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MND10 「 〔身体の〕 破壊の前に」の経についての釈示

翻訳【3】

「 〔身体の〕 破壊の前に」の経についての釈示

そこで、「 〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示を説くであろう。

854. (848)〔対話者が尋ねた〕⸺どのように見ある者が、どのように戒ある者が、「寂静者」と説かれるのですか。ゴータマよ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕 尋ねられた者として、最上の人のことを。 (1)

「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか」とは、「どのように見ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして見を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が」。「どのように戒ある者が」とは、何を確立したことで、何を流儀とすることで、何を相似とすることで、どのようなものとして戒を具備した者が。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が」。「『寂静者』と説かれるのですか」とは、「〔心が〕静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。〔対話者は、世尊に〕「どのように見ある者が」と、卓越の智慧を尋ね、「どのように戒ある者が」と、卓越の戒を尋ね、「『寂静者』 〔と説かれるのですか〕 」と、卓越の心 (瞑想)を尋ねる。ということで、「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか」。

「ゴータマよ、それを、わたしに説いてください」とは、「それを」とは、〔わたしが〕 尋ねるところの、それを、 〔わたしが〕 乞い求めるところの、それを、 〔わたしが〕要請するところの、それを、 〔わたしが〕清信するところの、それを。「ゴータマよ」とは、その 〔対話者として〕 化作された者(化仏)は、覚者たる世尊に、氏姓で語りかける。「説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「ゴータマよ、それを、わたしに説いてください」。

〔問いを〕尋ねられた者として、最上の人のことを」とは、尋ねられた者として、問われた者として、乞い求められた者として、要請された者として、清信された者として。「最上の人のことを」とは、至高者のことを、最勝者のことを、殊勝者のことを、筆頭者のことを、最上者のことを、最も優れた者のことを。ということで、「〔問いを〕 尋ねられた者として、最上の人のことを」。

それによって、その 〔対話者として〕 化作された者が言った。

〔対話者が尋ねた〕⸺「どのように見ある者が、どのように戒ある者が、『寂静者』と説かれるのですか。ゴータマよ、それを、わたしに説いてください。〔問いを〕 尋ねられた者として、最上の人のことを」と。
855. (849)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕〔身体の〕 破壊 (死) の前に、渇愛〔の思い〕 を離れ、過去の極 (過去の記憶) に依存せず、 〔過去と未来の〕 中間(現在) において名称されない者⸺彼には、 〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕は存在しません。 (2)

〔身体の〕 破壊(死) の前に、渇愛 〔の思い〕を離れ」とは、身体の破壊より前に、自己状態の破壊より前に、死体の捨置より前に、生命の機能の断絶より前に、渇愛を離れた者として、渇愛を離れ去った者として、渇愛を捨て去った者として、渇愛を吐き捨てた者として、渇愛を解き放った者として、渇愛を捨棄した者として、渇愛を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕 清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕 住む。

「世尊 (バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者 (バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛) を滅壊した者、ということで、「世尊」。 〔心の〕 汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法 (教え) の宝を、分けた (バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存 (バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者 (バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ) 、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を分有する者 (バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義 (意味) の味を、法(教え) の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心 (瞑想) を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想四禅 を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心) を、四つの形態なき 〔行境〕 への入定 (四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱 八解脱 を、八つの征服ある 〔認識の〕 場所 八勝処 を、九つの順次の住への入定 九次第定 を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき安般念 という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕 の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、 〔その〕 実証となる概念 施設 であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕〔身体の〕 破壊の前に、渇愛〔の思い〕 を離れ」。

「過去の極 (過去の記憶)に依存せず」とは、過去の極 前際は、過去の時 (過去世) と説かれる。過去の時に関して、 〔彼の〕 渇愛は 〔すでに〕 捨棄され、〔彼の〕 見解は 〔すでに〕放棄され、渇愛が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解が 〔すでに〕放棄されたことから、このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、 〔わたしは〕 有った⸺過去の時 (過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受 〔作用〕 の者として、〔わたしは〕 有った……。「このような表象 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕有った……。「このような諸々の形成 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕 有った……。「このような識知 〔作用〕の者として、 〔わたしは〕 有った⸺過去の時 (過去世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔有った〕 」と、そこにおいて、 〔彼の〕 識知 〔作用〕 は、欲 〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕 に連結したものと成らない。〔彼の〕 識知 〔作用〕 が、欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕に連結しなかったことから、 〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。「かくのごとく、わたしに、耳が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔有った〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の臭気が 〔有った〕 」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の味感が〔有った〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の感触が 〔有った〕 」と……。「かくのごとく、わたしに、意が有った⸺過去の時に。かくのごとく、諸々の法(意の対象)〔有った〕」と、そこにおいて、 〔彼の〕 識知 〔作用〕 は、欲 〔の思い〕 と貪り〔の思い〕 に連結したものと成らない。 〔彼の〕 識知 〔作用〕 が、欲 〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕 に連結しなかったことから、〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。さらに、あるいは、すなわち、過去において、女性を相手に笑い談じ戯れたそれら〔の経験〕があるとして、それを味わず、それを欲さず、そして、それによって、歓悦を起こさない。このようにもまた、「過去の極に依存せず」。

〔過去と未来の〕 中間(現在)において名称されない者」とは、中間は、現在の時と説かれる。現在の時に関して、 〔彼の〕 渇愛は 〔すでに〕 捨棄され、〔彼の〕 見解は 〔すでに〕放棄され、渇愛が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解が 〔すでに〕放棄されたことから、「貪る者である」と名称されるべき者ではなく、「怒る者である」と名称されるべき者ではなく、「迷う者である」と名称されるべき者ではなく、「結縛された者である」と名称されるべき者ではなく、「偏執した者である」と名称されるべき者ではなく、「〔心の〕散乱に至った者である」と名称されるべき者ではなく、「結論なきに至った者である」と名称されるべき者ではなく、「強靭に至った者である」と名称されるべき者ではない。〔彼の〕 それらの行作は 〔すでに〕 捨棄され、 〔それらの〕 行作が〔すでに〕 捨棄されたことから、 〔未来の〕境遇によって名称されるべき者ではない⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、〔虚構の〕 名称に赴くであろう、 〔まさに〕 その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「 〔過去と未来の〕 中間において名称されない者」。

「彼には、 〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕は存在しません」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。「偏重」とは、二つの偏重がある。 (1) そして、渇愛の偏重であり、 (2)さらに、見解の偏重である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の偏重である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔すでに〕 捨棄され、見解の偏重は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の偏重が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、 〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位とする者ではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕 歩むことはない。このようにもまた、「彼には、 〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕は存在しません」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、 〔わたしは〕存するであろう⸺未来の時 (未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受 〔作用〕 の者として、〔わたしは〕 存するであろう……。「このような表象 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕存するであろう……。「このような諸々の形成 〔作用〕 の者として、〔わたしは〕 存するであろう……。「このような識知 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕存するであろう⸺未来の時 (未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「彼には、 〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕は存在しません」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕 」と、 〔いまだ〕 獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕 心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕 それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕は存在しません」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が 〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、鼻が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の臭気が 〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、舌が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の味感が 〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、身が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の感触が 〔存するであろう〕」と……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の法 (意の対象)〔存するであろう〕 」と、〔いまだ〕 獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕 心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕 それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕 は存在しません」。さらに、あるいは、「わたしは、あるいは、この戒によって、あるいは、〔この〕 掟によって、あるいは、 〔この〕 苦行によって、あるいは、 〔この〕梵行によって、あるいは、天 〔の神〕 と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕 たちの或るひとり (天神の従者)〔成るのだ〕 」と、〔いまだ〕 獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕 心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕 それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「彼には、〔特別なものとして〕 偏重された 〔表象や見解〕 は存在しません」。

それによって、世尊は言った。

かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「 〔身体の〕 破壊(死) の前に、渇愛 〔の思い〕を離れ、過去の極 (過去の記憶) に依存せず、 〔過去と未来の〕 中間 (現在)において名称されない者⸺彼には、 〔特別なものとして〕 偏重された〔表象や見解〕 は存在しません」と。
856. (850)忿激せず、恐慌せず、誇らず、悔やまず、明慧によって話し、 〔心が〕高揚しない者⸺彼は、まさに、言葉を制した牟尼 (沈黙の聖者) です。(3)

「忿激せず、恐慌せず」とは、まさに、「忿激せず」と、まさに、それが説かれたが、しかしながら、また、まずは、忿激が説かれるべきである。十の行相によって、忿激は生じる。「〔彼は〕 わたしに、義 (利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕 わたしに、義(利益) ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕 わたしに、義 (利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義 (利益)ならざることを行なった」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義 (利益)ならざることを行なう」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しく意に適う者に、義 (利益)ならざることを行なうであろう」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義 (利益)を行なった」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義 (利益)を行なう」と、忿激は生じる。「 〔彼は〕わたしにとって愛しくなく意に適わない者に、義 (利益)を行なうであろう」と、忿激は生じる。また、あるいは、状況 (道理)なきことがあるとき、忿激は生じる。すなわち、このような形態の、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒 、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕 、意の強き憤怒、忿激 忿、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、忿激と説かれる。

