そこで、最高についての八なるものの経についての釈示を説くであろう。
802. (796)諸々の見解について、「 〔これこそ〕 最高である」と 〔独善的に固執し〕 固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕 一切を、「劣る」と言う。それゆえに、 〔人は〕 諸々の論争を超克せずにいる。 (1)
「諸々の見解について、『 〔これこそ〕 最高である』と 〔独善的に固執し〕固着しながら」とは、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。たとえば、あるいは、在家者たちが、諸々の家屋のうちに住し、あるいは、罪を有する者たちが、諸々の罪のうちに住し、あるいは、〔心の〕 汚れを有する者たちが、諸々の 〔心の〕汚れのうちに住するように、まさしく、このように、或る沙門や婆羅門たちで、悪しき見解ある者たちが存在し、彼らは、六十二の悪しき見解のなかの、何らかの或る悪しき見解を、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して、互いに自らの見解のうちに、住し、等しく住し、固く住し、遍く住する。ということで、「諸々の見解について、『〔これこそ〕 最高である』と 〔独善的に固執し〕 固着しながら」。
「世において、人が、それをより上と為すなら」とは、「それを」とは、すなわち。「より上と為す」とは、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この教師は、一切知者である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為す。「この法(教え) は、見事に告げ知らされた 〔教え〕 である」……。「この衆徒は、善き実践者である」……。「この見解は、立派である」……。「この〔実践の〕 道は、善く報知された 〔道〕 である」……。「この 〔聖者の〕 道は、出脱〔の道〕である」と、より上と為し、至高と、最勝と、殊勝と、筆頭と、最上と、最も優れたものと、為し、発現させ、結実させる。「人(ジャントゥ) が」とは、有情が、人 (ナラ) が……略 ([10]参照)……マヌから生じる者が。「世において」とは、悪所の世において……略 ([30]参照)…… 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「世において、人が、それをより上と為すなら」。
「それより他のものについては、 〔その〕 一切を、『劣る』と言う」とは、自己の、教師を、法 (教え) の告知を、衆徒を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕 道を、 〔それらを〕除いて、一切の他の論説を、投げ放ち、投げ捨て、遍く投げ放つ。「その教師は、一切知者にあらず」「 〔その〕 法 (教え) は、見事に告げ知らされた〔教え〕 にあらず」「 〔その〕衆徒は、善き実践者にあらず」「 〔その〕 見解は、立派にあらず」「〔その実践の〕 道は、善く報知された 〔道〕 にあらず」「 〔その聖者の〕 道は、出脱〔の道〕にあらず」「ここにおいて、あるいは、清らかさは、あるいは、清浄は、あるいは、完全なる清浄は、あるいは、解き放ちは、あるいは、解脱は、あるいは、完全なる解脱は、存在しない」「ここにおいて、あるいは、〔人々が〕 清らかとなることは、あるいは、 〔人々が〕 清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕完全なる清浄となることは、あるいは、 〔人々が〕 解き放たれることは、あるいは、〔人々が〕 解脱することは、あるいは、 〔人々が〕完全に解脱することは、存在しない」「下劣である、劣悪である、下等である、悪辣である、劣小である、微小である」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「それより他のものについては、〔その〕 一切を、『劣る』と言う」。
「それゆえに、 〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。「諸々の論争を」とは、諸々の見解の紛争を、諸々の見解の言争を、諸々の見解の口論を、諸々の見解の論争を、さらに、諸々の見解の確執を。「超克せずにいる」とは、〔いまだ〕 超越していない者であり、 〔いまだ〕 等しく超越していない者であり、 〔いまだ〕超克していない者である。ということで、「それゆえに、 〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」。
それによって、世尊は言った。
「諸々の見解について、『 〔これこそ〕 最高である』と 〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、 〔その〕 一切を、『劣る』と言う。それゆえに、 〔人は〕諸々の論争を超克せずにいる」と。
803. (797)見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、すなわち、自己 〔の見解〕 について、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ (自己の見解) だけに執持して、他の一切を「劣る」と見る。 (2)
