そこで、大きなまとまりの経についての釈示を説くであろう。
901. (895) 〔世尊は言った〕 ⸺彼らが誰であれ、これらの〔各自の〕 見解に固着している者たちは、そして、「これ (自説) こそが、真理である」と説きます。彼らは、まさしく、全ての者たちが、 〔他者からの〕 非難を招き寄せます。そこで、たとえ、そこにおいて、 〔一部の〕 賞賛を得るとして。 (1)
「彼らが誰であれ、これらの 〔各自の〕見解に固着している者たちは」とは、「彼らが誰であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕 完全に取り上げる言葉。これが、「彼らが誰であれ」ということになる。「〔各自の〕見解に固着している者たちは」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕 汚れを有する者たちが、諸々の 〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し……略……遍く住する。ということで、「〔各自の〕 見解に固着している者たちは」。
「そして、『これ (自説) こそが、真理である』と説きます」とは、「世 〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な 〔思考〕 である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。「世 〔界〕 は、常久ではない。……略 ([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「そして、『これこそが、真理である』と説きます」。
「彼らは、まさしく、全ての者たちが、 〔他者からの〕非難を招き寄せます」とは、それらの沙門や婆羅門たちは、まさしく、全ての者たちが、まさしく、非難へと従い行く、まさしく、難詰へと従い行く、まさしく、不名誉へと従い行く。全ての者たちが、まさしく、非難された者たちと成る、まさしく、難詰された者たちと成る、まさしく、不名誉の者たちと成る。ということで、「彼らは、まさしく、全ての者たちが、〔他者からの〕 非難を招き寄せます」。
「そこで、たとえ、そこにおいて、 〔一部の〕 賞賛を得るとして」とは、そこにおいて、自らの見解において、自らの受認 (信受) において、自らの嗜好 (意欲)において、自らの主張において、賞賛を、賛嘆を、名誉を、栄誉を運び行くものを、 〔彼らは〕 得る、 〔彼らは〕 獲得する、〔彼らは〕 具す、 〔彼らは〕見出す。ということで、「そこで、たとえ、そこにおいて、 〔一部の〕賞賛を得るとして」。
それによって、世尊は言った。
〔世尊は言った〕 ⸺「彼らが誰であれ、これらの 〔各自の〕見解に固着している者たちは、そして、『これ (自説)こそが、真理である』と説きます。彼らは、まさしく、全ての者たちが、 〔他者からの〕非難を招き寄せます。そこで、たとえ、そこにおいて、 〔一部の〕賞賛を得るとして」と。
902. (896) まさに、この 〔賞賛〕 は、僅かです。〔心の〕 静けさ 〔を得る〕には、十分ではありません。 〔わたしは〕 論争の結果を、 〔非難と賞賛の〕 二者 〔だけ〕と説きます。このことをもまた見て、論争しないように⸺論争なき境地を、平安と証見しながら。 (2)
「まさに、この 〔賞賛〕は、僅かです。 〔心の〕 静けさ 〔を得る〕 には、十分ではありません」とは、「まさに、この 〔賞賛〕 は、僅かです」とは、この 〔賞賛〕は、僅かであり、この 〔賞賛〕 は、下等であり、この 〔賞賛〕 は、僅少であり、この 〔賞賛〕は、悪辣であり、この 〔賞賛〕 は、劣小であり、この 〔賞賛〕 は、微小である。ということで、「まさに、この 〔賞賛〕 は、僅かです」。「 〔心の〕 静けさ〔を得る〕には、十分ではありません」とは、貪欲の静まりのために、憤怒の静まりのために、迷妄の静まりのために、忿激の……怨恨の……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻惑の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、涅槃のために、放棄のために、安息のために、十分ではない。ということで、「まさに、この〔賞賛〕 は、僅かです。 〔心の〕静けさ 〔を得る〕 には、十分ではありません」。
「 〔わたしは〕論争の結果を、 〔非難と賞賛の〕 二者 〔だけ〕と説きます」とは、見解の紛争には、見解の言争には、見解の口論には、見解の論争には、見解の確執には、二つの結果が有る。勝利と敗北が有り、利得と利得なきが有り、盛名と盛名なきが有り、非難と賞賛が有り、安楽と苦痛が有り、悦意と失意が有り、好ましいものと好ましくないものが有り、随貪と敵対が有り、興奮と失望が有り、共感と反感が有る。さらに、あるいは、「その行為( 業 )は、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、〔わたしは〕 説く、 〔わたしは〕告げ知らせる、 〔わたしは〕 説示する、 〔わたしは〕 報知する、 〔わたしは〕 確立する、〔わたしは〕 開顕する、 〔わたしは〕 区分する、 〔わたしは〕 明瞭と為す、〔わたしは〕 明示する。ということで、「 〔わたしは〕 論争の結果を、 〔非難と賞賛の〕 二者〔だけ〕 と説きます」。
「このことをもまた見て、論争しないように」とは、「このことをもまた見て」とは、諸々の見解の紛争について、諸々の見解の言争について、諸々の見解の口論について、諸々の見解の論争について、諸々の見解の確執について、この危険を、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた見て」。「論争しないように」とは、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕 存するべきであり、制約を離れることを為した心で 〔世に〕 住むべきである。ということで、「このことをもまた見て、論争しないように」。
「論争なき境地を、平安と証見しながら」とは、論争なき境地は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。この論争なき境地を、平安 〔の観点〕 から、救護所 〔の観点〕 から、避難所〔の観点〕 から、帰依所 〔の観点〕 から、恐怖なき 〔の観点〕 から、死滅なき〔の観点〕 から、不死 〔の観点〕から、涅槃 〔の観点〕から、見ながら、視認しながら、注目しながら、凝視しながら、近しく注視しながら。ということで、「論争なき境地を、平安と証見しながら」。
それによって、世尊は言った。
「まさに、この 〔賞賛〕 は、僅かです。 〔心の〕 静けさ〔を得る〕 には、十分ではありません。 〔わたしは〕 論争の結果を、 〔非難と賞賛の〕 二者〔だけ〕と説きます。このことをもまた見て、論争しないように⸺論争なき境地を、平安と証見しながら」と。
903. (897) それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義 (世俗 :通念化した特定の世界観)は⸺まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。 〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、 〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう⸺見られたものについて、聞かれたものについて、愛着 〔の思い〕 を為さずにいる者が。 (3)
「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義 ( 世俗 )は」とは、「それらが何であれ」とは、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、残りなく残余なく、〔物事を〕完全に取り上げる言葉。これが、「それらが何であれ」ということになる。「諸々の主義は」とは、諸々の主義は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての主義である。「凡俗なる」とは、あるいは、多々なる人たち(凡夫たち)によって生まれた、それらの主義、ということで、「凡俗なる」。あるいは、多々にして種々なる人たちによって生まれた、それらの主義、ということで、「凡俗なる」。ということで、「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義は」。
「まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者は、まさしく、これらの見解としての主義の全てに、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです」。
「 〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、 〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう」とは、「接近 (近づく者)」とは、二つの接近がある。 (1) そして、渇愛の接近であり、(2) さらに、見解の接近である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の接近である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は 〔すでに〕 捨棄され、見解の接近は 〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕 放棄されたことから、 〔特定の見解に〕近づかない人が、どうして、形態に、近づくというのだろう、近しく赴くというのだろう、収取するというのだろう、偏執するというのだろう、固着するというのだろう⸺「わたしの自己である」と。どうして、感受〔作用〕 に……。どうして、表象 〔作用〕 に……。どうして、諸々の形成 〔作用〕に……。どうして、識知 〔作用〕に……。どうして、境遇に……。どうして、再生に……。どうして、結生に……。どうして、生存に……。どうして、輪廻に……。どうして、転起に、近づくというのだろう、近しく赴くというのだろう、収取するというのだろう、偏執するというのだろう、固着するというのだろう。ということで、「〔特定の見解に〕 近づかない彼が、どうして、 〔特定の見解に〕 近づく者のところに行くというのでしょう」。
「見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕を為さずにいる者が」とは、あるいは、見られたものについて、あるいは、見られたものとしての清浄について、あるいは、聞かれたものについて、あるいは、聞かれたものとしての清浄について、あるいは、思われたものについて、あるいは、思われたものとしての清浄について、愛着〔の思い〕 を為さずにいる者が、欲 〔の思い〕 を為さずにいる者が、愛情 〔の思い〕を為さずにいる者が、貪欲 〔の思い〕を、為さずにいる者が、生じさせずにいる者が、産出させずにいる者が、発現させずにいる者が、結実させずにいる者が。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、愛着〔の思い〕 を為さずにいる者が」。
それによって、世尊は言った。
「それらが何であれ、これらの凡俗なる諸々の主義( 世俗 :通念化した特定の世界観)は⸺まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。 〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、 〔特定の見解に〕近づく者のところに行くというのでしょう⸺見られたものについて、聞かれたものについて、愛着 〔の思い〕 を為さずにいる者が」と。
904. (898) 〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います⸺ 〔守るべき〕 掟を受持して、〔特定の宗教行為に〕 奉仕している者たちとして。「まさしく、ここに、〔わたしたちは〕 学ぶべきだ。そこで、清浄は、 〔ここに〕 存するべきだ」 〔と〕 ⸺〔迷いの〕 生存に導かれた者たちは、 〔自らについて〕 「智者である」 〔と〕 説いています。(4)
「 〔与えられた〕戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います」とは、或る沙門や婆羅門たちで、戒を最上と説く者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことにのみよって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言い、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。