さらに、また、忿激の、旺盛なることと微小なることが知られるべきである。どのような時でも、忿激は存在する⸺心の混濁ほどのものとして有り、そして、それまでは、口を痙攣させるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺口を痙攣させるほどのものとして有り、そして、それまでは、顎を動かすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺顎を動かすほどのものとして有り、そして、それまでは、粗暴な言葉を放つものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺粗暴な言葉を放つほどのものとして有り、そして、それまでは、方々を睨み付けるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺方々を睨み付けるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を撫で回すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺棒や刃を撫で回すほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を振り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺棒や刃を振り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、棒や刃を打ち落とすものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺棒や刃を打ち落とすほどのものとして有り、そして、それまでは、素振りや振り回しを為すものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺素振りや振り回しを為すほどのものとして有り、そして、それまでは、等しく打ち砕き遍く打ち砕くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺等しく打ち砕き遍く打ち砕くほどのものとして有り、そして、それまでは、手足と肢体を引き裂くものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺手足と肢体を引き裂くほどのものとして有り、そして、それまでは、生命を取り上げるものと成ることはない。どのような時でも、忿激は存在する⸺生命を取り上げるほどのものとして有り、そして、それまでは、一切を捨て去り遍く捨て去る様相と成ることはない。すなわち、忿激は、他の人を害して〔そののち〕 、自己を害することから、このことから、忿激は、最高の増長に至ったものと〔成り〕、最高の広大に至り得たものと成る。彼の、この忿激が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、忿激しない者と説かれる。忿激が捨棄されたことから、忿激しない者となり、忿激の基盤(根拠)が遍知されたことから、忿激しない者となり、忿激の因が断絶されたことから、忿激しない者となる。ということで、「忿激せず」。

「恐慌せず」とは、ここに、一部の者は、恐れある者と成り、恐懼ある者と〔成り〕 、遍き恐れある者と 〔成る〕 。彼は、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。「あるいは、家を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、衆徒を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、居住を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、賞賛を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、安楽を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、〔行乞の〕 施食を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、看病の者を、 〔わたしは〕 得ない」「 〔わたしは〕 未詳の者として〔世に〕 存している」と、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。

ここに、比丘が、恐れなき者と成り、恐懼なき者と 〔成り〕 、遍き恐れなき者と 〔成る〕。彼は、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。「あるいは、家を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、衆徒を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、居住を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、利得を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、盛名を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、賞賛を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、安楽を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、衣料を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、 〔行乞の〕 施食を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、看病の者を、 〔わたしは〕 得ない」「 〔わたしは〕 未詳の者として〔世に〕存している」と、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。ということで、「忿激せず、恐慌せず」。

「誇らず、悔やまず」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕 。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕 存している」と、あるいは、「掟の成就者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「戒と掟の成就者として 〔世に存している〕」と⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、 〔世に存している〕 」と、あるいは、「諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) の得者として 〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として 〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「法(教え) の言説者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「林にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔行乞の〕施食の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「三つの衣料の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔決められた時間〕以後の食を否とする者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕 なる者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕 にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「虚空無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「無所有なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる 〔認識の〕場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「誇らず」。

「悔やまず」とは、「悔恨 悪作」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、時ならざるものについて、時なるものとする了解あること、時なるものについて、時ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕 、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。

さらに、また、二つの契機によって、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから。どのように、そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕 にたいする誤った行ない (邪淫) が為された」「わたしによって、諸々の欲望 〔の対象〕 にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」「わたしによって、粗暴な言葉からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と……。「わたしによって、強欲〔の思い〕 が為された」「わたしによって、強欲 〔の思い〕 なき 〔生き方〕が為されなかった」と……。「わたしによって、憎悪 〔の思い〕が為された」「わたしによって、憎悪 〔の思い〕 なき 〔生き方〕が為されなかった」と……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。

さらに、あるいは、「 〔わたしは〕 諸戒における円満成就を為す者として 〔世に〕存していない」と、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕 諸々の 〔感官の〕機能において門が守られていない者として 〔世に〕 存している」と、心の後悔〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。「 〔わたしは〕 食について量を知らない者として 〔世に〕存している」と……。「 〔眠らずに〕 起きていることに 〔いまだ〕 専念していない者として 〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を 〔いまだ〕 具備していない者として〔世に〕 存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立四念住・四念処〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤四正勤〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場 四神足〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能 五根〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力 五力〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分 七覚支〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道 八正道八聖道〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が 〔いまだ〕 遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が 〔いまだ〕 捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が 〔いまだ〕 実証されていない」と、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。彼の、この悔恨が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、悔恨なき者と説かれる。ということで、「誇らず、悔やまず」。

「明慧によって話し、 〔心が〕 高揚しない者」とは、明慧は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([167]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。明慧によって、遍く収取しては遍く収取して、言葉を語る。たとえ、多くを言説しつつも、たとえ、多くを発語しつつも、たとえ、多くを説示しつつも、たとえ、多くを語用しつつも、悪しく言説されたものとして、悪しく発語されたものとして、悪しく談じられたものとして、悪しく言われたものとして、悪しく語られたものとして、言葉を語らない。ということで、「明慧によって話し」。「〔心が〕 高揚しない者」とは、そこにおいて、どのようなものが、〔心の〕 高揚 掉挙 であるのか。すなわち、心の、高揚、寂止なき 〔あり方〕 、心の散乱、心の迷走である。これが、 〔心の〕高揚と説かれる。彼の、この 〔心の〕高揚が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、 〔心が〕 高揚しない者と説かれる。ということで、「明慧によって話し、 〔心が〕 高揚しない者」。

「彼は、まさに、言葉を制した牟尼 (沈黙の聖者) です」とは、ここに、比丘が、 (1)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕 にとって言葉を違えない者として、 〔世に〕 有る。 (2)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として 〔世に〕 有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて 〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕 有る。 (3)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として 〔世に〕有る。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕 有る。 (4)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として 〔世に〕 有る。〔正しい〕 時に説く者として、事実を説く者として、義 (意味) を説く者として、法 (教え)を説く者として、律を説く者として、安置する 〔価値〕 ある言葉を⸺〔正しい〕 時に、理由を有し、結末がある、義 (道理) を伴った 〔言葉〕 を⸺語る者として、〔世に〕 有る。 〔彼は〕四つの言葉による善き行ない (虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)を具備した者として、四つの汚点から離れ去った言葉を語り、三十二の畜生の議論 (無用論・無駄話:[1449]参照)から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。

〔彼は〕 十の議論の基盤(根拠) を議論する。それは、すなわち、この、 (1) 少なき欲求たること 少欲 についての議論を議論し、 (2) 満ち足りていること知足 についての議論を議論し、(3) 遠離についての議論を…… (4) 〔世俗と〕 交わりなきことについての議論を……(5) 精進勉励についての議論を…… (6) 戒についての議論を…… (7)禅定についての議論を…… (8) 智慧についての議論を…… (9) 解脱についての議論を…… (10)解脱の知見についての議論を…… 〔四つの〕 気づきの確立 四念住・四念処 についての議論を…… 〔四つの〕 正しい精励 四正勤 についての議論を…… 〔四つの〕 神通の足場四神足 についての議論を……〔五つの〕 機能 五根 についての議論を…… 〔五つの〕五力 についての議論を…… 〔七つの〕 覚りの支分七覚支 についての議論を……〔聖者の〕(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) についての議論を…… 〔沙門の〕(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)についての議論を……涅槃についての議論を議論する。「言葉を制した」とは、 〔言葉が〕傾念された者として、 〔言葉が〕 遍く傾念された者として、 〔言葉が〕 守られた者として、 〔言葉が〕保護された者として、 〔言葉が〕 守護された者として、 〔言葉が〕 寂止した者として。「牟尼 (ムニ)」とは、沈黙 (モーナ) は、知恵と説かれる。……略 ([200-209]参照) ……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕。ということで、「彼は、まさに、言葉を制した牟尼です」。

それによって、世尊は言った。

「忿激せず、恐慌せず、誇らず、悔やまず、明慧によって話し、〔心が〕 高揚しない者⸺彼は、まさに、言葉を制した牟尼 (沈黙の聖者) です」と。
857. (851)未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触 :感覚の発生) について遠離を見る者は、そして、諸々の見解について導かれません。 (4)

「未来について執着なき者は」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この執着としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「このような形態の者として、〔わたしは〕 存するであろう⸺未来の時 (未来世) に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。「このような感受 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕存するであろう……。「このような表象 〔作用〕 の者として、〔わたしは〕 存するであろう……。「このような諸々の形成 〔作用〕 の者として、 〔わたしは〕存するであろう……。「このような識知 〔作用〕 の者として、〔わたしは〕 存するであろう⸺未来の時 (未来世)に」と、そこにおいて、愉悦を喚起しない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「かくのごとく、わたしに、眼が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の形態が〔存するであろう〕 」と、 〔いまだ〕 獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕 心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。「かくのごとく、わたしに、耳が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の音声が〔存するであろう〕」と……略……。「かくのごとく、わたしに、意が存するであろう⸺未来の時に。かくのごとく、諸々の法 (意の対象)〔存するであろう〕 」と、〔いまだ〕 獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕 心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。さらに、あるいは、「わたしは、あるいは、この戒によって、あるいは、〔この〕 掟によって、あるいは、 〔この〕 苦行によって、あるいは、 〔この〕梵行によって、あるいは、天 〔の神〕 と成るのだ、あるいは、天〔の神々〕 たちの或るひとりと 〔成るのだ〕 」と、 〔いまだ〕獲得されていないものを獲得するために、 〔彼は〕心を作為しない。心に、作為の縁なきことから、 〔彼は〕それを愉悦せず、それを愉悦している者とならない。このようにもまた、「未来について執着なき者は」。

「過去を憂いません」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕 施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、「過去を憂いません」。

「諸々の接触 :感覚の発生) について遠離を見る者は」とは、「接触」とは、眼の接触眼触 、耳の接触 耳触 、鼻の接触 鼻触 、舌の接触 舌触 、身の接触 身触 、意の接触 意触、名辞の接触、敵対するものの接触、安楽として感受されるべき接触、苦痛として感受されるべき接触、苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触、善なる接触、善ならざる接触、〔善悪が〕 説き明かされない接触 無記触、欲望の行境の接触、形態の行境の接触、形態なき行境の接触、空性の接触、無相の接触、無願の接触、世 〔俗〕 の接触 世間触 、世 〔俗〕 を超える接触 出世間触、過去の接触、未来の接触、現在の接触。すなわち、このような形態の、接触、触れること、接触すること、接触あることである。これが、接触と説かれる。

