読み込み中

Internal

MND3 汚れについての八なるものの経についての釈示

翻訳【3】

汚れについての八なるものの経についての釈示

そこで、汚れについての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

786. (780)また、或る者たちは、まさに、 〔憎しみや怒りなどの〕 汚れた意で、〔自己の論を〕 説く。そこで、また、まさに、 〔自説こそが〕 真理 である 〔という、高慢と我執の〕 意で、 〔自己の論を〕 説く。しかしながら、牟尼は、 〔論敵への憎悪と自説への固執から〕 生じた 〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼には、鬱積 〔の思い〕 が、どこにも存在しない。(1)

「また、或る者たちは、まさに、 〔憎しみや怒りなどの〕 汚れた意で、 〔自己の論を〕説く」とは、それらの異教の者 (外道)たちは、汚れた意ある者たちとして、邪悪な意ある者たちとして、 〔他を〕遮る意ある者たちとして、 〔他を〕 激しく遮る意ある者たちとして、〔他を〕 打つ意ある者たちとして、 〔他を〕 打破する意ある者たちとして、 〔他に〕憤懣させられた意ある者たちとして、 〔他に〕激しく憤懣させられた意ある者たちとして、 〔自己の論を〕説き、そして、世尊を、さらに、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕 汚れた意で、 〔自己の論を〕 説く」。

「そこで、また、まさに、 〔自説こそが〕 真理 である 〔という、高慢と我執の〕 意で、 〔自己の論を〕説く」とは、彼らが、それらの異教の者たちに、信を置きながら、信用しながら、信念しながら、真理の意ある者たちとして、真理の表象ある者たちとして、事実の意ある者たちとして、事実の表象ある者たちとして、真実の意ある者たちとして、真実の表象ある者たちとして、あるがままの意ある者たちとして、あるがままの表象ある者たちとして、顛倒なき意ある者たちとして、顛倒なき表象ある者たちとして、〔自己の論を〕説き、そして、世尊を、さらに、比丘の僧団を、事実ならざることによって批判する。ということで、「そこで、また、まさに、〔自説こそが〕 真理である 〔という、高慢と我執の〕 意で、 〔自己の論を〕説く」。

「しかしながら、牟尼は、 〔論敵への憎悪と自説への固執から〕 生じた 〔悪意ある〕論に近づかない」とは、その論が、生じたもの、産出したもの、発現したもの、結実したもの、出現したものとして有り、そして、世尊への、さらに、比丘の僧団への、事実ならざることによる、他者の評判、罵倒、批判として〔有る〕 。ということで、「しかしながら、 〔論敵への憎悪と自説への固執から〕 生じた 〔悪意ある〕論に」。「牟尼は、近づかない」とは、「牟尼 (ムニ) 」とは、沈黙(モーナ) は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([167]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。その知恵を具備した者が、牟尼であり、沈黙に至り得た者である。……略 ([200-209]参照) ……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕。すなわち、論に近づく、彼は、二つの契機によって、論に近づく。 〔悪しき論を〕作り為す者は、 〔悪しき論を〕作り為す者たることによって、論に近づく。さらに、あるいは、 〔論を〕説いているとして、 〔他者によって〕 批判されつつ、 〔他者に〕 激情し、 〔他者に〕 憎悪し、〔他者に〕反抗し、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為す⸺「 〔わたしは、悪しき論を〕 作り為さない者として 〔世に〕存している」と。すなわち、論に近づく、彼は、これらの二つの契機によって、論に近づく。牟尼は、二つの契機によって、論に近づくことがない。〔悪しき論を〕 作り為さない者である牟尼は、 〔悪しき論を〕 作り為さない者たることによって、論に近づくことがない。さらに、あるいは、〔論を〕 説いているとして、 〔他者によって〕 批判されつつ、 〔他者に〕 激情せず、〔他者に〕 憎悪せず、 〔他者に〕反抗せず、そして、激情を、かつまた、憤怒を、さらに、不興を、明らかと為すことがない⸺「 〔わたしは、悪しき論を〕 作り為さない者として 〔世に〕存している」と。牟尼は、これらの二つの契機によって、論に、近づかず、近しく赴かず、収取せず、偏執せず、固着しない。ということで、「しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕 生じた 〔悪意ある〕 論に近づかない」。

「それゆえに、牟尼には、鬱積 〔の思い〕が、どこにも存在しない」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。牟尼には、〔他を〕 打つ心性が 〔存在せず〕、鬱積 〔の思い〕 が生じることもまた存在せず、五つの心の鬱積(覚者と法と僧団と学びと梵行を共にする者たちにたいする心の鬱積)もまた存在せず、三つの心の鬱積もまた存在せず、貪欲の鬱積も、憤怒の鬱積も、迷妄の鬱積も、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「それゆえに、牟尼には、鬱積〔の思い〕 が、どこにも存在しない」。

