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翻訳【5】

醍醐の甘露についての言説

【86】「比丘たちよ、この梵行は醍醐の甘露であり、教師は面前の状態にあります」 〔と〕。三種の醍醐がある。教師が面前の者として有るとき、説示の醍醐があり、納受者の醍醐があり、梵行の醍醐がある。

どのようなものが、説示の醍醐であるのか。四つの聖なる真理を、告げ知らせること、説示すること、報知すること、確立すること、開顕すること、区分すること、明瞭にする行為であり、四つの気づきの確立を……略……四つの正しい精励を……四つの神通の足場を……五つの機能を……五つの力を……七つの覚りの支分を……聖なる八つの支分ある道を、告げ知らせること、説示すること、報知すること、確立すること、開顕すること、区分すること、明瞭にする行為である。これが、説示の醍醐である。

どのようなものが、納受者の醍醐であるのか。比丘たち、比丘尼たち、在俗信者優婆塞 たち、女性在俗信者優婆夷 たち、天 〔の神々〕たち、人間たち、また、あるいは、すなわち、他のまた、誰であれ、識知者たちである。これが、納受者の醍醐である。

どのようなものが、梵行の醍醐であるのか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道である。それは、すなわち、この、正しい見解正見 であり、正しい思惟正思惟 であり、正しい言葉正語 であり、正しい行業正業 であり、正しい生き方正命 であり、正しい努力正精進 であり、正しい気づき正念 であり、正しい禅定正定である。これが、梵行の醍醐である。

信念の醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。不信の苦味を捨てて、信の機能の、 【87】信念の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、精進の機能である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進の機能の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。現起の醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきの機能の、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐は、禅定の機能である。 〔心の〕 高揚は、苦味である。〔心の〕 高揚の苦味を捨てて、禅定の機能の、 〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。 〔あるがままの〕見の醍醐は、智慧の機能である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、智慧の機能の、 〔あるがままの〕 見の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。不信の苦味を捨てて、信の力の、不信にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進の力の、怠惰にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきの力の、放逸にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕 高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。 〔心の〕 高揚は、苦味である。 〔心の〕高揚の苦味を捨てて、禅定の力の、 〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、智慧の力の、無明にたいする、不動の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。放逸の苦味を捨てて、気づきという正覚の支分の、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。精査の醍醐は、法(真理) の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。無明の苦味を捨てて、法(真理)の判別という正覚の支分の、精査の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。怠惰は、苦味である。怠惰の苦味を捨てて、精進という正覚の支分の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。苦悶の苦味を捨てて、喜悦という正覚の支分の、充満の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。寂止の醍醐は、【88】静息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。邪気の苦味を捨てて、静息という正覚の支分の、寂止の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐は、禅定という正覚の支分である。 〔心の〕 高揚は、苦味である。〔心の〕 高揚の苦味を捨てて、禅定という正覚の支分の、 〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なき 〔状態〕 は、苦味である。審慮なき 〔状態〕の苦味を捨てて、放捨という正覚の支分の、審慮の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。誤った見解の苦味を捨てて、正しい見解の、 〔あるがままの〕 見の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。 〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。誤った思惟の苦味を捨てて、正しい思惟の、 〔正しく心を〕固定することの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。誤った言葉の苦味を捨てて、正しい言葉の、遍き収取の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。誤った行業は、苦味である。誤った行業の苦味を捨てて、正しい行業の、等しく現起するものの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。誤った生き方の苦味を捨てて、正しい生き方の、浄化するものの醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。励起の醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。誤った努力の苦味を捨てて、正しい努力の、励起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。現起の醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。誤った気づきの苦味を捨てて、正しい気づきの、現起の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。誤った禅定は、苦味である。誤った禅定の苦味を捨てて、正しい禅定の、 〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐を飲む、ということで、醍醐の甘露となる。

醍醐が存在し、甘露が存在し、苦味が存在する。信念の醍醐は、信の機能である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、精進の機能である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、【89】(意味)の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。現起の醍醐は、気づきの機能である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔心の〕 散乱なき〔状態〕 の醍醐は、禅定の機能である。 〔心の〕 高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔あるがままの〕見の醍醐は、智慧の機能である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味)の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。不信は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。それが、そこにおいて、義 (意味)の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。放逸は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。精査の醍醐は、法 (真理)の判別という正覚の支分である。無明は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味)の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。怠惰は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。苦悶は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。寂止の醍醐は、静息という正覚の支分である。邪気は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔心の〕 散乱なき〔状態〕 の醍醐は、禅定という正覚の支分である。 〔心の〕 高揚は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。審慮なき 〔状態〕 は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。誤った見解は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。誤った思惟は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。誤った言葉は、苦味である。それが、そこにおいて、【90】(意味)の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。誤った行業は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。誤った生き方は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。励起の醍醐は、正しい努力である。誤った努力は、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。現起の醍醐は、正しい気づきである。誤った気づきは、苦味である。それが、そこにおいて、義(意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。 〔心の〕 散乱なき〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。誤った禅定は、苦味である。それが、そこにおいて、義 (意味) の味であり、法 (教え)の味であり、解脱の味であるなら、これは、甘露である。

