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翻訳【41】

正しい見解の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、尊者サーリプッタは、比丘たちに告げました。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

「友よ、『正しい見解(正見)』『正しい見解』と説かれます。友よ、いったい、まさに、どのようなことから、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成るのですか〕」と。

「友よ、たとえ、遠くからでも、まさに、わたしたちは、尊者サーリプッタの現前において、この語られたことの義(意味)を了知するためにやってくるでしょう。どうか、まさに、まさしく、尊者サーリプッタに、この語られたことの義(意味)が明白となれ(尊者みずから答えてください)。尊者サーリプッタの〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。「友よ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「友よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタに答えました。尊者サーリプッタは、こう言いました。

「友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、善ならざるものを覚知し、さらに、善ならざるものの根元を覚知することから、そして、善なるものを覚知し、さらに、善なるものの根元を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、善ならざるものであり、どのようなものが、善ならざるものの根元であり、どのようなものが、善なるものであり、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことは、善ならざるものです。与えられていないものを取ることは、善ならざるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ない(邪淫)は、善ならざるものです。虚偽を説くことは、善ならざるものです。中傷の言葉は、善ならざるものです。粗暴な言葉は、善ならざるものです。雑駁な虚論は、善ならざるものです。強欲〔の思い〕は、善ならざるものです。憎悪〔の思い〕は、善ならざるものです。誤った見解は、善ならざるものです。友よ、これは、善ならざるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善ならざるものの根元なのですか。貪欲()は、善ならざるものの根元です。憤怒()は、善ならざるものの根元です。迷妄()は、善ならざるものの根元です。友よ、これは、善ならざるものの根元と説かれます。