沙門のムンディカープッタは、このように言う。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法 (性質) を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の至り得るべきものに至り得た、〔誰も〕 太刀打ちできない沙門と、 〔世に〕知らしめる。どのような四つによって、であるのか。家長よ、ここに、身体によって、悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きない。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の至り得るべきものに至り得た、 〔誰も〕 太刀打ちできない沙門と、 〔世に〕 知らしめる」〔と〕。まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、戒を最上と説く者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言い、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「〔与えられた〕 戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います」。
「 〔守るべき〕掟を受持して、 〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして」とは、「掟」とは、あるいは、象の掟を、あるいは、馬の掟を、あるいは、牛の掟を、あるいは、山犬の掟を、あるいは、烏の掟を、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕 の掟を、あるいは、バラデーヴァ 〔力士〕 の掟を、あるいは、プンナバッダ 〔夜叉〕の掟を、あるいは、マニバッダ 〔夜叉〕の掟を、あるいは、祭火の掟を、あるいは、龍の掟を、あるいは、金翅鳥の掟を、あるいは、夜叉の掟を、あるいは、阿修羅の掟を、あるいは、音楽神の掟を、あるいは、〔天の〕 大王の掟を、あるいは、月 〔の神〕 の掟を、あるいは、日 〔の神〕の掟を、あるいは、インダ 〔神〕 (インドラ神) の掟を、あるいは、梵 〔天〕(ブラフマー神) の掟を、あるいは、天 〔の神〕の掟を、あるいは、方角の掟を、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して、奉仕している者たちとして、現に奉仕している者たちとして、〔思いが〕付着した者たちとして、近しく赴いた者たちとして、固執した者たちとして、信念した者たちとして。ということで、「 〔守るべき〕 掟を受持して、 〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして」。
「『まさしく、ここに、 〔わたしたちは〕 学ぶべきだ。そこで、清浄は、 〔ここに〕存するべきだ』 〔と〕 」とは、「ここに」とは、自らの見解において、自らの受認(信受) において、自らの嗜好 (意欲) において、自らの主張において。「 〔わたしたちは〕 学ぶべきだ」とは、 〔わたしたちは〕学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「まさしく、ここに、〔わたしたちは〕 学ぶべきだ」。「そこで、清浄は、 〔ここに〕存するべきだ」とは、そこで、清らかさは、清浄は、完全なる清浄は、解き放ちは、解脱は、完全なる解脱は、 〔ここに〕 存するべきである。ということで、「『まさしく、ここに、 〔わたしたちは〕 学ぶべきだ。そこで、清浄は、 〔ここに〕存するべきだ』 〔と〕 」。
「 〔迷いの〕生存に導かれた者たちは、 〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕 説いています」とは、「 〔迷いの〕生存に導かれた者たちは」とは、生存に導かれた者たち、生存に近しく赴いた者たち、生存に固執した者たち、生存に信念した者たち。ということで、「〔迷いの〕 生存に導かれた者たちは」。「 〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕説いています」とは、自らの主張について、智者と説く者たち、賢者と説く者たち、強固と説く者たち、正理と説く者たち、〔正しい〕 因と説く者たち、 〔正しい〕 特相と説く者たち、 〔正しい〕契機と説く者たち、 〔正しい〕 拠点と説く者たち。ということで、「〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕 説いています」。
それによって、世尊は言った。
「 〔与えられた〕 戒を最上とする者たちは、自制によって、清浄を言います⸺ 〔守るべき〕 掟を受持して、 〔特定の宗教行為に〕奉仕している者たちとして。『まさしく、ここに、 〔わたしたちは〕学ぶべきだ。そこで、清浄は、 〔ここに〕 存するべきだ』 〔と〕 ⸺ 〔迷いの〕 生存に導かれた者たちは、〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕 説いています」と。
905. (899) それで、もし、戒や掟から死滅した者 (喪失者)と成るなら、 〔為すべき宗教〕 行為 (業 ) を失って、動揺します。 〔彼は〕 清浄を渇望し、かつまた、切望します⸺家から離れて旅する者が、 〔共に旅する〕 隊商から捨棄されたかのように。 (5)
「それで、もし、戒や掟から死滅した者 (喪失者) と成るなら」とは、二つの契機によって、戒や掟から死滅する。 (1) あるいは、他者による中断によって死滅する。 (2)あるいは、不可能であるとして死滅する。 (1)どのように、他者による中断によって死滅するのか。他者が、中断させる。「その教師は、一切知者にあらず」「 〔その〕 法 (教え) は、見事に告げ知らされた〔教え〕 にあらず」「 〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「 〔その〕 見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕 道は、善く報知された 〔道〕 にあらず」「 〔その聖者の〕 道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕 清らかとなることは、あるいは、 〔人々が〕 清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕 解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕 解脱することは、あるいは、 〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように、他者が中断させる。このように中断させられつつ、教師から死滅し、法(教え) の告知から死滅し、衆徒から死滅し、見解から死滅し、〔実践の〕 道から死滅し、 〔聖者の〕 道から死滅する。このように、他者による中断によって死滅する。 (2) どのように、不可能であるとして死滅するのか。戒 〔の成就〕 を不可能であるとして、戒から死滅する。掟 〔の成就〕 を不可能であるとして、掟から死滅する。戒と掟 〔の成就〕を不可能であるとして、戒と掟から死滅する。このように、不可能であるとして死滅する。ということで、「それで、もし、戒や掟から死滅した者と成るなら」。
「 〔為すべき宗教〕行為 ( 業 )を失って、動揺します」とは、「動揺します」とは、あるいは、戒に、あるいは、掟に、あるいは、戒と掟に、「わたしによって、亡失するものとなった」「わたしによって、違反するものとなった」「わたしによって、惑乱あるものとなった」「わたしによって、落度あるものとなった」「わたしは、了知に違反する者となった」と、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「動揺します」。「〔為すべき宗教〕 行為を失って」とは、あるいは、功徳ある行作(善果を形成する働き) に、あるいは、功徳なき行作 (悪果を形成する働き) に、あるいは、不動の行作 (無色界の禅定を形成する働き)に、「わたしによって、亡失するものとなった」「わたしによって、違反するものとなった」「わたしによって、惑乱あるものとなった」「わたしによって、落度あるものとなった」「わたしは、了知に違反する者となった」と、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「〔為すべき宗教〕 行為を失って、動揺します」。
「 〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します」とは、「渇望し」とは、あるいは、戒を渇望し、あるいは、掟を渇望し、あるいは、戒と掟を、渇望し、強く渇望し、固く渇望する。ということで、「渇望し」。「〔彼は〕清浄を、かつまた、切望します」とは、あるいは、戒としての清浄を切望し、あるいは、掟としての清浄を切望し、あるいは、戒と掟としての清浄を、切望し、熱望し、渇望する。ということで、「〔彼は〕 清浄を渇望し、かつまた、切望します」。
「家から離れて旅する者が、 〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように」とは、たとえば、家から出た人が、隊商とともに旅をしながら住しつつ、隊商からはぐれたなら、あるいは、その隊商を追跡し、あるいは、自らの家に帰還するように、まさしく、このように、彼は、悪しき見解ある者は、あるいは、その教師を収取し、あるいは、他の教師を収取し、あるいは、その法(教え) の告知を収取し、あるいは、他の法 (教え)の告知を収取し、あるいは、その衆徒を収取し、あるいは、他の衆徒を収取し、あるいは、その見解を収取し、あるいは、他の見解を収取し、あるいは、その〔実践の〕 道を収取し、あるいは、他の 〔実践の〕 道を収取し、あるいは、その 〔聖者の〕道を収取し、あるいは、他の 〔聖者の〕道を、収取し、偏執し、固着する。ということで、「家から離れて旅する者が、 〔共に旅する〕 隊商から捨棄されたかのように」。
それによって、世尊は言った。
「それで、もし、戒や掟から死滅した者 (喪失者) と成るなら、 〔為すべき宗教〕 行為( 業 ) を失って、動揺します。〔彼は〕 清浄を渇望し、かつまた、切望します⸺家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕 隊商から捨棄されたかのように」と。
906. (900) あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕 行為を 〔捨棄して〕、清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、 〔一切を〕 切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕 離れ、寂静に 〔さえも〕 執持せずして、 〔世を〕 歩むでしょう。(6)
「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」とは、一切の戒としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、一切の掟としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、一切の戒と掟としての清浄を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して」。
「さらに、罪を有するものも罪なきものも、この 〔宗教〕 行為を 〔捨棄して〕」とは、罪を有する行為は、黒きもの、黒き報いあるもの、と説かれる。罪なき行為は、白きもの、白き報いあるもの、と説かれる。そして、罪を有する行為を、さらに、罪なき行為を、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「さらに、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕 行為を 〔捨棄して〕」。
「清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は」とは、「清浄ならざるものも」とは、清浄ならざるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕 諸々の善ならざる法 (性質)を切望する。「清浄なるものも」とは、清浄なるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕五つの欲望の属性 ( 五妙欲:色・声・香・味・触) を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕 諸々の善ならざる法 (性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望する。清浄なるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕六十二の悪しき見解を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕諸々の善ならざる法 (性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望し、六十二の悪しき見解を切望する。清浄なるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕 三つの界域 ( 三界) に属する諸々の善なる法 (性質)を切望する。清浄ならざるものを切望するとして、 〔凡夫たちは〕 諸々の善ならざる法(性質)を切望し、五つの欲望の属性を切望し、六十二の悪しき見解を切望し、三つの界域に属する諸々の善なる法 (性質) を切望する。清浄なるものを切望するとして、善き凡夫たちは、 〔正道たることの〕 決定に入ることを切望し、 〔いまだ〕学びある者 ( 有学 ) たちは、至高の法(性質) たる阿羅漢の資質を切望する。阿羅漢の資質が至り得られたとき、〔その〕 阿羅漢は、まさしく、諸々の善ならざる法 (性質)を切望することもなく、五つの欲望の属性を切望することもまたなく、六十二の悪しき見解を切望することもまたなく、三つの界域に属する諸々の善なる法(性質) を切望することもまたなく、 〔正道たることの〕 決定に入ることを切望することもまたなく、至高の法 (性質)たる阿羅漢の資質を切望することもまたない。阿羅漢は、切望することを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、 〔一切を〕切望せずにいる者は」。