それによって、世尊は言った。

「また、或る者たちは、まさに、 〔憎しみや怒りなどの〕 汚れた意で、 〔自己の論を〕説く。そこで、また、まさに、 〔自説こそが〕 真理 である 〔という、高慢と我執の〕 意で、 〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、 〔論敵への憎悪と自説への固執から〕 生じた〔悪意ある〕 論に近づかない。それゆえに、牟尼には、鬱積 〔の思い〕 が、どこにも存在しない」と。
787. (781)まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう⸺欲 〔の思い〕に導かれ、好みによって 〔思いが〕 固着した者が。 〔諸々の特定の見解について〕〔それらは〕完全である」 〔と〕 、自ら、 〔執着の思いを〕 作り為している者は、まさに、 〔限定された自己の観点から〕 知るであろう、そのとおりに、そのように、 〔自説を独善的に〕 説くであろう。 (2)

「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」とは、すなわち、それらの異教の者たちが、女性遍歴遊行者のスンダリーを殺して、釈子たる沙門たちの栄誉ならざることを喧伝して、「このように、この利得と盛名と尊敬と敬仰を、〔沙門たちから〕取り戻すのだ」と、彼らが、このような見解ある者たちとなり、このような受認 (信受)ある者たちとなり、このような嗜好 (意欲)ある者たちとなり、このような主張ある者たちとなり、このような志欲ある者たちとなり、このような志向ある者たちとなるとして、彼らは、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、超え行くことができなかった。そこで、まさに、その、盛名ならざる〔悪評〕こそが、彼らに戻り来たものとなる。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。さらに、あるいは、「世〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのように、超え行くというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因とするのか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。「世〔界〕 は、常久ではない。……略……。「世 〔界〕 は、終極がある。……。「世 〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある (生命と肉体は同じものである) 。……。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、すなわち、彼が、このような論ある者であるなら、彼は、自らの見解を、自らの受認を、自らの嗜好を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、どのように、超え行くというのだろう、超越するというのだろう、等しく超越するというのだろう、超克するというのだろう。それは、何を因とするのか。彼の、その見解は、そのように、完全なるものとして、受持され、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたからである。ということで、このようにもまた、「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう」。

「欲 〔の思い〕に導かれ、好みによって 〔思いが〕 固着した者が」とは、「欲〔の思い〕に導かれ」とは、自らの見解によって、自らの受認によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。たとえば、あるいは、象の乗物によって、あるいは、馬の乗物によって、あるいは、牛の乗物によって、あるいは、山羊の乗物によって、あるいは、羊の乗物によって、あるいは、駱駝の乗物によって、あるいは、驢馬の乗物によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められるように、まさしく、このように、自らの見解によって、自らの受認によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、行かされ、導かれ、運ばれ、集められる。ということで、「欲〔の思い〕 に導かれ」。「好みによって 〔思いが〕 固着した者が」とは、自らの見解によって、自らの嗜好によって、自らの主張によって、〔思いが〕 固着した者が、 〔思いが〕 確立した者が、 〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。ということで、「欲 〔の思い〕 に導かれ、好みによって 〔思いが〕固着した者が」。

〔諸々の特定の見解について〕〔それらは〕完全である』 〔と〕 、自ら、 〔執着の思いを〕作り為している者は」とは、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え) は、見事に告げ知らされた 〔教え〕 である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕 道は、善く報知された 〔道〕 である」……。「この 〔聖者の〕 道は、出脱〔の道〕である」と、自ら、完全なるものと為し、円満成就のものと為し、至上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、生じさせ、産出させ、発現させ、結実させる。ということで、「〔諸々の特定の見解について〕〔それらは〕 完全である』 〔と〕 、自ら、〔執着の思いを〕 作り為している者は」。

「まさに、 〔限定された自己の観点から〕 知るであろう、そのとおりに、そのように、 〔自説を独善的に〕説くであろう」とは、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。「世〔界〕 は、常久ではない。……略 ([226]参照)……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、知るであろう、そのとおりに、そのように、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう。ということで、「まさに、〔限定された自己の観点から〕 知るであろう、そのとおりに、そのように、〔自説を独善的に〕 説くであろう」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、どのように、自らの見解を超え行くというのだろう⸺欲〔の思い〕 に導かれ、好みによって 〔思いが〕 固着した者が。 〔諸々の特定の見解について〕〔それらは〕 完全である』 〔と〕 、自ら、 〔執着の思いを〕作り為している者は、まさに、 〔限定された自己の観点から〕知るであろう、そのとおりに、そのように、 〔自説を独善的に〕説くであろう」と。
788. (782)その人が、自己の 〔保持する〕 諸々の戒や掟を、まさしく、 〔他者から〕 尋ねられていないのに、他者たちに説くなら⸺彼が、自己のことを、まさしく、自ら、〔あれこれと〕 説くなら⸺彼のことを、智者たちは、「聖ならざる法(性質) の者」と言う。 (3)

