の学徒が、衆において、坐った状態でいます——年少にして、頭を剃った、生まれてから齢十六年の者であり、語彙と〔その〕活用を含み、文字と〔その〕細別を含み、古伝を第五とする、三つのヴェーダの奥義に至る者にして、詩句に通じ、文典に精通し、処世術と偉大なる人士の特相について欠くことなく通じる者です。彼は、それぞれの年長の婆羅門たちが、世尊を相手に話し合っていると、中途中途で議論に割り込みます。そこで、まさに、世尊は、カーパティカ学徒を指弾します。「尊者バーラドヴァージャ(カーパティカ学徒)は、それぞれの年長の婆羅門たちが話し合っているなら、中途中途で議論に割り込んではいけません。尊者バーラドヴァージャは、議論の終了を待ちなさい」と。このように説かれたとき、チャンキン婆羅門は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマは、カーパティカ学徒を指弾してはいけません。かつまた、カーパティカ学徒は、良家の子息です。かつまた、カーパティカ学徒は、多聞の者です。かつまた、カーパティカ学徒は、賢者です。かつまた、カーパティカ学徒は、善き言葉遣いの者です。そして、カーパティカ学徒は、貴君ゴータマを相手に、この言葉について応対することができます」と。そこで、まさに、世尊に、この〔思い〕が有りました。「まさに、たしかに、カーパティカ学徒には、三つのヴェーダの〔聖典の〕言葉について、議論が有るであろう。まさに、そのように、彼を、婆羅門たちは等しく尊んでいる」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「すなわち、わたしに、沙門ゴータマが、眼を近しく集中するであろうとき、そこで、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、世尊は、〔自らの〕心をとおして、カーパティカ学徒の心の思索を了知して、カーパティカ学徒のいるところに、そこへと眼を近しく集中しました。

そこで、まさに、カーパティカ学徒に、この〔思い〕が有りました。「まさに、わたしに、沙門ゴータマは集中する。それなら、さあ、わたしは、沙門ゴータマに、問いを尋ねるのだ」と。そこで、まさに、カーパティカ学徒は、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すなわち、この、婆羅門たちの、伝聞と相伝による、典籍の成就による、過去の呪文の句があり、そして、そこにおいて、婆羅門たちは、一定して結論に至ります。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。ここに、貴君ゴータマは、何を言いますか」と。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか——婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような婆羅門は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、誰であれ、存在しますか——婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』〔と〕、このように言った、〔そのような師匠は〕」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「バーラドヴァージャよ、また、どうでしょう、すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します——それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、このように言いましたか。『わたしたちは、これを知る。わたしたちは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。「貴君ゴータマよ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

「バーラドヴァージャよ、かくのごとく、まさに、誰であれ、存在しません——婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の婆羅門であれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。誰であれ、存在しません——婆羅門たちのなかに、たとえ、一者の師匠であれ、たとえ、一者の師匠のなかの大師匠であれ、たとえ、第七の祖師の代に至るまでであれ、すなわち、『わたしは、これを知る。わたしは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言った、〔そのような婆羅門は〕。すなわち、また、それらの者たちが、婆羅門たちにとって、往古の聖賢たちであり、諸々の呪文の作り手たちであり、諸々の呪文の伝授者たちであるなら、今現在、婆羅門たちは、それらの者たちのものである、〔まさに〕この、過去の呪文の句を、〔過去に〕歌われ説かれ編集されたものとして、それに従って歌い、それに従って語り、語られたものに従って語り、教授されたものに従って教授します——それは、すなわち、この、アッタカであり、ヴァーマカであり、ヴァーマデーヴァであり、ヴェッサーミッタであり、ヤマタッギであり、アンギーラサであり、バーラドヴァージャであり、ヴァーセッタであり、カッサパであり、バグです。彼らもまた、『わたしたちは、これを知る。わたしたちは、これを見る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言いませんでした。

