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翻訳【3】

老の経についての釈示

そこで、老の経についての釈示を説くであろう。

810. (804)まさに、この生命 (寿命) は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕 死ぬ。彼が、たとえ、もし、 〔百年を〕 超えて生きるとして、そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ。 (1)

「まさに、この生命 (寿命)は、僅かである」とは、「生命」とは、寿命、止住、 〔身を〕 保つこと、〔身を〕 保ち行くこと、振る舞うこと、 〔身を〕 行持すること、 〔行ないを〕守ること、生命、生命の機能 命根。さらに、また、二つの契機によって、生命は、僅かであり、生命は、僅少である。 (1)あるいは、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。 (2)あるいは、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。 (1)どのように、止住の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。過去における 〔一つの〕 心の瞬間においては、 〔過去において〕生きたが、 〔現在において〕 生きることはなく、 〔未来において〕 生きるであろうことはない。未来における 〔一つの〕 心の瞬間においては、 〔未来において〕生きるであろうが、 〔現在において〕 生きることはなく、 〔過去において〕 生きたことはない。現在における 〔一つの〕 心の瞬間においては、 〔現在において〕生きるが、 〔過去において〕 生きたことはなく、 〔未来において〕 生きるであろうことはない。

〔そこで、詩偈に言う〕「生命は、そして、自己状態 (個我的あり方・身体)も、さらに、楽と苦も、全部が、一つの心 〔の瞬間〕 と結び付いたものであり、〔その〕 瞬間は、軽やかに転起する。

八万四千カッパ :時間の単位・極めて長い時間) のあいだ、それらの神たちが〔世に〕止住するとして、まさしく、しかし、彼らもまた、二つの心と結び付いたものとして、生きることはない (一つの心だけが転起する)

この 〔世において〕、死につつある者の、あるいは、止住している者の、それらの止滅した 〔五つの心身を構成する〕 範疇 は、全てもろともに、同等のものであり、 〔すでに〕去り行ったものであり、結生なきものである (結生に至り着くことはない)

そして、それらが、直前に滅壊した 〔五つの範疇〕 であるとして、さらに、それらが、未来に滅壊した 〔五つの範疇〕 であるとして、その直後に止滅した 〔五つの範疇〕 にとって、特相における差異は存在しない (両者ともに滅壊するものとしてある)

発現した 〔心〕〔すでに〕 ないなら、生じたものは 〔もはや〕 なく、現在 〔の瞬間の心の転起〕 によって、〔有情は〕 生きる。心が滅壊したのち、世 〔の人々〕 の死がある。 〔これが〕 最高の義勝義 :最高の真実) としての概念施設 となる (あるがままの世界のあり方である)

たとえば、 〔水が〕諸々の低きにあるものとして転起するように、欲 〔の思い〕によって変化させられ、六つの 〔認識の〕 場所 六処 :眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)の縁あることから、諸々の断絶なき保持が転起する。

諸々の滅壊したものは、安置に至らず、未来における堆積は存在しない。そして、それらが、諸々の発現したものとして止住するとして、錐の先の芥子の如きもの。

そして、諸々の発現した法 (性質) には、それらには、滅壊が待ち受けている。諸々の崩壊の法 (性質) として止住し、諸々の過去のものと交わることはない。

諸々の滅壊は、見えざるところから至り来て、見えざるところに去り行く。虚空における雷光の生起のように、 〔それらは〕 生起し、かつまた、衰失する」と。

このように、止住の微小なることによって、生命は、僅かである。

(2)どのように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かであるのか。出息に連結するものとして、生命はあり、入息に連結するものとして、生命はあり、出息と入息に連結するものとして、生命はあり、〔四つの〕 大いなる元素 (地・水・火・風) に連結するものとして、生命はあり、物質としての食に連結するものとして、生命はあり、熱(体熱) に連結するものとして、生命はあり、識知 〔作用〕 (意識)に連結するものとして、生命はある。これらのものの根元もまた、力弱きものであり、これらのものの前因もまた、力弱きものである。それらが、諸々の縁であるとして、それらもまた、力弱きものであり、たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらもまた、力弱きものである。これらのものと共に有るものもまた、力弱きものであり、これらのものと結合あるものもまた、力弱きものであり、これらのものと共に生じるものもまた、力弱きものである。たとえ、それが、専念するもの(渇愛)であるとして、それもまた、力弱きものである。これらは、互いに他と常に力弱きものであり、これらは、互いに他と安住なきものであり、これらは、互いに他を攻撃する。なぜなら、互いに他の救護者として存在せず、さらに、また、これらは、互いに他を救護しないからである。たとえ、それが、〔他を〕 発現させるものであるとして、それは、 〔もはや〕 見出されない (すでに消滅したものとしてある)

〔そこで、詩偈に言う〕「そして、何をもってして、どこの誰が、失われることなくあるというのだろう。そして、これらは、まさに、全てにわたり、〔自ら〕壊れるべきものである。諸々の前のものがあるから、これらは、諸々の増加するものとしてある。たとえ、それらが、諸々の増加するものであるとして、それらは、前に死んだものとしてある。そして、諸々の前のものもまた、さらに、諸々の後のものもまた、いついかなる時も、互いに他を見なかった」と。

このように、自らの効用の微小なることによって、生命は、僅かである。

さらに、また、四大王天 〔の神々〕 四天王たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。三十三天〔の神々〕 たちの……略……。耶摩天 〔の神々〕 たちの……。兜率天 〔の神々〕たちの……。化楽天 〔の神々〕 たちの……。他化自在天 〔の神々〕 たちの……。梵身天 〔の神々〕たちの生命と比較して、人間たちの、生命は、僅かであり、生命は、微小であり、生命は、僅少であり、生命は、瞬間のものであり、生命は、軽きものであり、生命は、暫しのものであり、生命は、時に耐え得ぬものであり、生命は、長き止住なきものである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、人間たちの、この寿命は、僅かです。赴くべきは、未来(来世) です。明慧によって、覚るべきです。為すべきは、善なる〔行為〕です。歩むべきは、梵行です。生まれた者に、死なきは存在しません。比丘たちよ、彼が、長く生きるとして、彼は、百年のあいだ〔生きるか〕 、あるいは、僅かに多く 〔生きるかです〕