「諸々の接触について遠離を見る者は」とは、眼の接触を、あるいは、自己〔の観点〕 によっても、あるいは、自己に属するもの 〔の観点〕 によっても、あるいは、常住なるもの 〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの 〔の観点〕 によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕 によっても、あるいは、変化なき法 (性質) 〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。耳の接触を……遠離したものとして見る。鼻の接触を……遠離したものとして見る。舌の接触を……遠離したものとして見る。身の接触を……遠離したものとして見る。意の接触を……遠離したものとして見る。名辞の接触を……遠離したものとして見る。敵対するものの接触を……遠離したものとして見る。安楽として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦痛として感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。苦でもなく楽でもないものとして感受されるべき接触を……遠離したものとして見る。善なる接触を……遠離したものとして見る。善ならざる接触を……遠離したものとして見る。〔善悪が〕説き明かされない接触を……遠離したものとして見る。欲望の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態の行境の接触を……遠離したものとして見る。形態なき行境の接触を……遠離したものとして見る。世〔俗〕 の接触を、あるいは、自己 〔の観点〕 によっても、あるいは、自己に属するもの 〔の観点〕 によっても、あるいは、常住なるもの 〔の観点〕によっても、あるいは、常恒なるもの 〔の観点〕 によっても、あるいは、常久なるもの〔の観点〕 によっても、あるいは、変化なき法 (性質) 〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。

さらに、あるいは、過去の接触を、かつまた、諸々の未来 〔の接触の観点〕 によっても、かつまた、諸々の現在の接触 〔の観点〕 によっても、遠離したものとして見る。未来の接触を、かつまた、諸々の過去 〔の接触の観点〕 によっても、かつまた、諸々の現在の接触 〔の観点〕 によっても、遠離したものとして見る。現在の接触を、かつまた、諸々の過去 〔の接触の観点〕 によっても、かつまた、諸々の未来の接触 〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。さらに、あるいは、すなわち、それらの接触が、聖なるものにして、煩悩なく、世〔俗〕を超えるものであり、空性に関係したものであるなら、それらの接触を、遠離したものとして見る。貪欲 〔の観点〕 によっても、憤怒 〔の観点〕 によっても、迷妄〔の観点〕 によっても、忿激 〔の観点〕 によっても、怨恨 〔の観点〕 によっても、偽装〔の観点〕 によっても、加虐 〔の観点〕 によっても、嫉妬 〔の観点〕 によっても、物惜〔の観点〕 によっても、幻惑 〔の観点〕 によっても、狡猾 〔の観点〕 によっても、強情〔の観点〕 によっても、激昂 〔の観点〕 によっても、思量 〔の観点〕 によっても、高慢〔の観点〕 によっても、驕慢 〔の観点〕 によっても、放逸 〔の観点〕によっても、一切の 〔心の〕 汚れ 〔の観点〕 によっても、一切の悪しき行ない 〔の観点〕によっても、一切の懊悩 〔の観点〕 によっても、一切の苦悶 〔の観点〕 によっても、一切の熱苦 〔の観点〕によっても、一切の善ならざる行作 〔の観点〕によっても、遠離したものとして見る。ということで、「諸々の接触について遠離を見る者は」。

「そして、諸々の見解について導かれません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「そして、諸々の見解について導かれません」。

それによって、世尊は言った。

「未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触 :感覚の発生)について遠離を見る者は、そして、諸々の見解について導かれません」と。
858. (852)〔欲望の対象から〕 退去し、虚言なく、羨望 〔の思い〕 なく、物惜 〔の思い〕 なき者は、尊大ならず、〔他者に〕 忌避されず、かつまた、中傷 〔の思い〕 に陥る者でもありません。 (5)

〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく」とは、「 〔欲望の対象から〕退去し」とは、貪欲が捨棄されたことから、退去した者となり、憤怒が捨棄されたことから、退去した者となり、迷妄が捨棄されたことから、退去した者となり、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が捨棄されたことから、退去した者となる。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、では、どのように、比丘は、退去した者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘の、『〔わたしは〕 存在する』という思量 我慢 :自我意識)〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ 〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてあります。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、退去した者と成ります」 〔と〕 。ということで、「 〔欲望の対象から〕退去し」。

「虚言なく」とは、三つの虚言の事例がある。 (1) 日用品の受用と名づけられた虚言の事例、 (2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、 (3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。

(1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、 〔在俗の〕 家長たちが、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) によって〔布施をするために〕 、比丘を招く。その 〔比丘〕 は、悪しき欲求ある者であり、 〔自らの〕欲求に支配された者であり、 〔それらの施物を〕(目的) とする者であり、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を 〔とりあえずは〕 拒絶し、 〔行乞の〕 施食を〔とりあえずは〕 拒絶し、臥坐具を 〔とりあえずは〕 拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を 〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕 付けるなら。沙門にとって、高価な 〔行乞の〕 施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、残飯行(乞食行) によって、 〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それ (施物)に執取して、粗末な衣料を 〔身に〕 付け、粗末な 〔行乞の〕 施食を食べ、粗末な臥坐所を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕 その、この者のことを、 〔在俗の〕 家長たちは、このように知る。「この沙門は、少なき欲求の者であり、 〔常に〕 満ち足りている者であり、遠離している者であり、 〔世俗と〕 交わりなき者であり、精進に励む者であり、 〔俗塵の〕 払拭 頭陀 を説く者である」と。より一層、より一層、 〔家長たちは〕諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。 〔第一に〕 信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕 施すべき法 (施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。 〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的) はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕 によって、 〔わたしは〕 納受する」と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。

(2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕 欲求に支配された者として、 〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、赴くに装い、立つに装い、坐るに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕 定められた者であるかのように赴き、 〔心が〕 定められた者であるかのように立ち、 〔心が〕定められた者であるかのように坐り、 〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者 (見かけ上の瞑想者) と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道 (行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。

(3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、 〔自らの〕 欲求に支配された者として、 〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法 (教え) に依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を 〔身に〕 保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕 保つなら……銅椀を 〔身に〕 保つなら……水瓶を 〔身に〕保つなら……濾過器を 〔身に〕 保つなら……袋を 〔身に〕 保つなら……履物を 〔身に〕保つなら……身体を縛る 〔帯〕〔身に〕 保つなら…… 〔縛り〕 紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師父 和尚がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師匠 阿闍梨がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……堂舎に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。

さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定の得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。彼の、これらの三つの虚言の事例が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、虚言なき者と説かれる。ということで、「〔欲望の対象から〕 退去し、虚言なく」。

「羨望 〔の思い〕なく、物惜 〔の思い〕 なき者は」とは、羨望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この羨望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、羨望〔の思い〕なき者と説かれる。彼は、諸々の形態を羨望せず、諸々の音声を……諸々の臭気を……諸々の味感を……諸々の感触を……家を……衆徒を……居住を……利得を……盛名を……賞賛を……安楽を……衣料を……〔行乞の〕 施食を……臥坐具を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬) を……欲望の界域 欲界 を……形態の界域 色界 を……形態なき界域 無色界 を……欲望の生存 欲有 を……形態の生存 色有 を……形態なき生存 無色有 を……表象の生存 想有 を……表象なき生存 無想有 を……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存 非想非非想有 を……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存) を……四つの組成としての生存 (色蘊以外の四蘊を有する生存) を……五つの組成としての生存 (五蘊すべてを有する生存) を……過去を……未来を……現在を……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)を、羨望せず、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「羨望 〔の思い〕 なく」。「物惜 〔の思い〕なき者は」とは、「物惜」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法 (教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、心の、緊縮すること、収取あることである。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕 範疇の物惜もまた、物惜であり、 〔十八の〕 界域の物惜もまた、物惜であり、 〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。彼の、この物惜が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜〔の思い〕 なき者と説かれる。ということで、「羨望 〔の思い〕 なく、物惜 〔の思い〕 なき者は」。

「尊大ならず、 〔他者に〕忌避されず」とは、尊大とは、三つの尊大がある。 (1) 身体の属性としての尊大、(2) 言葉の属性としての尊大、 (3) 心の属性としての尊大である。 (1)どのようなものが、身体の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、 (1―1)僧団に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、 (1―2)衆徒に赴くもまた、身体の属性としての尊大を見示し、 (1―3)食堂においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、 (1―4)浴室においてもまた、身体の属性としての尊大を見示し、 (1―5)水浴場においてもまた、身体の属性としての尊大を見示する。 (1―6)家屋の内に入りながらもまた、身体の属性としての尊大を見示する。 (1―7)家屋の内に入ったあともまた、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―1)どのように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、僧団に赴き、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―2)どのように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴き、 〔他者にたいし〕 心作を為すことなく、長老の比丘たちが、履物無しで歩行 〔瞑想〕 をしているのに、履物有りで歩行 〔瞑想〕をし、低き歩行場で歩行 〔瞑想〕 をしているのに、高き歩行場で歩行〔瞑想〕 をし、大地で歩行 〔瞑想〕 をしているのに、歩行場で歩行 〔瞑想〕をする。ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―3)どのように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、食堂において、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに分け入って坐り、新参の比丘たちにもまた坐を拒み、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、〔衣を〕頭まで着込んでであろうが坐り、立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、食堂において、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―4)どのように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、浴室において、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが立ち、ぶつかりながらであろうが坐り、前であろうが立ち、前であろうが坐り、高き坐であろうが坐り、許しを乞わずにいようが、要請されていなかろうが、薪をくべ、扉をもまた締め、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、浴室において、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―5)どのように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、水浴場において、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが入り、前であろうが入り、ぶつかりながらであろうが沐浴し、前であろうが沐浴し、上であろうが沐浴し、ぶつかりながらであろうが上がり、前であろうが上がり、上であろうが上がる。このように、水浴場において、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―6)どのように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入りながら、〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、ぶつかりながらであろうが赴き、前であろうが赴き、 〔家から〕離れてもまた、長老の比丘たちの前を赴く。このように、家屋の内に入りながら、身体の属性としての尊大を見示する。