「 〔一切の執着を〕離れ、寂静に 〔さえも〕 執持せずして、 〔世を〕 歩むでしょう」とは、「 〔一切の執着を〕離れ」とは、清浄なるものと清浄ならざるものから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「 〔一切の執着を〕 離れ」。「 〔世を〕歩むでしょう」とは、 〔世を〕 歩むべきであり、 〔世を〕 行じ歩むべきであり、 〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、 〔行ないを〕守るべきであり、 〔身を〕 保つべきであり、 〔身を〕 保ち行くべきである。ということで、「 〔一切の執着を〕 離れ、 〔世を〕歩むでしょう」。「寂静に 〔さえも〕執持せずして」とは、諸々の寂静は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての寂静である。 〔それらに〕 収取せずにいる者、 〔それらに〕偏執せずにいる者、 〔それらに〕 固着せずにいる者。ということで、「〔一切の執着を〕 離れ、寂静に 〔さえも〕 執持せずして、 〔世を〕歩むでしょう」。
それによって、世尊は言った。
「あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、さらに、罪を有するものも罪なきものも、この 〔宗教〕 行為を 〔捨棄して〕、清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、 〔一切を〕 切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕 離れ、寂静に 〔さえも〕 執持せずして、 〔世を〕歩むでしょう」と。
907. (901) あるいは、 〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕 、声高に清浄を唱えます⸺諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕 から離れられずに。 (7)
「あるいは、 〔苦行者たちは、世の人々に〕 忌避されている苦行に依存して」とは、或る沙門や婆羅門たちで、〔世の人々に〕 忌避されている苦行を説く者たちが存在する。 〔世の人々に〕 忌避されている苦行を真髄とする者たち、 〔世の人々に〕 忌避されている苦行に、依存する者たち、強く依存する者たち、 〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たちである。ということで、「あるいは、 〔苦行者たちは、世の人々に〕 忌避されている苦行に依存して」。
「そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに 〔依存して〕」とは、あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、依存して、近しく依存して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕 」。
「声高に清浄を唱えます」とは、或る沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちが存在する。どのような者たちが、それらの沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちであるのか。すなわち、それらの沙門や婆羅門たちで、究極の清浄ある者たち(特定の見解を究極の清浄と説く者たち) 、輪廻の清浄ある者たち(輪廻による浄化を説く者たち) 、無作の見解ある者たち (修行不要論を説く者たち) 、常久の論ある者たち (常住論を説く者たち)であるなら、これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちで、声高に説く者たちである。彼らは、輪廻のうちに、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、唱え、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「声高に清浄を唱えます」。
「諸々の種々なる生存にたいする渇愛 〔の思い〕から離れられずに」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛、音声への渇愛、臭気への渇愛、味感への渇愛、感触への渇愛、法(意の対象)への渇愛。「諸々の種々なる生存にたいする」とは、種々なる生存における、行為の生存 (業有 ) にたいする、さらなる生存 (再有 ) にたいする⸺欲望の生存 (欲有 )における行為の生存にたいする、欲望の生存におけるさらなる生存にたいする、形態の生存 (色有 )における行為の生存にたいする、形態の生存におけるさらなる生存にたいする、形態なき生存 (無色有 )における行為の生存にたいする、形態なき生存におけるさらなる生存にたいする。繰り返す生存にたいする、繰り返す境遇にたいする、繰り返す再生にたいする、繰り返す結生にたいする、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいする、渇愛を離れていない者たちとして、渇愛を離れ去っていない者たちとして、渇愛を捨て去っていない者たちとして、渇愛を吐き捨てていない者たちとして、渇愛を解き放っていない者たちとして、渇愛を捨棄していない者たちとして、渇愛を放棄していない者たちとして。ということで、「諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕 から離れられずに」。
それによって、世尊は言った。
「あるいは、 〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、そこで、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕 、声高に清浄を唱えます⸺諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕 から離れられずに」と。
908. (902) まさに、 〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの (欲望の対象)があります。あるいは、また、諸々の想い描かれたもの (妄想)にたいする動揺があります。 〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず (渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう。 (8)
「まさに、 〔何かを〕切望している者には、諸々の渇望されたもの (欲望の対象)があります」とは、切望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ) 、善ならざるものの根元である。「 〔何かを〕切望している者には」とは、切望している者には、欲求している者には、愛用している者には、熱望している者には、渇望している者には。ということで、「まさに、〔何かを〕切望している者には」。「諸々の渇望されたものがあります」とは、渇望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲(ローバ) 、善ならざるものの根元である。ということで、「まさに、〔何かを〕 切望している者には、諸々の渇望されたものがあります」。
「あるいは、また、諸々の想い描かれたもの (妄想) にたいする動揺があります」とは、「妄想 (想い描き) 」とは、二つの妄想がある。 (1)そして、渇愛の妄想であり、 (2) さらに、見解の妄想である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の妄想である。「あるいは、また、諸々の想い描かれたものにたいする動揺があります」とは、想い描かれた事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた動揺し、略奪されつつあるときもまた動揺し、略奪されたときもまた動揺し、想い描かれた事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた動揺し、変化しつつあるときもまた動揺し、変化したときもまた、動揺し、強く動揺し、等しく動揺する。ということで、「あるいは、また、諸々の想い描かれたものにたいする動揺があります」。
「 〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、 〔他の世に〕 赴くことが、 〔他の世から〕 来ることが、〔他の世に〕 赴くことと 〔他の世から〕 来ることが、 〔輪廻の〕時が、境遇が、種々なる生存が、かつまた、死滅が、かつまた、再生が、かつまた、発現が、かつまた、破壊が、かつまた、生が、かつまた、老と死が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕彼には、ここに、死滅と再生は存在せず」。
「彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」とは、彼は、どのような貪欲によって、動揺するというのだろう、どのような憤怒によって、動揺するというのだろう、どのような迷妄によって、動揺するというのだろう、どのような思量によって、動揺するというのだろう、どのような見解によって、動揺するというのだろう、どのような高揚によって、動揺するというのだろう、どのような疑惑によって、動揺するというのだろう、どのような諸々の悪習によって、動揺するというのだろう⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕 散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者) である」と、あるいは、「強靭に至った者 (頑迷固陋の者) である」と。 〔彼の〕 それらの行作は〔すでに〕 捨棄され、 〔それらの〕 行作が 〔すでに〕 捨棄されたことから、〔未来の〕境遇について、何によって、動揺するというのだろう⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、動揺するであろう、強く動揺するであろう、等しく動揺するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「彼は、何によって、動揺するというのでしょう」。「あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」とは、あるいは、どこに、渇望するというのだろう、どこで、渇望するというのだろう、どこにおいて、渇望するというのだろう、強く渇望するというのだろう、固く渇望するというのだろう。ということで、「彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」。
それによって、世尊は言った。
「まさに、 〔何かを〕 切望している者には、諸々の渇望されたもの (欲望の対象) があります。あるいは、また、諸々の想い描かれたもの (妄想) にたいする動揺があります。 〔しかしながら、渇望なく、何も切望しない〕 彼には、ここに、死滅と再生は存在せず (渇愛なき聖者に輪廻は存在せず)、彼は、何によって、動揺するというのでしょう、あるいは、何にたいし、渇望するというのでしょう」と。
909. (903) 〔対話者が尋ねた〕 ⸺或る者たちが、〔まさに〕 その、 〔自らの〕 法(見解) を、「最高である」と言うなら、いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を、「劣る」と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕 「智者である」 〔と〕 説いています。 (9)
「或る者たちが、 〔まさに〕 その、 〔自らの〕 法(見解) を、『最高である』と言うなら」とは、 〔まさに〕 その、法 (教え) を、見解を、〔実践の〕 道を、 〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちが、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、このように言うなら、このように言説するなら、このように発語するなら、このように提示するなら、このように語用するなら。ということで、「或る者たちが、〔まさに〕 その、 〔自らの〕 法(見解) を、『最高である』と言うなら」。
「いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その 〔同じ法〕 を、『劣る』と言います」とは、まさしく、その、法 (教え) を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、下劣である」「これは、劣悪である」「これは、下等である」「これは、悪辣である」「これは、劣小である」「これは、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その〔同じ法〕 を、『劣る』と言います」。
「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」とは、これらの沙門や婆羅門の、どの論が、真理であるのか、如実であるのか、真実であるのか、事実であるのか、あるがままであるのか、転倒ならざるものであるのか。ということで、「いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか」。
「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕説いています」とは、これらの沙門や婆羅門者たちは、まさしく、全ての者たちが、自らの主張について、智者と説く者たちである、賢者と説く者たちである、強固と説く者たちである、正理と説く者たちである、〔正しい〕 因と説く者たちである、 〔正しい〕 特相と説く者たちである、 〔正しい〕契機と説く者たちである、 〔正しい〕拠点と説く者たちである。ということで、「まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、 〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕説いています」。
それによって、その 〔対話者として〕 化作された者が言った。
〔対話者が尋ねた〕 ⸺「或る者たちが、 〔まさに〕 その、〔自らの〕 法 (見解)を、『最高である』と言うなら、いっぽうで、他の者たちは、まさしく、その 〔同じ法〕を、『劣る』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、全ての者たちが、〔自らについて〕 『智者である』 〔と〕 説いています」と。
910. (904) 〔世尊は答えた〕 ⸺まさに、〔彼らは〕 自らの法 (見解)を、円満成就したものと言い、いっぽうで、他者の法 (見解)を、劣るものと言います。このように、また、 〔自らの法に〕執持して論争し、互いに自らの主義 〔だけ〕 を、真理と言います。(10)
「まさに、 〔彼らは〕自らの法 (見解) を、円満成就したものと言い」とは、自らの、法(教え) を、見解を、 〔実践の〕道を、 〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、完全である、円満成就したものである、至上である」と、このように言い……略([167]参照) ……このように語用する。ということで、「まさに、〔彼らは〕 自らの法 (見解)を、円満成就したものと言い」。
「いっぽうで、他者の法 (見解) を、劣るものと言います」とは、他者の、法 (教え) を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕道を、或る沙門や婆羅門たちは、「これは、下劣である」「これは、劣悪である」「これは、下等である」「これは、悪辣である」「これは、劣小である」「これは、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「いっぽうで、他者の法(見解) を、劣るものと言います」。
「このように、また、 〔自らの法に〕執持して論争し」とは、このように、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、論争し、紛争を為し、言争を為し、口論を為し、論争を為し、確執を為す。「あなたは、この法(教え) と律を了知しない。……略 ([649]参照) ……。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」 〔と〕 。ということで、「このように、また、 〔自らの法に〕 執持して論争し」。
「互いに自らの主義 〔だけ〕 を、真理と言います」とは、「世 〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な 〔思考〕である」と、「互いに自ら 〔各自の〕 主義を、真理と言います」。「世〔界〕 は、常久ではない。……略 ([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、「互いに自らの主義 〔だけ〕 を、真理と言います」。
それによって、世尊は言った。
〔世尊は答えた〕 ⸺「まさに、 〔彼らは〕 自らの法(見解) を、円満成就したものと言い、いっぽうで、他者の法 (見解) を、劣るものと言います。このように、また、 〔自らの法に〕 執持して論争し、互いに自らの主義 〔だけ〕を、真理と言います」と。
911. (905) もし、他者に誹られたことで、 〔或る法が〕劣るものと 〔成るなら〕 、諸々の法 (見解) のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでしょう。なぜなら、 〔彼らは〕 個々それぞれに、他者の法 (見解)を、「劣る」と説くからです⸺自ら 〔の法〕 において、断固として〔自らの正しさを〕 説きながら。 (11)
「もし、他者に誹られたことで、 〔或る法が〕 劣るものと 〔成るなら〕」とは、もし、他者に、誹られたことを契機とすることから、非難されたことを契機とすることから、難詰されたことを契機とすることから、批判されたことを契機とすることから、〔別の〕 他者が、愚者と成り、下劣の者と 〔成り〕 、劣悪の者と 〔成り〕 、下等の者と〔成り〕 、悪辣の者と 〔成り〕、劣小の者と 〔成り〕 、微小の者と 〔成り〕 、下劣の智慧ある者と 〔成り〕、劣悪の智慧ある者と 〔成り〕 、下等の智慧ある者と 〔成り〕 、悪辣の智慧ある者と 〔成り〕、劣小の智慧ある者と 〔成り〕 、微小の智慧ある者と 〔成るなら〕 。ということで、「もし、他者に誹られたことで、 〔或る法が〕 劣るものと 〔成るなら〕 」。
「諸々の法 (見解)のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでしょう」とは、諸々の法 (見解)のうち、至高、最勝、殊勝、筆頭、最上、最も優れたものは、何であれ、存在しないであろう。ということで、「諸々の法(見解) のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでしょう」。
「なぜなら、 〔彼らは〕個々それぞれに、他者の法 (見解)を、『劣る』と説くからです」とは、多なる者たちはまた、多なる者たちの法 (見解)を、下劣 〔の観点〕 から、劣悪 〔の観点〕 から、下等 〔の観点〕 から、悪辣〔の観点〕 から、劣小 〔の観点〕から、微小 〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、多なる者たちはまた、一なる者の法 (見解)を、下劣 〔の観点〕 から、劣悪 〔の観点〕 から、下等 〔の観点〕 から、悪辣〔の観点〕 から、劣小 〔の観点〕から、微小 〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、一なる者はまた、多なる者たちの法 (見解)を、下劣 〔の観点〕 から、劣悪 〔の観点〕 から、下等 〔の観点〕 から、悪辣〔の観点〕 から、劣小 〔の観点〕から、微小 〔の観点〕から、説き、批判し、非難し、難詰し、一なる者はまた、一なる者の法 (見解) を、下劣〔の観点〕 から、劣悪 〔の観点〕から、下等 〔の観点〕 から、悪辣 〔の観点〕 から、劣小 〔の観点〕 から、微小〔の観点〕 から、説き、批判し、非難し、難詰する。ということで、「なぜなら、〔彼らは〕 個々それぞれに、他者の法 (見解) を、『劣る』と説くからです」。
「自ら 〔の法〕において、断固として 〔自らの正しさを〕 説きながら」とは、法(教え) は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、 〔実践の〕 道は、自らの道であり、 〔聖者の〕道は、自らの道であり、自らの道について、断固たるものと説く者たち、強固たるものと説く者たち、力あるものと説く者たち、確立されたものと説く者たち。ということで、「自ら〔の法〕 において、断固として 〔自らの正しさを〕 説きながら」。
それによって、世尊は言った。
「もし、他者に誹られたことで、 〔或る法が〕 劣るものと 〔成るなら〕 、諸々の法(見解) のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでしょう。なぜなら、〔彼らは〕 個々それぞれに、他者の法 (見解) を、『劣る』と説くからです⸺自ら 〔の法〕において、断固として 〔自らの正しさを〕 説きながら」と。
912. (906) また、彼らの 〔個々それぞれの〕 自らの法(見解) への供養 (信奉)は、まさしく、真実と 〔成るでしょう〕 ⸺ 〔彼らが、個々それぞれの〕 自らの道を賞賛する、そのとおりに。 〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう。なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄 〔の論〕 があるからです。 (12)
「また、彼らの 〔個々それぞれの〕 自らの法 (見解) への供養(信奉) は、まさしく、真実と 〔成るでしょう〕 」とは、どのようなものが、自らの法 (見解)への供養であるのか。自らの教師を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。「この教師は、一切知者である」と。これが、自らの法(見解) への供養である。自らの法 (教え) の告知を……。自らの衆徒を……。自らの見解を……。自らの 〔実践の〕 道を……。自らの 〔聖者の〕道を、尊敬し、尊重し、思慕し、供養する。「この 〔聖者の〕 道は、出脱〔の道〕 である」と。これが、自らの法 (見解) への供養である。「また、彼らの 〔個々それぞれの〕 自らの法 (見解)への供養は、まさしく、真実と 〔成るでしょう〕 」とは、諸々の自らの法(見解) への 〔個々それぞれの〕供養は、真実である、如実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである。ということで、「また、彼らの〔個々それぞれの〕 自らの法 (見解) への供養は、まさしく、真実と 〔成るでしょう〕」。
「 〔彼らが、個々それぞれの〕 自らの道を賞賛する、そのとおりに」とは、法 (教え) は、自らの道であり、見解は、自らの道であり、 〔実践の〕 道は、自らの道であり、 〔聖者の〕道は、自らの道であり、諸々の自らの道を、 〔彼らは〕 賞賛する、〔彼らは〕 賛嘆する、 〔彼らは〕名誉とする、 〔彼らは〕 栄誉とする。ということで、「 〔彼らが、個々それぞれの〕 自らの道を賞賛する、そのとおりに」。
「 〔彼らの個々それぞれの〕 論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう」とは、 〔彼らの個々それぞれの〕 論は、まさしく、全てが、真実と 〔成り〕 、如実と 〔成り〕 、事実と〔成り〕 、あるがままと 〔成り〕、転倒ならざるものと成るであろう。ということで、「 〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう」。
「なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕があるからです」とは、まさしく、各自それぞれに、それらの沙門や婆羅門たちには、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱がある。ということで、「なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄〔の論〕 があるからです」。
それによって、世尊は言った。
「また、彼らの 〔個々それぞれの〕 自らの法 (見解) への供養(信奉) は、まさしく、真実と 〔成るでしょう〕 ⸺ 〔彼らが、個々それぞれの〕自らの道を賞賛する、そのとおりに。 〔彼らの個々それぞれの〕論は、まさしく、全てが、真実と成るでしょう。なぜなら、彼らには、まさしく、各自それぞれに、清浄 〔の論〕 があるからです」と。
913. (907) 〔真の〕 婆羅門 (人格完成者) には、他者に導かれることが存在しないのです。諸々の法 (見解) について、 〔執着の対象として〕執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して、それゆえに、〔彼は〕 諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、 〔彼は〕 他者の法 (見解) を「勝る」と見ないからです。(13)