「その人が、自己の 〔保持する〕諸々の戒や掟を」とは、「その」とは、彼が、或る者として、相応するままに、関係するままに、流儀のままに、或る境位に至り得た者として、或る法(性質)を具備した者として⸺あるいは、士族であれ、あるいは、婆羅門であれ、あるいは、庶民であれ、あるいは、隷民であれ、あるいは、在家者であれ、あるいは、出家者であれ、あるいは、天〔の神〕 であれ、あるいは、人間であれ。「諸々の戒や掟を」とは、(1) まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるものが存在する。(2) 掟ではあるが、戒ではないものが存在する。 (1) どのように、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるのか。ここに、比丘が、戒ある者として〔世に〕 有り、戒条 波羅提木叉 :戒律条項) による統御によって統御された者として〔世に〕 住み、 〔正しい〕習行と 〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、 〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処 (戒律)において学ぶ。すなわち、そこにおける、自制、統御、違犯なきことが、これが、戒であり、すなわち、受持することが、それが、掟である。統御の義(意味) によって、戒となり、受持の義 (意味) によって、掟となる。これが、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもある、と説かれる。(2) どのように、掟ではあるが、戒ではないのか。八つの払拭〔行〕 頭陀 の支分がある。林にある者についての支分、 〔行乞の〕 施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者についての支分、 〔決められた時間〕 以後の食を否とする者についての支分、常坐 〔にして不臥〕 なる者についての支分、 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕にある者についての支分である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の活力によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

〔そこで、詩偈に言う〕〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう (横になって寝ない) ⸺渇愛の矢が打破されないうちは」と⸺

心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう⸺すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この坐から出起しないであろう……略……〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう……精舎から出ないであろう……半屋根から出ないであろう……高楼から出ないであろう……楼房から出ないであろう……洞窟から出ないであろう……山窟から出ないであろう……小屋から出ないであろう……楼閣から出ないであろう……見張塔から出ないであろう……円室から出ないであろう……堂舎から出ないであろう……奉仕堂から出ないであろう……天幕から出ないであろう……。「それまで、わたしは、この木の根元から出ないであろう⸺すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。

「まさしく、この、早刻時に、聖なる法 (教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初更(宵の内) に……中更 (真夜中)に……後更 (明け方) に……黒 〔分〕 (月が欠ける期間) に……白〔分〕 (月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期 (青年期) に……中年期(壮年期) に……後年期 (老年期) に、聖なる法 (教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「人(ジャントゥ) が」とは、有情が、人 (ナラ) が、人間 (マーナヴァ)が、人士が、人物が、生ある者が、生に赴く者が、人 (ジャントゥ)が、死に至る者が、マヌから生じる者が。ということで、「その人が、自己の 〔保持する〕諸々の戒や掟を」。

「まさしく、 〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」とは、「他者たちに」とは、他の、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕 たち、人間たちに。「 〔他者から〕尋ねられていないのに」とは、尋ねられていないのに、問われていないのに、乞い求められていないのに、要請されていないのに、清信されていないのに。「説くなら」とは、自己の、あるいは、戒を、あるいは、掟を、あるいは、戒と掟を、説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕 存している」と、あるいは、「掟の成就者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「戒と掟の成就者として 〔世に存している〕」と⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、 〔世に存している〕 」と、あるいは、「諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) の得者として 〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として 〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「法(教え) の言説者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「林にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔行乞の〕施食の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「三つの衣料の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔決められた時間〕以後の食を否とする者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕 なる者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕 にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「虚空無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「無所有なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる 〔認識の〕場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「まさしく、 〔他者から〕 尋ねられていないのに、他者たちに説くなら」。

「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法 (性質) の者』と言う」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、 〔五つの〕 範疇 五蘊 に智ある者たち、 〔十八の〕 界域 十八界 に智ある者たち、 〔十二の認識の〕 場所 十二処 に智ある者たち、縁によって 〔物事が〕 生起する〔道理〕 縁起 :因果の道理) に智ある者たち、 〔四つの〕 気づきの確立 四念住・四念処 に智ある者たち、 〔四つの〕 正しい精励 四正勤 に智ある者たち、 〔四つの〕 神通の足場 四神足 に智ある者たち、 〔五つの〕 機能 五根 に智ある者たち、 〔五つの〕五力 に智ある者たち、 〔七つの〕 覚りの支分 七覚支 に智ある者たち、 〔聖者の〕(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) に智ある者たち、 〔沙門の〕(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように言う。「これは、聖ならざる者たちの法(性質) であり、これは、聖なる者たちの法 (性質) ではなく、これは、愚者たちの法 (性質)であり、これは、賢者たちの法 (性質)ではなく、これは、正なる人士ならざる者たちの法 (性質)であり、これは、正なる人士たちの法 (性質)ではない」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法(性質) の者』と言う」。

「彼が、自己のことを、まさしく、自ら、 〔あれこれと〕 説くなら」とは、自己 (アートゥマン)は、自己 (アッタン) と説かれる。「まさしく、自ら、 〔あれこれと〕 説くなら」とは、自己のことを、まさしく、自ら、 〔あれこれと〕 説く。あるいは、「わたしは、戒の成就者として 〔世に〕 存している」と、あるいは、「掟の成就者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「戒と掟の成就者として 〔世に存している〕」と⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって、あるいは、「高貴なる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「大いなる財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「巨万の財物ある家からの出家者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「在家者と出家者を含む者たちにとって、知名ある者として、盛名ある者として、 〔世に存している〕 」と、あるいは、「諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) の得者として 〔世に〕存している」と、あるいは、「経の専門家として 〔世に存している〕」と、あるいは、「律の保持者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「法(教え) の言説者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「林にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔行乞の〕施食の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「糞掃衣の者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「三つの衣料の者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔決められた時間〕以後の食を否とする者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「常坐〔にして不臥〕 なる者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕 にある者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第一の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第二の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第三の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「第四の瞑想の得者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「虚空無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「識知無辺なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として〔世に存している〕 」と、あるいは、「無所有なる 〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる 〔認識の〕場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、説き、言説し、発語し、提示し、語用する。ということで、「彼が、自己のことを、まさしく、自ら、 〔あれこれと〕 説くなら」。