(1―7)どのように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、家屋の内に入ったあと、「尊き方よ、入らないでください」と説かれているのに入り、「尊き方よ、立たないでください」と説かれているのに立ち、「尊き方よ、坐らないでください」と説かれているのに坐り、空間なくもまた入り、空間なくもまた立ち、空間なくもまた坐り、すなわち、また、家々には、そして、秘密の、さらに、隠蔽された、それらの内室が有り、そこにおいて、良家の婦女たちが〔坐り〕 、良家の娘たちが 〔坐り〕 、良家の嫁たちが 〔坐り〕、良家の少女たちが坐るとして、そこにおいてもまた、無理やり入り、少年の頭をもまた撫でまわす。このように、家屋の内に入ったあと、身体の属性としての尊大を見示する。これが、身体の属性としての尊大である。

(2)どのようなものが、言葉の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、 (2―1)僧団に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、 (2―2)衆徒に赴くもまた、言葉の属性としての尊大を見示し、 (2―3)家屋の内に入ったあともまた、言葉の属性としての尊大を見示する。

(2―1)どのように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、僧団に赴き、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え) を話し、問いに答え、戒条 波羅提木叉 :戒律条項)を誦説する。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、僧団に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

(2―2)どのように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、衆徒に赴き、 〔他者にたいし〕心作を為すことなく、長老の比丘たちに、あるいは、許しを乞わずに、あるいは、要請されていないのに、林園に赴いた比丘たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。林園に赴いた比丘尼たちに、在俗信者優婆塞 たちに、女性在俗信者優婆夷 たちに、法(教え)を話し、問いに答える。立ったままであろうが話し、腕を振り乱したままであろうが話す。このように、衆徒に赴き、言葉の属性としての尊大を見示する。

(2―3)どのように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示するのか。ここに、一部の者は、 〔布施を受けるために〕家屋の内に入ったあと、あるいは、婦女に、あるいは、少女に、このように言う。「某名よ、某姓よ、何が存するのか。粥は存するのか。食べるものは存するのか。固形の食料は存するのか。何を飲もうか。何を食べようか。何を喰おうか。あるいは、何が存するのか。あるいは、わたしに、何を施してくれるのか」と語り散らす。このように、家屋の内に入ったあと、言葉の属性としての尊大を見示する。これが、言葉の属性としての尊大である。

(3)どのようなものが、心の属性としての尊大であるのか。ここに、一部の者は、高貴なる家からの出家者として 〔世に〕 存していないのに、高貴なる家からの出家者を相手に、 〔彼と〕 同等の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる家からの出家者として 〔世に〕 存していないのに、大いなる家からの出家者を相手に、 〔彼と〕 同等の者として、自己を、心によって思い定め、大いなる財物ある家からの出家者として〔世に〕 存していないのに、大いなる財物ある家からの出家者を相手に、〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、巨万の財物ある家からの出家者として 〔世に〕 存していないのに、巨万の財物ある家からの出家者を相手に、 〔彼と〕 同等の者として、自己を、心によって思い定め、経の専門家として 〔世に〕 存していないのに、経の専門家を相手に、 〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定め、律の保持者として 〔世に〕存していないのに……法 (教え) の言説者として 〔世に〕 存していないのに……林にある者として 〔世に〕存していないのに…… 〔行乞の〕 施食の者として 〔世に〕 存していないのに……糞掃衣の者として 〔世に〕存していないのに……三つの衣料の者として 〔世に〕 存していないのに……〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者として 〔世に〕 存していないのに…… 〔決められた時間〕以後の食を否とする者として 〔世に〕 存していないのに……常坐〔にして不臥〕 なる者として 〔世に〕 存していないのに…… 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕 にある者として 〔世に〕 存していないのに……第一の瞑想の得者として 〔世に〕 存していないのに、第一の瞑想の得者を相手に、 〔彼と〕 同等の者として、自己を、心によって思い定め……略 ([237]参照) ……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に〕存していないのに、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる 〔認識の〕場所への入定の得者を相手に、 〔彼と〕同等の者として、自己を、心によって思い定める。これが、心の属性としての尊大である。彼の、これらの三つの尊大が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、尊大ならざる者と説かれる。ということで、「尊大ならず」。

〔他者に〕忌避されず」とは、 (1) 〔他者に〕 忌避される人が存在し、 (2)〔他者に〕 忌避されない 〔人〕が存在する。 (1) では、どのような人が、 〔他者に〕 忌避される人であるのか。ここに、一部の人は、劣戒にして悪しき法 (性質) ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し(沙門を名乗り) 、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕 漏れ出ている、生まれながらの屑として、 〔世に〕 有る。これが、 〔他者に〕忌避される人と説かれる。さらに、あるいは、忿激する者として、葛藤が多くある者として、 〔世に〕 有り、たとえ、僅かなことを言われたとして、 〔そのように〕存しつつ、憤り、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。これが、〔他者に〕忌避される人と説かれる。さらに、あるいは、忿激する者として、怨恨ある者として、 〔世に〕 有り、偽装ある者として、加虐ある者として、 〔世に〕 有り、嫉妬ある者として、物惜ある者として、 〔世に〕 有り、幻惑ある者として、狡猾ある者として、 〔世に〕 有り、強情ある者として、高慢ある者として、 〔世に〕 有り、悪しき欲求ある者として、誤った見解ある者として、 〔世に〕 有り、自らの見解に偏執し、執取するものに執持し、放棄し難き者として 〔世に〕 有る。これが、 〔他者に〕忌避される人と説かれる。

(2)では、どのような人が、 〔他者に〕忌避されない人であるのか。ここに、比丘が、戒ある者として 〔世に〕 有り、戒条波羅提木叉 :戒律条項)による統御によって統御された者として 〔世に〕 住み、 〔正しい〕 習行と 〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、 〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処 (戒律) において学ぶ。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。さらに、あるいは、忿激しない者として、葛藤が多くない者として、 〔世に〕 有り、たとえ、多くのことを言われたとして、 〔そのように〕存しつつ、憤らず、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない。これが、〔他者に〕忌避されない人と説かれる。さらに、あるいは、忿激しない者として、怨恨なき者として、 〔世に〕 有り、偽装なき者として、加虐なき者として、 〔世に〕 有り、嫉妬なき者として、物惜なき者として、 〔世に〕 有り、幻惑なき者として、狡猾なき者として、 〔世に〕 有り、強情なき者として、高慢なき者として、 〔世に〕 有り、悪しき欲求ある者ではなく、諸々の悪しき欲求の支配に赴いた者ではなく、〔世に〕 有り、自らの見解に偏執せず、執取するものに執持せず、放棄し易き者として〔世に〕 有る。これが、 〔他者に〕 忌避されない人と説かれる。愚者である凡夫は、全ての者たちが、 〔他者に〕 忌避される者たちであり、八者の聖者たる人 (預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道・阿羅漢果) は、善き凡夫と比較して、〔他者に〕 忌避されない者たちである。ということで、「尊大ならず、〔他者に〕 忌避されず」。

「かつまた、中傷 〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、「中傷」とは、ここに、一部の者は、中傷の言葉ある者として 〔世に〕 有る。こちらで聞いて 〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者であり、あるいは、そちらで聞いて 〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者であり、かくのごとく、あるいは、和合の者たちを分裂させる者として、あるいは、分裂した者たちに〔さらなる分裂を〕付与する者として、党派を喜びとする者として、党派を喜ぶ者として、党派を愉悦とする者として、党派を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕 有る。これが、中傷と説かれる。

さらに、また、二つの契機によって、中傷 〔の思い〕 に近しく集中する。 (1)あるいは、愛慕を欲することによって。 (2) あるいは、分裂を志向することによって。(1) どのように、愛慕を欲することによって、中傷 〔の思い〕 に近しく集中するのか。「この者にとって、 〔わたしは〕 愛しい者と成るのだ、 〔わたしは〕意に適う者と成るのだ、 〔わたしは〕 信頼ある者と成るのだ、〔わたしは〕 内々の者と成るのだ、 〔わたしは〕 親密の者と成るのだ」と、このように、愛慕を欲することによって、中傷 〔の思い〕 に近しく集中する。 (2)どのように、分裂を志向することによって、中傷 〔の思い〕に近しく集中するのか。「どのように、これらの者たちは、種々に存することになるのか、別々に存することになるのか、諸々の党派の者たちとして存することになるのか、二種の者たちとして存することになるのか、二様の者たちとして存することになるのか、二派の者たちとして存することになるのか、分裂することになるのか、和合しないことになるのか、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕 住むことになるのか」と、このように、分裂を志向することによって、中傷〔の思い〕 に近しく集中する。彼の、この中傷 〔の思い〕が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、中傷 〔の思い〕に、陥る者ではなく、束縛された者ではなく、専念する者ではなく、等しく専従する者ではない。ということで、「かつまた、中傷〔の思い〕 に陥る者でもありません」。

それによって、世尊は言った。

〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望 〔の思い〕 なく、物惜 〔の思い〕 なき者は、尊大ならず、 〔他者に〕忌避されず、かつまた、中傷 〔の思い〕に陥る者でもありません」と。
859. (853)諸々の快楽にたいし 〔煩悩が〕 漏れ出ない者は、かつまた、高慢〔の思い〕 に陥る者でもありません。そして、 〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕 、即応即答〔の智慧〕 ある者は、信仰なく、離貪しません (真理を確信した者に信仰は不要であり、無執着の者には離貪という行為自体が存在しない)(6)

「諸々の快楽にたいし 〔煩悩が〕 漏れ出ない者は」とは、諸々の快楽は、五つの欲望の属性 五妙欲 :色・声・香・味・触)と説かれる。何を契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の属性と説かれるのか。多くのところとして、天 〔の神々〕と人間たちは、五つの欲望の属性を、欲求し、愛用し、切望し、熱望し、渇望する。それを契機とすることから、諸々の快楽は、五つの欲望の属性と説かれる。彼らの、この快楽としての渇愛が、〔いまだ〕捨棄されていないなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起し、耳からは、音声への渇愛が……鼻からは、臭気への渇愛が……舌からは、味感への渇愛が……身からは、感触への渇愛が……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出、漏れ出、流れ、転起する。彼らの、この快楽としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼らの、眼からは、形態への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起せず、耳からは、音声への渇愛が……略……意からは、法(意の対象)への渇愛が、流れ出ず、漏れ出ず、流れず、転起しない。ということで、「諸々の快楽にたいし 〔煩悩が〕 漏れ出ない者は」。