「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、すなわち、自己 〔の見解〕 について、福利を見るなら」とは、「すなわち、自己 〔の見解〕について」とは、すなわち、自己について。自己は、悪しき見解と説かれる。自己の見解について、二つの福利を、 〔彼は〕 見る。 (1) そして、所見の法( 現法 :現世) としての福利であり、(2) さらに、未来のものとしての福利である。 (1) どのようなものが、見解について、所見の法 (現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が 〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが 〔世に〕有る。それを見解とする教師を、弟子たちは、尊敬し、尊重し、思慕し、供養し、敬恭する。そして、それを因縁として、衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を得る。これが、見解について、所見の法 (現世) としての福利である。 (2)どのようなものが、見解について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために、あるいは、金翅鳥たることのために、あるいは、夜叉たることのために、あるいは、阿修羅たることのために、あるいは、音楽神たることのために、あるいは、〔天の〕 大王たることのために、あるいは、インダ 〔神〕 (インドラ神) たることのために、あるいは、梵〔天〕 (ブラフマー神)たることのために、あるいは、天 〔の神〕たることのために、十分である。この見解は、清らかさのために、清浄のために、完全なる清浄のために、解き放ちのために、解脱のために、完全なる解脱のために、十分である。この見解によって、〔人々は〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱する。この見解によって、 〔わたしは〕清らかとなり、清浄となり、完全なる清浄となり、解き放たれ、解脱し、完全に解脱するのだ」と、未来に果を期待できる者と成る。これが、見解について、未来のものとしての福利である。自己の見解について、これらの二つの福利を、〔彼は〕 見る。見られたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕 見る。……略……。聞かれたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕 見る。……。戒としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕 見る。……。掟としての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕 見る。……。思われたものとしての清浄についてもまた、二つの福利を、〔彼は〕 見る。 (1)そして、所見の法 (現世) としての福利であり、 (2) さらに、未来のものとしての福利である。 (1)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、所見の法 (現世)としての福利であるのか。それを見解とする教師が 〔世に〕有るなら、それを見解とする弟子たちが 〔世に〕有る。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、所見の法 (現世)としての福利である。 (2)どのようなものが、思われたものとしての清浄について、未来のものとしての福利であるのか。「この見解は、あるいは、龍たることのために……十分である。……略……。これが、思われたものとしての清浄について、未来のものとしての福利である。思われたものとしての清浄についてもまた、これらの二つの福利を、〔彼は〕 見る、 〔彼は〕視認する、 〔彼は〕 注目する、 〔彼は〕 凝視する、 〔彼は〕近しく注視する。ということで、「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟について、あるいは、思われたものについて、すなわち、自己〔の見解〕 について、福利を見るなら」。
「彼は、そこにおいて、それ (自己の見解)だけに執持して」とは、「それだけに」とは、その悪しき見解に。「そこにおいて」とは、自らの見解において、自らの受認(信受) において、自らの嗜好 (意欲)において、自らの主張において。「執持して」とは、「これは、最高である、至高である、最勝である、殊勝である、筆頭である、最上である、最も優れたものである」と、収め取って、執持して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「彼は、そこにおいて、それだけに執持して」。
「他の一切を『劣る』と見る」とは、他の、教師を、法 (教え) の告知を、衆徒を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕 道を、下劣 〔の観点〕から、劣悪 〔の観点〕 から、下等 〔の観点〕 から、悪辣 〔の観点〕 から、劣小〔の観点〕 から、微小 〔の観点〕から、 〔彼は〕 見る、 〔彼は〕視認する、 〔彼は〕 注目する、 〔彼は〕 凝視する、 〔彼は〕近しく注視する。ということで、「他の一切を『劣る』と見る」。
それによって、世尊は言った。
「見られたものについて、聞かれたものについて、戒や掟 (執着の対象に成り下がった宗教行為) について、あるいは、思われたもの (我執の思いで対象化され他者化した認識対象) について、すなわち、自己 〔の見解〕 について、福利を見るなら、彼は、そこにおいて、それ (自己の見解) だけに執持して、他の一切を『劣る』と見る」と。
804. (798)あるいは、また、それを、智者たちは、「拘束」と説く⸺それに依存する者が、他を「劣る」と見るなら。まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように。(3)