〔そこで、詩偈に言う〕『人間たちの寿命は、僅かなもの。善き人は、それを蔑むもの。頭が燃えているかのように、 〔世を〕 歩むがよい。死魔の到来なきは、存在しない。

昼夜は過ぎ行き、生命は破却され、人間たちの寿命は滅尽する⸺諸々の小川の水のように』」 〔と〕 。ということで⸺

「まさに、この生命は、僅かである」。

「百年にも満たずに、 〔人は〕 死ぬ」とは、カララ (入胎後一週間)の時でさえも、 〔人は〕 死滅し、死に、消没し、破滅し、アッブダ(入胎後二週間) の時でさえも、 〔人は〕 死滅し、死に、消没し、破滅し、ペーシ (入胎後三週間) の時でさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、ガナ (入胎後四週間) の時でさえも、〔人は〕 死滅し、死に、消没し、破滅し、パサーカ (入胎後五週間以降) の時でさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、生まれたばかりでさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、産屋においてでさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、半月でさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、一月でさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二月でさえも……略……三月でさえも……四月でさえも……五月でさえも、 〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、六月でさえも……七月でさえも……八月でさえも……九月でさえも……十月でさえも……一年でさえも、〔人は〕死滅し、死に、消没し、破滅し、二年でさえも……三年でさえも……四年でさえも……五年でさえも……六年でさえも……七年でさえも……八年でさえも……九年でさえも……十年でさえも……二十年でさえも……三十年でさえも……四十年でさえも……五十年でさえも……六十年でさえも……七十年でさえも……八十年でさえも……九十年でさえも、〔人は〕 死滅し、死に、消没し、破滅する。ということで、「百年にも満たずに、〔人は〕 死ぬ」。

「彼が、たとえ、もし、 〔百年を〕超えて生きるとして」とは、彼が、百年を超え行って生きるとして、彼は、あるいは、一年を生き、あるいは、二年を生き、あるいは、三年を生き、あるいは、四年を生き、あるいは、五年を生き……略……あるいは、十年を生き、あるいは、二十年を生き、あるいは、三十年を生き、あるいは、四十年を生きる。ということで、「彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして」。「そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」とは、すなわち、老いた者、年長の者、老練の者、歳月を重ねた者、年齢を加えた者、歯が破断した者、白髪の者、抜け毛の者、禿頭の者、皺の者、斑点だらけの五体の者、湾曲の者、蜷局の者、杖を行き着く所とする者と成るとき、彼は、老によってもまた、死滅し、死に、消没し、破滅し、死からの解脱は存在しない。

〔そこで、詩偈に言う〕「熟した諸果には、早く落ちるがゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者 (人間) として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある。

たとえば、また、陶工の作った諸々の土器が、 〔それらの〕 全てが、破壊を結末とするように、このように、死すべき者たちの生命はある。

かつまた、青年たちも、かつまた、大人たちも、彼らが愚者たちであれ、そして、彼らが賢者たちであれ⸺全ての者たちが、死魔の支配に至り行く⸺全ての者たちが、死魔〔の支配〕 を行き着く所とする。

死魔に打ち負かされた彼らが 〔他の世に〕 赴きつつあるとして、他の世からは、父が子を救うことはなく、また、あるいは、親族たちが親族たちを〔救うこともない〕

見よ⸺ 〔死に行く者を〕見ているだけの親族たちを、個々に泣き叫んでいる 〔親族〕たちを。死すべき者たちの、まさしく、一者一者が、屠殺される牛のように、 〔死へと〕導かれる。このように、世 〔の人々〕は、そして、死魔によって、さらに、老によって、悩み苦しめられている」 〔と〕。ということで⸺

「そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、この生命 (寿命)は、僅かである。百年にも満たずに、 〔人は〕 死ぬ。彼が、たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、そこで、まさに、彼は、老によってもまた、死ぬ」と。
811. (805)わがものと 〔錯視〕 されたもの (執着の対象) について、 〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持 〔の対象〕 (所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、 〔賢者は〕 家に居住しないように。 (2)

「わがものと 〔錯視〕されたもの (執着の対象) について、 〔世の〕 人たちは憂い悲しむ」とは、「 〔世の〕人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕 たち、そして、人間たちは。「我執 (わがもの) 」とは、二つの我執がある。 (1)そして、渇愛の我執であり、 (2) さらに、見解の我執である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の我執である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の我執である。わがものと 〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起する。ということで、「わがものと〔錯視〕 されたものについて、 〔世の〕 人たちは憂い悲しむ」。

「まさに、諸々の執持 〔の対象〕 (所有物)は、常住のものとして存在しない」とは、二つの執持 〔の対象〕 がある。(1) そして、渇愛の執持 〔の対象〕 であり、 (2) さらに、見解の執持〔の対象〕 である。 (1)……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の執持 〔の対象〕 である。 (2) ……略([180]参照) ……これが、見解の執持 〔の対象〕 である。渇愛の執持 〔の対象〕は、無常なるものであり、形成されたもの 有為 であり、縁によって生起したもの 縁已生 であり、滅尽の法 (性質) であり、衰失の法(性質) であり、離貪の法 (性質) であり、止滅の法 (性質) であり、変化の法(性質) である。見解の執持 〔の対象〕 もまた、無常なるものであり、形成されたものであり、縁によって生起したものであり、滅尽の法(性質) であり、衰失の法 (性質) であり、離貪の法 (性質) であり、止滅の法(性質) であり、変化の法 (性質)である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、まさに、あなたたちは見ますか⸺その執持 〔の対象〕 を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法 (性質) として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、この執持〔の対象〕 です」と。 〔比丘たちは答えた〕 「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」と。 〔世尊は言った〕 「比丘たちよ、善きかな。わたしもまた、まさに、等しく随観しません⸺この執持〔の対象〕 を。すなわち、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質) として存し、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう、この執持〔の対象〕 です」と。諸々の執持 〔の対象〕 は、常住なるものとして、常恒なるものとして、常久なるものとして、変化なき法(性質)として、存在せず、存さず、等しく見出されず、得られない。ということで、「まさに、諸々の執持 〔の対象〕 は、常住のものとして存在しない」。

