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MND4 清浄についての八なるものの経についての釈示

翻訳【3】

清浄についての八なるものの経についての釈示

そこで、清浄についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。

794. (788)〔わたしは〕見る⸺清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る」 〔と〕、このように、 〔自己の観点で〕 証知しながら、「 〔これこそ〕 最高である」と 〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する (盲信する)(1)

〔わたしは〕見る⸺清浄で、無病で、最高なる者を」とは、「 〔わたしは〕 見る⸺清浄で」とは、〔わたしは〕 見る⸺清浄なる者を、 〔わたしは〕 視認する⸺清浄なる者を、 〔わたしは〕注目する⸺清浄なる者を、 〔わたしは〕 凝視する⸺清浄なる者を、〔わたしは〕近しく注視する⸺清浄なる者を。「無病で、最高なる者を」とは、最高の、無病に至り得た者を、救護所に至り得た者を、避難所に至り得た者を、帰依所に至り得た者を、恐怖なきに至り得た者を、死滅なきに至り得た者を、不死に至り得た者を、涅槃に至り得た者を。ということで、「〔わたしは〕 見る⸺清浄で、無病で、最高なる者を」。

「見られたものによって、人の清浄は有る」とは、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人は、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。ということで、「見られたものによって、人の清浄は有る」。

「このように、 〔自己の観点で〕 証知しながら、『 〔これこそ〕最高である』と 〔自分勝手に〕知って」とは、このように、証知しながら、了知しながら、識知しながら、解知しながら、理解しながら。「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このように、〔自己の観点で〕 証知しながら、『 〔これこそ〕 最高である』と 〔自分勝手に〕知って」。

「清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する (盲信する) 」とは、彼が、清浄を見るなら、彼は、清浄を随観する者である。「知恵を信受する」とは、眼の識知〔作用〕 による形態を見ることによって、「知恵である」と信受する、「道(マッガ) である」と信受する、「道 (パタ) である」と信受する、「出脱 〔の道〕である」と信受する。ということで、「清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する」。

それによって、世尊は言った。

「『 〔わたしは〕見る⸺清浄で、無病で、最高なる者を。見られたものによって、人の清浄は有る』 〔と〕、このように、 〔自己の観点で〕 証知しながら、『 〔これこそ〕 最高である』と 〔自分勝手に〕知って、清浄を随観する者は、かくのごとく、知恵を信受する (盲信する)」と。
795. (789)もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、依り所 (依存の対象) を有する者であり、 〔自己ではない〕他のものによって清まる 〔ことになる〕 。なぜなら、 〔他のものである、彼の〕 見解は、彼のことを、そのように 〔形だけで〕 説いている者と、 〔自ら〕 説くからである。(2)

「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人に、清らかさが、清浄が、完全なる清浄が、解き放ちが、解脱が、完全なる解脱が、有り、人が、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するなら。ということで、「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら」。

「あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」とは、もし、眼の識知〔作用〕による形態を見ることによって、人が、生の苦しみを捨棄し、老の苦しみを捨棄し、病の苦しみを捨棄し、死の苦しみを捨棄し、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみを捨棄するなら。ということで、「あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら」。

「彼は、依り所 (依存の対象) を有する者であり、 〔自己ではない〕他のものによって清まる 〔ことになる〕 」とは、 〔四つの〕 気づきの確立より他の、 〔四つの〕正しい精励より他の、 〔四つの〕 神通の足場より他の、 〔五つの〕 機能より他の、 〔五つの〕 力より他の、〔七つの〕 覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、〔それらとは〕 他のものである、清浄ならざる道によって、誤った〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、人は、清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する〔ことになる〕。「依り所を有する者」とは、貪欲を有する者、憤怒を有する者、迷妄を有する者、渇愛を有する者、見解を有する者、 〔心の〕 汚れを有する者、執取を有する者。ということで、「彼は、依り所を有する者であり、〔自己ではない〕 他のものによって清まる 〔ことになる〕 」。

「なぜなら、 〔他のものである、彼の〕 見解は、彼のことを、そのように 〔形だけで〕 説いている者と、 〔自ら〕説くからである」とは、まさしく、その見解が、その人のことを説く。「まさしく、かくのごとく、この人は、誤った見解ある者である、転倒した見ある者である」〔と〕 。「そのように 〔形だけで〕 説いている者と」とは、そのように 〔形だけで〕 、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、そのように 〔形だけで〕 、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。「世〔界〕 は、常久ではない。……略……。「世 〔界〕 は、終極がある。……。「世 〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある (生命と肉体は同じものである) 。……。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と、そのように 〔形だけで〕、説いている者と、言説している者と、発語している者と、提示している者と、語用している者と。ということで、「なぜなら、〔他のものである、彼の〕 見解は、彼のことを、そのように 〔形だけで〕 説いている者と、 〔自ら〕説くからである」。