「 〔真の〕 婆羅門(人格完成者) には、他者に導かれることが存在しないのです」とは、「ない」とは、否定〔の言葉〕 。「婆羅門 (ブラーフマナ) 」とは、七つの法 (性質) が拒否された(バーヒタ) ことから、婆羅門となる。……略 ([299-300]参照) …… 〔何にも〕依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門) 』 〔と〕 呼ばれます」 〔と〕 。「〔真の〕 婆羅門には、他者に導かれることが存在しないのです」とは、〔真の〕 婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、 〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕 知り、 〔あるがままに〕 見る。「一切の形成 〔作用〕は、無常である」と、 〔真の〕 婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕 知り、 〔あるがままに〕 見る。「一切の形成 〔作用〕は、苦痛である」と……略 ([324]参照) ……。「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質) である」と、 〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在せず、 〔真の〕婆羅門は、他者に導かれる者ではなく、他者を縁とする者ではなく、他者が縁となる者ではなく、他者の結縛に至る者ではなく、等しく迷乱なき者として、正知の者として、気づきの者として、〔あるがままに〕 知り、 〔あるがままに〕 見る。ということで、「 〔真の〕婆羅門には、他者に導かれることが存在しないのです」。
「諸々の法 (見解)について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して」とは、「諸々の法 (見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「 〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取は、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、〔もはや〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔彼は〕 諸々の法 (見解)について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して」。
「それゆえに、 〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の見解の紛争を、諸々の見解の言争を、諸々の見解の口論を、諸々の見解の論争を、諸々の見解の確執を、近しく超克した者となり、超越した者となり、等しく超越した者となり、超克した者となる。ということで、「それゆえに、〔彼は〕 諸々の論争を超克した者となります」。
「なぜなら、 〔彼は〕他者の法 (見解) を『勝る』と見ないからです」とは、 〔四つの〕 気づきの確立より他の、 〔四つの〕正しい精励より他の、 〔四つの〕 神通の足場より他の、 〔五つの〕 機能より他の、 〔五つの〕 力より他の、〔七つの〕 覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕 他のものである、教師を、法 (教え) の告知を、衆徒を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕 道を、法 (見解)として、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、 〔彼は〕見ない、 〔彼は〕 視認しない、 〔彼は〕 注目しない、 〔彼は〕 凝視しない、〔彼は〕 近しく注視しない。ということで、「なぜなら、 〔彼は〕 他者の法 (見解)を『勝る』と見ないからです」。
それによって、世尊は言った。
「 〔真の〕婆羅門 (人格完成者) には、他者に導かれることが存在しないのです。諸々の法(見解) について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕判別して、それゆえに、 〔彼は〕 諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕 他者の法 (見解)を『勝る』と見ないからです」と。
914. (908) 「 〔わたしは〕 知る。〔わたしは〕 見る。まさしく、そのとおりに、この 〔清浄〕 を」 〔と〕、或る者たちは、見解によって清浄を信受します。もし、 〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。 〔道を〕外れて、 〔彼らは〕 他のもの (他者・他物) によって、清浄を説きます。 (14)
「『 〔わたしは〕知る。 〔わたしは〕 見る。まさしく、そのとおりに、この 〔清浄〕 を』 〔と〕 」とは、「〔わたしは〕 知る」とは、あるいは、他者の心 〔を探知する〕 知恵 ( 他心智) によって知る、あるいは、過去における居住の随念の知恵 (宿命随念智 ) によって知る。「 〔わたしは〕見る」とは、あるいは、肉眼によって見る、あるいは、天眼によって見る。「まさしく、そのとおりに、この 〔清浄〕 を」とは、この 〔清浄〕を、真実として、如実として、事実として、あるがままとして、転倒ならざるものとして。ということで、「『 〔わたしは〕 知る。 〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この 〔清浄〕 を』 〔と〕 」。
「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」とは、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。「世〔界〕 は、常久ではない。……略 ([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、或る沙門や婆羅門たちは、見解によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「或る者たちは、見解によって清浄を信受します」。
「もし、 〔彼が〕見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」とは、「見た」とは、あるいは、他者の心〔を探知する〕知恵によって見た、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見た、あるいは、肉眼によって見た、あるいは、天眼によって見た。ということで、「もし、〔彼が〕見たとして」。「そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」とは、彼の、その見によって、何が為されたというのだろう。苦痛の遍知は存在せず、集起の捨棄は存在せず、道の修行は存在せず、果の実証は存在せず、貪欲の、断絶の捨棄は存在せず、憤怒の、断絶の捨棄は存在せず、迷妄の、断絶の捨棄は存在せず、諸々の〔心の〕 汚れの、断絶の捨棄は存在せず、輪廻と 〔その〕 転起の、断絶は存在しない。ということで、「もし、 〔彼が〕 見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう」。
「 〔道を〕 外れて、〔彼らは〕 他のもの (他者・他物)によって、清浄を説きます」とは、それらの異教の者たちは、清らかさの道を、清浄の道を、完全なる清浄の道を、清白の道を、完全なる清白の道を、超越して、等しく超越して、超克して、〔四つの〕 気づきの確立より他の、 〔四つの〕 正しい精励より他の、 〔四つの〕神通の足場より他の、 〔五つの〕 機能より他の、 〔五つの〕 力より他の、 〔七つの〕覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、このようにもまた、「〔道を〕 外れて、 〔彼らは〕他のものによって、清浄を説きます」。
さらに、あるいは、そして、覚者たちは、さらに、覚者の弟子たちは、かつまた、独覚たちは、それらの異教の者たちの、清らかさならざる道を、清浄ならざる道を、完全なる清浄ならざる道を、清白ならざる道を、完全なる清白ならざる道を、超越して、等しく超越して、超克して、〔四つの〕 気づきの確立によって、 〔四つの〕 正しい精励によって、 〔四つの〕神通の足場によって、 〔五つの〕 機能によって、 〔五つの〕 力によって、 〔七つの〕覚りの支分によって、聖なる八つの支分ある道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、このようにもまた、「〔道を〕 外れて、 〔彼らは〕他のものによって、清浄を説きます」。
それによって、世尊は言った。
「『 〔わたしは〕 知る。 〔わたしは〕見る。まさしく、そのとおりに、この 〔清浄〕 を』 〔と〕 、或る者たちは、見解によって清浄を信受します。もし、 〔彼が〕 見たとして、そのことが、自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。 〔道を〕 外れて、 〔彼らは〕 他のもの(他者・他物) によって、清浄を説きます」と。
915. (909) 〔他のものによって〕 見ている人は、名前と形態( 名色 :現象世界) を、〔常住と〕 見ます。あるいは、 〔そのように〕 見て、まさしく、それら (名前と形態)を、 〔常住と〕 知るのです。 〔迷える者は〕 欲するままに、多くを見よ⸺あるいは、少なくを。なぜなら、 〔真の〕 智者たちは、それ (邪見)によって、清浄を説かないからです。 (15)
「 〔他のものによって〕見ている人は、名前と形態 ( 名色 :現象世界)を、 〔常住と〕 見ます」とは、「 〔他のものによって〕 見ている人は、 〔常住と〕見ます」とは、あるいは、他者の心 〔を探知する〕知恵によって見ているとして、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見ているとして、あるいは、肉眼によって見ているとして、あるいは、天眼によって見ているとして、まさしく、名前と形態を、常住〔の観点〕 から、安楽 〔の観点〕から、自己 〔の観点〕 から、見る。それらの法 (性質)の、あるいは、集起を、あるいは、滅至を、あるいは、悦楽を、あるいは、危険を、あるいは、出離を、見ない。ということで、「〔他のものによって〕 見ている人は、名前と形態を、 〔常住と〕 見ます」。
「あるいは、 〔そのように〕 見て、まさしく、それら (名前と形態)を、 〔常住と〕 知るのです」とは、「 〔そのように〕 見て」とは、あるいは、他者の心 〔を探知する〕知恵によって見て、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって見て、あるいは、肉眼によって見て、あるいは、天眼によって見て、まさしく、名前と形態を、常住〔の観点〕 から、安楽 〔の観点〕から、自己 〔の観点〕 から、知るであろう。それらの法 (性質)の、あるいは、集起を、あるいは、滅至を、あるいは、悦楽を、あるいは、危険を、あるいは、出離を、知ることはないであろう。ということで、「あるいは、〔そのように〕 見て、まさしく、それらを、 〔常住と〕 知るのです」。
「 〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ⸺あるいは、少なくを」とは、名前と形態を、常住 〔の観点〕から、安楽 〔の観点〕 から、自己 〔の観点〕 から、欲するままに、あるいは、多くを、あるいは、少なくを、見ている者は。ということで、「〔迷える者は〕 欲するままに、多くを見よ⸺あるいは、少なくを」。
「なぜなら、 〔真の〕智者たちは、それ (邪見)によって、清浄を説かないからです」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、 〔五つの〕 範疇に智ある者たち、 〔十八の〕界域に智ある者たち、 〔十二の認識の〕 場所に智ある者たち、縁によって〔物事が〕 生起する 〔道理〕に智ある者たち、 〔四つの〕 気づきの確立に智ある者たち、 〔四つの〕 正しい精励に智ある者たち、 〔四つの〕神通の足場に智ある者たち、 〔五つの〕 機能に智ある者たち、〔五つの〕 力に智ある者たち、 〔七つの〕 覚りの支分に智ある者たち、 〔聖者の〕道に智ある者たち、 〔沙門の〕果に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、あるいは、他者の心 〔を探知する〕知恵によって、あるいは、過去における居住の随念の知恵によって、あるいは、肉眼によって、あるいは、天眼によって、名前と形態の見によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「なぜなら、〔真の〕 智者たちは、それによって、清浄を説かないからです」。
それによって、世尊は言った。
「 〔他のものによって〕 見ている人は、名前と形態 (名色 :現象世界) を、 〔常住と〕見ます。あるいは、 〔そのように〕 見て、まさしく、それら (名前と形態) を、 〔常住と〕 知るのです。〔迷える者は〕 欲するままに、多くを見よ⸺あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕 智者たちは、それ (邪見) によって、清浄を説かないからです」と。
916. (910) 〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません。 〔執着の対象として〕想い描かれた 〔特定の〕 見解を偏重している者です。それ (自説) に依存する者が、そこにおいて、「美しい (価値がある) 」と説いているなら、彼は、 〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、 〔彼だけの清浄を〕 見たのです。(16)