「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」とは、種々なる状態として、変じ異なる状態として、他なる状態として、存している、等しく見出されている、認知されている。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「アーナンダよ、十分です。憂い悲しんではいけません。嘆き悲しんではいけません。アーナンダよ、まさに、このことは、わたしによって、まさしく、前もって、告げ知らされたではありませんか。『まさしく、一切の愛しく意に適うものから、種々なる状態となり、変じ異なる状態となり、他なる状態となる』〔と〕 。アーナンダよ、それ (常住なるもの)が、どうして、ここにおいて、得られるというのでしょう。すなわち、それが、生じたものであり、成ったものであり、作り為されたものであり、崩壊の法(性質)であるなら、それが、まさに、崩壊してはならない、という、この状況は見出されません (ありえない) 」と。前のもの、前のものである、 〔五つの〕 範疇と 〔十八の〕 界域と〔十二の認識の〕場所に、変化と他化の状態あることから、後のもの、後のものである、かつまた、 〔五つの〕 範疇が 〔転起し〕 、かつまた、〔十八の〕 界域が 〔転起し〕、かつまた、 〔十二の認識の〕場所が転起する。ということで、「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」。

「かくのごとく見て、 〔賢者は〕家に居住しないように」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。諸々の我執〔の思い〕について、かくのごとく、見て、観て、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「かくのごとく見て」。「〔賢者は〕家に居住しないように」とは、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣袈裟をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、 〔世を〕 歩むべきであり、 〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、 〔行ないを〕守るべきであり、 〔身を〕 保つべきであり、 〔身を〕 保ち行くべきである。ということで、「かくのごとく見て、 〔賢者は〕 家に居住しないように」。

それによって、世尊は言った。

「わがものと 〔錯視〕されたもの (執着の対象) について、 〔世の〕 人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持 〔の対象〕 (所有物)は、常住のものとして存在しない。これは、変じ異なる状態として存在しているだけである。かくのごとく見て、 〔賢者は〕 家に居住しないように」と。
812. (806)それを、人が、「これは、わたしのものである」と思いなすも、それは、死によってもまた失われる。このことをもまた知って、賢者は、わたし(ブッダ) にならう者は、我執 〔の思い〕 に屈さないように。 (3)

「それは、死によってもまた失われる」とは、「死」とは、すなわち、それぞれの有情たちにとっての、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕 破壊、消没すること、死魔 〔との遭遇〕 、死、命終、諸々の 〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶である。「それ」とは、形態の在り方をしたもの、感受 〔作用〕 の在り方をしたもの、表象 〔作用〕の在り方をしたもの、諸々の形成 〔作用〕 の在り方をしたもの、識知〔作用〕の在り方をしたものである。「失われる」とは、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅する。まさに、このこともまた、語られた。

〔そこで、詩偈に言う〕「まさしく、 〔死の〕 前に、諸々の財物が、死すべき者 (人間)を捨棄する。あるいは、それより前に、死すべき者が、それらを捨棄する。欲するままに欲する者よ、財物ある者たちは、常久ならず。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない。

月は、満ち行き、円満し、滅し去る。日は、 〔闇を〕 滅却に据え置いて、去り行く。賊よ、世の諸法 (事物) は、わたしによって、 〔あるがままに〕知られた。それゆえに、憂いの時において、わたしは憂い悲しまない」と。

「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも、それは、死によってもまた失われる」とは、「それを」とは、形態の在り方をしたものを、感受〔作用〕 の在り方をしたものを、表象 〔作用〕 の在り方をしたものを、諸々の形成 〔作用〕の在り方をしたものを、識知 〔作用〕の在り方をしたものを。「人」とは、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為 (名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。「『これは、わたしのものである』と思いなすも」とは、渇愛の思いによって思いなし、見解の思いによって思いなし、思量の思いによって思いなし、〔心の〕 汚れの思いによって思いなし、悪しき行ないの思いによって思いなし、専念〔努力〕 加行 の思いによって思いなし、報い 異熟の思いによって思いなす。ということで、「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも」。

「このことをもまた知って、賢者は」とは、諸々の我執 〔の思い〕 について、この危険 患・過患を、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「このことをもまた知って」。「賢者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。ということで、「このことをもまた知って、賢者は」。

「わたし (ブッダ)にならう者は、我執 〔の思い〕 に屈さないように」とは、「我執(わがもの) 」とは、二つの我執がある。 (1) そして、渇愛の我執であり、 (2)さらに、見解の我執である。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の我執である。 (2)……略 ([180]参照)……これが、見解の我執である。「わたしにならう者」とは、覚者にならう者、法 (教え)にならう者、僧団にならう者。彼は、世尊をわがものとする。世尊は、その人を遍く収め取る。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、〔心が〕定められていない者たちであるなら、比丘たちよ、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちではありません。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え) と律から離れ去った者たちであり、さらに、彼らは、この法(教え) と律において、増大を 〔惹起せず〕 、成長を 〔惹起せず〕、広大を惹起しません。比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、〔心が〕善く定められた者たちであるなら、比丘たちよ、まさに、わたしにとって、それらの比丘たちは、わたしにならう者たちです。比丘たちよ、そして、それらの比丘たちは、この法(教え) と律から離れ去った者たちではなく、さらに、彼らは、この法(教え) と律において、増大を 〔惹起し〕 、成長を 〔惹起し〕、広大を惹起します。