「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」とは、「智者たち」とは、すなわち、それらの、 〔五つの〕 範疇 ( 五蘊) に智ある者たち、 〔十八の〕 界域 ( 十八界 ) に智ある者たち、 〔十二の認識の〕 場所 ( 十二処) に智ある者たち、縁によって 〔物事が〕 生起する〔道理〕 (縁起 :因果の道理) に智ある者たち、 〔四つの〕 気づきの確立 (四念住・四念処 ) に智ある者たち、 〔四つの〕 正しい精励 ( 四正勤) に智ある者たち、 〔四つの〕 神通の足場 ( 四神足 ) に智ある者たち、 〔五つの〕 機能 ( 五根) に智ある者たち、 〔五つの〕 力 ( 五力 ) に智ある者たち、 〔七つの〕 覚りの支分 ( 七覚支) に智ある者たち、 〔聖者の〕 道 (預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) に智ある者たち、 〔沙門の〕 果 (預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)に智ある者たち、涅槃に智ある者たちであり、それらの智ある者たちは、このように説く。「これは、拘束である」「これは、付着である」「これは、結縛である」「これは、障害である」と、このように説き、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く」。
「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」とは、「それに依存する者が」とは、 〔まさに〕 その、教師に、法 (教え)の告知に、衆徒に、見解に、 〔実践の〕 道に、 〔聖者の〕 道に、依存する者が、等しく依存する者が、 〔思いが〕付着した者が、近しく赴いた者が、固執した者が、信念した者が。「他を『劣る』と見るなら」とは、他の、教師を、法 (教え) の告知を、衆徒を、見解を、 〔実践の〕 道を、〔聖者の〕 道を、下劣 〔の観点〕から、劣悪 〔の観点〕 から、下等 〔の観点〕 から、悪辣 〔の観点〕 から、劣小〔の観点〕 から、微小 〔の観点〕から、 〔彼は〕 見る、 〔彼は〕視認する、 〔彼は〕 注目する、 〔彼は〕 凝視する、 〔彼は〕近しく注視する。ということで、「それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら」。
「まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」とは、「それゆえに」とは、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。あるいは、見られたものに、あるいは、見られたものとしての清浄に、あるいは、聞かれたものに、あるいは、聞かれたものとしての清浄に、あるいは、思われたものに、あるいは、思われたものとしての清浄に、あるいは、戒に、あるいは、戒としての清浄に、あるいは、掟に、あるいは、掟としての清浄に、依存するべきではなく、収取するべきではなく、偏執するべきではなく、固着するべきではない。ということで、「まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」。
それによって、世尊は言った。
「あるいは、また、それを、智者たちは、『拘束』と説く⸺それに依存する者が、他を『劣る』と見るなら。まさに、それゆえに、あるいは、見られたものに、聞かれたものに、あるいは、思われたものに、戒や掟に、比丘は、依存しないように」と。
805. (799)あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、 〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を 〔他者と〕「等しい」と見なさないように。あるいは、また、「劣る」「勝る」 〔と〕思いなさないように。 (4)
「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕 見解でさえも想い描かないように」とは、あるいは、八つの入定(四禅と四無色界定) の知恵によって、あるいは、五つの神知 (漏尽通を除く五つの神通:神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通)の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、見解を、想い描くべきではなく、生じさせるべきではなく、産出させるべきではなく、発現させるべきではなく、結実させるべきではない。「世において」とは、悪所の世において……略([30]参照) …… 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、 〔いかなる〕 見解でさえも想い描かないように」。
「自己を 〔他者と〕『等しい』と見なさないように」とは、「わたしは、 〔他者と〕 等しい者として〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才) によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「自己を〔他者と〕 『等しい』と見なさないように」。
「あるいは、また、『劣る』『勝る』 〔と〕 思いなさないように」とは、「わたしは、 〔他者に〕劣る者として 〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。「わたしは、〔他者に〕 勝る者として 〔世に〕存している」と、自己を見なすべきではない⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略……あるいは、何らかの或る根拠によって。ということで、「あるいは、また、『劣る』『勝る』〔と〕 思いなさないように」。
それによって、世尊は言った。
「あるいは、知恵によって、あるいは、また、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕 見解でさえも想い描かないように。自己を 〔他者と〕 『等しい』と見なさないように。あるいは、また、『劣る』『勝る』 〔と〕 思いなさないように」と。