「 〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません」とは、「世 〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な 〔思考〕 である」と、「〔特定の見解に〕 固着して説く者は」。「世 〔界〕 は、常久ではない。……略 ([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、「 〔特定の見解に〕 固着して説く者は」。「まさに、導くに易き者ではありません」とは、 〔特定の見解に〕固着して説く者は、教導するに難き者であり、報知するに難き者であり、納得させるに難き者であり、注視させるに難き者であり、清信させるに難き者である。ということで、「〔特定の見解に〕 固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません」。
「 〔執着の対象として〕想い描かれた 〔特定の〕見解を偏重している者です」とは、想い描かれ、妄想され、行作され、確立された、 〔特定の〕 見解を、偏重して、 〔世を〕歩む。見解を旗とする者として、見解を幟とする者として、見解を優位とする者として、 〔特定の〕 見解に、取り囲まれ、 〔世を〕歩む。ということで、「 〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕 見解を偏重している者です」。
「それ (自説)に依存する者が、そこにおいて、『美しい (価値がある)』と説いているなら」とは、「それに依存する者が」とは、 〔まさに〕 その、教師に、法(教え) の告知に、衆徒に、見解に、 〔実践の〕 道に、 〔聖者の〕道に、依存する者が、強く依存する者が、 〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受) において、自らの嗜好 (意欲)において、自らの主張において。「『美しい』と説いているなら」とは、自らの主張について、美しいと説く者であるなら、荘厳と説く者であるなら、賢者と説く者であるなら、強固と説く者であるなら、正理と説く者であるなら、〔正しい〕 因と説く者であるなら、 〔正しい〕 特相と説く者であるなら、 〔正しい〕契機と説く者であるなら、 〔正しい〕拠点と説く者であるなら。ということで、「それに依存する者が、そこにおいて、『美しい』と説いているなら」。
「彼は、 〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、 〔彼だけの清浄を〕見たのです」とは、清らかさの論ある者、清浄の論ある者、完全なる清浄の論ある者、清白の論ある者、完全なる清白の論ある者。さらに、あるいは、清らかさの見ある者、清浄の見ある者、完全なる清浄の見ある者、清白の見ある者、完全なる清白の見ある者。ということで、「清浄を説く者」。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受) において、自らの嗜好 (意欲)において、自らの主張において。「真実である、如実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、〔彼は〕 見た、 〔彼は〕視認した、 〔彼は〕 観た、 〔彼は〕 理解した。ということで、「彼は、 〔自己だけの〕清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、 〔彼だけの清浄を〕見たのです」。
それによって、世尊は言った。
「 〔特定の見解に〕 固着して説く者は、まさに、導くに易き者ではありません。 〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕見解を偏重している者です。それ (自説) に依存する者が、そこにおいて、『美しい(価値がある) 』と説いているなら、彼は、 〔自己だけの〕 清浄を説く者であり、そこにおいて、そのとおり、 〔彼だけの清浄を〕 見たのです」と。
917. (911) 〔真の〕 婆羅門は、 〔正しく〕 究明して、 〔時間の〕 妄想(時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方) に近づきません (輪廻しない・妄想しない) 。見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属 (知識に結縛された者) でもありません。そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って、 〔それらを〕 放捨します⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕 執持するとして。 (17)
「 〔真の〕 婆羅門は、〔正しく〕 究明して、 〔時間の〕妄想に近づきません」とは、「ません」とは、否定 〔の言葉〕 。「婆羅門(ブラーフマナ) 」とは、七つの法 (性質) が拒否された (バーヒタ)ことから、婆羅門となる。……略 ([299-300]参照) ……〔何にも〕 依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門) 』 〔と〕 呼ばれます」〔と〕 。「妄想」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([180]参照)……これが、見解の妄想である。究明は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([167]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。「 〔真の〕 婆羅門は、 〔正しく〕 究明して、 〔時間の〕妄想に近づきません」とは、 〔真の〕婆羅門は、究明して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、「一切の形成 〔作用〕 は、無常である」……「一切の形成 〔作用〕は、苦痛である」……略 ([324]参照) ……「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、究明して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して、あるいは、渇愛の妄想に、あるいは、見解の妄想に、至らず、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「〔真の〕 婆羅門は、 〔正しく〕究明して、 〔時間の〕 妄想に近づきません」。
「見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属 (知識に結縛された者)でもありません」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、見解によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められず、また、その悪しき見解を、真髄〔の観点〕から、信受せず、再帰しない。ということで、「見解に走り行く者ではなく」。「また、知恵の眷属でもありません」とは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、渇愛の眷属を、あるいは、見解の眷属を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属でもありません」。
「そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って」とは、「知って」とは、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である」と……略 ([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「そして、彼は」「知って」。諸々の主義は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての主義である。「凡俗なる」とは、あるいは、多々なる人たち(凡夫たち)によって生まれた、それらの主義、ということで、「凡俗なる」。あるいは、多々にして種々なる人たちによって生まれた、それらの主義、ということで、「凡俗なる」。ということで、「そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って」。
「 〔それらを〕放捨します⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」とは、他者たちは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取し、偏執し、固着する。阿羅漢は、 〔それらを〕 放捨し、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「 〔それらを〕 放捨します⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕 執持するとして」。
それによって、世尊は言った。
「 〔真の〕婆羅門は、 〔正しく〕 究明して、 〔時間の〕 妄想 (時間の型枠・分別妄想・輪廻的あり方)に近づきません (輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知恵の眷属 (知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、凡俗なる諸々の主義を知って、 〔それらを〕放捨します⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」と。
918. (912) 牟尼 (沈黙の聖者) は、ここに、〔この〕 世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じたとして、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、 〔諸々の主義や主張を〕 放捨する者は、彼は、 〔特定の見解に〕 執持する者ではありません⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕 執持するとして。 (18)
「牟尼 (沈黙の聖者)は、ここに、 〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて」とは、「拘束」とは、四つの拘束 (四繋 ) がある。 (1) 強欲〔の思い〕 としての身体の拘束、 (2) 憎悪 〔の思い〕 としての身体の拘束、(3) 戒や掟への偏執としての身体の拘束、 (4) 「これは真理である」という 〔心の〕固着としての身体の拘束である。 (1) 自己の見解にたいする貪欲は、強欲〔の思い〕 としての身体の拘束である。 (2) 他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪 〔の思い〕 としての身体の拘束である。 (3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4) 自己の見解は、「これは真理である」という 〔心の〕 固着としての身体の拘束である。「捨てて」とは、 〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。たとえば、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、執着を〔為して、そののち〕 執着から離れることを為し、 〔最後は〕 破砕するように、まさしく、このように、 〔四つの〕拘束を、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕 拘束を、振り落として、捨てて。「牟尼 (ムニ) 」とは、沈黙 (モーナ)は、知恵と説かれる。……略 ([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕 」〔と〕 。「この 〔世において〕」とは、この見解の……略 ([145]参照)……この人間の世において。ということで、「牟尼は、ここに、 〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて」。
「諸々の論争が生じたとして、 〔特定の〕党派に走り行く者ではありません」とは、諸々の論争が、生じたとして、産出したとして、発現したとして、結実したとして、出現したとして、欲〔の思い〕の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、憤怒の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、迷妄の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、恐怖の境遇に赴いている者たちのなかにいながら、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質) によって、行か 〔ず〕、導かれ 〔ず〕 、運ばれ 〔ず〕、集められない。ということで、「諸々の論争が生じたとして、 〔特定の〕党派に走り行く者ではありません」。