〔そこで、詩偈に言う〕『虚言で、強情で、饒舌で、悪賢く、傲慢で、 〔心が〕定められていない者たち⸺彼らは、正等覚者によって説示された法 (教え)において成長しない。

虚言ならず、饒舌ならず、慧者にして、強情ならず、 〔心が〕 善く定められた者たち⸺彼らは、まさに、正等覚者によって説示された法 (教え) において成長する』」と。

「わたし (ブッダ)にならう者は、我執 〔の思い〕に屈さないように」とは、わたしにならう者は、渇愛の我執を捨棄して、見解の我執を放棄して、我執 〔の思い〕 に、屈するべきではなく、屈服するべきではなく、それに向かい行く者として 〔世に〕 存するべきではなく、それに傾倒する者として 〔世に存するべきでは〕 なく、それに傾斜する者として 〔世に存するべきでは〕 なく、それを信念した者として 〔世に存するべきでは〕 なく、それを優位とする者として 〔世に存するべきでは〕 ない。ということで、「わたしにならう者は、我執 〔の思い〕 に屈さないように」。

それによって、世尊は言った。

「それを、人が、『これは、わたしのものである』と思いなすも、それは、死によってもまた失われる。このことをもまた知って、賢者は、わたし(ブッダ) にならう者は、我執 〔の思い〕 に屈さないように」と。
813. (807)たとえば、また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が 〔もはや〕見ないように、このように、また、 〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、 〔誰も〕 見ない。(4)

「たとえば、また、夢で一緒になった者を」とは、 〔夢で〕 一緒になった者を、 〔夢で〕 遭遇した者を、〔夢で〕 集会した者を、 〔夢で〕集合した者を。ということで、「たとえば、また、夢で一緒になった者を」。「目覚めた人が 〔もはや〕 見ないように」とは、たとえば、人が、夢に赴いたなら、月を見、日を見、大海を見、山の王たるシネール須弥山 を見、象 〔兵〕 を見、馬 〔兵〕 を見、車〔兵〕 を見、歩 〔兵〕を見、軍勢を見、喜ばしき林園を見、喜ばしき林を見、喜ばしき地を見、喜ばしき蓮池を見るが、目覚めたなら、何であれ見ないように。ということで、「目覚めた人が〔もはや〕 見ないように」。

「このように、また、 〔かつて〕 愛された人も」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「 〔かつて〕 愛された人も」とは、わがものと 〔錯視〕された人で、あるいは、母を、あるいは、父を、あるいは、兄弟を、あるいは、姉妹を、あるいは、子を、あるいは、娘を、あるいは、朋友を、あるいは、僚友を、あるいは、親族を、あるいは、血縁を。ということで、「このように、また、〔かつて〕 愛された人も」。

「命を終えた亡者となるなら、 〔誰も〕 見ない」とは、亡者は、死んだ者と説かれる。命を終えた者を、 〔誰も〕 見ない、 〔誰も〕 視認しない、〔誰も〕 遭遇しない、 〔誰も〕見出さない、 〔誰も〕 獲得しない。ということで、「命を終えた亡者となるなら、〔誰も〕 見ない」。

それによって、世尊は言った。

「たとえば、また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が 〔もはや〕 見ないように、このように、また、 〔かつて〕愛された人も、命を終えた亡者となるなら、 〔誰も〕見ない」と。
814. (808)〔かつて〕 見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは、彼らのこの名前〔だけ〕が呼ばれるのであり、人が亡者となるなら、告げ知らすべきものとして、名前だけが残る。 (5)

〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは」とは、「 〔かつて〕見られもまたし」とは、すなわち、眼の識知 〔作用〕 によって対処された者たち(眼で認識された者たち) 。「聞かれもまたした」とは、すなわち、耳の識知〔作用〕 によって対処された者たち (耳で認識された者たち)。「それらの人たちは」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕 たち、そして、人間たちは。ということで、「 〔かつて〕 見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは」。

「彼らのこの名前 〔だけ〕が呼ばれるのであり」とは、「彼らの」とは、それらの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕 たち、人間たちの。「名前」とは、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称) 、命名、言語、字音、話法。「呼ばれるのであり」とは、〔彼は〕 説かれる、 〔彼は〕呼ばれる、 〔彼は〕 言説される、 〔彼は〕 発語される、 〔彼は〕 提示される、〔彼は〕 語用される。ということで、「彼らのこの名前 〔だけ〕 が呼ばれるのであり」。

「告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」とは、形態の在り方をしたもの、感受〔作用〕 の在り方をしたもの、表象 〔作用〕 の在り方をしたもの、諸々の形成 〔作用〕の在り方をしたもの、識知 〔作用〕の在り方をしたものが、失われ、捨棄され、喪失され、消没し、破滅し、名前だけが残る。「告げ知らすべきものとして」とは、告げ知らすために、言説するために、発語するために、提示するために、語用するために。ということで、「告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」。「人が亡者となるなら」とは、「亡者となるなら」とは、死んだなら、命を終えたなら。「人(ジャントゥ) が」とは、有情、人 (ナラ) 、人間 (マーナヴァ) 、人士(ポーサ) 、人物 (プッガラ)、生ある者、生に赴く者、人 (ジャントゥ)、死に至る者、マヌから生じる者が。ということで、「人が亡者となるなら」。

それによって、世尊は言った。

〔かつて〕見られもまたし、聞かれもまたした、それらの人たちは、彼らのこの名前 〔だけ〕が呼ばれるのであり、人が亡者となるなら、告げ知らすべきものとして、名前だけが残る」と。
815. (809)わがものと 〔錯視〕 されたものにたいし貪求 〔の思い〕 ある者たちは、憂いや嘆きや物惜 〔の思い〕を捨棄しない。それゆえに、牟尼 (沈黙の聖者) たちは、執持〔の対象〕 を捨棄して 〔世を〕歩んだ⸺ 〔無一物に〕 平安を見る者たちとなり。 (6)