それによって、世尊は言った。

「もし、見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、知恵によって、彼が苦を捨棄するなら、彼は、依り所 (依存の対象) を有する者であり、 〔自己ではない〕他のものによって清まる 〔ことになる〕 。なぜなら、 〔他のものである、彼の〕 見解は、彼のことを、そのように 〔形だけで〕 説いている者と、 〔自ら〕説くからである」と。
796. (790)見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、 〔真の〕 婆羅門 (人格完成者) は、「〔事実ならざる〕 他のものである」と 〔見て〕 、清浄を言わない。かつまた、善 (功徳)についても、かつまた、悪 (功徳なきもの) についても、 〔両者ともに〕 汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この 〔世において〕〔執着の思いを〕 作り為さずにいる。(3)

「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、 〔真の〕 婆羅門 (人格完成者) は、『〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕 、清浄を言わない」とは、「ない」とは、否定 〔の言葉〕 。「婆羅門 (ブラーフマナ) 」とは、七つの法(性質) が拒否された (バーヒタ) ことから、婆羅門となる。 (1)身体を有するという見解 有身見が、拒否されたものと成り、 (2) 疑惑 〔の思い〕 が、拒否されたものと成り、 (3) 戒や掟への偏執 戒禁取 が、拒否されたものと成り、 (4) 貪欲 が、拒否されたものと成り、 (5) 憤怒 が、拒否されたものと成り、 (6) 迷妄 が、拒否されたものと成り、 (7) 思量 が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) にして、諸々の 〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。

かくのごとく、世尊は 〔言った〕 「サビヤよ、一切の悪しき 〔行為〕を拒否して、 〔世俗の〕 垢を離れ、 〔心が〕 善くしっかりと定められ、自己を安立した者⸺彼は、輪廻を超え行って、全一者となります⸺〔何にも〕 依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門)〔と〕 呼ばれます」と。

〔真の〕 婆羅門(人格完成者) は、『 〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕、清浄を言わない」とは、 〔四つの〕 気づきの確立より他の、〔四つの〕 正しい精励より他の、 〔四つの〕 神通の足場より他の、 〔五つの〕機能より他の、 〔五つの〕 力より他の、 〔七つの〕 覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、 〔それらとは〕 他のものである、清浄ならざる道によって、誤った 〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「〔真の〕 婆羅門は、『 〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕、清浄を言わない」。

「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、或る沙門や婆羅門たちで、見られたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、一部の〔特定の〕 諸形態を見ることを、幸福と信受し、一部の 〔特定の〕諸形態を見ることを、不幸と信受する。どのような諸形態を見ることを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸形態を見る。チャータカ鳥を見る、珍重なるヴェールヴァ〔樹〕の新芽を見る、妊婦を見る、童子を肩に乗せて赴く者を見る、満ちた鉢を見る、赤魚を見る、良馬を見る、良馬の車を見る、雄牛を見る、褐色の牛を見る。このような形態の諸形態を見ることを、幸福と信受する。どのような諸形態を見ることを、不幸と信受するのか。籾殻の山を見る、酪の鉢を見る、空の鉢を見る、芸人を見る、裸の沙門を見る、驢馬を見る、驢馬の乗物を見る、一結の乗物を見る、片目を見る、手萎えを見る、足萎えを見る、半身不随を見る、老いた者を見る、病んだ者を見る、死んだ者を見る。このような形態の諸形態を見ることを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、見られたものを清浄とする者たちである。彼らは、見られたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

或る沙門や婆羅門たちで、聞かれたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、一部の〔特定の〕 諸音声を聞くことを、幸福と信受し、一部の 〔特定の〕諸音声を聞くことを、不幸と信受する。どのような諸音声を聞くことを、幸福と信受するのか。彼らは、早朝に出起して、幸福の在り方をした諸音声を聞く。あるいは、「繁栄」と、あるいは、「繁栄中」と、あるいは、「円満」と、あるいは、「珍重」と、あるいは、「無憂」と、あるいは、「悦意」と、あるいは、「善星」と、あるいは、「善福」と、あるいは、「吉祥」と、あるいは、「吉祥の繁栄」と。このような形態の諸音声を聞くことを、幸福と信受する。どのような諸音声を聞くことを、不幸と信受するのか。あるいは、「片目」と、あるいは、「手萎え」と、あるいは、「足萎え」と、あるいは、「半身不随」と、あるいは、「老いた者」と、あるいは、「病んだ者」と、あるいは、「死んだ者」と、あるいは、「切断」と、あるいは、「破壊」と、あるいは、「焼失」と、あるいは、「消失」と、あるいは、「非存」と。このような形態の諸音声を聞くことを、不幸と信受する。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、聞かれたものを清浄とする者たちである。彼らは、聞かれたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。沙門のムンディカープッタは、このように言う。「家長よ、まさに、わたしは、四つの法(性質)を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の至り得るべきものに至り得た、 〔誰も〕 太刀打ちできない沙門と、 〔世に〕知らしめる。どのような四つによって、であるのか。家長よ、ここに、身体によって、悪しき行為を為さず、悪しき言葉を語らず、悪しき思惟を思惟せず、悪しき生き方を生きない。家長よ、まさに、わたしは、これらの四つの法(性質)を具備した者を、人士たる人にして、善を成就し、最高の善ある、最上の至り得るべきものに至り得た、 〔誰も〕 太刀打ちできない沙門と、 〔世に〕 知らしめる」〔と〕。まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、戒を清浄とする者たちが存在し、彼らは、戒のみによって、自制のみによって、統御のみによって、違犯なきことのみによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