「かつまた、高慢 〔の思い〕に陥る者でもありません」とは、どのようなものが、高慢 過慢 であるのか。ここに、一部の者は、他者を軽んじる⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕 旗、横柄、心が 〔高慢の〕幟を欲することである。これが、高慢と説かれる。彼の、この高慢が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、かつまた、高慢〔の思い〕に、陥る者でもなく、束縛された者でもなく、専念する者でもなく、等しく専従する者でもない。ということで、「かつまた、高慢〔の思い〕 に陥る者でもありません」。

「そして、 〔所作進退が〕優雅で 〔隙なく〕 、即応即答 〔の智慧〕 ある者は」とは、「 〔所作進退が〕 優雅で〔隙なく〕 」とは、優雅な身体の行為を具備した者、ということで、「〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕」。優雅な言葉の行為を……。優雅な意の行為を具備した者、ということで、「 〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕 」。優雅な〔四つの〕 気づきの確立を具備した者……。優雅な 〔四つの〕 正しい精励を具備した者……。優雅な 〔四つの〕神通の足場を具備した者……。優雅な 〔五つの〕 機能を具備した者……。優雅な〔五つの〕 力を具備した者……。優雅な 〔七つの〕 覚りの支分を具備した者を具備した者、ということで、「 〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕」。優雅な聖なる八つの支分ある道を具備した者、ということで、「 〔所作進退が〕優雅で 〔隙なく〕 」。

「即応即答 〔の智慧〕ある者は」とは、三者の即応即答 〔の智慧〕 ある者がいる。 (1) 聖典について即応即答 〔の智慧〕 ある者、(2) 遍問について即応即答 〔の智慧〕 ある者、 (3) 到達証得 について即応即答〔の智慧〕 ある者である。 (1)どのような者が、聖典について即応即答 〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、 〔生来の〕 性向によって、経(スッタ) 、頌歌 (ゲイヤ)、授記 (ヴェイヤーカラナ) 、詩偈 (ガーター) 、感興語 (ウダーナ) 、如是語(イティヴッタカ) 、本生 (ジャータカ) 、未曾有法 (アッブタダンマ) 、問答(ヴェーダッラ) が、学得されたものとして有る。 〔学得した〕 聖典に依拠して、彼に、 〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答 〔の智慧〕 ある者である。(2) どのような者が、遍問について即応即答 〔の智慧〕 ある者であるのか。ここに、一部の者は、かつまた、自己の義 (意味) について、かつまた、正理の義 (意味)について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと (道理あることと道理なきこと) について、遍問された者として有る。その遍問に依拠して、彼に、〔答えが〕 明白となる。これが、遍問について即応即答 〔の智慧〕 ある者である。 (3)どのような者が、到達について即応即答 〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) 、四つの沙門の果 (預流果・一来果・不還果・阿羅漢果) 、四つの融通無礙 四無礙解 :義・法・言語・応答の融通無礙) 、六つの神知 六神通 :神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)が、到達されたものとして有る。彼に、義 (意味) は知られ、法(教え) は知られ、言語は知られ、義 (意味) が知られたとき、義 (意味) は明白となり、法(教え) が知られたとき、法 (教え)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。この応答の融通無礙を、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、即応即答〔の智慧〕ある者と説かれる。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、 〔答えが〕 明白となるというのだろう。ということで、「そして、 〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕 、即応即答〔の智慧〕 ある者は」。

「信仰なく、離貪しません」とは、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法 (真理)〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天 〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵 〔天〕 (ブラフマー神) の、誰であれ、他者の 〔法に〕信を置かない。「一切の形成 〔作用〕 は、無常である 諸行無常」と、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。「一切の形成 〔作用〕は、苦痛である 一切皆苦」と……。「一切の法 (事象) は、無我である 諸法無我 」と……。「無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕 がある」と……略 ([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と……。「無明の止滅あることから、諸々の形成 〔作用〕 の止滅がある」と……略 ([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と……。「これは、苦しみである」と……略 ([324]参照) ……。「これは、苦しみの止滅に至る 〔実践の〕 道である」と……。「これらは、諸々の煩悩である」と……略 ([324]参照) ……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る 〔実践の〕 道である」と……。「これらの法 (性質)は、遍知されるべきである」と……略 ([324]参照) ……。「これらの法(性質)は、実証されるべきである」と、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。六つの接触ある 〔認識の〕場所の、そして、集起に、さらに、滅至に、そして、悦楽に、かつまた、危険に、さらに、出離に……略……。五つの 〔心身を構成する〕執取の範疇の、そして、集起に……略……。四つの大いなる元素の、そして、集起に、さらに、滅至に、そして、悦楽に、かつまた、危険に、さらに、出離に、自らをもって、自ら、証知したものとして……略……。「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質) である」と、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法 (真理)〔信を置き〕、あるいは、沙門の、あるいは、婆羅門の、あるいは、天 〔の神〕の、あるいは、悪魔の、あるいは、梵 〔天〕 (ブラフマー神) の、誰であれ、他者の 〔法に〕信を置かない。

まさに、このことが、世尊によって説かれた。「サーリプッタよ、あなたは、信を置きますか⸺信の機能 信根 が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜 (涅槃) と成り、不死を行き着く所とするものと 〔成り〕、不死を結末とするものと 〔成り〕 、精進の機能 精進根 が……気づきの機能 念根 が……禅定の機能 定根 が……智慧の機能 慧根 が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜 (涅槃) と成り、不死を行き着く所とするものと 〔成り〕、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 」と。

〔尊者サーリプッタは答えた〕「尊き方よ、まさに、わたしは、ここにおいて、世尊への信 (信仰)によって赴くのではありません⸺信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃) と成り、不死を行き着く所とするものと 〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 。尊き方よ、たしかに、それらの者たちにとって、このことが、〔いまだ〕 知られず、 〔いまだ〕見られず、 〔いまだ〕 見出されず、 〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう⸺信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜(涅槃) と成り、不死を行き着く所とするものと 〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 。尊き方よ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕 知られ、 〔すでに〕見られ、 〔すでに〕 見出され、 〔すでに〕実証され、智慧によって体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります⸺信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 。尊き方よ、そして、わたしにとって、まさに、このことは、〔すでに〕 知られ、 〔すでに〕見られ、 〔すでに〕 見出され、 〔すでに〕実証され、智慧によって体得されています。わたしは、そこにおいて、疑いなき者としてあり、疑惑なき者としてあります⸺信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 」と。

〔世尊は言った〕「サーリプッタよ、善きかな、善きかな。サーリプッタよ、まさに、それらの者たちにとって、このことが、 〔いまだ〕 知られず、 〔いまだ〕 見られず、〔いまだ〕 見出されず、 〔いまだ〕実証されず、智慧によって体得されていないものとして存するなら、彼らは、そこにおいて、他者たちへの信によって赴くでしょう⸺信の機能が……精進の機能が……気づきの機能が……禅定の機能が……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 。サーリプッタよ、しかしながら、それらの者たちにとって、まさに、このことが、〔すでに〕 知られ、 〔すでに〕見られ、 〔すでに〕 見出され、 〔すでに〕実証され、智慧によって体得されているなら、彼らは、そこにおいて、疑いなき者たちとしてあり、疑惑なき者たちとしてあります⸺信の機能が……略……智慧の機能が、修められ、多く為されたなら、不死への沈潜と成り、不死を行き着く所とするものと〔成り〕 、不死を結末とするものと 〔成る、という、このことに〕 」と。

〔そこで、詩偈に言う〕〔特定のものについて〕 信なく、かつまた、作られざるもの (涅槃) について知あり、そして、 〔輪廻の〕鎖を断ち切る、その人⸺ 〔造悪の〕 機会を打ち砕き、 〔自利の〕 願望を吐き捨てた者⸺彼は、まさに、最上の人士である」と。

「信仰なく、離貪しません」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、〔欲に〕 染まり (貪欲する)、七者の 〔いまだ〕 学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し(欲に染まらない) 、阿羅漢は、まさしく、 〔欲に〕 染まることもなく、離貪することもない。彼は、 〔すでに〕 離貪した者として 〔世に有る〕⸺貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「信仰なく、離貪しません」。

それによって、世尊は言った。

「諸々の快楽にたいし 〔煩悩が〕 漏れ出ない者は、かつまた、高慢 〔の思い〕に陥る者でもありません。そして、 〔所作進退が〕 優雅で 〔隙なく〕 、即応即答 〔の智慧〕ある者は、信仰なく、離貪しません (真理を確信した者に信仰は不要であり、無執着の者には離貪という行為自体が存在しない)」と。
860. (854) 利得(行乞の施物) を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません。そして、〔他者を〕 遮らない者 (他者に悪意なき者) は、諸々の味について、渇愛 〔の思い〕 で貪り求めません。 (7)

「利得 (行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得を欲して学ぶのか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) の得者である、 〔他の〕比丘を見る。彼に、このような 〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような 〔思いが〕 有る。「この尊者は、まさに、経の専門家として 〔世に存している〕 。それによって、この尊者は、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、経典を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

さらに、あるいは、比丘が、諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である、 〔他の〕 比丘を見る。彼に、このような 〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような 〔思いが〕 有る。「この尊者は、まさに、律の保持者として 〔世に存している〕 。……略……法 (教え)の言説者として 〔世に存している〕 。……論の専門家として 〔世に存している〕 。それによって、この尊者は、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、論典を遍く学得する。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

