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翻訳【5】

双連のものについての言説

【92】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいる。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、比丘たちに語りかけた。「友よ、比丘たちよ」と。「友よ」と、まさに、それらの比丘たちは、尊者アーナンダに答えた。尊者アーナンダは、こう言った。

「友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、全てにあまねく、四つの道によります⸺あるいは、これら〔の四つの道〕のなかのどれか一つによって。どのようなものが、四つのものなのですか。

「友よ、ここに、比丘が、 〔心の〕 止寂 奢摩他・止:集中瞑想) を先行とする 〔あるがままの〕 観察毘鉢舎那・観 :観察瞑想)を修行します。彼が、 〔心の〕 止寂を先行とする 〔あるがままの〕観察を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するもの は捨棄され、諸々の悪習随眠 :潜在煩悩) は終息と成ります。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、 〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕止寂を修行します。彼が、 〔あるがままの〕 観察を先行とする〔心の〕止寂を修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

友よ、さらに、また、他に、比丘が、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します。彼が、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行していると、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、【93】多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

友よ、さらに、また、他に、比丘に、法 (教え) にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。友よ、すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に、道が生み出されます。彼は、その道を、習修し、修め、多く為します。彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります。

友よ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、比丘が、あるいは、比丘尼が、わたしの現前において、阿羅漢の資質に至り得ることを説き明かすなら、全てにあまねく、四つの道によります⸺あるいは、これら〔の四つの道〕 のなかのどれか一つによって」と。

2.1.1. 経典についての釈示

どのように、 〔心の〕止寂を先行とする 〔あるがままの〕観察を修行するのか。離欲を所以にする、心の一境性と散乱なき 〔状態〕が、禅定となる。そこにおいて生じた諸法 (性質)〔対象とする〕 、無常 〔の観点〕 からの随観の義(意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、苦痛 〔の観点〕からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、無我 〔の観点〕からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となる。かくのごとく、最初に、 〔心の〕 止寂があり、最後に、 〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「 〔心の〕 止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法 (性質) の、 〔相互に〕 超克なきこと(他を遮らずに併存すること) の義 (意味) によって、修行となる。 〔五つの〕 機能の、一味(作用・働きを同じくすること) の義 (意味) によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義 (意味) によって、修行となる。習修の義 (意味)によって、修行となる。

「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、正しい見解という道が生み出される。 〔正しく心を〕 固定することの義(意味) によって、正しい思惟という道が生み出される。遍き収取の義(意味) によって、正しい言葉という道が生み出される。等しく現起するものの義(意味) によって、正しい行業という道が生み出される。浄化するものの義(意味) によって、正しい生き方という道が生み出される。励起の義(意味) によって、正しい努力という道が生み出される。現起の義(意味) によって、正しい気づきという道が生み出される。 〔心の〕 散乱なき 〔状態〕 の義(意味)によって、正しい禅定という道が生み出される。このように、道が生み出される。

「彼は、その道を、習修し、修め、多く為します」 〔とは〕 ⸺「習修し」とは、どのように、習修するのか。 〔心を〕 傾注している者として習修し、 〔あるがままに〕知っている者として習修し、 〔あるがままに〕 見ている者として習修し、〔あるがままに〕 注視している者として習修し、 【94】心を確立している者として習修し、信によって信念している者として習修し、精進を励起している者として習修し、気づきを現起させている者として習修し、心を定めている者として習修し、智慧によって覚知している者として習修し、証知されるべきものを証知している者として習修し、遍知されるべきものを遍知している者として習修し、捨棄されるべきものを捨棄している者として習修し、修行されるべきものを修行している者として習修し、実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。

「修め」とは、どのように、修めるのか (修行するのか)〔心を〕 傾注している者として修め、〔あるがままに〕 知っている者として修め、 〔あるがままに〕 見ている者として修め、 〔あるがままに〕注視している者として修め、心を確立している者として修め、信によって信念している者として修め、精進を励起している者として修め、気づきを現起させている者として修め、心を定めている者として修め、智慧によって覚知している者として修め、証知されるべきものを証知している者として修め、遍知されるべきものを遍知している者として修め、捨棄されるべきものを捨棄している者として修め、修行されるべきものを修めている者として修め、実証されるべきものを実証している者として修める。このように、修める。

「多く為します」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕 傾注している者として多く為し、 〔あるがままに〕 知っている者として多く為し、 〔あるがままに〕 見ている者として多く為し、 〔あるがままに〕注視している者として多く為し、心を確立している者として多く為し、信によって信念している者として多く為し、精進を励起している者として多く為し、気づきを現起させている者として多く為し、心を定めている者として多く為し、智慧によって覚知している者として多く為し、証知されるべきものを証知している者として多く為し、遍知されるべきものを遍知している者として多く為し、捨棄されるべきものを捨棄している者として多く為し、修行されるべきものを修行している者として多く為し、実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

「彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。預流道によって、身体を有するという見解、疑惑〔の思い〕、戒や掟への偏執が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑 〔の思い〕 の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕という束縛するもの、 〔粗大なる〕 敵対 〔の思い〕 という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習、 〔粗大なる〕 敵対〔の思い〕 の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細なる〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕という束縛するもの、 【95】 〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細なる 〔状態〕を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対〔の思い〕 の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態(色界) にたいする貪り 〔の思い〕 、形態なきもの (無色界) にたいする貪り〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪り 〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

憎悪 〔の思い〕 なき〔生き方〕 を所以にする、心の一境性と散乱なき 〔状態〕 が、禅定となる。……略……。光明の表象を所以にする、心の一境性と散乱なき 〔状態〕 が、禅定となる。……略 ([554–555]参照)……。放棄の随観ある、出息を所以にする……。放棄の随観ある、入息を所以にする、心の一境性と散乱なき 〔状態〕 が、禅定となる。そこにおいて生じた諸法 (性質)〔対象とする〕 、無常 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、〔あるがままの〕 観察となり、苦痛 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、〔あるがままの〕 観察となり、無我 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、〔あるがままの〕 観察となる。かくのごとく、最初に、 〔心の〕 止寂があり、最後に、 〔あるがままの〕観察がある。それによって説かれる。「 〔心の〕 止寂を先行とする〔あるがままの〕観察を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。そこにおいて生じた諸法 (性質) の、 〔相互に〕 超克なきこと(他を遮らずに併存すること) の義 (意味) によって、修行となる。 〔五つの〕 機能の、一味(作用・働きを同じくすること) の義 (意味) によって、修行となる。それに近しく赴く精進をもたらすものの義 (意味) によって、修行となる。習修の義 (意味)によって、修行となる。

「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、正しい見解という道が生み出される。 〔正しく心を〕 固定することの義(意味) によって、正しい思惟という道が生み出される。……略……。〔心の〕 散乱なき 〔状態〕 の義(意味)によって、正しい禅定という道が生み出される。このように、道が生み出される。

「彼は、その道を、習修し、修め、多く為します」 〔とは〕 ⸺「習修し」とは、どのように、習修するのか。 〔心を〕傾注している者として習修し……略……。実証されるべきものを実証している者として習修する。このように、習修する。「修め」とは、どのように、修めるのか。〔心を〕 傾注している者として修め、 〔あるがままに〕知っている者として修め……略……。実証されるべきものを実証している者として修める。このように、修める。「多く為します」とは、どのように、多く為すのか。〔心を〕 傾注している者として多く為し、 〔あるがままに〕知っている者として多く為し……略……。実証されるべきものを実証している者として多く為す。このように、多く為す。

「彼が、その道を、習修し、修め、多く為していると、諸々の束縛するものは捨棄され、諸々の悪習は終息と成ります」とは、どのように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成るのか。【96】 預流道によって、身体を有するという見解、疑惑 〔の思い〕 、戒や掟への偏執が、これらの三つの束縛するものが捨棄され、見解の悪習、疑惑〔の思い〕 の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。一来道によって、粗大なる欲望〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 という束縛するもの、 〔粗大なる〕 敵対〔の思い〕 という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、粗大なる欲望〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習、 〔粗大なる〕 敵対〔の思い〕 の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。不還道によって、微細なる〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕という束縛するもの、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕 という束縛するものが、これらの二つの束縛するものが捨棄され、微細なる 〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り〔の思い〕 の悪習、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕の悪習が、これらの二つの悪習が終息と成る。阿羅漢道によって、形態 (色界)にたいする貪り 〔の思い〕 、形態なきもの (無色界) にたいする貪り 〔の思い〕、思量、高揚、無明が、これらの五つの束縛するものが捨棄され、思量の悪習、生存にたいする貪り 〔の思い〕の悪習、無明の悪習が、これらの三つの悪習が終息と成る。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔心の〕 止寂を先行とする 〔あるがままの〕 観察を修行する。

どのように、 〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕止寂を修行するのか。無常 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、苦痛〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、無我〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法 (性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき 〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、 〔あるがままの〕 観察があり、最後に、〔心の〕 止寂がある。それによって説かれる。「 〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略 ([1336]参照) ……。習修の義 (意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略 ([1337]参照) ……。このように、道が生み出される。……略 ([1338–1341]参照)……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