「わがものと 〔錯視〕されたものにたいし貪求 〔の思い〕 ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕を捨棄しない」とは、「憂い」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂い、内なる焼悩、内なる遍き焼悩、心の遍き焼尽、失意、憂いの矢。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の……略……あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、心の、緊縮すること、収取あることである。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕 範疇の物惜もまた、物惜であり、 〔十八の〕 界域の物惜もまた、物惜であり、 〔十二の認識の〕場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。貪求は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([28]参照) ……強欲、貪欲(ローバ) 、善ならざるものの根元である。「我執 (わがもの) 」とは、二つの我執がある。 (1)そして、渇愛の我執であり、 (2) さらに、見解の我執である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の我執である。 (2) ……略 ([180]参照) ……これが、見解の我執である。わがものと 〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、略奪されつつあるときもまた憂い悲しみ、略奪されたときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた憂い悲しみ、変化しつつあるときもまた憂い悲しみ、変化したときもまた憂い悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、略奪の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、略奪されつつあるときもまた嘆き悲しみ、略奪されたときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕された事物に、変化の疑いある者たちとしてもまた嘆き悲しみ、変化しつつあるときもまた嘆き悲しみ、変化したときもまた嘆き悲しむ。わがものと〔錯視〕 された事物を、守護し、保護し、執持し、わがものとし、物惜する。わがものと〔錯視〕 された事物について、憂い 〔の思い〕 を捨棄せず、嘆き 〔の思い〕 を捨棄せず、物惜〔の思い〕 を捨棄せず、貪求 〔の思い〕を、捨棄せず、捨棄し去らず、除去せず、終息を為さず、状態なきへと至らせない。ということで、「わがものと 〔錯視〕 されたものにたいし貪求 〔の思い〕ある者たちは、憂いや嘆きや物惜 〔の思い〕 を捨棄しない」。

「それゆえに、牟尼 (沈黙の聖者) たちは、執持 〔の対象〕 を捨棄して〔世を〕 歩んだ⸺ 〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」とは、「それゆえに」とは、それゆえに、それを契機とすることから、それを因として、それを縁とすることから、それを因縁とすることから。諸々の我執〔の思い〕について、この危険を等しく見ている者たちは。ということで、「それゆえに」。「牟尼 (ムニ) たち」とは、沈黙 (モーナ)は、知恵と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([167]参照) ……迷妄なき、法(真理)の判別、正しい見解であり、その知恵を具備した者たちが、牟尼たちであり、沈黙に至り得た者たちである。三つの牟尼の資質がある。(1) 身体による牟尼の資質、 (2) 言葉による牟尼の資質、 (3)意による牟尼の資質である。……略 ([201-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。「執持 〔の対象〕」とは、二つの執持 〔の対象〕 がある。 (1) そして、渇愛の執持 〔の対象〕 であり、(2) さらに、見解の執持 〔の対象〕 である。 (1) ……略([179]参照) ……これが、渇愛の執持 〔の対象〕 である。 (2) ……略([180]参照) ……これが、見解の執持 〔の対象〕 である。牟尼たちは、渇愛の執持 〔の対象〕を遍捨して、見解の執持 〔の対象〕を、放棄して、捨て去って、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、 〔世を〕 歩んだ、 〔世に〕住んだ、振る舞った、行持した、 〔行ないを〕 守った、 〔身を〕 保った、 〔身を〕 保ち行った。「〔無一物に〕平安を見る者たちとなり」とは、平安は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「平安を見る者たち」とは、平安を見る者たち、救護所を見る者たち、避難所を見る者たち、帰依所を見る者たち、恐怖なきを見る者たち、死滅なきを見る者たち、不死を見る者たち、涅槃を見る者たち。ということで、「それゆえに、牟尼たちは、執持〔の対象〕 を捨棄して 〔世を〕歩んだ⸺ 〔無一物に〕 平安を見る者たちとなり」。

それによって、世尊は言った。

「わがものと 〔錯視〕されたものにたいし貪求 〔の思い〕 ある者たちは、憂いや嘆きや物惜〔の思い〕 を捨棄しない。それゆえに、牟尼 (沈黙の聖者) たちは、執持 〔の対象〕 を捨棄して〔世を〕 歩んだ⸺ 〔無一物に〕平安を見る者たちとなり。」と。
816. (810)〔欲望の対象から〕 退去して 〔世を〕 歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら⸺ 〔彼のことを、賢者たちは〕 「彼にとって、それ (遠離の坐所) は、 〔比丘として〕ふさわしいことである」 〔と〕 言う⸺彼が、 〔迷いの〕 生存域において、 〔彼の〕自己を見せないなら。 (7)

〔欲望の対象から〕退去して 〔世を〕 歩む比丘が」とは、退去して 〔世を〕 歩む者たちは、七者の 〔いまだ〕 学びある者七有学:預流道・預流果・一来道・一来果・不還道・不還果・阿羅漢道) と説かれる。阿羅漢は、 〔すでに〕 退去した者である。何を契機とすることから、退去して 〔世を〕 歩む者たちは、七者の 〔いまだ〕学びある者と説かれるのか。彼らは、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕 保ち行く。たとえば、あるいは、鶏の羽が、あるいは、腱の削り滓(薄片) が、火に投げ放たれたなら、退去し、収縮し、反転し、〔もはや〕伸展されることがないように、まさしく、このように、そこかしこから、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕保ち行き、眼の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕保ち行き、耳の門において、心を……略……鼻の門において、心を……舌の門において、心を……身の門において、心を……意の門において、心を、退去させつつ、収縮させつつ、反転させつつ、等しく抑制しつつ、等しく制御しつつ、等しく防護しつつ、守護しつつ、保護しつつ、〔世を〕 歩み、 〔世を〕行じ歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕 保ち行く。それを契機とすることから、退去して 〔世を〕 歩む者たちは、七者の 〔いまだ〕学びある者と説かれる。「比丘が」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘が、あるいは、 〔いまだ〕 学びある比丘が。ということで、「 〔欲望の対象から〕 退去して 〔世を〕歩む比丘が」。