それによって、世尊は言った。

「その人が、自己の 〔保持する〕 諸々の戒や掟を、まさしく、 〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説くなら⸺彼が、自己のことを、まさしく、自ら、 〔あれこれと〕 説くなら⸺彼のことを、智者たちは、『聖ならざる法 (性質) の者』と言う」と。
789. (783)しかしながら、 〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が、「かくのごとく、わたしは」と、諸々の戒について誇らずにいるなら⸺彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら⸺彼のことを、智者たちは、「聖なる法 (性質)の者」と説く。 (4)

「しかしながら、 〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が」とは、「 〔心が〕寂静となり」とは、貪欲が静められたことから、寂静となった者として、憤怒が静められたことから、寂静となった者として、迷妄が静められたことから、寂静となった者として、忿激忿 が……怨恨 が……偽装 が……加虐 が……嫉妬 が……物惜 が……幻惑 が……狡猾 が……強情 が……激昂 が……思量 が……高慢 過慢 が……驕慢 が……放逸が……一切の 〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作 現行が、静まったことから、静められたことから、寂止されたことから、燃え尽きたことから、寂滅したことから、離れ去ったことから、安息したことから、〔心が〕静まった者となり、寂静となった者となり、寂止した者となり、寂滅した者となり、安息した者となる。ということで、「〔心が〕 寂静となり」。「比丘 (ビック) 」とは、七つの法 (性質) が破壊された(ビンナ) ことから、比丘となる。 (1) 身体を有するという見解 有身見 が、破壊されたものと成り、 (2) 疑惑 〔の思い〕 が、破壊されたものと成り、 (3) 戒や掟への偏執 戒禁取 が、破壊されたものと成り、 (4) 貪欲 が、破壊されたものと成り、 (5) 憤怒 が、破壊されたものと成り、 (6) 迷妄 が、破壊されたものと成り、 (7) 思量 が、破壊されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、破壊されたものと成る。

かくのごとく、世尊は 〔言った〕 「サビヤよ、自己みずから為した 〔実践の〕道によって、完全なる涅槃に至り、疑いを超えた者⸺かつまた、虚無 非有 :無) を、かつまた、実体 :存在) を、 〔両者ともに〕捨棄して、さらなる生存 再有 が滅尽した、〔梵行の〕 完成者⸺彼は、『比丘』 〔と呼ばれます〕 」と。

「しかしながら、 〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が」とは、貪欲が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、憤怒が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、迷妄が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となり、忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……嫉妬が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が寂滅されたことから、自己が寂滅した者となる。ということで、「しかしながら、〔心が〕 寂静となり自己が寂滅した比丘が」。

「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく、わたしは」ということになる。「諸々の戒について誇らずにいるなら」とは、ここに、一部の者は、誇る者と成り、誇示する者と〔成る〕 。彼は、誇り、誇示する。あるいは、「わたしは、戒の成就者として〔世に〕 存している」と、あるいは、「掟の成就者として 〔世に存している〕 」と、あるいは、「戒と掟の成就者として 〔世に存している〕」と⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって……略([237]参照) ……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕 場所への入定の得者として 〔世に存している〕」と、誇り、誇示する。このように、誇らず、誇示せず、誇ることから、誇示することから、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら」。

「彼のことを、智者たちは、『聖なる法 (性質) の者』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、 〔五つの〕 範疇に智ある者たち、 〔十八の〕界域に智ある者たち、 〔十二の認識の〕 場所に智ある者たち、縁によって〔物事が〕 生起する 〔道理〕に智ある者たち、 〔四つの〕 気づきの確立に智ある者たち、 〔四つの〕 正しい精励に智ある者たち、 〔四つの〕神通の足場に智ある者たち、 〔五つの〕 機能に智ある者たち、〔五つの〕 力に智ある者たち、 〔七つの〕 覚りの支分に智ある者たち、 〔聖者の〕道に智ある者たち、 〔沙門の〕果に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、聖なる者たちの法(性質) であり、これは、聖ならざる者たちの法 (性質) ではなく、これは、賢者たちの法 (性質)であり、これは、愚者たちの法 (性質) ではなく、これは、正なる人士たちの法(性質) であり、これは、正なる人士ならざる者たちの法 (性質)ではない」と、このように説く。聖者たちは、彼のことを、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「彼のことを、智者たちは、『聖なる法(性質) の者』と説く」。

「彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩 の滅尽者に。「増長」とは、七つの増長がある。貪欲の増長、憤怒の増長、迷妄の増長、思量の増長、見解の増長、 〔心の〕 汚れ 煩悩 の増長、行為 の増長である。彼に、これらの増長が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕 範疇の世において、 〔十八の〕 界域の世において、 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長〔の思い〕 が、世において、どこにも存在しないなら」。