友よ、では、どのようなものが、善なるものなのですか。友よ、まさに、命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕は、善なるものです。諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕は、善なるものです。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕は、善なるものです。中傷の言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。粗暴な言葉から離れている〔生き方〕は、善なるものです。雑駁な虚論から離れている〔生き方〕は、善なるものです。強欲〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。憎悪〔の思い〕なき〔生き方〕は、善なるものです。正しい見解は、善なるものです。友よ、これは、善なるものと説かれます。友よ、では、どのようなものが、善なるものの根元なのですか。貪欲なき〔あり方〕(無貪)は、善なるものの根元です。憤怒なき〔あり方〕(無瞋)は、善なるものの根元です。迷妄なき〔あり方〕(無痴)は、善なるものの根元です。友よ、これは、善なるものの根元と説かれます。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、善ならざるものを覚知し、このように、善ならざるものの根元を覚知することから、このように、善なるものを覚知し、このように、善なるものの根元を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習(貪随眠:貪りの潜在煩悩)を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習(瞋随眠:怒りの潜在煩悩)を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習(見慢随眠:自我意識の潜在煩悩)を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、食(動力源・エネルギー)を覚知し、かつまた、食の集起を覚知し、かつまた、食の止滅を覚知し、さらに、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、食であり、どのようなものが、食の集起であり、どのようなものが、食の止滅であり、どのようなものが、食の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、四つのものがあります。あるいは、〔現在の〕生類たる有情たちの止住のためになり、あるいは、〔未来の〕発生を探し求める者たちの資助のためになる、これらの食です。どのようなものが、四つのものなのですか。あるいは、粗大なる、あるいは、繊細なる、物質としての食(段食)であり、第二に、接触〔としての食〕(触食)であり、第三に、意の思欲〔としての食〕(思食)であり、第四に、識知〔としての食〕(識食)です。渇愛()の集起あることから、食の集起があります。渇愛の止滅あることから、食の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道八聖道)は、食の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、食を覚知し、このように、食の集起を覚知し、このように、食の止滅を覚知し、このように、食の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、苦しみを覚知し、かつまた、苦しみの集起を覚知し、かつまた、苦しみの止滅を覚知し、さらに、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、苦しみであり、どのようなものが、苦しみの集起であり、どのようなものが、苦しみの止滅であり、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。友よ、これは、苦しみと説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの集起なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。友よ、これは、苦しみの集起と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。友よ、これは、苦しみの止滅と説かれます。友よ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道なのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。友よ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道と説かれます。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、苦しみを覚知し、このように、苦しみの集起を覚知し、このように、苦しみの止滅を覚知し、このように、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、老と死を覚知し、かつまた、老と死の集起を覚知し、かつまた、老と死の止滅を覚知し、さらに、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、老と死であり、どのようなものが、老と死の集起であり、どのようなものが、老と死の止滅であり、どのようなものが、老と死の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能()の完熟は、友よ、これは、老と説かれます。友よ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇()の破壊、死体の捨置、生命の機能(命根)の断絶は、友よ、これは、死と説かれます。かくのごとく、そして、この老は、さらに、この死は、友よ、これは、老と死と説かれます。生の集起あることから、老と死の集起があります。生の止滅あることから、老と死の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、老と死の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、老と死を覚知し、このように、老と死の集起を覚知し、このように、老と死の止滅を覚知し、このように、老と死の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生を覚知し、かつまた、生の集起を覚知し、かつまた、生の止滅を覚知し、さらに、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生であり、どのようなものが、生の集起であり、どのようなものが、生の止滅であり、どのようなものが、生の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所()の獲得は、友よ、これは、生と説かれます。生存()の集起あることから、生の集起があります。生存の止滅あることから、生の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生を覚知し、このように、生の集起を覚知し、このように、生の止滅を覚知し、このように、生の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、生存を覚知し、かつまた、生存の集起を覚知し、かつまた、生存の止滅を覚知し、さらに、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、生存であり、どのようなものが、生存の集起であり、どのようなものが、生存の止滅であり、どのようなものが、生存の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの生存があります。欲望の生存(欲有)であり、形態の生存(色有)であり、形態なき生存(無色有)です。執取()の集起あることから、生存の集起があります。執取の止滅あることから、生存の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、生存の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、生存を覚知し、このように、生存の集起を覚知し、このように、生存の止滅を覚知し、このように、生存の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、執取を覚知し、かつまた、執取の集起を覚知し、かつまた、執取の止滅を覚知し、さらに、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、執取であり、どのようなものが、執取の集起であり、どのようなものが、執取の止滅であり、どのようなものが、執取の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの四つの執取があります。欲望〔の対象〕への執取であり、見解への執取であり、戒と掟への執取であり、自己の論への執取です。渇愛(」の集起あることから、執取の集起があります。渇愛の止滅あることから、執取の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、執取の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、執取を覚知し、このように、執取の集起を覚知し、このように、執取の止滅を覚知し、このように、執取の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、渇愛を覚知し、かつまた、渇愛の集起を覚知し、かつまた、渇愛の止滅を覚知し、さらに、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、渇愛であり、どのようなものが、渇愛の集起であり、どのようなものが、渇愛の止滅であり、どのようなものが、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの渇愛の体系があります。形態()の渇愛であり、音声()の渇愛であり、臭気()の渇愛であり、味感()の渇愛であり、感触(所触)の渇愛であり、法(:意の対象)の渇愛です。感受(:楽苦の知覚)の集起あることから、渇愛の集起があります。感受の止滅あることから、渇愛の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、渇愛を覚知し、このように、渇愛の集起を覚知し、このように、渇愛の止滅を覚知し、このように、渇愛の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、感受を覚知し、かつまた、感受の集起を覚知し、かつまた、感受の止滅を覚知し、さらに、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、感受であり、どのようなものが、感受の集起であり、どのようなものが、感受の止滅であり、どのようなものが、感受の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり、耳の接触から生じる感受であり、鼻の接触から生じる感受であり、舌の接触から生じる感受であり、身の接触から生じる感受であり、意の接触から生じる感受です。接触(:感覚の発生)の集起あることから、感受の集起があります。接触の止滅あることから、感受の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、感受を覚知し、このように、感受の集起を覚知し、このように、感受の止滅を覚知し、このように、感受の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、接触を覚知し、かつまた、接触の集起を覚知し、かつまた、接触の止滅を覚知し、さらに、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、接触であり、どのようなものが、接触の集起であり、どのようなものが、接触の止滅であり、どのようなものが、接触の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの接触の体系があります。眼の接触であり、耳の接触であり、鼻の接触であり、舌の接触であり、身の接触であり、意の接触です。六つの〔認識の〕場所(六処:六感官の認識機構)の集起あることから、接触の集起があります。六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、接触の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、接触を覚知し、このように、接触の集起を覚知し、このように、接触の止滅を覚知し、このように、接触の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、六つの〔認識の〕場所を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、かつまた、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、さらに、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の集起であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅であり、どのようなものが、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの〔認識の〕場所があります。眼の〔認識の〕場所であり、耳の〔認識の〕場所であり、鼻の〔認識の〕場所であり、舌の〔認識の〕場所であり、身の〔認識の〕場所であり、意の〔認識の〕場所です。名前と形態(名色:心と身体)の集起あることから、六つの〔認識の〕場所の集起があります。名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、六つの〔認識の〕場所を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の集起を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅を覚知し、このように、六つの〔認識の〕場所の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、名前と形態を覚知し、かつまた、名前と形態の集起を覚知し、かつまた、名前と形態の止滅を覚知し、さらに、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、名前と形態であり、どのようなものが、名前と形態の集起であり、どのようなものが、名前と形態の止滅であり、どのようなものが、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。感受()、表象()、思欲()、接触()、意を為すこと(作意)は、友よ、これは、名前と説かれます。そして、四つの大いなる元素(四大種:地・水・火・風)は、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態(四大所造色)は、友よ、これは、形態と説かれます。かくのごとく、そして、この名前は、さらに、この形態は、友よ、これは、名前と形態と説かれます。識知〔作用〕(:認識作用)の集起あることから、名前と形態の集起があります。識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、名前と形態を覚知し、このように、名前と形態の集起を覚知し、このように、名前と形態の止滅を覚知し、このように、名前と形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、識知〔作用〕を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、識知〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、識知〔作用〕であり、どのようなものが、識知〔作用〕の集起であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕(眼識)であり、耳の識知〔作用〕(耳識)であり、鼻の識知〔作用〕(鼻識)であり、舌の識知〔作用〕(舌識)であり、身の識知〔作用〕(身識)であり、意の識知〔作用〕(意識)です。諸々の形成〔作用〕(:意志・衝動)の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、識知〔作用〕を覚知し、このように、識知〔作用〕の集起を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅を覚知し、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、諸々の形成〔作用〕を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、かつまた、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、さらに、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の集起であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅であり、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの形成〔作用〕があります。身体の形成〔作用〕(身行)であり、言葉の形成〔作用〕(口行)であり、心の形成〔作用〕(心行)です。無明の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、諸々の形成〔作用〕を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を覚知し、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに……略……尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。……略……。「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、無明を覚知し、かつまた、無明の集起を覚知し、かつまた、無明の止滅を覚知し、さらに、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、無明であり、どのようなものが、無明の集起であり、どのようなものが、無明の止滅であり、どのようなものが、無明の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、すなわち、まさに、苦しみについての無知、苦しみの集起についての無知、苦しみの止滅についての無知、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての無知は、友よ、これは、無明と説かれます。煩悩の集起あることから、無明の集起があります。煩悩の止滅あることから、無明の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、無明の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、無明を覚知し、このように、無明の集起を覚知し、このように、無明の止滅を覚知し、このように、無明の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して、敵対〔の思い〕の悪習を除去して、『〔わたしは〕存在する』という見解と思量の悪習を完破して、無明を捨棄して、明知を生起させて、所見の法(現世)において、苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