「遠離の坐所に親しんでいるなら」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。その坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる臭気を嗅ぐことから……正当ならざる味感を味わうことから……正当ならざる感触と接触することから……正当ならざる五つの欲望の属性五妙欲 :色・声・香・味・触)から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その遠離の坐所に、親しんでいるなら、等しく親しんでいるなら、慣れ親しんでいるなら、慣用しているなら、等しく慣れ親しんでいるなら、受用しているなら。ということで、「遠離の坐所に親しんでいるなら」。

〔彼のことを、賢者たちは〕 『彼にとって、それ (遠離の坐所) は、 〔比丘として〕ふさわしいことである』 〔と〕 言う⸺彼が、 〔迷いの〕 生存域において、 〔彼の〕自己を見せないなら」とは、「ふさわしいこと」とは、三つのふさわしいことがある。 (1) 衆徒としてふさわしいこと、 (2)(教え) としてふさわしいこと、 (3) 結実なきもの (不生のもの)としてふさわしいことである。 (1)どのようなものが、衆徒としてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘たちがいるとして、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、乳と水のように成り、互いに他を愛ある眼で等しく見ながら、〔世に〕 住む。これが、衆徒としてふさわしいことである。 (2) どのようなものが、法 (教え)としてふさわしいことであるのか。四つの気づきの確立 四念住・四念処 :身体と感受と心と法についての気づき) 、四つの正しい精励四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場 四神足:意欲・専心・精進・考察) 、五つの機能 五根:信・精進・気づき・禅定・智慧) 、五つの力 五力 :信・精進・気づき・禅定・智慧) 、七つの覚りの支分 七覚支 :気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道 八正道八聖道 :正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)があり、それらが、一致して、 〔涅槃に〕跳入し、清信し、等しく確立し、解脱する。それらの法 (教え) に、論争は〔存在せず〕 、異論は存在しない (互いに他と矛盾しない) 。これが、法 (教え)としてふさわしいことである。 (3)どのようなものが、結実なきものとしてふさわしいことであるのか。たとえ、もし、多くの比丘たちが、 〔生存の〕 依り所という残りものがない涅槃の界域 無余依涅槃界において、完全なる涅槃に到達するとして、彼らの、涅槃の界域における、あるいは、不足が 〔覚知されることもなく〕、あるいは、満杯が覚知されることもない。これが、結実なきものとしてふさわしいことである。「 〔迷いの〕 生存域において」とは、地獄にある者たちにとって、地獄は、 〔彼らの〕 生存域であり、畜生の胎ある者たちにとって、畜生の胎は、 〔彼らの〕 生存域であり、餓鬼の境域ある者たちにとって、餓鬼の境域は、 〔彼らの〕 生存域であり、人間たちにとって、人間の世は、 〔彼らの〕 生存域であり、天 〔の神々〕たちにとって、天の世は、 〔彼らの〕 生存域である。「 〔彼のことを、賢者たちは〕 『彼にとって、それ (遠離の坐所) は、 〔比丘として〕ふさわしいことである』 〔と〕 言う⸺彼が、 〔迷いの〕 生存域において、 〔彼の〕自己を見せないなら」とは、 〔彼のことを、賢者たちは〕「彼にとって、これは、ふさわしいことである、これは、適合するものである、これは、適切なるものである、これは、至当なるものである、これは、随順するものである⸺彼が、このように、覆い隠されたところである地獄において、自己を見せないなら、畜生の胎において、自己を見せないなら、餓鬼の境域において、自己を見せないなら、人間の世において、自己を見せないなら、天の世において、自己を見せないなら」と、このように言い、このように言説し、このように発語し、このように提示し、このように語用する。ということで、「〔彼のことを、賢者たちは〕 『彼にとって、それは、 〔比丘として〕 ふさわしいことである』 〔と〕言う⸺彼が、 〔迷いの〕 生存域において、 〔彼の〕 自己を見せないなら」。

それによって、世尊は言った。

〔欲望の対象から〕退去して 〔世を〕 歩む比丘が、遠離の坐所に親しんでいるなら⸺〔彼のことを、賢者たちは〕 『彼にとって、それ (遠離の坐所) は、 〔比丘として〕ふさわしいことである』 〔と〕 言う⸺彼が、 〔迷いの〕 生存域において、 〔彼の〕自己を見せないなら」と。
817. (811)一切所において、牟尼は、依存なき者となり、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも 〔作ら〕 ない。彼のうちに、嘆きや物惜 〔の思い〕〔存在しない〕 ⸺たとえば、 〔蓮の〕 葉に、水が着かないように。 (8)

「一切所において、牟尼は、依存なき者となり」とは、一切は、十二の〔認識の〕 場所 十二処と説かれる。まさしく、そして、眼であり、さらに、諸々の形態であり、そして、耳であり、さらに、諸々の音声であり、そして、鼻であり、さらに、諸々の臭気であり、そして、舌であり、さらに、諸々の味感であり、そして、身であり、さらに、諸々の感触であり、そして、意であり、さらに、諸々の法(意の対象) である。「牟尼 (ムニ) 」とは、沈黙 (モーナ)は、知恵と説かれる。……略 ([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。「依存なき者となり」とは、二つの依所 (依存の対象) がある。 (1)そして、渇愛の依所であり、 (2) さらに、見解の依所である。(1) ……略 ([179]参照)……これが、渇愛の依所である。 (2) ……略 ([180]参照)……これが、見解の依所である。牟尼は、渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に…… 〔行乞の〕 施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) に……欲望の界域 欲界 に……形態の界域 色界に……形態なき界域 無色界に……欲望の生存 欲有 に……形態の生存色有 に……形態なき生存無色有 に……表象の生存想有 に……表象なき生存無想有に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存 非想非非想有 に……一つの組成としての生存 (色蘊のみを有する生存) に……四つの組成としての生存 (色蘊以外の四蘊を有する生存) に……五つの組成としての生存 (五蘊すべてを有する生存)に……過去に……未来に……現在に……見られたものに……聞かれたものに……思われたものに……識られたものに……一切の法(事象) に、依存しない者として、 〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「一切所において、牟尼は、依存なき者となり」。