或る沙門や婆羅門たちで、掟を清浄とする者たちが存在し、彼らは、あるいは、象の掟ある者 (象の行動を自らに課す者)たちと成り、あるいは、馬の掟ある者たちと成り、あるいは、牛の掟ある者たちと成り、あるいは、山犬の掟ある者たちと成り、あるいは、烏の掟ある者たちと成り、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕 の掟ある者たちと成り、あるいは、バラデーヴァ 〔力士〕 の掟ある者たちと成り、あるいは、プンナバッダ 〔夜叉〕 の掟ある者たちと成り、あるいは、マニバッダ 〔夜叉〕の掟ある者たちと成り、あるいは、祭火の掟ある者たちと成り、あるいは、龍の掟ある者たちと成り、あるいは、金翅鳥の掟ある者たちと成り、あるいは、夜叉の掟ある者たちと成り、あるいは、阿修羅の掟ある者たちと成り、あるいは、音楽神の掟ある者たちと成り、あるいは、〔天の〕 大王の掟ある者たちと成り、あるいは、月 〔の神〕 の掟ある者たちと成り、あるいは、日 〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、インダ 〔神〕 (インドラ神) の掟ある者たちと成り、あるいは、梵 〔天〕(ブラフマー神) の掟ある者たちと成り、あるいは、天 〔の神〕の掟ある者たちと成り、あるいは、方角の掟ある者たちと成る。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、掟を清浄とする者たちである。彼らは、掟よって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。

或る沙門や婆羅門たちで、思われたものを清浄とする者たちが存在し、彼らは、早朝に出起して、地を撫で、緑地を撫で、牛糞を撫で、亀を撫で、鋤先を踏み、胡麻の荷を撫で、珍重なる胡麻を咀嚼し、珍重なる油を塗布し、珍重なる楊枝を咀嚼し、珍重なる粘土によって沐浴し、珍重なる衣を着衣し、珍重なる頭巾を巻く。これらの者たちが、それらの沙門や婆羅門たちであり、思われたものを清浄とする者たちである。彼らは、思われたものによって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、信受する。ということで、「〔真の〕 婆羅門は、『 〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕、清浄を言わない」。

「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて」とは、 〔真の〕婆羅門は、見られたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、聞かれたものとしての清浄についてもまた、清浄を言わず、戒としての清浄についてもまた、清浄を言わず、掟としての清浄についてもまた、清浄を言わず、思われたものとしての清浄についてもまた、清浄を、言わず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、〔真の〕 婆羅門は、『 〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕、清浄を言わない」。

「かつまた、善 (功徳)についても、かつまた、悪 (功徳なきもの) についても、 〔両者ともに〕 汚されない者は」とは、功徳 (善)は、それが何であれ、三つの界域 三界のもので、功徳ある行作と説かれる。功徳なき (悪)は、一切の善ならざるものと説かれる。すなわち、かつまた、功徳ある行作 (善果を形成する働き) も、かつまた、功徳なき行作 (悪果を形成する働き) も、かつまた、不動の行作 (無色界の禅定を形成する働き) も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ 〔樹〕 (切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)と成ることから、このことから、かつまた、善についても、かつまた、悪についても、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「かつまた、善についても、かつまた、悪についても、〔両者ともに〕 汚されない者は」。

「自己を捨棄する者であり、この 〔世において〕〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、「自己を捨棄する者」とは、自己の見解を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、収取を捨棄する者。「自己を捨棄する者」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものが、その全てが、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものと成る。「この〔世において〕〔執着の思いを〕作り為さずにいる」とは、あるいは、功徳ある行作を、あるいは、功徳なき行作を、あるいは、不動の行作を、為さずにいる者、生じさせずにいる者、産出させずにいる者、発現させずにいる者、結実させずにいる者。ということで、「自己を捨棄する者であり、この〔世において〕〔執着の思いを〕 作り為さずにいる」。

それによって、世尊は言った。

「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、 〔真の〕 婆羅門 (人格完成者) は、『〔事実ならざる〕 他のものである』と 〔見て〕 、清浄を言わない。かつまた、善 (功徳)についても、かつまた、悪 (功徳なきもの) についても、 〔両者ともに〕 汚されない者は、自己を捨棄する者であり、この 〔世において〕〔執着の思いを〕作り為さずにいる」と。
797. (791) 前の〔教師や教義〕 を捨棄して、他の 〔教師や教義〕 に依存する者たち⸺動揺 〔の思い〕に従い行く彼らは、 〔自らの〕 執着 〔の思い〕 を超えない。彼らは、 〔特定の何かを、執着の対象として〕 執持し、 〔排除の対象として〕 放棄する⸺猿が、枝を掴んでは放つようなもの。 (4)