〔あるがままの〕見の醍醐は、正しい見解である。 〔正しく心を〕固定することの醍醐は、正しい思惟である。遍き収取の醍醐は、正しい言葉である。等しく現起するものの醍醐は、正しい行業である。浄化するものの醍醐は、正しい生き方である。励起の醍醐は、正しい努力である。現起の醍醐は、正しい気づきである。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐は、正しい禅定である。

現起の醍醐は、気づきという正覚の支分である。精査の醍醐は、法(真理)の判別という正覚の支分である。励起の醍醐は、精進という正覚の支分である。充満の醍醐は、喜悦という正覚の支分である。寂止の醍醐は、静息という正覚の支分である。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕の醍醐は、禅定という正覚の支分である。審慮の醍醐は、放捨という正覚の支分である。

不信にたいする、不動の醍醐は、信の力である。怠惰にたいする、不動の醍醐は、精進の力である。放逸にたいする、不動の醍醐は、気づきの力である。〔心の〕高揚にたいする、不動の醍醐は、禅定の力である。無明にたいする、不動の醍醐は、智慧の力である。

信念の醍醐は、信の機能である。励起の醍醐は、精進の機能である。現起の醍醐は、気づきの機能である。 〔心の〕 散乱なき 〔状態〕 の醍醐は、禅定の機能である。〔あるがままの〕 見の醍醐は、智慧の機能である。

優位の義 (意味)によって、 〔五つの〕 機能が、醍醐となる。不動の義 (意味) によって、 〔五つの〕力が、醍醐となる。出脱の義 (意味) によって、 〔七つの〕 覚りの支分が、醍醐となる。因の義 (意味)によって、 〔聖なる八つの支分ある〕 道が、醍醐となる。現起の義(意味) によって、 〔四つの〕気づきの確立が、醍醐となる。精励の義 (意味) によって、 〔四つの〕 正しい精励が、醍醐となる。実現の義 (意味)によって、 〔四つの〕 神通の足場が、醍醐となる。真実の義 (意味) によって、 〔四つの〕 真理が、醍醐となる。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕 の義(意味) によって、 〔心の〕止寂が、醍醐となる。随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、醍醐となる。一味の義 (意味)によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察が、醍醐となる。 〔相互に〕超克なきことの義 (意味) によって、双連 〔の法〕 (心の止寂とあるがままの観察)が、醍醐となる。統御の義 (意味) によって、戒の清浄が、醍醐となる。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕 の義(意味) によって、心の清浄が、醍醐となる。 〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、見解の清浄が、醍醐となる。 【91】 解き放ちの義(意味) によって、解脱が、醍醐となる。理解の義 (意味) によって、明知が、醍醐となる。遍捨の義 (意味)によって、解脱が、醍醐となる。断絶の義 (意味)によって、滅尽についての知恵が、醍醐となる。安息の義 (意味)によって、生起なきものについての知恵が、醍醐となる。欲 〔の思い〕(意欲) が、根元の義 (意味)によって、醍醐となる。意を為すことが、等しく現起するものの義 (意味)によって、醍醐となる。接触が、配備の義 (意味)によって、醍醐となる。感受が、集結の義 (意味)によって、醍醐となる。禅定が、筆頭の義 (意味)によって、醍醐となる。気づきが、優位の義 (意味)によって、醍醐となる。智慧が、それをより上とすることの義 (意味)によって、醍醐となる。解脱が、真髄の義 (意味)によって、醍醐となる。不死への沈潜たる涅槃が、結末の義 (意味)によって、醍醐となる。ということで⸺

〔以上が〕 第四の朗読分となる。

醍醐についての言説は 〔以上で〕 終了となる。

大いなるものの章が、第一となる。

そのための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕 「そして、知恵と見解、呼吸、機能、第五に解脱、 〔死後の〕 境遇、行為と転倒、道があり、醍醐とともに、それらの十がある」と。

これは、諸々の部類の保持をもって据え置かれたものであり、同等のものなく、第一のものにして、最も優れたものであり、「優れた章」と〔説かれる〕

注釈【0】