それによって、世尊は言った。

「しかしながら、 〔心が〕寂静となり自己が寂滅した比丘が、『かくのごとく、わたしは』と、諸々の戒について誇らずにいるなら⸺彼に、 〔貪りや怒りなどの〕 諸々の増長 〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら⸺彼のことを、智者たちは、『聖なる法 (性質)の者』と説く」と。
790. (784) 彼に、〔執着の対象として〕 想い描かれ 〔妄想によって〕 形成された諸々の法 (見解)〔存在し〕〔特別のものとして〕 偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己〔の見解〕 について、福利を見るなら、 〔まさに〕 その、動揺を縁とする 〔虚妄の〕寂静に依存する者である。 (5)

「彼に、 〔執着の対象として〕 想い描かれ 〔妄想によって〕形成された諸々の法 (見解)〔存在し〕 」とは、「妄想 (想い描き)」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、(2) さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の妄想である。「形成された」とは、形成された、行作された、確立された、ということでもまた、「形成された」。さらに、あるいは、無常なるものであり、形成されたもの有為 であり、縁によって生起したもの縁已生 であり、滅尽の法(性質) であり、衰失の法 (性質) であり、離貪の法 (性質) であり、止滅の法(性質)である、ということでもまた、「形成された」。「彼に」とは、悪しき見解ある者に。諸々の法 (見解) は、六十二の悪しき見解と説かれる。ということで、「彼に、 〔執着の対象として〕 想い描かれ 〔妄想によって〕形成された諸々の法 (見解)〔存在し〕 」。

〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」とは、「偏重された」とは、二つの偏重がある。 (1) そして、渇愛の偏重であり、 (2)さらに、見解の偏重である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の偏重である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の偏重である。彼の、渇愛の偏重は〔いまだ〕 捨棄されず、見解の偏重は 〔いまだ〕 放棄されず、彼の、渇愛の偏重が 〔いまだ〕捨棄されていないことから、見解の偏重が 〔いまだ〕放棄されていないことから、彼は、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、 〔世を〕歩む。渇愛を旗とする者として、渇愛を幟とする者として、渇愛を優位とする者として、見解を旗とする者として、見解を幟とする者として、見解を優位とする者として、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕歩む。ということで、「偏重された」。「存在する」とは、存在する、等しく見出される、存する、認知される。「諸々の浄白ならざるもの」とは、諸々の浄白ならざるもの、諸々の清白ならざるもの、諸々の完全なる清浄ならざるもの、諸々の汚染したもの、諸々の汚染あるもの。ということで、「〔特別のものとして〕 偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら」。

「すなわち、自己 〔の見解〕について、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己 〔の見解〕について」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、 〔彼は〕 見る。 (1) そして、所見の法現法 :現世) としての福利であり、(2) さらに、未来のものとしての福利である。 (1) どのようなものが、見解について、所見の法 (現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が 〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが 〔世に〕有る。それを見解とする教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭する。そして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を得る。これが、見解について、所見の法 (現世) としての福利である。 (2)どのようなものが、見解について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、音楽神たることのために、あるいは、〔天の〕 大王たることのために、あるいは、インダ 〔神〕 (インドラ神) たることのために、あるいは、梵〔天〕 (ブラフマー神)たることのために、あるいは、天 〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、 〔わたしは〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来のものとしての福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕 見る、 〔彼は〕視認する、 〔彼は〕 注目する、 〔彼は〕 凝視する、 〔彼は〕近しく注視する。ということで、「すなわち、自己 〔の見解〕について、福利を見るなら」。

〔まさに〕その、動揺を縁とする 〔虚妄の〕 寂静に依存する者である」とは、三つの寂静がある。(1) 究極の寂静、 (2) 特性彼分 の寂静、 (3) 主義 世俗 の寂静である。 (1)どのようなものが、究極の寂静であるのか。究極の寂静は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。これが、究極の寂静である。 (2) どのようなものが、特性の寂静であるのか。第一の瞑想に入定した者には、 〔五つの修行の〕 妨害が、寂静と成る。第二の瞑想に入定した者には、 〔粗雑なる〕 思考と 〔微細なる〕 想念尋伺が、寂静と成る。第三の瞑想に入定した者には、喜悦 が、寂静と成る。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛 楽苦 が、寂静と成る。虚空無辺なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、形態の表象 色想 が、敵対の表象 有対想 :自己に対峙対立する表象) が、種々なる表象 異想 が、寂静と成る。識知無辺なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、虚空無辺なる 〔認識の〕場所の表象が、寂静と成る。無所有なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、識知無辺なる〔認識の〕 場所の表象が、寂静と成る。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕 場所に入定した者には、無所有なる 〔認識の〕 場所の表象が、寂静と成る。これが、特性の寂静である。 (3)どのようなものが、主義の寂静であるのか。諸々の主義の寂静は、六十二の悪しき見解と説かれる。諸々の見解としての寂静である。そして、また、主義の寂静が、この義(意味) において志向された「寂静」ということになる (本偈における「寂静」の意味である) 。「 〔まさに〕その、動揺を縁とする 〔虚妄の〕寂静に依存する者である」とは、動乱の寂静に、強き動乱の寂静に、揺らいでいる寂静に、等しく揺らいでいる寂静に、揺れ動いている寂静に、対立している寂静に、想い描かれた寂静に、妄想された寂静に、無常なるものに、形成されたもの有為 に、縁によって生起したもの縁已生 に、滅尽の法(性質) に、衰失の法 (性質)に、離貪の法 (性質) に、止滅の法 (性質) に、 〔虚妄の〕寂静に、依存する者、強く依存する者、 〔思いが〕付着した者、近しく赴いた者、固執した者、信念した者である。ということで、「 〔まさに〕 その、動揺を縁とする 〔虚妄の〕寂静に依存する者である」。