「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも 〔作ら〕 ない」とは、「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。 (1) あるいは、有情たちであり、 (2)あるいは、諸々の形成 〔作用〕 諸行 :形成されたもの・現象世界) である。 (1) どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕 有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2) どのようなものが、諸々の愛しい形成 〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕 である。「愛しくないもの」とは、二つの愛しくないものがある。(1) あるいは、有情たちであり、 (2) あるいは、諸々の形成 〔作用〕諸行 :形成されたもの・現象世界) である。(1)どのような者たちが、愛しくない有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、 〔彼の〕(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲し、生命を奪うことを欲する者たちとして 〔世に〕 有るなら、これらの者たちが、愛しくない有情たちである。 (2) どのようなものが、諸々の愛しくない形成 〔作用〕であるのか。諸々の意に適わない形態、諸々の意に適わない音声、諸々の意に適わない臭気、諸々の意に適わない味感、諸々の意に適わない感触である。これらが、諸々の愛しくない形成〔作用〕 である。「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない」とは、「この者は、わたしにとって、愛しい有情である。そして、これらは、諸々の愛しい形成 〔作用〕 である」と、貪欲 〔の思い〕を所以に、愛しいものを作らない。「この者は、わたしにとって、愛しくない有情である。そして、これらは、諸々の愛しくない形成〔作用〕 である」と、敵対 〔の思い〕を所以に、愛しくないものを、作らず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕 ない」。

「彼のうちに、嘆きや物惜 〔の思い〕〔存在しない〕 ⸺たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、「彼のうちに」とは、その人のうちに、阿羅漢のうちに、煩悩の滅尽者のうちに。「嘆き」とは、あるいは、親族の災厄に襲われた者の、あるいは、財物の災厄に襲われた者の、あるいは、病の災厄に襲われた者の、あるいは、戒の災厄に襲われた者の、あるいは、見解の災厄に襲われた者の、あるいは、何らかの或る災厄を具備した者の、あるいは、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあること、言葉の騒ぎ、大騒ぎ、泣き叫び、泣き叫ぶこと、泣き叫びあること。「物惜」とは、五つの物惜がある。居住の物惜、家の物惜、利得の物惜、栄誉の物惜、法(教え)の物惜である。すなわち、このような形態の、物惜、物惜すること、物惜あること、物欲、吝嗇、心の、緊縮すること、収取あることである。これが、物惜と説かれる。さらに、また、〔五つの〕 範疇の物惜もまた、物惜であり、 〔十八の〕 界域の物惜もまた、物惜であり、 〔十二の認識の〕 場所の物惜もまた、物惜であり、収取である。これが、物惜と説かれる。

「たとえば、 〔蓮の〕葉に、水が着かないように」とは、葉は、蓮華の葉と説かれる。水 (ヴァーリ) は、水(ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように、まさしく、このように、その人に、阿羅漢に、煩悩の滅尽者に、嘆き〔の思い〕 は、さらに、物惜 〔の思い〕は、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあり、そして、阿羅漢であるその人は、それらの〔心の〕汚れによって、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「彼のうちに、嘆きや物惜 〔の思い〕〔存在しない〕 ⸺たとえば、〔蓮の〕 葉に、水が着かないように」。

それによって、世尊は言った。

「一切所において、牟尼は、依存なき者となり、愛しいものを作らず、また、愛しくないものも 〔作ら〕 ない。彼のうちに、嘆きや物惜 〔の思い〕〔存在しない〕 ⸺たとえば、 〔蓮の〕 葉に、水が着かないように」と。
818. (812)たとえば、また、蓮 〔の葉〕 に、水滴が 〔着かない〕ように、⸺たとえば、蓮華に、水が着かないように⸺このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕 、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない。 (9)

「たとえば、また、蓮 〔の葉〕 に、水滴が 〔着かない〕ように」とは、水滴は、水のしたたりと説かれる。蓮は、蓮華の葉と説かれる。たとえば、水滴が、蓮華の葉に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「たとえば、また、蓮〔の葉〕 に、水滴が 〔着かない〕ように」。「たとえば、蓮華に、水が着かないように」とは、蓮華は、蓮華の花と説かれる。水 (ヴァーリ) は、水 (ウダカ)と説かれる。たとえば、水が、蓮華の花に、着かず、強く着かず、近しく着かず、着くことなくあり、強く着くことなくあり、近しく着くことなくあるように。ということで、「たとえば、蓮華に、水が着かないように」。

「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「牟尼 (ムニ) 」とは、沈黙 (モーナ)は、知恵と説かれる。……略 ([200-209]参照)……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。「汚れ」とは、二つの汚れがある。 (1) そして、渇愛の汚れであり、 (2)さらに、見解の汚れである。 (1) ……略 ([179]参照) ……これが、渇愛の汚れである。 (2)……略 ([180]参照)……これが、見解の汚れである。牟尼は、渇愛の汚れを捨棄して、見解の汚れを放棄して、見られたものについて汚されず、聞かれたものについて汚されず、思われたものについて汚されず、識られたものについて、汚されず、強く汚されず、近しく汚されず、汚されない者として、強く汚されない者として、近しく汚されない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕住む。ということで、「このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕 、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」。

それによって、世尊は言った。

「たとえば、また、蓮 〔の葉〕 に、水滴が 〔着かない〕ように⸺たとえば、蓮華に、水が着かないように⸺このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕 、あるいは、諸々の思われたものについて汚されない」と。
819. (813)まさに、 〔汚れを払った〕 清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕 、あるいは、諸々の思われたものについて 〔汚されず〕 、それ (見られ聞かれたもの)によって思い考えない。 〔彼は〕 他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕 染まらず、離貪もしないのだから。 (10)