806. (800)自己を捨棄して、執取せずにいる者は⸺彼は、 〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない。彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、 〔特定の〕 党派に走り行く者ではない。彼は、 〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない。 (5)
「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」とは、「自己を捨棄して」とは、自己の見解を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、収取を捨棄して。「自己を捨棄して」とは、渇愛を所以に、見解を所以に、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものを、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「自己を捨棄して」。「執取せずにいる者は」とは、四つの執取によって、執取せずにいる者は、収取せずにいる者は、偏執せずにいる者は、固着せずにいる者は。ということで、「自己を捨棄して、執取せずにいる者は」。
「彼は、 〔いかなる〕知恵によってもまた、依存を為さない」とは、あるいは、八つの入定の知恵によって、あるいは、五つの神知の知恵によって、あるいは、誤った知恵によって、あるいは、渇愛の依所を、あるいは、見解の依所を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「彼は、〔いかなる〕 知恵によってもまた、依存を為さない」。
「彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、 〔特定の〕党派に走り行く者ではない」とは、彼は、まさに、相争い、分裂し、二様に分かれ、二様のものが生じ、種々なる見解があり、種々なる受認(信受) があり、種々なる嗜好 (意欲) があり、種々なる主張があり、種々なる見解の依所に依存する者たちのなかにいながら⸺欲〔の思い〕の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、憤怒の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、迷妄の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、恐怖の境遇に赴きつつある者たちのなかにいながら、欲〔の思い〕の境遇に赴かず、憤怒の境遇に赴かず、迷妄の境遇に赴かず、恐怖の境遇に赴かず、貪欲を所以に赴かず、憤怒を所以に赴かず、迷妄を所以に赴かず、思量を所以に赴かず、見解を所以に赴かず、高揚を所以に赴かず、疑惑を所以に赴かず、悪習を所以に赴かず、諸々の党派の法(性質)によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕 党派に走り行く者ではない」。
「彼は、 〔いかなる〕見解でさえも、何であれ、信受しない」とは、彼の、六十二の悪しき見解は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。彼は、何であれ、悪しき見解を、信受せず、再帰しない。ということで、「彼は、〔いかなる〕 見解でさえも、何であれ、信受しない」。
それによって、世尊は言った。
「自己を捨棄して、執取せずにいる者は⸺彼は、 〔いかなる〕 知恵によってもまた、依存を為さない。彼は、まさに、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕 党派に走り行く者ではない。彼は、 〔いかなる〕 見解でさえも、何であれ、信受しない」と。
807. (801)彼に、この 〔世において〕 、 〔種々に対立する〕 両極について、 〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら⸺この 〔世〕 であろうと、あの 〔世〕 であろうと、種々なる生存のために、 〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕 ⸺彼に、諸々の 〔妄執が〕 固着する場は、何であれ、存在しない。諸々の法 (見解) について、 〔執着の対象として〕執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して。 (6)
「彼に、この 〔世において〕、 〔種々に対立する〕 両極について、 〔自分勝手な〕 誓願が存在しないなら⸺この 〔世〕であろうと、あの 〔世〕 であろうと、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」とは、「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「極」とは、接触 (触 :感覚の発生)は、一つの極であり、接触の集起は、第二の極である。過去は、一つの極であり、未来は、第二の極である。安楽の感受 ( 楽受 ) は、一つの極であり、苦痛の感受 ( 苦受 ) は、第二の極である。名前 ( 名 :精神的事象) は、一つの極であり、形態 ( 色 :物質的形態) は、第二の極である。六つの内なる〔認識の〕 場所 (六内処 :眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処) は、一つの極であり、六つの外なる〔認識の〕 場所 (六外処 :色処・声処・香処・味処・触処・法処) は、第二の極である。身体を有すること( 有身 )は、一つの極であり、身体を有することの集起は、第二の極である。誓願は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲(ローバ) 、善ならざるものの根元である。