さらに、あるいは、比丘が、諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者である、 〔他の〕 比丘を見る。彼に、このような 〔思いが〕有る。「いったい、まさに、何によって、この尊者は、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者であるのか」と。彼に、このような 〔思いが〕 有る。「この尊者は、まさに、林にある者として 〔世に存している〕 。…… 〔行乞の〕 施食の者として〔世に存している〕 。……糞掃衣の者として 〔世に存している〕 。……三つの衣料の者として 〔世に存している〕 。…… 〔家々の貧富を選ばず〕歩々淡々と歩む者として 〔世に存している〕 。…… 〔決められた時間〕 以後の食を否とする者として 〔世に存している〕 。……常坐 〔にして不臥〕なる者として 〔世に存している〕 。…… 〔坐具が〕 広げられたとおり 〔の場所〕 にある者として〔世に存している〕 。それによって、この尊者は、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者なのだ」と。彼は、利得を因として、利得を縁とすることから、利得を契機とすることから、利得の発現のために、利得を亢進させながら、〔坐具が〕 広げられたとおり 〔の場所〕 にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ぶ。

どのように、利得を欲して学ばないのか。ここに、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を亢進させることなく、自己の調御を義(目的) として、自己の平静を義 (目的) として、自己を完全なる涅槃に到達させるを義 (目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、経典を学得し、律を学得し、論典を学得する。このようにもまた、利得を欲して学ばない。

さらに、あるいは、比丘が、利得を因としてではなく、利得を縁としないことから、利得を契機としないことから、利得の発現のためではなく、利得を亢進させることなく、少欲だけに依拠して、知足だけに依拠して、謹厳だけに依拠して、遠離だけに依拠して、この義(目的) たることだけに依拠して、まさしく、そのかぎりにおいて、林にある者と成り、〔行乞の〕 施食の者と成り、糞掃衣の者と成り、三つの衣料の者と成り、〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者と成り、 〔決められた時間〕 以後の食を否とする者と成り、常坐 〔にして不臥〕 なる者と成り、 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕にある者と成る。このようにもまた、利得を欲して学ばない。ということで、「利得を欲して学ばず」。

「さらに、利得がないときも怒りません」とは、どのように、利得がないときに怒るのか。ここに、一部の者は、「あるいは、家を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、衆徒を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、居住を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、利得を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、盛名を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、賞賛を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、安楽を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、衣料を、 〔わたしは〕 得ない」「あるいは、〔行乞の〕 施食を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、臥坐具を、 〔わたしは〕得ない」「あるいは、病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、看病の者を、 〔わたしは〕 得ない」「 〔わたしは〕 未詳の者として〔世に〕存している」と、激情し、憎悪し、反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す。このように、利得がないときに怒る。

どのように、利得がないときに怒らないのか。ここに、比丘が、「あるいは、家を、〔わたしは〕 得ない」「あるいは、衆徒を、 〔わたしは〕 得ない」……略……「 〔わたしは〕未詳の者として 〔世に〕存している」と、激情せず、憎悪せず、反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為さない。このように、利得がないときに怒らない。ということで、「利得を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません」。

「そして、 〔他者を〕遮らない者 (他者に悪意なき者) は、諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません」とは、「遮るもの」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣、敵対、激しい反感、激情、強き激情、等しく強き激情、憤怒、強き憤怒、等しく強き憤怒、心の憎悪〔の思い〕、意の強き憤怒、忿激、忿激すること、忿激あること、憤怒、憤怒すること、憤怒あること、憎悪、憎悪すること、憎悪あること、反感、激しい反感、狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。これが、遮るもの(反感)と説かれる。彼の、この遮るものが、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、遮らない者(敵意なき者)と説かれる。「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法 (意の対象)への渇愛。「味」とは、根の味、幹の味、皮の味、葉の味、花の味、果の味、酸っぱみ、甘み、苦み、辛み、塩気、刺激、弛緩、渋み、美味、不味、冷、暖。或る沙門や婆羅門たちで、味に貪求ある者たちが存在し、彼らは、舌の先端で諸々の至高の味を遍く探し求めながら、〔各地を〕逍遥する。彼らは、酸っぱいものを得ては、酸っぱくないものを遍く探し求め、酸っぱくないものを得ては、酸っぱいものを遍く探し求め、甘いものを得ては、甘くないものを遍く探し求め、甘くないものを得ては、甘いものを遍く探し求め、苦いものを得ては、苦くないものを遍く探し求め、苦くないものを得ては、苦いものを遍く探し求め、辛いものを得ては、辛くないものを遍く探し求め、辛くないものを得ては、辛いものを遍く探し求め、塩気のものを得ては、塩気のないものを遍く探し求め、塩気のないものを得ては、塩気のものを遍く探し求め、刺激のものを得ては、刺激のないものを遍く探し求め、刺激のないものを得ては、刺激のものを遍く探し求め、弛緩のものを得ては、弛緩のないものを遍く探し求め、弛緩のないものを得ては、弛緩のものを遍く探し求め、美味しいものを得ては、不味いものを遍く探し求め、不味いものを得ては、美味しいものを遍く探し求め、冷たいものを得ては、暖かいものを遍く探し求め、暖かいものを得ては、冷たいものを遍く探し求める。彼らは、それぞれのものを得ても、それぞれのもので満足せず、次から次へと遍く探し求める。諸々の意に適う味について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たちとなる。彼の、この味への渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する⸺まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕 古い 〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい 〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、 〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう⸺かつまた、罪過なき 〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。

たとえば、 〔木を〕育成することを義 (目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、林を燃やすように、あるいは、また、たとえば、荷を超え渡すことを義 (目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、車軸に塗油するように、あるいは、また、たとえば、砂漠を超え出ることを義 (目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、子の肉を食として食するように、まさしく、このように、比丘は、根源のままに審慮して〔そののち〕、食を食する⸺まさしく、戯れのためではなく……略……かつまた、平穏の住が」と。 〔彼は〕 味への渇愛を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。 〔彼は〕味への渇愛から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「そして、 〔他者を〕 遮らない者は、諸々の味について、渇愛 〔の思い〕 で貪り求めません」。

それによって、世尊は言った。

「利得 (行乞の施物)を欲して学ばず、さらに、利得がないときも怒りません。そして、 〔他者を〕 遮らない者(他者に悪意なき者) は、諸々の味についても、渇愛 〔の思い〕 で貪りません」と。
861. (855)〔愛憎の思いを〕 放捨し、常に気づきある者は、世において、 〔自己と他者について〕 「等しい」と思いません。「勝る」 〔とも思い〕 ません。「より劣る」 〔とも思い〕ません。彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕 は存在しません。 (8)

〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は」とは、「 〔愛憎の思いを〕放捨し」とは、六つの支分ある放捨 (色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者。眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と 〔成ら〕 ず、放捨の者 (愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者) として 〔世に〕 住み、気づきと正知の者として 〔世に住む〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象) を識知して、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と〔成ら〕 ず、放捨の者として 〔世に〕 住み、気づきと正知の者として 〔世に住む〕。眼によって、形態を見て、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲 〔の思い〕を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと 〔成る〕。まさしく、また、まさに、眼によって、形態を見て、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく (怒りの思いを維持しない)、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕。耳によって、音声を聞いて……略……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象)を識知して、意に適うものであるも、貪り求めず、満喫せず、貪欲を生じさせない。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕 。まさしく、また、まさに、意によって、法 (意の対象)を識知して、意に適わないものであるも、愕然と成らず、止住する心なく、畏縮する意なく、憎悪する心なくある。彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕

眼によって、形態を見て、諸々の意に適う 〔形態〕と意に適わない形態にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと〔成る〕 。耳によって、音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象) を識知して、諸々の意に適う 〔法〕 と意に適わない法 (意の対象)にたいし、彼の、まさしく、身体は安立したものと成り、心は安立し、内に善く確立され善く解脱したものと 〔成る〕

眼によって、形態を見て、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。音声を聞いて……略……。意によって、法(意の対象)を識知して、貪るべきものについて貪らず、怒るべきものについて怒らず、迷うべきものについて迷わず、激情するべきものについて激情せず、驕慢するべきものについて驕慢せず、汚れるべきものについて汚れない。見られたものにおいては、見られたもののみがあり、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみがあり、思われたものにおいては、思われたもののみがあり、識られたものにおいては、識られたもののみがある。見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて汚されない。見られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。聞かれたものについて……略……。思われたものについて……。識られたものについて、接近なき者として、離去なき者として、依存しない者として、結縛されない者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。

阿羅漢に、眼は等しく見出され、阿羅漢は、眼によって、形態を見るも、阿羅漢に、欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、耳は等しく見出され、阿羅漢は、耳によって、音声を聞くも、阿羅漢に、欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、鼻は等しく見出され、阿羅漢は、鼻によって、臭気を嗅ぐも、阿羅漢に、欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。阿羅漢に、舌は等しく見出され、阿羅漢は、舌によって、味感を……略……。阿羅漢に、身は等しく見出され、阿羅漢は、身によって、感触と……略……。阿羅漢に、意は等しく見出され、阿羅漢は、意によって、法(意の対象) を識知するも、阿羅漢に、欲 〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕は存在せず、阿羅漢は、善く解脱した心の者としてある。

眼は、形態を喜びとし、形態を喜び、形態に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え)を説示する。耳は、音声を喜びとし……略……。鼻は、臭気を喜びとし……。舌は、味感を喜びとし、味感を喜び、味感に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法(教え) を説示する。身は、感触を喜びとし……略……。意は、法(意の対象) を喜びとし、法 (意の対象) を喜び、法 (意の対象)に歓喜するも、阿羅漢のそれは、調御され、保護され、守護され、統御され、さらに、それの統御のために、法 (教え) を説示する。

〔そこで、詩偈に言う〕「調御された 〔象〕 を、 〔人々は〕 戦場へと導く。調御された 〔象〕に、王は乗る。 〔自己が〕 調御された者は、人間たちのなかの最勝の者⸺彼は、〔他者からの〕 責め咎めを忍受する。

優れているのは、調御された騾馬たちであり、そして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥ産の良馬)であり、さらに、クンジャラの大いなる象たちである。それよりも優れているのは、自己が調御された者である。