バーラドヴァージャよ、それは、たとえば、また、次から次へと集結した盲者の列が、前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ないように、バーラドヴァージャよ、まさしく、このように、まさに、思うに、盲者の列の如きものとして、婆羅門たちの語ったことは成就します。前の者もまた見ず、中間の者もまた見ず、後の者もまた見ません。バーラドヴァージャよ、それを、どう思いますか。まさに、このように存しているとき、婆羅門たちには、根元なきものとして、信が成就するのではないですか」と。「貴君ゴータマよ、まさに、ここにおいて、婆羅門たちは、信だけから奉侍するのではありません。聴聞からもまた、ここにおいて、婆羅門たちは奉侍します」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、過去において、まさに、あなたは、信に赴きました。今や、聴聞を説きます。バーラドヴァージャよ、五つのものがあります。まさに、これらの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)です。どのようなものが、五つのものなのですか。信であり、嗜好であり、聴聞であり、行相による思索であり、見解の納得による受認です。バーラドヴァージャよ、まさに、これらの五つの、所見の法(現世)において、二種の報いある法(性質)があります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く信じられたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く信じられたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、そして、また、まさしく、善く嗜好されたものが有るとして……略……まさしく、善く聴聞されたものが有るとして……略……まさしく、善く思索されたものが有るとして……略……まさしく、善く納得されたものが有るとして、しかしながら、それは、空虚で虚妄で虚偽なるものと成ります。もし、また、善く納得されたものではなく有るなら、そして、それは、事実で真実で他ならざるものと成ります。バーラドヴァージャよ、真理の守護者である識者たる人によって、ここにおいて、一定して結論に至るに十分なるものはありません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の守護と成り、どのようなことから、真理を守護するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、もし、また、信が、人に有るとして、『このように、わたしに信がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、もし、また、嗜好が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、聴聞が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、行相による思索が、人に有るとして……略……。バーラドヴァージャよ、もし、また、見解の納得による受認が、人に有るとして、『このように、わたしに見解の納得による受認がある』と、かくのごとく説いているなら、真理を守護します。まさしく、しかし、それだけでは、一定して結論に至りません。『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の随覚と成りません」と。

「貴君ゴータマよ、このことから、真理の守護と成り、このことから、真理を守護します。そして、このことから、わたしたちは、真理の守護を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の随覚と成り、どのようなことから、真理を随覚するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、ここに、比丘が、或るどこかの、あるいは、村に、あるいは、町に、近しく依拠して〔世に〕住みます。〔まさに〕その、この者に、あるいは、家長が、あるいは、家長の子が、近づいて行って、三つの諸々の法(性質)について正しく調査します——諸々の貪るべき法(事象)について、諸々の怒るべき法(事象)について、諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が存在するのか——そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の貪るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の貪るべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある——すなわち、貪らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、貪る者によって説示し易きものにあらず』と。

すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の貪るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します——諸々の怒るべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が存在するのか——そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の怒るべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の怒るべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある——すなわち、怒らない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、怒る者によって説示し易きものにあらず』と。

すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の怒るべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そののち、より以上に、彼のことを正しく調査します——諸々の迷うべき法(事象)について。『いったい、まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在するのか——そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在するのか。そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が〕』と。〔まさに〕その、この者のことを、正しく調査しながら、このように知ります。『まさに、この尊者には、そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)が存在しない。そのような形態の諸々の迷うべき法(事象)によって、心が完全に奪い去られた者が、あるいは、知っていないのに、「知る」と説くことになり、あるいは、見ていないのに、「見る」と説くことになり、あるいは、他者に、それが、他者たちにとって、長夜にわたり、利益ならざるもののために〔存し〕、苦痛のために存するのに、それを義(目的)として受持させることになる、〔そのような形態の諸々の迷うべき法が〕。また、まさに、この尊者には、そのような形態の身体の励行があり、そのような形態の言葉の励行がある——すなわち、迷わない者にある、そのとおりに。また、まさに、すなわち、この尊者が、法(教え)説示するなら、その法(教え)は、深遠にして、見難く、随覚し難く、寂静であり、精妙にして、考慮の行境ならず、精緻にして、賢者によって知られるべきものである。その法(教え)は、迷う者によって説示し易きものにあらず』と。

すなわち、彼のことを正しく調査しながら、諸々の迷うべき法(事象)から清浄となった者と等しく随観することから、そこで、彼にたいする信を確たるものとします。信が生じた者は、〔彼のもとに〕近づいて行きます。近づいて行きながら、奉侍します。奉侍しながら、耳を傾けます。耳を傾けた者は、法(教え)を聞きます。聞いて〔そののち〕、法(教え)を保持します。諸々の保持された法(教え)の義(意味)を近しく注視します。義(意味)を近しく注視していると、諸々の法(教え)が、納得があり受認されます。法(教え)の納得と受認が存しているとき、欲〔の思い〕(意欲)が生じます。欲〔の思い〕が生じた者は、邁進します。邁進して、〔考量し〕比較します。〔考量し〕比較して、精励します。自己を精励する者として存しながら、まさしく、そして、身体によって、最高の真理(勝義)を実証し、さらに、智慧によって理解して、それを見ます。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を報知します。まさしく、しかし、それだけでは、真理の獲得と成りません」と。