「種々なる生存のために、 〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕 」とは、種々なる生存における、行為の生存 ( 業有 ) のために、さらなる生存 ( 再有 ) のために⸺欲望の生存 (欲有 )における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存 (色有 )における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存 (無色有 )における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存のために、繰り返す境遇のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体) の発現のために。「この 〔世〕 」とは、自らの自己状態である。「あの 〔世〕」とは、他の自己状態である。「この 〔世〕 」とは、自らの形態と感受〔作用〕 と表象 〔作用〕と諸々の形成 〔作用〕 と識知 〔作用〕 ( 色受想行識) である。「あの 〔世〕 」とは、他の形態と感受〔作用〕 と表象 〔作用〕と諸々の形成 〔作用〕 と識知 〔作用〕 である。「この 〔世〕 」とは、六つの内なる〔認識の〕 場所 (六内処 ) である。「あの 〔世〕」とは、六つの外なる 〔認識の〕 場所 (六外処 ) である。「この 〔世〕」とは、人間の世である。「あの 〔世〕 」とは、天の世である。「この〔世〕 」とは、欲望の界域 (欲界 ) である。「あの 〔世〕」とは、形態の界域 ( 色界 ) や形態なき界域( 無色界 ) である。「この〔世〕 」とは、欲望の界域や形態の界域である。「あの 〔世〕 」とは、形態なき界域である。「彼に、この 〔世において〕 、 〔種々に対立する〕 両極について、〔自分勝手な〕 誓願が存在しないなら⸺この 〔世〕 であろうと、あの 〔世〕であろうと、種々なる生存のために、 〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕」とは、彼に、そして、両極について、さらに、種々なる生存のために、この 〔世〕において、さらに、あの 〔世〕において、渇愛としての誓願が、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたなら。ということで、「彼に、この〔世において〕 、 〔種々に対立する〕 両極について、 〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら⸺この 〔世〕 であろうと、あの 〔世〕 であろうと、種々なる生存のために、 〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕 」。
「彼に、諸々の 〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない」とは、「固着」とは、二つの固着がある。 (1)そして、渇愛の固着であり、 (2) さらに、見解の固着である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の固着である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の固着である。「彼に」とは、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に。「彼に、諸々の〔妄執が〕 固着する場は、何であれ、存在しない」とは、諸々の〔妄執が〕 固着する場は、彼に存在しない、 〔それらは〕何であれ、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼に、諸々の〔妄執が〕 固着する場は、何であれ、存在しない」。
「諸々の法 (見解)について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して」とは、「諸々の法 (見解)について」とは、六十二の悪しき見解について。「 〔執着の対象と〕判別して」とは、判別して、判断して、弁別して、精査して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「 〔執着の対象として〕執持されたもの」とは、限界あるものの収取、片々のものの収取、優れたものの収取、部位のものの収取、積集のものの収取、等しき積集のものの収取であり、「これは、真理である、如実である、真実である、事実である、あるがままである、転倒ならざるものである」と、収取され、偏執され、固着され、固執され、信念されたものは、〔もはや〕存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「諸々の法(見解) について、 〔執着の対象として〕 執持されたものを、 〔執着の対象と〕判別して」。
それによって、世尊は言った。
「彼に、この 〔世において〕、 〔種々に対立する〕 両極について、 〔自分勝手な〕 誓願が存在しないなら⸺この 〔世〕であろうと、あの 〔世〕 であろうと、種々なる生存のために、〔自分勝手な誓願が存在しないなら〕 ⸺彼に、諸々の 〔妄執が〕 固着する場は、何であれ、存在しない。諸々の法 (見解) について、 〔執着の対象として〕執持されたものを、 〔執着の対象と〕 判別して」と。
808. (802)彼には、この 〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、 〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない。 〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、ここに、 〔この〕 世において、〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう (執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない) 。 (7)