「前の 〔教師や教義〕を捨棄して、他の 〔教師や教義〕に依存する者たち」とは、前の教師を捨棄して、他の教師に依存する者たち、前の法 (教え) の告知を捨棄して、他の法 (教え)の告知に依存する者たち、前の衆徒を捨棄して、他の衆徒に依存する者たち、前の見解を捨棄して、他の見解に依存する者たち、前の〔実践の〕 道を捨棄して、他の 〔実践の〕 道に依存する者たち、前の 〔聖者の〕道を捨棄して、他の 〔聖者の〕 道に、依存する者たち、等しく依存する者たち、〔思いが〕付着した者たち、近しく赴いた者たち、固執した者たち、信念した者たち。ということで、「前の 〔教師や教義〕 を捨棄して、他の 〔教師や教義〕に依存する者たち」。

「動揺 〔の思い〕に従い行く彼らは、 〔自らの〕 執着 〔の思い〕 を超えない」とは、動揺は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲(ローバ) 、善ならざるものの根元である。「動揺 〔の思い〕 に従い行く」とは、動揺 〔の思い〕に従い行く者たち、動揺 〔の思い〕 に従い行った者たち、動揺〔の思い〕 に添着した者たち、動揺 〔の思い〕 によって、倒され、打ち倒され、征服され、心が完全に奪い去られた者たち。「彼らは、〔自らの〕 執着 〔の思い〕を超えない」とは、貪欲の執着を、憤怒の執着を、迷妄の執着を、思量の執着を、見解の執着を、 〔心の〕汚れの執着を、悪しき行ないの執着を、超え渡らず、超え上がらず、超え登らず、等しく超越せず、超克しない。ということで、「動揺〔の思い〕 に従い行く彼らは、 〔自らの〕 執着 〔の思い〕 を超えない」。

「彼らは、 〔特定の何かを、執着の対象として〕 執持し、 〔排除の対象として〕 放棄する」とは、 〔或る〕教師を収め取り、それを解き放って、他の教師を収め取る。 〔或る〕(教え) の告知を収め取り、それを解き放って、他の法 (教え) の告知を収め取る。 〔或る〕衆徒を収め取り、それを解き放って、他の衆徒を収め取る。 〔或る〕見解を収め取り、それを解き放って、他の見解を収め取る。 〔或る実践の〕道を収め取り、それを解き放って、他の 〔実践の〕 道を収め取る。〔或る聖者の〕 道を収め取り、それを解き放って、他の 〔聖者の〕道を収め取る。かつまた、収め取り、かつまた、解き放つ、かつまた、執取し、かつまた、放棄する。ということで、「彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕 執持し、 〔排除の対象として〕 放棄する」。

「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」とは、たとえば、猿が、林や森のなかを歩みつつ、 〔或る〕枝を掴み、それを放って、他の枝を掴むように、まさしく、このように、多々なる沙門や婆羅門たちは、多々なる悪しき見解を、かつまた、収め取り、かつまた、解き放つ、かつまた、執取し、かつまた、放棄する。ということで、「猿が、枝を掴んでは放つようなもの」。

それによって、世尊は言った。

「前の 〔教師や教義〕を捨棄して、他の 〔教師や教義〕 に依存する者たち⸺動揺 〔の思い〕 に従い行く彼らは、 〔自らの〕 執着〔の思い〕 を超えない。彼らは、 〔特定の何かを、執着の対象として〕 執持し、 〔排除の対象として〕 放棄する⸺猿が、枝を掴んでは放つようなもの」と。
798. (792)諸々の掟を、自ら受持して、人は、 〔特定の〕 表象 :概念・心象) に執着し、 〔迷いのままに〕 高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法 (真理) を行知して、広き智慧ある者となり、高下に赴かない。 (5)

「諸々の掟を、自ら受持して、人は」とは、「自ら (サヤン) 受持して」とは、自ら (サーマン)受持して。「諸々の掟を」とは、あるいは、象の掟を、あるいは、馬の掟を、あるいは、牛の掟を、あるいは、山犬の掟を、あるいは、烏の掟を、あるいは、ヴァースデーヴァ〔力士〕 の掟を、あるいは、バラデーヴァ 〔力士〕 の掟を、あるいは、プンナバッダ 〔夜叉〕の掟を、あるいは、マニバッダ 〔夜叉〕の掟を、あるいは、祭火の掟を、あるいは、龍の掟を、あるいは、金翅鳥の掟を、あるいは、夜叉の掟を、あるいは、阿修羅の掟を……略([305]参照)……あるいは、方角の掟を、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して。「人 (ジャントゥ) 」とは、有情、人 (ナラ) ……略([10]参照)……マヌから生じる者。ということで、「諸々の掟を、自ら受持して、人は」。