それによって、世尊は言った。

「彼に、 〔執着の対象として〕 想い描かれ 〔妄想によって〕形成された諸々の法 (見解)〔存在し〕〔特別のものとして〕偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら、すなわち、自己 〔の見解〕について、福利を見るなら、 〔まさに〕 その、動揺を縁とする〔虚妄の〕 寂静に依存する者である」と。
791. (785)まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。諸々の法 (見解)について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して (対象化し特別視して)、それゆえに、人は、それらの 〔妄執が〕 固着する場において、法(見解) を放棄し、かつまた、執取する。 (6)

「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、「諸々の見解にたいする固着」とは、「世 〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な 〔思考〕 である」と、 〔心の〕固着としての偏執であり、見解として 〔妄執が〕 固着する場である。「世〔界〕 は、常久ではない。……略……。「世 〔界〕 は、終極がある。……。「世 〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある (生命と肉体は同じものである) 。……。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、 〔心の〕固着としての偏執であり、見解として 〔妄執が〕固着する場である。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」とは、まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではなく、超克し難きものであり、超え渡り難く、超え登り難く、等しく超越し難く、超克し難い。ということで、「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない」。

「諸々の法 (見解)について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して (対象化し特別視して)」とは、「諸々の法 (見解) について」とは、六十二の悪しき見解について。「〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「 〔執着の対象として〕 執持されたもの」とは、諸々の 〔妄執が〕固着する場における、限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものである。ということで、「諸々の法(見解) について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕判別して」。

「それゆえに、人は、それらの 〔妄執が〕固着する場において」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「人(ナラ) は」とは、有情、人 (ナラ) 、人間 (マーナヴァ) 、人士(ポーサ) 、人物 (プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人 (ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者は。「それらの 〔妄執が〕固着する場において」とは、それらの見解として 〔妄執が〕固着する場において。ということで、「それゆえに、人は、それらの 〔妄執が〕固着する場において」。

「法 (見解)を放棄し、かつまた、執取する」とは、「放棄し」とは、二つの契機によって放棄する。 (1) あるいは、他者による中断によって放棄する。 (2)あるいは、不可能であるとして放棄する。 (1)どのように、他者による中断によって放棄するのか。他者が、中断させる。「その教師は、一切知者にあらず」「 〔その〕(教え) は、見事に告げ知らされた〔教え〕 にあらず」「 〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「 〔その〕 見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕 道は、善く報知された 〔道〕 にあらず」「 〔その聖者の〕 道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕 清らかとなることは、あるいは、 〔人々が〕 清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕 解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕 解脱することは、あるいは、 〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように、他者が中断させる。このように中断させられつつ、教師を放棄し、法(教え) の告知を放棄し、衆徒を放棄し、見解を放棄し、 〔実践の〕 道を放棄し、 〔聖者の〕道を放棄する。このように、他者による中断によって放棄する。 (2)どのように、不可能であるとして放棄するのか。戒 〔の成就〕を不可能であるとして、戒を放棄する。掟 〔の成就〕を不可能であるとして、掟を放棄する。戒と掟 〔の成就〕を不可能であるとして、戒と掟を放棄する。このように、不可能であるとして放棄する。「法 (見解) を」「かつまた、執取する」とは、教師を収取し、法 (教え) の告知を収取し、衆徒を収取し、見解を収取し、 〔実践の〕 道を収取し、 〔聖者の〕道を、収取し、偏執し、固着する。ということで、「法 (見解)を放棄し、かつまた、執取する」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、諸々の見解にたいする固着は、超克し易きものではない。諸々の法(見解) について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕判別して (対象化し特別視して) 、それゆえに、人は、それらの〔妄執が〕 固着する場において、法 (見解) を放棄し、かつまた、執取する」と。
792. (786)まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、 〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた 〔特定の〕 見解は、世において、どこにも存在しない。かつまた、幻惑〔の策略〕 も、かつまた、 〔我想の〕思量 も、 〔両者ともに〕 捨棄して、清き者は、彼は、何によって、 〔迷いの生存に〕 赴くというのだろう。彼は、 〔特定の見解や迷いの生存に〕 近づかない者である。 (7)