まさに、これらの乗物では、 〔いまだ〕 赴かざる方角 (涅槃)に赴くことはできない⸺すなわち、善く調御された自己 〔という乗物〕で、調御された者が調御によって赴くようには。

〔『勝る』『等しい』『劣る』の三つの〕 種類にたいし、 〔彼らは〕動揺しない。さらなる生存から解脱した者たちであり、調御された境地に至り得た者たちであり、彼らは、世における征圧者たちである。

彼の、諸々の 〔感官の〕機能が、内に、さらに、外に、一切の世において修められたなら⸺この 〔世〕を、さらに、他の世を、 〔あるがままに〕 洞察して、 〔自己を〕 修めた者となり、 〔死の〕時を待つ⸺彼は、『調御された者』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。ということで⸺

〔愛憎の思いを〕放捨し」。「常に」とは、常に、一切時に、全ての時に、常住時に、常恒時に……略 ([75]参照) ……後年期 (老年期)に。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……心における……諸々の法(性質) における法 (性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略 ([31-33]参照) ……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「 〔愛憎の思いを〕 放捨し、常に気づきある者は」。

「世において、 〔自己と他者について〕 『等しい』と思いません」とは、「わたしは、 〔他者と〕 等しい者として 〔世に〕存している」と、思量を生じさせない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略 ([237]参照) ……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「世において、〔自己と他者について〕 『等しい』と思いません」。

「『勝る』 〔とも思い〕ません。『より劣る』 〔とも思い〕 ません」とは、「わたしは、〔他者に〕 勝る者として 〔世に〕存している」と、高慢を生じさせない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略 ([237]参照) ……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、 〔他者に〕 劣る者として 〔世に〕存している」と、卑下慢を生じさせない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略 ([237]参照) ……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「『勝る』〔とも思い〕 ません。『より劣る』 〔とも思い〕 ません」。

「彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕は存在しません」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「増長 〔の思い〕」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、 〔心の〕 汚れ 煩悩 の増長、行為 の増長である。彼に、これらの増長は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕 は存在しません」。

それによって、世尊は言った。

〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、 〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』 〔とも思い〕 ません。『より劣る』〔とも思い〕 ません。彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕は存在しません」と。
862. (856) 彼に、〔他者に〕 依存することが存在しないなら、法 (真理) を知って、依存なき者となります。彼に、生存への 〔渇愛の思いが見出されないなら〕 、あるいは、生存から離れることへの渇愛 〔の思い〕 が見出されないなら⸺ (9)

「彼に、 〔他者に〕依存することが存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「依存」とは、二つの依所 (依存の対象) がある。 (1)そして、渇愛の依所であり、 (2) さらに、見解の依所である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の依所である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の依所である。彼の、渇愛の依所は 〔すでに〕 捨棄され、見解の依所は 〔すでに〕放棄され、渇愛の依所が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の依所が〔すでに〕 放棄されたことから、彼に、 〔他者に〕依存することが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、〔他者に〕 依存することが存在しないなら」。

「法 (真理)を知って、依存なき者となります」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕 は、無常である 諸行無常」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である 一切皆苦 」と……。「一切の法 (事象) は、無我である諸法無我 」と……略([324]参照) ……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「依存なき者となります」とは、二つの依所(依存の対象) がある。 (1)そして、渇愛の依所であり、 (2) さらに、見解の依所である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の依所である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……略([29]参照) ……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象) に、依存しない者として、 〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「法 (真理) を知って、依存なき者となります」。

「彼に、生存への 〔渇愛の思いが見出されないなら〕 、あるいは、生存から離れることへの渇愛 〔の思い〕が見出されないなら」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「生存への」とは、生存の見解 有見 :実体論) への。「生存から離れることへの」とは、非生存の見解非有見 :虚無論)への。「生存への」とは、常久の見解 常見:常住論) への。「生存から離れることへの」とは、断絶の見解 断見 :断滅論)への。「生存への」とは、繰り返す生存への、繰り返す境遇への、繰り返す再生への、繰り返す結生への、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現への。彼に、渇愛が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、生存への〔渇愛の思いが見出されないなら〕 、あるいは、生存から離れることへの渇愛〔の思い〕 が見出されないなら」。

それによって、世尊は言った。

「彼に、 〔他者に〕依存することが存在しないなら、法 (真理)を知って、依存なき者となります。彼に、生存への 〔渇愛の思いが見出されないなら〕、あるいは、 〔迷いの〕 生存から離れることへの渇愛 〔の思い〕 が見出されないなら」と。
863. (857)諸々の欲望 〔の対象〕 について期待なき者を、彼を、 〔わたしは〕 「寂静者」と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着 〔の思い〕 を超えたのです。 (10)

「彼を、 〔わたしは〕『寂静者』と説きます」とは、「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、彼のことを、 〔わたしは〕 説く、彼のことを、 〔わたしは〕言説する、彼のことを、 〔わたしは〕 発語する、彼のことを、〔わたしは〕 提示する、彼のことを、 〔わたしは〕 語用する。ということで、「彼を、 〔わたしは〕 『寂静者』と説きます」。

「諸々の欲望 〔の対象〕について期待なき者を」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。 (1) そして、諸々の事物の欲望であり、 (2)さらに、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望である。 (1) ……略 ([3-4]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。 (2) ……略([5-6]参照) ……。これらが、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望と説かれる。諸々の事物の欲望を遍知して、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、諸々の欲望〔の対象〕について、期待なき者として、欲望を離れた者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き捨てた者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、諸々の欲望〔の対象〕について、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕 清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕 住む。ということで、「諸々の欲望 〔の対象〕 について期待なき者を」。

「彼に、諸々の拘束は見出されません」とは、「拘束」とは、四つの拘束四繋 がある。 (1) 強欲 〔の思い〕 としての身体の拘束、(2) 憎悪 〔の思い〕としての身体の拘束、 (3) 戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4) 「これは真理である」という 〔心の〕 固着としての身体の拘束である。 (1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲 〔の思い〕 としての身体の拘束である。(2) 他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪 〔の思い〕 としての身体の拘束である。 (3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4) 自己の見解は、「これは真理である」という 〔心の〕固着としての身体の拘束である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の拘束は見出されません」とは、彼に、諸々の拘束は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の拘束は見出されません」。

「彼は、執着 〔の思い〕を超えたのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ)、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ) 、善ならざるものの根元である。「執着 (ヴィサッティカー) 」とは、どのような義 (意味)によって、執着となるのか。執着したもの (ヴィサタ)、ということで、「執着」。広きもの (ヴィサーラ)、ということで、「執着」。拡散したもの (ヴィサタ)、ということで、「執着」。不正なるもの (ヴィサマ)、ということで、「執着」。冒険する (ヴィサッカティ)、ということで、「執着」。収集する (ヴィサンハラティ)、ということで、「執着」。言葉を違える者 (ヴィサンヴァーディカ)、ということで、「執着」。毒根 (ヴィサムーラ) 、ということで、「執着」。毒果(ヴィサパラ) 、ということで、「執着」。毒の遍き受益 (ヴィサパリボーガ) 、ということで、「執着」。また、あるいは、その渇愛は、広きもの(ヴィサーラ)にして、形態にたいし、音声にたいし、臭気にたいし、味感にたいし、感触にたいし、家にたいし、衆徒にたいし、居住にたいし……略([29]参照) ……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象) にたいし、拡散したもの (ヴィサタ) となり、拡張したもの (ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「彼は、執着 〔の思い〕を超えたのです」とは、彼は、この執着としての渇愛を、超え渡った、超え上がった、超え登った、等しく超越した、超克した。ということで、「彼は、執着〔の思い〕 を超えたのです」。

それによって、世尊は言った。

「諸々の欲望 〔の対象〕について期待なき者を、彼を、 〔わたしは〕『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見出されません。彼は、執着 〔の思い〕を超えたのです」と。
864. (858)彼に、子供たちや家畜たちは 〔見出され〕 ません。さらに、田畑や地所も見出され〔ません〕 。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕 認められないのです。 (11)

「彼に、子供たちや家畜たちは 〔見出され〕 ません。さらに、田畑や地所も見出され 〔ません〕 」とは、「ません」とは、否定 〔の言葉〕。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「子供たち」とは、四者の子供がいる。実子としての子供、国人の子供、養子としての子供、内弟子としての子供である。「家畜たち」とは、山羊や羊たち、鶏や豚たち、象や牛や馬や騾馬たち。「田畑」とは、米の田畑、稲の田畑、緑豆の田畑、豆の田畑、麦の田畑、小麦の田畑、胡麻の田畑。「地所」とは、家屋の地所、貯蔵庫の地所、前〔庭〕 の地所、後 〔庭〕の地所、林園の地所、精舎の地所。「彼に、子供たちや家畜たちは 〔見出され〕ません。さらに、田畑や地所も見出され 〔ません〕」とは、彼に、あるいは、子供という執持 〔の対象〕 は、あるいは、家畜という執持〔の対象〕 は、あるいは、田畑という執持 〔の対象〕 は、あるいは、地所という執持 〔の対象〕は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、子供たちや家畜たちは〔見出され〕 ません。さらに、田畑や地所も見出され 〔ません〕 」。

「あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、〔対象として〕認められないのです」とは、「自己が」とは、自己の見解が。「自己ではないものが」とは、断絶の見解が。「自己が」とは、収め取られたものが存在しない。「自己ではないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、収め取られたものが存在しないなら、彼に、解き放つべきものは存在しない。彼に、解き放つべきものが存在しないなら、彼に、収め取られたものは存在しない。阿羅漢は、収め取ることと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、 〔対象として〕 認められないのです」。

それによって、世尊は言った。

「彼に、子供たちや家畜たちは 〔見出され〕 ません。さらに、田畑や地所も見出され 〔ません〕 。あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、彼においては、 〔対象として〕 認められないのです」と。
865. (859)そこで、 〔世の〕 凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを〔種々に〕 説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません(どうでもいいことである) 。それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです。(12)