〔特定の〕 表象 に執着し、 〔迷いのままに〕 高下に赴く」とは、教師から教師へと赴く。法 (教え) の告知から法 (教え)の告知へと赴く。衆徒から衆徒へと赴く。見解から見解へと赴く。 〔実践の〕 道から〔実践の〕 道へと赴く。 〔聖者の〕 道から 〔聖者の〕 道へと赴く。「〔特定の〕表象に執着し」とは、欲望の表象に、憎悪の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し (サッタ) 、強く執着し (ヴィサッタ) 、近く執着し(アーサッタ)、居着き、付着し、障害となっている。たとえば、あるいは、壁の釘に、あるいは、吊り鉤に、物品が、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっているように、まさしく、このように、欲望の表象に、憎悪の表象に、悩害の表象に、見解の表象に、執着し、強く執着し、近く執着し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「〔特定の〕 表象に執着し、 〔迷いのままに〕 高下に赴く」。

「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法 (真理)を行知して」とは、「知ある者」とは、知ある者、明知に至った者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「諸々の知によって」とは、諸々の知は、四つの〔聖者の〕(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) における、知恵 、智慧 慧・般若 、智慧の機能 慧根 、智慧の力 慧力 、法 (真理)の判別という正覚の支分 択法覚支〔あるがままの〕 考察、 〔あるがままの〕 観察 毘鉢舎那・観 :観察瞑想) 、正しい見解 正見、と説かれる。それらの知によって、生と老と死の、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者、極限に至った者、極限に至り得た者、完成に至った者、完成に至り得た者、救護所に至った者、救護所に至り得た者、避難所に至った者、避難所に至り得た者、帰依所に至った者、帰依所に至り得た者、恐怖なきに至った者、恐怖なきに至り得た者、死滅なきに至った者、死滅なきに至り得た者、不死に至った者、不死に至り得た者、涅槃に至った者、涅槃に至り得た者。あるいは、諸々の知の、終極に至った者、ということで、〔真の〕知に至る者となり、あるいは、諸々の知によって、終極に至った者、ということで、 〔真の〕 知に至る者となり、あるいは、七つの法 (性質)が知られたことから、 〔真の〕 知に至る者となる。 (1) 身体を有するという見解 有身見 が、知られたものと成り、 (2) 疑惑 〔の思い〕 が、知られたものと成り、 (3) 戒や掟への偏執 戒禁取 が、知られたものと成り、 (4) 貪欲 が、知られたものと成り、 (5) 憤怒 が、知られたものと成り、 (6) 迷妄 が、知られたものと成り、 (7) 思量 が、知られたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) にして、諸々の〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、知られたものと成る。

かくのごとく、世尊は 〔言った〕 「サビヤよ、この 〔世において〕 、それら〔の知〕 が、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものとして〔存しようが〕 、知 (ヴェーダ)の全部を 〔あるがままに〕 弁別して、一切の感受 (ヴェーダナー) について貪欲を離れた者⸺彼は、一切の知を超え行って、『 〔真の〕 知に至る者 (ヴェーダグー)〔と呼ばれます〕 」と。

「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法 (真理) を行知して」とは、法 (真理)を、行知して、知悉して。「一切の形成 〔作用〕 は、無常である諸行無常 」と、法(真理) を、行知して、知悉して。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である 一切皆苦 」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「一切の法(事象) は、無我である 諸法無我 」と、法 (真理)を、行知して、知悉して。「無明という縁あることから、諸々の形成 〔作用〕諸行 がある」と、法(真理) を、行知して、知悉して。「諸々の形成 〔作用〕 という縁あることから、識知 〔作用〕 がある」と、法(真理) を、行知して、知悉して。「識知 〔作用〕 という縁あることから、名前と形態 名色 がある」と……。「名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕 場所 六処 がある」と……。「六つの 〔認識の〕 場所という縁あることから、接触 がある」と……。「接触という縁あることから、感受 がある」と……。「感受という縁あることから、渇愛がある」と……。「渇愛という縁あることから、執取 がある」と……。「執取という縁あることから、生存 がある」と……。「生存という縁あることから、生 がある」と……。「生という縁あることから、老と死老死 がある」と、法(真理) を、行知して、知悉して。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕 の止滅がある」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「諸々の形成 〔作用〕の止滅あることから、識知 〔作用〕 の止滅がある」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「識知 〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある」と……。「名前と形態の止滅あることから、六つの 〔認識の〕 場所の止滅がある」と……。「六つの 〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある」と……。「接触の止滅あることから、感受の止滅がある」と……。「感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある」と……。「渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある」と……。「執取の止滅あることから、生存の止滅がある」と……。「生存の止滅あることから、生の止滅がある」と……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、法(真理) を、行知して、知悉して。「これは、苦しみである」と、法(真理)を、行知して、知悉して。「これは、苦しみの集起である」と……。「これは、苦しみの止滅である」と……。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕 道である」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「これらは、諸々の煩悩 である」と、法 (真理)を、行知して、知悉して。「これは、諸々の煩悩の集起である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅である」と……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕 道である」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「これらの法 (性質)は、証知されるべきである」と、法 (真理) を、行知して、知悉して。「これらの法(性質) は、遍知されるべきである」と……。「これらの法 (性質) は、捨棄されるべきである」と……。「これらの法 (性質) は、修行されるべきである」と……。「これらの法 (性質) は、実証されるべきである」と、法 (真理)を、行知して、知悉して。六つの接触ある 〔認識の〕 場所 六触処 :眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法 (真理) として、行知して、知悉して。五つの 〔心身を構成する〕 執取の範疇 五取蘊 :色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法 (真理) として、行知して、知悉して。四つの大いなる元素 四大種 :地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、法 (真理) として、行知して、知悉して。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、法 (真理)を、行知して、知悉して。ということで、「しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法 (真理) を行知して」。