「彼には、この 〔世において〕 、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない」とは、「彼には」とは、阿羅漢には、煩悩の滅尽者には。彼には、あるいは、見られたものについて、あるいは、見られたものとしての清浄について、あるいは、聞かれたものについて、あるいは、聞かれたものとしての清浄について、あるいは、思われたものについて、あるいは、思われたものとしての清浄について、表象を先行とすることは、表象によって想い描かれるべきことは⸺表象による執持によって、表象において、現起され、等しく現起され、想い描かれ、妄想され、形成され、行作され、確立された、〔特定の〕見解は⸺存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、 〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕表象は、微塵でさえも存在しない」。
「 〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を」とは、「婆羅門 (ブラーフマナ) 」とは、七つの法(性質) が拒否された (バーヒタ) ことから、婆羅門となる。 (1)身体を有するという見解が、拒否されたものと成り、 (2) 疑惑〔の思い〕 が、拒否されたものと成り、 (3) 戒や掟への偏執が、拒否されたものと成り……略 ([299-300]参照) …… 〔何にも〕依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門) 』 〔と〕 呼ばれます」 〔と〕 。「〔特定の〕 見解に執取しない、その婆羅門を」とは、 〔特定の〕 見解に、執取せず、収取せず、偏執せず、固着せずにいる、その婆羅門を。ということで、「〔特定の〕 見解に執取しない、その婆羅門を」。
「ここに、 〔この〕世において、 〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう」とは、「妄想(想い描き) 」とは、二つの妄想がある。 (1) そして、渇愛の妄想であり、 (2)さらに、見解の妄想である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の妄想である。 (2)……略 ([180]参照) ……これが、見解の妄想である。彼の、渇愛の妄想は〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、どのような貪欲によって、想い描くというのだろう、どのような憤怒によって、想い描くというのだろう、どのような迷妄によって、想い描くというのだろう、どのような思量によって、想い描くというのだろう、どのような見解によって、想い描くというのだろう、どのような高揚によって、想い描くというのだろう、どのような疑惑によって、想い描くというのだろう、どのような諸々の悪習によって、想い描くというのだろう⸺あるいは、「貪る者である」と、あるいは、「怒る者である」と、あるいは、「迷う者である」と、あるいは、「結縛された者である」と、あるいは、「偏執した者である」と、あるいは、「〔心の〕散乱に至った者である」と、あるいは、「結論なきに至った者である」と、あるいは、「強靭に至った者である」と。 〔彼の〕 それらの行作は 〔すでに〕 捨棄され、〔それらの〕 行作が 〔すでに〕捨棄されたことから、諸々の 〔未来の〕境遇を、何によって、想い描くというのだろう⸺あるいは、「地獄にある者である」と、あるいは、「畜生の胎ある者である」と、あるいは、「餓鬼の境域ある者である」と、あるいは、「人間である」と、あるいは、「天〔の神〕である」と、あるいは、「形態ある者である」と、あるいは、「形態なき者である」と、あるいは、「表象ある者である」と、あるいは、「表象なき者である」と、あるいは、「表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である」と。それによって、想い描くであろう、妄想するであろう、妄想を惹起するであろう、〔まさに〕その、因は存在せず、縁は存在せず、契機は存在しない。「世において」とは、悪所の世において……略 ([30]参照) …… 〔十二の認識の〕場所の世において。ということで、「ここに、 〔この〕 世において、〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう」。
それによって、世尊は言った。
「彼には、この 〔世において〕 、あるいは、見られたものについて、聞かれたものについて、あるいは、思われたものについて、〔執着の対象として〕 想い描かれた 〔特定の〕 表象 ( 想:概念・心象) は、微塵でさえも存在しない。 〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、ここに、 〔この〕 世において、〔いったい、誰が〕 何によって、想い描くというのだろう (執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)」と。
809. (803)〔特定の何かを〕 想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず、諸々の法 (見解)もまた、彼らには受容されない。 〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、 〔特定の見解を〕信受しない (この世に戻らない) 。 (8)