「貴君ゴータマよ、このことから、真理の随覚と成り、このことから、真理を随覚します。そして、このことから、わたしたちは、真理の随覚を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなことから、真理の獲得と成り、どのようなことから、真理を獲得するのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさしく、それらの法(教え)を、習修し、修め、多く為すことは、真理の獲得と成ります。バーラドヴァージャよ、まさに、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を報知します」と。

「貴君ゴータマよ、このことから、真理の獲得と成り、このことから、真理を獲得します。そして、このことから、わたしたちは、真理の獲得を見ます。貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、精励することがないなら、真理を獲得することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、精励することから、それゆえに、真理を獲得します。それゆえに、精励は、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、精励のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、比較(考量)は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、比較することがないなら、精励することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、比較することから、それゆえに、精励します。それゆえに、比較は、精励のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、比較のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、邁進することがないなら、比較することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、邁進することから、それゆえに、比較します。それゆえに、邁進は、比較のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、邁進のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、欲〔の思い〕(意欲)は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、欲〔の思い〕が生じることがないなら、邁進することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、欲〔の思い〕が生じることから、それゆえに、邁進します。それゆえに、欲〔の思い〕は、邁進のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、これらの法(性質)が、納得があり受認されないなら、欲〔の思い〕が生じることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることから、それゆえに、欲〔の思い〕が生じます。それゆえに、法(教え)の納得と受認は、欲〔の思い〕のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、義(意味)を近しく注視することがないなら、諸々の法(性質)が、納得があり受認されることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、義(意味)を近しく注視することから、それゆえに、諸々の法(性質)が、納得があり受認されます。それゆえに、義(意味)を近しく注視することは、法(教え)の納得と受認のために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を保持することがないなら、義(意味)を近しく注視することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を保持することから、それゆえに、義(意味)を近しく注視します。それゆえに、法(教え)を保持することは、義(意味)を近しく注視することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、法(教え)を聞くことが生じることがないなら、法(教え)を保持することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、法(教え)を聞くことが生じることから、それゆえに、法(教え)を保持します。それゆえに、法(教え)を聞くことは、法(教え)を保持することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、耳を傾けることがないなら、法(教え)を聞くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、耳を傾けることから、それゆえに、法(教え)を聞きます。それゆえに、耳を傾けることは、法(教え)を聞くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、奉侍することがないなら、耳を傾けることも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、奉侍することから、それゆえに、耳を傾けます。それゆえに、奉侍することは、耳を傾けることのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、近づいて行くことがないなら、奉侍することも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、近づいて行くことから、それゆえに、奉侍します。それゆえに、近づいて行くことは、奉侍することのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「貴君ゴータマよ、また、どのようなものが、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)なのですか。わたしたちは、貴君ゴータマに、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為す法(性質)を尋ねます」と。「バーラドヴァージャよ、まさに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです。もし、この、信が生じることがないなら、近づいて行くことも、このこともないでしょう。しかしながら、すなわち、まさに、信が生じることから、それゆえに、近づいて行きます。それゆえに、信は、近づいて行くことのために多く〔の利益〕を作り為すものです」と。

「わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の守護を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の守護を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の随覚を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の随覚を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得を尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得を説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。わたしたちは、貴君ゴータマに、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを尋ねました。貴君ゴータマは、真理の獲得のために多く〔の利益〕を作り為すものを説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。そして、まさしく、それぞれのものを、わたしたちが、貴君ゴータマに尋ねたなら、まさしく、それぞれのものを、貴君ゴータマは説き明かしました。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、過去において、このように知ります。『さてまた、坊主頭の似非沙門たちが何だというのだ。卑俗の黒き者たちであり、梵の足から生まれた者たちである。さてまた、法(真理)の了知者たちが何だというのだ』と。貴君ゴータマは、まさに、わたしに、沙門たちにたいする沙門への愛情を、沙門たちにたいする沙門への清信を、沙門たちにたいする沙門への尊重を、〔それらを〕生じさせました。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。……略……。貴君ゴータマは、わたしを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。

チャンキンの経は終了となり、〔以上が〕第五となる。

注釈【4】