「友よ、善きかな」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んで、随喜して、尊者サーリプッタに、さらなる問いを尋ねました。「友よ、また、他の教相もまた存在するのでしょうか。すなわち、聖なる弟子が、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成る、そのような教相が〕」と。

「友よ、存在します。友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、そして、煩悩()を覚知し、かつまた、煩悩の集起を覚知し、かつまた、煩悩の止滅を覚知し、さらに、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕。友よ、また、どのようなものが、煩悩であり、どのようなものが、煩悩の集起であり、どのようなものが、煩悩の止滅であり、どのようなものが、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道なのですか。友よ、これらの三つの煩悩があります。欲望の煩悩であり、生存の煩悩であり、無明の煩悩です。無明の集起あることから、煩悩の集起があります。無明の止滅あることから、煩悩の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

友よ、すなわち、まさに、聖なる弟子が、このように、煩悩を覚知し、このように、煩悩の集起を覚知し、このように、煩悩の止滅を覚知し、このように、煩悩の止滅に至る〔実践の〕道を覚知することから、彼は、全てにわたり、貪り〔の思い〕の悪習を捨棄して……略……苦しみの終極を為す者と成ります。友よ、このことからもまた、まさに、聖なる弟子は、正しい見解ある者と成り、彼の見解が真っすぐに赴いたものと〔成り〕、法(教え)にたいする確固たる清信を具備した者と〔成り〕、この正なる法(教え)に精通した者と〔成ります〕」と。

尊者サーリプッタは、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、尊者サーリプッタの語ったことを大いに喜んだ、ということです。

正しい見解の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。

注釈【5】