「 〔特定の何かを〕想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず」とは、「妄想 (想い描き) 」とは、二つの妄想がある。 (1)そして、渇愛の妄想であり、 (2) さらに、見解の妄想である。(1)どのようなものが、渇愛の妄想であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の妄想である。(2) どのようなものが、見解の妄想であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解( 有身見 ) 、十の事態ある誤った見解( 邪見 ) 、十の事態ある極〔論〕 を収め取るものとしての見解 (辺執見 )⸺すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕 場所 (境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取⸺およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の妄想である。彼らの、渇愛の妄想は〔すでに〕 捨棄され、見解の妄想は 〔すでに〕 放棄され、渇愛の妄想が 〔すでに〕捨棄されたことから、見解の妄想が 〔すでに〕放棄されたことから、あるいは、渇愛の妄想を、あるいは、見解の妄想を、想い描かず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「〔特定の何かを〕 想い描かず」。
「 〔特定の何かを〕偏重せず」とは、「偏重」とは、二つの偏重がある。 (1) そして、渇愛の偏重であり、(2) さらに、見解の偏重である。 (1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の偏重である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の偏重である。彼らの、渇愛の偏重は 〔すでに〕 捨棄され、見解の偏重は 〔すでに〕放棄され、渇愛の偏重が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の偏重が〔すでに〕 放棄されたことから、あるいは、渇愛を、あるいは、見解を、偏重して、〔世を〕歩むことはない。渇愛を旗とする者たちではなく、渇愛を幟とする者たちではなく、渇愛を優位とする者たちではなく、見解を旗とする者たちではなく、見解を幟とする者たちではなく、見解を優位とする者たちではなく、あるいは、渇愛に、あるいは、見解に、取り囲まれ、〔世を〕 歩むことはない。ということで、「 〔特定の何かを〕 想い描かず、 〔特定の何かを〕偏重せず」。
「諸々の法 (見解)もまた、彼らには受容されない」とは、諸々の法 (見解)は、六十二の悪しき見解と説かれる。「彼らには」とは、彼らには、阿羅漢たちには、煩悩の滅尽者たちには。「受容されない」とは、「世〔界〕 は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と受用されない。「世 〔界〕 は、常久ではない。……。「世 〔界〕は、終極がある。……。「世 〔界〕は、終極がない。……。「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある (生命と肉体は同じものである) 。……。「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある(生命と肉体は別のものである)。……。「如来は、死後に有る。……。「如来は、死後に有ることがない。……。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕 である」と受用されない。ということで、「諸々の法 (見解) もまた、彼らには受容されない」。
「 〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、「ない」とは、否定 〔の言葉〕 。「婆羅門(ブラーフマナ) 」とは、七つの法 (性質) が拒否された (バーヒタ)ことから、婆羅門となる。 (1)身体を有するという見解が、拒否されたものと成り……略 ([299-300]参照)…… 〔何にも〕 依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門) 』 〔と〕 呼ばれます」〔と〕 。「 〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない」とは、 〔真の〕婆羅門は、あるいは、戒によって、あるいは、掟によって、あるいは、戒と掟によって、行かず、導かれず、運ばれず、集められない。ということで、「〔真の〕 婆羅門は、戒や掟によって導かれない」。
「彼岸に至った如なる者は、 〔特定の見解を〕 信受しない (この世に戻らない)」とは、彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。彼は、彼岸に至った者、彼岸に至り得た者、終極に至った者、終極に至り得た者、突端に至った者、突端に至り得た者……略([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「彼岸に至った」。「 〔特定の見解を〕信受しない」とは、預流道によって、それらの 〔心の〕 汚れが捨棄されたなら、それらの〔心の〕 汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、一来道によって、それらの〔心の〕 汚れが捨棄されたなら、それらの 〔心の〕 汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、不還道によって、それらの 〔心の〕 汚れが捨棄されたなら、それらの 〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰せず、阿羅漢道によって、それらの 〔心の〕汚れが捨棄されたなら、それらの 〔心の〕汚れに、ふたたび至らず、信受せず、再帰しない。ということで、「彼岸に至った如なる者は、 〔特定の見解を〕 信受しない」。「如なる者」とは、阿羅漢は、五つの行相によって、如なる者である(あるがままの如実者である) 。 (1) 好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者である。 (2) 捨て去った者、ということで、如なる者である。 (3) 超え渡った者、ということで、如なる者である。 (4) 解き放った者、ということで、如なる者である。 (5) それを釈示することから、如なる者である。