「広き智慧ある者となり、高下に赴かない」とは、教師から教師へと赴かない。法(教え) の告知から法 (教え)の告知へと赴かない。衆徒から衆徒へと赴かない。見解から見解へと赴かない。 〔実践の〕道から 〔実践の〕 道へと赴かない。 〔聖者の〕 道から 〔聖者の〕道へと赴かない。「広き智慧ある者」とは、広き智慧ある者、大いなる智慧ある者、多々なる智慧ある者、敏速なる智慧ある者、疾走する智慧ある者、鋭敏なる智慧ある者、洞察の智慧ある者。広きは、地と説かれる。その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した者。ということで、「広き智慧ある者となり、高下に赴かない」。

それによって、世尊は言った。

「諸々の掟を、自ら受持して、人は、 〔特定の〕 表象 :概念・心象) に執着し、 〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法 (真理)を行知して、広き智慧ある者となり、高下に赴かない」と。
799. (793)あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法 (事象) にたいし、敵視という有り方を離れている。このように見る者である彼を、 〔迷妄の覆いが〕 開かれた者として 〔世を〕歩んでいる者を、ここに、 〔この〕 世において、 〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう (執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)(6)

「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法 (事象)にたいし、敵視という有り方を離れている」とは、敵は、悪魔の軍団と説かれる。身体による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。言葉による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。意による悪しき行ないは、悪魔の軍団である。貪欲は、悪魔の軍団である。憤怒は、悪魔の軍団である。迷妄は、悪魔の軍団である。忿激は、悪魔の軍団である。怨恨は……略([49]参照) ……。一切の善ならざる行作は、悪魔の軍団である。

まさに、このことが、世尊によって説かれた。

〔そこで、詩偈に言う〕「おまえの第一の軍団は、『欲望』であり、第二 〔の軍団〕は、『不満』と説かれる。おまえの第三 〔の軍団〕 は、『飢えと渇き』であり、第四〔の軍団〕 は、『渇愛』と呼ばれる。

おまえの第五 〔の軍団〕は、『 〔心の〕 沈滞と眠気』であり、第六 〔の軍団〕 は、『恐怖』と呼ばれる。おまえの第七 〔の軍団〕 は、『疑惑』であり、おまえの第八 〔の軍団〕は、『偽装と強情』である。

利得、名声、尊敬は、さらに、すなわち、誤って得られた盛名も、そして、それが、自己を褒め上げ、さらに、他者たちを見下すとして⸺

ナムチ (悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者 (悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利せず、しかしながら、 〔勇士は、それに〕勝利して、安楽を得る」と。

すなわち、四つの聖者の道 (預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) によって、そして、一切の悪魔の軍団が、さらに、一切の敵視を為す〔心の〕 汚れが、そして、敗れ、さらに、敗北し、滅壊し、破滅し、背面した(非在化した)ことから、彼は、敵視という有り方を離れている者と説かれる。彼は、見られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、聞かれたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、思われたものにたいし、敵視という有り方を離れている者であり、識られたものにたいし、敵視という有り方を離れている者である。ということで、「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法(事象) にたいし、敵視という有り方を離れている」。

「このように見る者である彼を、 〔迷妄の覆いが〕 開かれた者として 〔世を〕歩んでいる者を」とは、まさしく、その、清らかな見ある者を、清浄の見ある者を、完全なる清浄の見ある者を、清白の見ある者を、完全なる清白の見ある者を。さらに、あるいは、清らかな見を、清浄の見を、完全なる清浄の見を、清白の見を、完全なる清白の見を。「〔迷妄の覆いが〕 開かれた者として」とは、渇愛の覆い、見解の覆い、〔心の〕汚れの覆い、悪しき行ないの覆い、無明の覆いがあり、それらの覆いが、開かれ、砕破され、撤去され、等しく撤去され、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものと成る。「〔世を〕 歩んでいる者を」とは、 〔世を〕 歩んでいる者を、 〔世を〕 行じ歩んでいる者を、〔世に〕 住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、〔行ないを〕 守っている者を、 〔身を〕 保っている者を、 〔身を〕保ち行っている者を。ということで、「このように見る者である彼を、 〔迷妄の覆いが〕開かれた者として 〔世を〕 歩んでいる者を」。