「そこで、 〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを 〔種々に〕説くとして」とは、「凡夫 (プトゥジャナ) 」とは、広く (プトゥ) 、諸々の 〔心の〕 汚れを生じさせる(ジャーネーティ) 、ということで、「凡夫たち」。広く、身体を有するという見解が〔いまだ〕打破されていない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、教師たちの顔色をうかがう者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、一切の境遇から〔いまだ〕出起していない者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる行作を行作する、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる激流によって運ばれる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる熱苦によって熱せられる、ということで、「凡夫たち」。広く、種々なる苦悶によって嘆き悲しまされる、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの欲望の属性について、〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、ということで、「凡夫たち」。広く、五つの〔修行の〕妨害によって、覆蔽された者たち、覆い護られた者たち、覆い被された者たち、覆い塞がれた者たち、覆い隠された者たち、覆い包まれた者たち、ということで、「凡夫たち」。「沙門たち」とは、彼らが誰であれ、これ(仏教) より外の者たちで、遍歴遊行 〔の生活〕 を具した者たちであり、遍歴遊行 〔の生活〕に入った者たちである。「婆羅門たち」とは、彼らが誰であれ、ボーヴァーディン (「君よ」と呼びかける者) たちである。「そこで、 〔世の〕 凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを 〔種々に〕 説くとして」とは、 〔世の〕凡夫たちが、彼のことを、すなわち、貪欲によって説くとして、すなわち、憤怒によって説くとして、すなわち、迷妄によって説くとして、すなわち、思量によって説くとして、すなわち、見解によって説くとして、すなわち、高揚によって説くとして、すなわち、疑惑によって説くとして、すなわち、諸々の悪習によって説くとして⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕 散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者) である」と、あるいは、「強靭に至った者 (頑迷固陋の者) である」と。 〔彼の〕 それらの行作は〔すでに〕 捨棄され、 〔それらの〕 行作が 〔すでに〕捨棄されたことから、彼のことを、すなわち、 〔未来の〕境遇によって説くとして⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。彼のことを、それによって、説くとして、言説するとして、発語するとして、提示するとして、語用するとして、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「そこで、 〔世の〕 凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを 〔種々に〕 説くとして」。

「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」とは、「彼にとって」とは、阿羅漢にとって、煩悩の滅尽者にとって。「偏重」とは、二つの偏重がある。(1) そして、渇愛の偏重であり、 (2) さらに、見解の偏重である。 (1) ……略([179]参照) ……これが、渇愛の偏重である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は 〔すでに〕 捨棄され、見解の偏重は〔すでに〕 放棄され、渇愛の偏重が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の偏重が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、 〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者ではなく、渇愛を幟とする者ではなく、渇愛を優位とする者ではなく、見解を旗とする者ではなく、見解を幟とする者ではなく、見解を優位とする者ではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩むことはない。ということで、「そのことは、彼にとって偏重されることではありません」。

「それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の論にたいし、諸々の批判にたいし、〔自己への〕 非難によって、 〔自己への〕 難詰によって、 〔自己の〕 不名誉によって、〔自己の〕栄誉ならざることの伝播によって、動かず、動じず、揺れ動かず、動揺せず、強く動揺せず、等しく動揺しない。ということで、「それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」。

それによって、世尊は言った。

「そこで、 〔世の〕凡夫たちである、沙門や婆羅門たちが、それによって、彼のことを 〔種々に〕説くとして、そのことは、彼にとって偏重されることではありません (どうでもいいことである) 。それゆえに、諸々の論にたいし動じないのです」と。
866. (860) 貪求〔の思い〕 を離れ、物惜 〔の思い〕 なく、牟尼は、増長している者たちのなかで 〔論を〕 説きません。等しい者たちのなかで 〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで 〔論を説き〕 ません。 〔時間の〕 妄想 (時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)なき者は、 〔時間の〕 妄想に至りません (輪廻しない・妄想しない)(13)

「貪求 〔の思い〕を離れ、物惜 〔の思い〕 なく」とは、貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この貪求が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、貪求〔の思い〕 を離れた者と説かれる。彼は、形態にたいし貪求なき者として……略([29]参照) ……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象)にたいし、貪求なき者として、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、貪求を離れた者として、貪求を離れ去った者として、貪求を捨て去った者として、貪求を吐き捨てた者として、貪求を解き放った者として、貪求を捨棄した者として、貪求を放棄した者として、無欲の者として……略([191]参照) ……梵と成った自己によって 〔世に〕 住む。ということで、「貪求 〔の思い〕を離れ」。「物惜 〔の思い〕なく」とは、「物惜」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法 (教え) の物惜である。すなわち、このような形態の……略 ([133]参照)……収取である。これが、物惜と説かれる。彼の、この物惜が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、物惜〔の思い〕 なき者と説かれる。ということで、「貪求 〔の思い〕 を離れ、物惜 〔の思い〕 なく」。

「牟尼は、増長している者たちのなかで 〔論を〕 説きません。等しい者たちのなかで 〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで 〔論を説き〕 ません」とは、「牟尼(ムニ) 」とは、沈黙 (モーナ)は、知恵と説かれる。……略 ([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。あるいは、「わたしは、 〔他者に〕 勝る者として 〔世に〕存している」と、あるいは、「わたしは、 〔他者と〕 等しい者として〔世に〕 存している」と、あるいは、「わたしは、 〔他者に〕 劣る者として 〔世に〕存している」と、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕 説きません。等しい者たちのなかで 〔論を説き〕 ません。卑下している者たちのなかで 〔論を説き〕 ません」。

〔時間の〕妄想なき者は、 〔時間の〕 妄想に至りません」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。(1) そして、渇愛の妄想であり、 (2) さらに、見解の妄想である。 (1) ……略([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は 〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想に、あるいは、見解の妄想に、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔時間の〕 妄想に至りません」。「 〔時間の〕 妄想なき者は」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、営まず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔時間の〕 妄想なき者は、 〔時間の〕 妄想に至りません」。

それによって、世尊は言った。

「貪求 〔の思い〕を離れ、物惜 〔の思い〕 なく、牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕 説きません。等しい者たちのなかで 〔論を説き〕 ません。卑下している者たちのなかで 〔論を説き〕 ません。 〔時間の〕 妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方) なき者は、 〔時間の〕 妄想に至りません (輪廻しない・妄想しない)」と。
867. (861)彼に、世において、自らのものが存在しないなら、そして、 〔彼は〕所有するものがないので、 〔もはや〕 憂い悲しまず、さらに、諸々の法(見解) にたいし赴かず、彼は、まさに、「寂静者」と説かれます。(14)

「彼に、世において、自らのものが存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「世において、自らのものが存在しないなら」とは、彼に、あるいは、「これは、わたしのものである」〔と〕、あるいは、「これは、他者たちのものである」と、何であれ、形態の在り方をしたもので、感受 〔作用〕 の在り方をしたもので、表象 〔作用〕の在り方をしたもので、諸々の形成 〔作用〕 の在り方をしたもので、識知〔作用〕の在り方をしたもので、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、存在せず、存さず……略 ([222]参照)……知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、世において、自らのものが存在しないなら」。「そして、 〔彼は〕 所有するものがないので、 〔もはや〕憂い悲しまず」とは、あるいは、変化した事物を憂い悲しまず、あるいは、変化した事物について憂い悲しまない。「わたしの眼が、変化したのだ」と憂い悲しまず、「わたしの耳が……「わたしの鼻が……「わたしの舌が……「わたしの身が……「わたしの意が……「わたしの諸々の形態が……「わたしの諸々の音声が……「わたしの諸々の臭気が……「わたしの諸々の味感が……「わたしの諸々の感触が……「わたしの家が……「わたしの衆徒が……「わたしの居住が……「わたしの利得が……「わたしの盛名が……「わたしの賞賛が……「わたしの安楽が……「わたしの衣料が……「わたしの〔行乞の〕 施食が……「わたしの臥坐具が……「わたしの病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)が……「わたしの母が……「わたしの父が……「わたしの兄弟が……「わたしの姉妹が……「わたしの子が……「わたしの娘が……「わたしの朋友たちが……「わたしの僚友たちが……「わたしの親族たちが……「わたしの血縁たちが、変化したのだ」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕 所有するものがないので、 〔もはや〕 憂い悲しまず」。

さらに、あるいは、 〔実体として〕 存していない苦痛の感受によって、襲われ、打ち負かされ、 〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。眼の病によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起せず、耳の病によって……略……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……頭の病によって……耳(外耳)の病によって……口の病によって……歯の病によって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝) から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる 〔姿勢の〕 維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い 業報から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕配備し具備したとして、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕 所有するものがないので、 〔もはや〕 憂い悲しまず」。

さらに、あるいは、存していないときに、等しく見出されていないときに、認知されていないときに、「ああ、まさに、わたしには、それが存在しない」「まさに、わたしには、それが存在するべきだ」「まさに、わたしは、それを得ないであろう」と、憂い悲しまず、疲弊せず、嘆き悲しまず、胸を打ち泣き叫ばず、等しき迷妄を惹起しない。ということで、このようにもまた、「そして、〔彼は〕 所有するものがないので、 〔もはや〕 憂い悲しまず」。「さらに、諸々の法 (見解)にたいし赴かず」とは、欲 〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質) によって、行か 〔ず〕、導かれ 〔ず〕 、運ばれ 〔ず〕、集められない。ということで、「さらに、諸々の法 (見解)にたいし赴かず」。

「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」とは、彼は、「〔心が〕静まった者」「寂静となった者」「寂止した者」「寂滅した者」「安息した者」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」。

それによって、世尊は言った。

「彼に、世において、自らのものが存在しないなら、そして、〔彼は〕 所有するものがないので、 〔もはや〕 憂い悲しまず、さらに、諸々の法 (見解)にたいし赴かず、彼は、まさに、『寂静者』と説かれます」と。

〔身体の〕破壊の前に」の経についての釈示が、第十となる。

注釈【0】