「まさに、 〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて 〔汚されず〕 、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない」とは、「清き者」とは、清きは、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略 ([167]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。何を契機とすることから、清きは、智慧と説かれるのか。その智慧によって、身体による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、言葉による悪しき行ないが……略……意による悪しき行ないが、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、貪欲が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、憤怒が……迷妄が……忿激が……怨恨が……偽装が……加虐が……物惜が……幻惑が……狡猾が……強情が……激昂が……思量が……高慢が……驕慢が……放逸が……一切の〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。それを契機とすることから、清きは、智慧と説かれる。

さらに、あるいは、正しい見解 正見 によって、誤った見解 邪見が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい思惟 正思惟 によって、誤った思惟 邪思惟が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められ、正しい言葉 正語 によって、誤った言葉 邪語 が、かつまた、払拭され……正しい行業 正業 によって、誤った行業 邪業 が、かつまた、払拭され……正しい生き方 正命 によって、誤った生き方 邪命 が、かつまた、払拭され……正しい努力正精進 によって、誤った努力邪精進が、かつまた、払拭され……正しい気づき 正念 によって、誤った気づき 邪念 が、かつまた、払拭され……正しい禅定 正定 によって、誤った禅定 邪定 が、かつまた、払拭され……正しい知恵 正智 によって、誤った知恵 邪智 が、かつまた、払拭され……正しい解脱 正解脱 によって、誤った解脱 邪解脱が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。

さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道 八正道八聖道によって、一切の 〔心の〕汚れが……一切の悪しき行ないが……一切の懊悩が……一切の苦悶が……一切の熱苦が……一切の善ならざる行作が、かつまた、払拭され、かつまた、洗浄され、かつまた、等しく洗浄され、かつまた、洗い清められている。阿羅漢は、これらの清き法(性質)を、具した者であり、具完した者であり、所有した者であり、完備した者であり、具有した者であり、完有した者であり、具備した者であり、それゆえに、阿羅漢は、清き者である。彼は、貪欲を払拭した者であり、悪を払拭した者であり、〔心の〕汚れを払拭した者であり、苦悶を払拭した者である。ということで、「清き者」。

「まさに、 〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて 〔汚されず〕 、それ(見られ聞かれたもの)によって思い考えない」とは、清き者は、見られたものを思い考えず、見られたものについて思い考えず、見られたもの 〔の観点〕から思い考えず、見られたものを、「わたしのものである」と思い考えず、聞かれたものを思い考えず、聞かれたものについて思い考えず、聞かれたもの〔の観点〕から思い考えず、聞かれたものを、「わたしのものである」と思い考えず、思われたものを思い考えず、思われたものについて思い考えず、思われたもの〔の観点〕から思い考えず、思われたものを、「わたしのものである」と思い考えず、識られたものを思い考えず、識られたものについて思い考えず、識られたもの〔の観点〕から思い考えず、識られたものを、「わたしのものである」と思い考えない。まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、『〔わたしは〕存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『これは、わたしとして存在する』とは、これは、思い考えられたものです。『〔わたしは〕 有るであろう (永存する) 』とは、これは、思い考えられたものです。『 〔わたしは〕 有ることなくあるであろう (消滅する)』とは、これは、思い考えられたものです。『形態ある者として、 〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『形態なき者として、 〔わたしは〕 有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象なき者として、 〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、 〔わたしは〕有るであろう』とは、これは、思い考えられたものです。比丘たちよ、思い考えられたものは、病です。思い考えられたものは、腫物です。思い考えられたものは、矢です。思い考えられたものは、禍です。比丘たちよ、それゆえに、ここに、『〔わたしたちは〕 思い考えることなき心によって 〔世に〕 住むのだ』と、比丘たちよ、まさに、このように、あなたたちは学ぶべきです」 〔と〕 。ということで、「まさに、 〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて 〔汚されず〕、それによって思い考えない」。

〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない」とは、清き者は、 〔四つの〕気づきの確立より他の、 〔四つの〕 正しい精励より他の、 〔四つの〕 神通の足場より他の、 〔五つの〕機能より他の、 〔五つの〕 力より他の、 〔七つの〕 覚りの支分より他の、聖なる八つの支分ある道より他の、 〔それらとは〕 他のものである、清浄ならざる道によって、誤った 〔実践の〕道によって、出脱ならざる道によって、清らかさを、清浄を、完全なる清浄を、解き放ちを、解脱を、完全なる解脱を、欲求せず、愛用せず、切望せず、熱望せず、渇望しない。ということで、「〔彼は〕 他のものによって、清浄を求めない」。

「なぜなら、彼は、 〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」とは、愚者である凡夫は、全ての者たちが、 〔欲に〕染まり (貪欲する) 、七者の 〔いまだ〕 学びある者は、善き凡夫と比較して、離貪し (欲に染まらない) 、阿羅漢は、まさしく、 〔欲に〕染まることもなく、離貪することもない。彼は、 〔すでに〕 離貪した者として〔世に有る〕⸺貪欲の滅尽あることから、貪欲が離れたことから、憤怒の滅尽あることから、憤怒が離れたことから、迷妄の滅尽あることから、迷妄が離れたことから。彼は、住することを住した者(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ者……略 ([80-82]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「なぜなら、彼は、 〔欲に〕染まらず、離貪もしないのだから」。

それによって、世尊は言った。

「まさに、 〔汚れを払った〕清き者は、すなわち、この、見られ聞かれたものに 〔依存せず〕、あるいは、諸々の思われたものについて 〔汚されず〕 、それ(見られ聞かれたもの) によって思い考えない。 〔彼は〕 他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、 〔欲に〕 染まらず、離貪もしないのだから」と。

老の経についての釈示が、第六となる。

注釈【0】