「ここに、 〔この〕世において、 〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想(想い描き) 」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕 散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者(疑惑者) である」と、あるいは、「強靭に至った者 (頑迷固陋の者) である」と。 〔彼の〕 それらの行作は〔すでに〕 捨棄され、 〔それらの〕 行作が 〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の 〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において、人間の世において、天の世において、〔五つの〕 範疇の世において、 〔十八の〕 界域の世において、 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「ここに、 〔この〕 世において、〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう」。

それによって、世尊は言った。

「あるいは、見られたもの、聞かれたもの、あるいは、思われたもの、それが何であれ、彼は、一切の法 (事象) にたいし、敵視という有り方を離れている。このように見る者である彼を、 〔迷妄の覆いが〕 開かれた者として 〔世を〕歩んでいる者を、ここに、 〔この〕 世において、 〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう (執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。
800. (794)〔特定の何かを〕 想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず、彼ら (智慧ある者たち)は、「 〔これこそ〕 究極の清浄である」と説かない。 〔執着の思いで〕 拘束された執取の拘束 (執着の対象)を捨てて、世において、どこにも、 〔自分勝手な〕 願望を作らない。(7)

〔特定の何かを〕想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず」とは、「妄想 (想い描き) 」とは、二つの妄想がある。 (1)そして、渇愛の妄想であり、 (2) さらに、見解の妄想である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の妄想である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は 〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の妄想が〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔特定の何かを〕 想い描かず」。「 〔特定の何かを〕 偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。 (1) そして、渇愛の偏重であり、 (2)さらに、見解の偏重である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の偏重である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は〔すでに〕 捨棄され、見解の偏重は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の偏重が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の偏重が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、 〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位とする者たちではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕 歩むことはない。ということで、「 〔特定の何かを〕 想い描かず、 〔特定の何かを〕偏重せず」。

「彼ら (智慧ある者たち)は、『 〔これこそ〕 究極の清浄である』と説かない」とは、究極の清浄を、輪廻の清浄(輪廻による浄化) を、無作の見解 (修行不要論) を、常久の論 (常住論)を、説かず、言説せず、発語せず、提示せず、語用しない。ということで、「彼らは、『 〔これこそ〕 究極の清浄である』と説かない」。

〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束 (執着の対象) を捨てて」とは、「拘束」とは、四つの拘束四繋 がある。 (1) 強欲 〔の思い〕 としての身体の拘束、(2) 憎悪 〔の思い〕としての身体の拘束、 (3) 戒や掟への偏執としての身体の拘束、(4) 「これは真理である」という 〔心の〕 固着としての身体の拘束である。 (1)自己の見解にたいする貪欲は、強欲 〔の思い〕 としての身体の拘束である。(2) 他者たちの論にたいする憤懣と不興は、憎悪 〔の思い〕 としての身体の拘束である。 (3)自己の、あるいは、戒への、あるいは、掟への、あるいは、戒と掟への、偏執は、戒や掟への偏執としての身体の拘束である。(4) 自己の見解は、「これは真理である」という 〔心の〕固着としての身体の拘束である。何を契機とすることから、執取の拘束と説かれるのか。それらの拘束によって、形態を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着し、感受〔作用〕 を……略……表象 〔作用〕 を……諸々の形成 〔作用〕 を……識知〔作用〕を……境遇を……再生を……結生を……生存を……輪廻を……転起を、取り、執取し、収取し、偏執し、固着する。それを契機とすることから、執取の拘束と説かれる。「捨てて」とは、〔四つの〕拘束を、あるいは、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕拘束を、振り落として、捨てて。たとえば、あるいは、駕篭を、あるいは、車を、あるいは、荷車を、あるいは、戦車を、執着を〔為して、そののち〕 執着から離れることを為し、 〔最後は〕 破砕するように、まさしく、このように、 〔四つの〕拘束を、あるいは、捨て去って、捨てて、さらに、あるいは、結び束ねられ、拘束され、結縛され、縛着され、連結され、居着き、付着し、障害となった、結縛するものとしての〔四つの〕 拘束を、振り落として、捨てて。ということで、「 〔執着の思いで〕 拘束された執取の拘束を捨てて」。

「世において、どこにも、 〔自分勝手な〕 願望を作らない」とは、願望は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲(ローバ) 、善ならざるものの根元である。「 〔自分勝手な〕願望を作らない」とは、願望を、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照) …… 〔十二の認識の〕 場所の世において。ということで、「世において、どこにも、 〔自分勝手な〕 願望を作らない」。

それによって、世尊は言った。

〔特定の何かを〕想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず、彼ら (智慧ある者たち) は、『 〔これこそ〕究極の清浄である』と説かない。 〔執着の思いで〕 拘束された執取の拘束(執着の対象) を捨てて、世において、どこにも、 〔自分勝手な〕 願望を作らない」と。
801. (795)〔執着の対象として〕 執持されたものを、かつまた、 〔あるがままに〕 知って、かつまた、 〔あるがままに〕見て、 〔世の〕 罪悪を超え行く婆羅門⸺彼には、 〔執着の対象が〕 存在しない。 〔彼は〕 貪り〔の対象〕 を貪る者でもなく、離貪 〔の思い〕 に染まった者でもない。彼には、この 〔世において〕 、「 〔これこそ〕 最高である」〔と〕 執持されたもの (執着の対象) が存在しない。 (8)

〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、 〔あるがままに〕 知って、かつまた、〔あるがままに〕 見て、 〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門⸺彼には、 〔執着の対象が〕存在しない」とは、「罪悪」とは、四つの罪悪 (境界) がある。(1) 身体を有するという見解、疑惑 〔の思い〕 、戒や掟への偏執、見解の悪習、疑惑 〔の思い〕の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕 汚れ、これが、第一の罪悪である。(2) 粗大なる欲望 〔の対象〕にたいする貪り 〔の思い〕 という束縛するもの、 〔粗大なる〕 敵対 〔の思い〕という束縛するもの、粗大なる欲望 〔の対象〕 にたいする貪り〔の思い〕 の悪習、 〔粗大なる〕敵対 〔の思い〕 の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕 汚れ、これが、第二の罪悪である。 (3)微細なる 〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕という束縛するもの、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕 という束縛するもの、微細なる 〔状態〕を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対〔の思い〕 の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕 汚れ、これが、第三の罪悪である。 (4) 形態〔の行境〕 にたいする貪り 〔の思い〕 、形態なき 〔行境〕 にたいする貪り〔の思い〕 、思量、高揚、無明、思量の悪習、生存にたいする貪り〔の思い〕 の悪習、無明の悪習、さらに、それと一なる境位の諸々の〔心の〕 汚れ、これが、第四の罪悪である。すなわち、そして、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) によって、これらの四つの罪悪(境界) が、超越され、等しく超越され、超克されたものと成ることから、彼は、〔世の〕 罪悪を超え行く者と説かれる。「婆羅門 (ブラーフマナ) 」とは、七つの法 (性質) が拒否された(バーヒタ) ことから、婆羅門となる。 (1) 身体を有するという見解が、拒否されたものと成り、 (2) 疑惑 〔の思い〕 が、拒否されたものと成り、(3) 戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略 ([299-300]参照) …… 〔何にも〕依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門)〔と〕 呼ばれます」 〔と〕。「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。

〔あるがままに〕知って」とは、あるいは、他者の心 〔を探知する〕 知恵 他心智 によって知って、あるいは、過去における居住の随念の知恵宿命随念智 によって知って。「〔あるがままに〕見て」とは、あるいは、肉眼によって見て、あるいは、天眼によって見て。「 〔執着の対象として〕 執持されたものを、かつまた、 〔あるがままに〕 知って、かつまた、 〔あるがままに〕見て、 〔世の〕 罪悪を超え行く婆羅門⸺彼には、 〔執着の対象が〕存在しない」とは、彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔執着の対象として〕 執持されたものを、かつまた、 〔あるがままに〕 知って、かつまた、 〔あるがままに〕見て、 〔世の〕 罪悪を超え行く婆羅門⸺彼には、 〔執着の対象が〕 存在しない」。

〔彼は〕 貪り〔の対象〕 を貪る者でもなく、離貪 〔の思い〕 に染まった者でもない」とは、貪り 〔の対象〕を貪る者たちは、すなわち、五つの欲望の属性 五妙欲:色・声・香・味・触) について、 〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。離貪〔の思い〕 に染まった者たちは、すなわち、諸々の形態の行境 色界 や形態なき行境 無色界 への入定 等持 について、 〔欲に〕染まった者たち、貪求ある者たち、拘束された者たち、耽溺する者たち、固執した者たち、居着いた者たち、付着した者たち、障害となった者たち、と説かれる。「〔彼は〕 貪り 〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪 〔の思い〕に染まった者でもない」とは、すなわち、かつまた、欲望 〔の行境〕欲界 にたいする貪り〔の思い〕 も、かつまた、形態 〔の行境〕 色界にたいする貪り 〔の思い〕 も、かつまた、形態なき 〔行境〕 無色界にたいする貪り 〔の思い〕 も、捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕 (切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)と成ることから、このことから、 〔彼は〕 貪り 〔の対象〕 を貪る者でもなく、離貪 〔の思い〕に染まった者でもない。

「彼には、この 〔世において〕 、『 〔これこそ〕 最高である』〔と〕 執持されたもの (執着の対象)が存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕 、『 〔これこそ〕最高である』 〔と〕 執持されたものが存在しない」。

それによって、世尊は言った。

〔執着の対象として〕執持されたものを、かつまた、 〔あるがままに〕 知って、かつまた、〔あるがままに〕 見て、 〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門⸺彼には、 〔執着の対象が〕 存在しない。〔彼は〕 貪り 〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪 〔の思い〕 に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕 、『 〔これこそ〕最高である』 〔と〕 執持されたもの (執着の対象) が存在しない」と。

清浄についての八なるものの経についての釈示が、第四となる。

注釈【0】