「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、 〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は」とは、「寂静で」とは、貪欲が静まったことから、寂静となった者となり、憤怒が静まったことから、寂静となった者となり、迷妄が静まったことから、寂静となった者となり……略([243]参照)……一切の善ならざる行作が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「寂静で」。「寂静ならざる者たちのなかにいながら」とは、〔心が〕静まっていない者たちのなかにいながら、寂静ならざる者たちのなかにいながら、寂止ならざる者たちのなかにいながら、寂滅ならざる者たちのなかにいながら、安息ならざる者たちのなかにいながら。ということで、「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で」。「〔諸々の主義や主張を〕 放捨する者は、彼は」とは、阿羅漢は、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した者であり、眼によって、形態を見て、まさしく、悦意の者と成らず、失意の者と 〔成ら〕 ず、放捨の者 (愛憎の思いや価値意識に左右されない客観的認識者) として 〔世に〕 住み、気づきと正知の者として 〔世に住む〕。耳によって、音声を聞いて……略 ([886-895]参照) ……〔感官を〕 修めた者となり、 〔死の〕 時を待つ⸺寂静なる者として」 〔と〕。ということで、「寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、 〔諸々の主義や主張を〕放捨する者は、彼は」。
「 〔特定の見解に〕執持する者ではありません⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕執持するとして」とは、他者たちは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取し、偏執し、固着する。阿羅漢は、 〔それらを〕 放捨し、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「 〔特定の見解に〕 執持する者ではありません⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕 執持するとして」。
それによって、世尊は言った。
「牟尼 (沈黙の聖者) は、ここに、 〔この〕世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じたとして、 〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、 〔諸々の主義や主張を〕 放捨する者は、彼は、 〔特定の見解に〕 執持する者ではありません⸺他者たちは、 〔各自の見解に、各人各様に〕 執持するとして」と。
919. (913) 諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい 〔煩悩〕 を作らずにいる者は、欲 〔の思い〕に至る者ではありません⸺また、 〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、 〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、 〔何にも〕 汚されません。(19)
「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい 〔煩悩〕 を作らずにいる者は」とは、諸々の過去の煩悩は、諸々の過去の形態と感受 〔作用〕 と表象 〔作用〕 と諸々の形成〔作用〕 と識知 〔作用〕と説かれる。諸々の過去の形成 〔作用〕 に関して、それらの 〔心の〕 汚れが生起するべくあるとして、それらの 〔心の〕汚れを、捨棄して、捨て去って、遍捨して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「諸々の過去の煩悩を捨棄して」。「諸々の新しい〔煩悩〕 を作らずにいる者は」とは、諸々の新しい 〔煩悩〕 は、諸々の現在の形態と感受 〔作用〕 と表象〔作用〕 と諸々の形成 〔作用〕と識知 〔作用〕 と説かれる。諸々の現在の形成 〔作用〕 に関して、欲 〔の思い〕 を作らずにいる者、愛情〔の思い〕 を作らずにいる者、貪欲 〔の思い〕を、作らずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者。ということで、「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕 を作らずにいる者は」。
「欲 〔の思い〕に至る者ではありません⸺また、 〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません」とは、欲 〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、そして、諸々の党派の法(性質) によって、行か 〔ず〕、導かれ 〔ず〕 、運ばれ 〔ず〕、集められない。ということで、「欲 〔の思い〕 に至る者ではありません」。「また、〔特定の見解に〕 固着して説く者でもありません」とは、「世 〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な 〔思考〕 である」と、 〔特定の見解に〕固着して説く者はない。「世 〔界〕 は、常久ではない。……略([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、 〔特定の見解に〕 固着して説く者ではない。ということで、「欲 〔の思い〕 に至る者ではありません⸺また、 〔特定の見解に〕 固着して説く者でもありません」。
「彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、 〔真の〕慧者です」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、諸々の悪しき見解から、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。「慧者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕 慧者です」。
「自己を難じることなき者は、世において、 〔何にも〕 汚されません」とは、「汚れ」とは、二つの汚れがある。 (1) そして、渇愛の汚れであり、 (2)さらに、見解の汚れである。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の汚れである。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の汚れである。彼の、渇愛の汚れは〔すでに〕 捨棄され、見解の汚れは 〔すでに〕 放棄され、渇愛の汚れが 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の汚れが 〔すでに〕 放棄されたことから、悪所の世において、〔何にも〕 汚されず、人間の世において、 〔何にも〕 汚されず、天の世において、 〔何にも〕汚されず、 〔五つの〕 範疇の世において、 〔何にも〕 汚されず、 〔十八の〕 界域の世において、〔何にも〕 汚されず、 〔十二の認識の〕 場所の世において、 〔何にも〕汚されず、 〔何にも〕 強く汚されず、 〔何にも〕近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「世において、 〔何にも〕 汚されません」。
「自己を難じることなき者」とは、二つの契機によって、自己を難じる。そして、〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから。どのように、そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕為されなかったことから、自己を難じるのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、自己を難じる。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」……略……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」……略([192]参照)……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、自己を難じる。このように、そして、〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、自己を難じる。
さらに、あるいは、「 〔わたしは〕 諸戒における円満成就を為す者として 〔世に〕存していない」と、自己を難じる。「 〔わたしは〕 諸々の 〔感官の〕 機能において門が守られていない者として 〔世に〕 存している」と……。「 〔わたしは〕食について量を知らない者として 〔世に〕 存している」と……。「〔眠らずに〕 起きていることに 〔いまだ〕 専念していない者として 〔世に〕存している」と……。「気づきと正知を 〔いまだ〕 具備していない者として〔世に〕 存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立( 四念住・四念処 ) が〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤( 四正勤 ) が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場 ( 四神足 ) が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能 (五根 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力 ( 五力) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分 (七覚支 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道 (八正道 ・ 八聖道 ) が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が 〔いまだ〕 遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が 〔いまだ〕 捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が 〔いまだ〕 実証されていない」と……。このように、そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、自己を難じる。このように、自己を難じる者となる。〔まさに〕その、この行為を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者は、自己を難じることなき者となる。ということで、「自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕 汚されません」。
それによって、世尊は言った。
「諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕 を作らずにいる者は、欲 〔の思い〕 に至る者ではありません⸺また、 〔特定の見解に〕 固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕 慧者です。自己を難じることなき者は、世において、 〔何にも〕 汚されません」と。
920. (914) あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象) にたいし、敵視という有り方を離れています。彼は、 〔生の〕 重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。 〔時間の〕 妄想ある者ではなく、 〔作為の〕止息ある者ではなく、 〔未来の〕 切望ある者ではありません⸺かくのごとく、世尊は〔語った〕 。 (20)
「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法 (事象)にたいし、敵視という有り方を離れています」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は、悪魔の軍団である。怨恨は……。偽装は……。加虐は……。嫉妬は……。物惜は……。幻惑は……。狡猾は……。強情は……。激昂は……。思量は……。高慢は……。驕慢は……。放逸は……。一切の〔心の〕汚れは……。一切の悪しき行ないは……。一切の懊悩は……。一切の苦悶は……。一切の熱苦は……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。
まさに、このことが、世尊によって説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕 「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二 〔の軍団〕 は、『不満』と説かれる。……略 ([331-334]参照) ……勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、 〔勇士は、それに〕 勝利して、安楽を得る」と。