(1)どのように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者であるのか。阿羅漢は、利得にたいしてもまた、如なる者であり、利得なきにたいしてもまた、如なる者であり、盛名にたいしてもまた、如なる者であり、盛名なきにたいしてもまた、如なる者であり、賞賛にたいしてもまた、如なる者であり、非難にたいしてもまた、如なる者であり、安楽にたいしてもまた、如なる者であり、苦痛にたいしてもまた、如なる者である。一部の者たちが、腕を香料で塗るとして、一部の者たちが、腕を鉈で撃打するとして、それにたいし、貪り〔の思い〕 は存在せず、それにたいし、敵対 〔の思い〕 は存在しない。 〔彼は〕随貪と敵対を捨棄した者であり、興奮と失望を超克した者であり、共感と反感を等しく超越した者である。このように、阿羅漢は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる者である。
(2)どのように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢には、貪欲は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄され、憤怒は……略……迷妄は……忿激は……怨恨は……偽装は……加虐は……嫉妬は……物惜は……幻惑は……狡猾は……強情は……激昂は……思量は……高慢は……驕慢は……放逸は……一切の〔心の〕汚れは……一切の悪しき行ないは……一切の懊悩は……一切の苦悶は……一切の熱苦は……一切の善ならざる行作は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものとしてある。このように、阿羅漢は、捨て去った者、ということで、如なる者である。
(3)どのように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢は、欲望の激流を超え渡った者であり、生存の激流を超え渡った者であり、見解の激流を超え渡った者であり、無明の激流を超え渡った者であり、一切の輪廻の道を、超え渡った者であり、超え上がった者であり、超え出た者であり、超越した者であり、等しく超越した者であり、超克した者である。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このように、阿羅漢は、超え渡った者、ということで、如なる者である。
(4)どのように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者であるのか。阿羅漢には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、迷妄から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、忿激から……略……怨恨から……偽装から……加虐から……嫉妬から……物惜から……幻惑から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。このように、阿羅漢は、解き放った者、ということで、如なる者である。
(5)どのように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者であるのか。阿羅漢は、戒が存しているとき、「戒ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、信が存しているとき、「信ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、精進が存しているとき、「精進ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、気づきが存しているとき、「気づきある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、禅定が存しているとき、「禅定ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、智慧が存しているとき、「智慧ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、明知が存しているとき、「三つの明知( 三明 :宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる者であり、神知が存しているとき、「六つの神知 (六神通 :神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる者である。このように、阿羅漢は、それを釈示することから、如なる者である。ということで、「彼岸に至った如なる者は、〔特定の見解を〕 信受しない」。
それによって、世尊は言った。
「 〔特定の何かを〕想い描かず、 〔特定の何かを〕 偏重せず、諸々の法 (見解) もまた、彼らには受容されない。 〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った如なる者は、 〔特定の見解を〕信受しない (この世に戻らない) 」と。
最高についての八なるものの経についての釈示が、第五となる。
注釈【0】