「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、 〔あらかじめ断定的に〕 想い描かれた 〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない」とは、「清き者」とは、清きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法(真理)の判別、省察、近察、精察、賢性、巧智、精緻、分明、思弁、近しき注視、英知、思慮、遍く導くもの、 〔あるがままの〕 観察、正知、 〔導きの〕鞭、智慧、智慧の機能、智慧の力、智慧の刃、智慧の高楼、智慧の光明、智慧の光輝、智慧の灯火、智慧の宝、迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、智慧と説かれるのか。その智慧によって、身体による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、言葉による悪しき行ないが……意による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、貪欲が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、憤怒が……略……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、嫉妬が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、物惜が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、幻惑が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、狡猾が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、強情が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。それを契機とすることから、清きは、智慧と説かれる。

さらに、あるいは、正しい見解 正見 によって、誤った見解 邪見が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい思惟 正思惟 によって、誤った思惟 邪思惟が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい言葉 正語 によって、誤った言葉 邪語 が、かつまた、払拭され、かつまた、洗い清められ……略……正しい行業正業 によって、誤った行業邪業が、かつまた、払拭され……正しい生き方 正命 によって、誤った生き方 邪命 が、かつまた、払拭され……正しい努力 正精進 によって、誤った努力 邪精進 が、かつまた、払拭され……正しい気づき 正念 によって、誤った気づき 邪念 が、かつまた、払拭され……正しい禅定正定 によって、誤った禅定邪定が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい知恵 正智 によって、誤った知恵 邪智 が、かつまた、払拭され……正しい解脱 正解脱 によって、誤った解脱 邪解脱が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。

さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道 八正道八聖道によって、一切の 〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照) …… 〔十二の認識の〕 場所の世において。

〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、(2) さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の妄想である。「諸々の種々なる生存にたいし」とは、種々なる生存における、行為の生存 業有 にたいし、さらなる生存 再有 にたいし⸺欲望の生存 欲有における行為の生存にたいし、欲望の生存におけるさらなる生存にたいし、形態の生存 色有における行為の生存にたいし、形態の生存におけるさらなる生存にたいし、形態なき生存 無色有における行為の生存にたいし、形態なき生存におけるさらなる生存にたいし。繰り返す生存 にたいし、繰り返す境遇 にたいし、繰り返す再生にたいし、繰り返す結生にたいし、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体)の発現にたいし。「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、 〔あらかじめ断定的に〕 想い描かれた 〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない」とは、清き者には、そして、諸々の種々なる生存にたいし、想い描かれ、妄想され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は、世において、どこにも、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕 想い描かれた 〔特定の〕 見解は、世において、どこにも存在しない」。

「かつまた、幻惑 〔の策略〕 も、かつまた、〔我想の〕 思量 も、 〔両者ともに〕捨棄して、清き者は」とは、幻惑は、騙しの性行と説かれる。ここに、一部の者は、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、それを隠蔽することを因として、悪しき欲求を作為する。「〔誰も〕 わたしのことを知ってはならない」と求め、「 〔誰も〕 わたしのことを知ってはならない」と思惟し、「 〔誰も〕 わたしのことを知ってはならない」と言葉を語り、「 〔誰も〕わたしのことを知ってはならない」と身体によって勤しむ。すなわち、このような形態の、幻惑、幻惑者たること、誇大、騙すこと、欺き、偽善、欺瞞、秘匿、遍き秘匿、隠蔽、遍き隠蔽、明瞭ならざる行為、公然ならざる行為、隠匿、悪行である。これが、幻惑と説かれる。

「思量 (自他を比較し価値づける心)」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、「わたしは、 〔他者と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、「わたしは、 〔他者に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕 諸々の意に適う形態の得者として 〔世に〕 存している」と、思量を生じさせ、「 〔わたしは〕諸々の意に適う音声の得者として 〔世に〕 存している」と……「〔わたしは〕 諸々の意に適う臭気の得者として 〔世に〕 存している」と……「 〔わたしは〕諸々の意に適う味感の得者として 〔世に〕 存している」と……「〔わたしは〕 諸々の意に適う感触の得者として 〔世に〕 存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就 具足によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、盛名なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。勝る者への「わたしは、〔彼に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、勝る者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼に〕 勝る者として〔世に〕 存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として 〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として〔世に〕 存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕 旗、横柄、心が 〔高慢の〕 幟を欲することである。これが、思量と説かれる。「かつまた、幻惑 〔の策略〕 も、かつまた、 〔我想の〕 思量も、〔両者ともに〕 捨棄して、清き者は」とは、清き者は、かつまた、幻惑〔の策略〕 も、かつまた、 〔我想の〕 思量も、 〔両者ともに〕捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「かつまた、幻惑 〔の策略〕 も、かつまた、 〔我想の〕 思量も、〔両者ともに〕 捨棄して、清き者は」。