すなわち、四つの聖者の道 (預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕 汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、彼は、敵視という有り方を離れている者と説かれる。彼は、見られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、聞かれたものにたいし……思われたものにたいし……識られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者である。ということで、「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象) にたいし、敵視という有り方を離れています」。
「彼は、 〔生の〕重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です」とは、「重荷」とは、三つの重荷がある。 (1) 〔五つの〕 範疇の重荷、 (2) 〔心の〕 汚れの重荷、 (3) 行作の重荷である。 (1) どのようなものが、〔五つの〕 範疇の重荷であるのか。結生における、形態、感受 〔作用〕 、表象 〔作用〕 、諸々の形成〔作用〕 、識知 〔作用〕である。これが、 〔五つの〕 範疇の重荷である。 (2) どのようなものが、 〔心の〕汚れの重荷であるのか。貪欲、憤怒、迷妄……略 ([49]参照)……一切の善ならざる行作である。これが、 〔心の〕 汚れの重荷である。(3) どのようなものが、行作の重荷であるのか。功徳ある行作(善果を形成する働き) 、功徳なき行作 (悪果を形成する働き) 、不動の行作 (無色界の禅定を形成する働き) である。これが、行作の重荷である。すなわち、かつまた、〔五つの〕 範疇の重荷が、かつまた、 〔心の〕 汚れの重荷が、かつまた、行作の重荷が、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質) と成ることから、彼は、 〔生の〕 重荷を降ろした者、 〔生の〕 重荷を落とした者、〔生の〕 重荷を下ろした者、 〔生の〕 重荷を等しく下ろした者、 〔生の〕重荷を捨て置いた者、 〔生の〕 重荷を安息した者、と説かれる。
「牟尼 (ムニ)」とは、沈黙 (モーナ) は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、 〔あるがままの〕 観察、正知、 〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。
三つの牟尼の資質がある。 (1) 身体による牟尼の資質、 (2)言葉による牟尼の資質、 (3) 意による牟尼の資質である。 (1) どのようなものが、身体による牟尼の資質であるのか。三種類の身体による悪しき行ない(殺生・偸盗・邪淫)の捨棄が、身体による牟尼の資質である。三種類の身体による善き行ない (不殺生・不偸盗・不邪淫)が、身体による牟尼の資質である。身体という対象についての知恵が、身体による牟尼の資質である。身体の遍知が、身体による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、身体による牟尼の資質である。身体にたいする欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕の捨棄が、身体による牟尼の資質である。身体の形成 〔作用〕 (出息と入息) の止滅である第四の瞑想 (第四禅 )への入定が、身体による牟尼の資質である。これが、身体による牟尼の資質である。
(2)どのようなものが、言葉による牟尼の資質であるのか。四種類の言葉による悪しき行ない (虚偽を説くこと・中傷の言葉・粗暴な言葉・雑駁な虚論)の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。四種類の言葉による善き行ない (虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)が、言葉による牟尼の資質である。言葉という対象についての知恵が、言葉による牟尼の資質である。言葉の遍知が、言葉による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、言葉による牟尼の資質である。言葉にたいする欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕の捨棄が、言葉による牟尼の資質である。言葉の形成 〔作用〕 (思考と想念) の止滅である第二の瞑想 (第二禅 )への入定が、言葉による牟尼の資質である。これが、言葉による牟尼の資質である。
(3)どのようなものが、意による牟尼の資質であるのか。三種類の意による悪しき行ない (強欲・憎悪の心・誤った見解) の捨棄が、意による牟尼の資質である。三種類の意による善き行ない(無欲・憎悪なき心・正しい見解)が、意による牟尼の資質である。心という対象についての知恵が、意による牟尼の資質である。心の遍知が、意による牟尼の資質である。遍知を共具した道が、意による牟尼の資質である。心にたいする欲〔の思い〕 と貪り 〔の思い〕の捨棄が、意による牟尼の資質である。心の形成 〔作用〕 の止滅である表象と感覚の止滅( 想受滅 )への入定が、意による牟尼の資質である。これが、意による牟尼の資質である。
〔そこで、詩偈に言う〕 「身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、 〔三つの〕 牟尼の資質を成就した牟尼を、 〔賢者たちは〕『一切を捨棄する者』と言う。
身体が沈黙し、言葉が沈黙し、意が沈黙し、煩悩なき者を、〔三つの〕 牟尼の資質を成就した牟尼を、 〔賢者たちは〕 『悪しきものが洗い清められた者』と言う」と。
これらの三つの牟尼の資質の法 (性質) を具備した六者の牟尼たちがいる。家ある者たる牟尼たち、家なき者たる牟尼たち、〔いまだ〕 学びある者 (有学 ) たる牟尼たち、 〔もはや〕学ぶことなき者 ( 無学 )たる牟尼たち、独者たる牟尼たち、牟尼たる牟尼たちである。どのような者たちが、家ある者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、家ある者たちであり、〔涅槃の〕 境処が見られ、 〔世尊の〕教えが識知されたなら、これらの者たちが、家ある者たる牟尼たちである。どのような者たちが、家なき者たる牟尼たちであるのか。すなわち、彼らが、出家者たちであり、〔涅槃の〕 境処が見られ、 〔世尊の〕 教えが識知されたなら、これらの者たちが、家なき者たる牟尼たちである。七者の〔いまだ〕 学びある者 (七有学 :預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道) が、〔いまだ〕 学びある者たる牟尼たちである。阿羅漢たちが、 〔もはや〕 学ぶことなき者たる牟尼たちである。独覚 (縁覚・辟支仏 )たちが、独者たる牟尼たちである。牟尼たる牟尼たちは、阿羅漢にして正等覚者たる如来たちと説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕 「迷乱した形態の無知なる者が、 〔ただの〕 沈黙によって、牟尼 (沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、賢者として、 〔あたかも〕秤を掴んでいるかのように、優れているものを 〔正しく〕取って⸺
諸々の悪を遍く避けるなら、彼は、牟尼であり、それによって、彼は、牟尼と〔成る〕 。彼が、世において、 〔善と悪の〕 両者を 〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、 〔彼は〕 『牟尼』 〔と〕 呼ばれる。
かつまた、正しからざる者たちの、かつまた、正しくある者たちの、〔両者の〕 法 (性質)を、内に、さらに、外に、一切の世において 〔あるがままに〕 知って、すなわち、天〔の神々〕 と人間たちに供養される者⸺彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』〔と呼ばれる〕 」と。
「解脱者です」とは、牟尼の、心は、貪欲から、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、心は、憤怒から……心は、迷妄から、解き放たれ、解脱し、善く解脱し……略([410]参照)……心は、一切の善ならざる行作から、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。ということで、「彼は、 〔生の〕 重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です」。
「 〔時間の〕妄想ある者ではなく、 〔作為の〕 止息ある者ではなく、 〔未来の〕 切望ある者ではありません⸺かくのごとく、世尊は 〔語った〕 」とは、「妄想」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、営まず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔時間の〕 妄想ある者ではなく」。「 〔作為の〕 止息の者ではなく」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、 〔欲に〕 染まり (貪欲する) 、七者の〔いまだ〕 学びある者は、善き凡夫と比較して、 〔いまだ〕 至り得ていないものに至り得るために、 〔いまだ〕 到達していないものに到達するために、 〔いまだ〕実証していないものを実証するために、離れ、離去し、離間し、阿羅漢は、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「 〔時間の〕 妄想ある者ではなく、 〔作為の〕止息の者ではなく」。「 〔未来の〕切望ある者ではありません」とは、切望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ)、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。彼の、この切望としての渇愛が、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら、彼は、切望なき者と説かれる。
「世尊 (バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者 (バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛) を滅壊した者、ということで、「世尊」。 〔心の〕 汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法 (教え) の宝を、分けた (バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存 (バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者 (バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ) 、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を分有する者 (バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義 (意味) の味を、法(教え) の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心 (瞑想) を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想( 四禅 ) を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心) を、四つの形態なき 〔行境〕 への入定 (四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱 (八解脱 ) を、八つの征服ある 〔認識の〕 場所 ( 八勝処) を、九つの順次の住への入定 ( 九次第定) を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき( 安般念 ) という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕 の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、 〔その〕 実証となる概念 ( 施設) であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「 〔時間の〕妄想ある者ではなく、 〔作為の〕 止息ある者ではなく、 〔未来の〕 切望ある者ではありません⸺かくのごとく、世尊は 〔語った〕 」。
それによって、世尊は言った。
「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法 (事象) にたいし、敵視という有り方を離れています。彼は、 〔生の〕 重荷を降ろした者、牟尼であり、解脱者です。 〔時間の〕 妄想ある者ではなく、 〔作為の〕止息ある者ではなく、 〔未来の〕 切望ある者ではありません」と⸺かくのごとく、世尊は〔語った〕 。
大きなまとまりの経についての釈示が、第十三となる。
注釈【0】