「彼は、何によって、 〔迷いの生存に〕 赴くというのだろう。彼は、 〔特定の見解や迷いの生存に〕 近づかない者である」とは、「接近 (近づく者) 」とは、二つの接近がある。 (1)そして、渇愛の接近であり、 (2) さらに、見解の接近である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の接近である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は 〔すでに〕 捨棄され、見解の接近は 〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕 放棄されたことから、 〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人は、どのような貪欲によって、赴くというのだろう、どのような憤怒によって、赴くというのだろう、どのような迷妄によって、赴くというのだろう、どのような思量によって、赴くというのだろう、どのような見解によって、赴くというのだろう、どのような高揚によって、赴くというのだろう、どのような疑惑によって、赴くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、赴くというのだろう⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕 散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者) である」と、あるいは、「強靭に至った者 (頑迷固陋の者) である」と。 〔彼の〕 それらの行作は〔すでに〕 捨棄され、 〔それらの〕 行作が 〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の 〔未来の〕境遇に、何よって、赴くというのだろう⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって〔迷いの生存に〕 赴くであろう、 〔まさに〕 その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「彼は、何によって、〔迷いの生存に〕 赴くというのだろう。彼は、 〔特定の見解や迷いの生存に〕 近づかない者である」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、清き者には、諸々の種々なる生存にたいし、 〔あらかじめ断定的に〕 想い描かれた 〔特定の〕見解は、世において、どこにも存在しない。かつまた、幻惑 〔の策略〕 も、かつまた、〔我想の〕 思量 も、 〔両者ともに〕捨棄して、清き者は、彼は、何によって、 〔迷いの生存に〕 赴くというのだろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕 近づかない者である」と。
793. (787)まさに、 〔執着の対象に〕 近づく者は、諸々の法 (見解) のうち、 〔特定の〕 論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう (彼は、論争の相手にはならない) 。なぜなら、彼には、自己と自己ではないものが、 〔両者ともに〕 存在しないのだから。彼は、まさしく、この 〔世において〕 、一切の見解を払い落としたのだ。 (8)

「まさに、 〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法 (見解) のうち、 〔特定の〕 論に近づく」とは、「接近 (近づく者)」とは、二つの接近がある。 (1) そして、渇愛の接近であり、(2) さらに、見解の接近である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の接近である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は 〔いまだ〕 捨棄されず、見解の接近は 〔いまだ〕放棄されず、渇愛の接近が 〔いまだ〕 捨棄されていないことから、見解の接近が〔いまだ〕 放棄されていないことから、諸々の法 (見解) のうち、 〔特定の〕論に近づく⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。 〔彼の〕 それらの行作は 〔いまだ〕 捨棄されず、〔それらの〕 行作が 〔いまだ〕捨棄されていないことから、 〔未来の〕境遇について、論に近づく⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。〔特定の〕 論に、 〔彼は〕近づく、 〔彼は〕 近しく赴く、 〔彼は〕 収取する、 〔彼は〕 偏執する、〔彼は〕 固着する。ということで、「まさに、 〔執着の対象に〕 近づく者は、諸々の法 (見解) のうち、〔特定の〕 論に近づく」。

〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」とは、「接近 (近づく者)」とは、二つの接近がある。 (1) そして、渇愛の接近であり、(2) さらに、見解の接近である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の接近である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の接近である。彼の、渇愛の接近は 〔すでに〕 捨棄され、見解の接近は 〔すでに〕放棄され、渇愛の接近が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の接近が〔すでに〕 放棄されたことから、 〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない人を、どのような貪欲によって、説くというのだろう、どのような憤怒によって、説くというのだろう、どのような迷妄によって、説くというのだろう、どのような思量によって、説くというのだろう、どのような見解によって、説くというのだろう、どのような高揚によって、説くというのだろう、どのような疑惑によって、説くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、説くというのだろう⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。 〔彼の〕 それらの行作は 〔すでに〕 捨棄され、〔それらの〕 行作が 〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の 〔未来の〕境遇を、何によって、説くというのだろう⸺あるいは、「地獄にある者である」と……略 ([272]参照)……あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、説くであろう、言説するであろう、発語するであろう、提示するであろう、語用するであろう、〔まさに〕 その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。ということで、「〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう」。

「なぜなら、彼には、自己と自己ではないものが、 〔両者ともに〕存在しないのだから」とは、「自己が」とは、自己についての偏った見解が存在しない。「自己ではないものが」とは、断絶の見解が存在しない。「自己が」とは、収め取られたものが存在しない。「自己ではないものが」とは、解き放つべきものが存在しない。彼に、収め取られたものが存在するなら、彼に、解き放つべきものが存在する。彼に、解き放つべきものが存在するなら、彼に、収め取られたものが存在する。阿羅漢は、収め取ることと解き放つことを等しく超越した者であり、増大と衰退を超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者、 〔輪廻の〕 旅程を去った者、 〔涅槃の〕方角に赴いた者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕 。ということで、「なぜなら、彼には、自己と自己ではないものが、 〔両者ともに〕 存在しないのだから」。

「彼は、まさしく、この 〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の悪しき見解を、払い落とした、払拭した、等しく払拭した、振り払った、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。ということで、「彼は、まさしく、この〔世において〕 、一切の見解を払い落としたのだ」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、 〔執着の対象に〕近づく者は、諸々の法 (見解) のうち、 〔特定の〕 論に近づく。 〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕 近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない) 。なぜなら、彼には、自己と自己ではないものが、〔両者ともに〕 存在しないのだから。彼は、まさしく、この 〔世において〕 、一切の見解を払い落としたのだ」と。

汚れについての八なるものの経についての釈示が、第三となる。

注釈【0】