形態を 〔対象とする〕、無常 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、形態を〔対象とする〕 、苦痛 〔の観点〕からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察となり、形態を 〔対象とする〕、無我 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法 (性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき 〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、 〔あるがままの〕 観察があり、最後に、〔心の〕 止寂がある。それによって説かれる。「 〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義 (意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

感受 〔作用〕〔対象とする〕 ……略……。 【97】 表象 〔作用〕〔対象とする〕 ……。諸々の形成 〔作用〕〔対象とする〕 ……。識知 〔作用〕〔対象とする〕 ……。眼を〔対象とする〕 ……略 ([107–116]参照) ……。老と死を 〔対象とする〕、無常 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察となり、老と死を 〔対象とする〕 、苦痛 〔の観点〕 からの……略……老と死を 〔対象とする〕、無我 〔の観点〕 からの随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察となる。そして、そこにおいて生じた諸法 (性質)の、放棄の対象たることが、心の一境性と散乱なき 〔状態〕が、禅定となる。かくのごとく、最初に、 〔あるがままの〕 観察があり、最後に、〔心の〕 止寂がある。それによって説かれる。「 〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕止寂を修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義 (意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、〔あるがままの〕 観察を先行とする 〔心の〕 止寂を修行する。

どのように、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行するのか。十六の行相によって、〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。 (1) 対象の義 (意味) によって、 (2) 境涯の義(意味) によって、 (3)捨棄の義 (意味) によって、 (4) 遍捨の義 (意味) によって、(5) 出起の義 (意味)によって、 (6) 還転の義 (意味) によって、 (7) 寂静の義(意味) によって、 (8)精妙の義 (意味) によって、 (9) 解脱の義 (意味) によって、(10) 煩悩なきものの義 (意味) によって、 (11) 超渡の義(意味) によって、 (12)無相の義 (意味) によって、 (13) 無願の義 (意味) によって、(14) 空性の義 (意味)によって、 (15) 一味の義 (意味) によって、 (16) 超克なきことの義(意味) によって、 (17)双連の義 (意味) によって、である。

(1)どのように、対象の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、止滅を対象とするものと 〔成る〕 。無明を捨棄していると、随観の義(意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、止滅を対象とするものと 〔成る〕。かくのごとく、対象の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕 は、一味のものと成り (作用・働きを同じくする) 、双連のものと成り、互いに他を超克することがない (他を遮らずに併存する) 。ということで、それによって説かれる。「対象の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義 (意味)によって、修行となる。「道が生み出される」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、対象の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行する。

(2)どのように、境涯の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。無明を捨棄していると、随観の義(意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。かくのごとく、境涯の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕 は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を【98】 超克することがない。ということで、それによって説かれる。「境涯の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(3)どのように、捨棄の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔捨棄し〕 、さらに、諸々の範疇を捨棄していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕 としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。そして、無明を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔捨棄し〕 、さらに、諸々の範疇を捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、捨棄の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「捨棄の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(4)どのように、遍捨の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔遍捨し〕 、さらに、諸々の範疇を遍捨していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕 としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。そして、無明を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔遍捨し〕 、さらに、諸々の範疇を遍捨していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、遍捨の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「遍捨の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(5)どのように、出起の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の 〔心の〕 汚れから〔出起し〕 、さらに、諸々の範疇から出起していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕 としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。そして、無明を共具した諸々の 〔心の〕汚れから 〔出起し〕 、さらに、諸々の範疇から出起していると、随観の義(意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。かくのごとく、出起の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「出起の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(6)どのように、還転の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の 〔心の〕 汚れから〔還転し〕 、さらに、諸々の範疇から還転していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕 としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。そして、無明を共具した諸々の 〔心の〕汚れから 〔還転し〕 、さらに、諸々の範疇から還転していると、随観の義(意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。かくのごとく、還転の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「還転の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(7)どのように、寂静の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。無明を【99】 捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察が、寂静と成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、寂静の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「寂静の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(8)どのように、精妙の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、精妙と成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、精妙の義 (意味) によって、〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「精妙の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(9)どのように、解脱の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、欲望の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、無明の煩悩から解脱したものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、貪欲の離貪あることから、 〔止寂の〕 心による解脱があり、無明の離貪あることから、 〔観察の〕 智慧による解脱がある。かくのごとく、解脱の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と〔あるがままの〕 観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「解脱の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(10)どのように、煩悩なきものの義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、欲望の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。無明を捨棄していると、随観の義 (意味)によって、 〔あるがままの〕観察が、無明の煩悩としては煩悩なきものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。かくのごとく、煩悩なきものの義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「煩悩なきものの義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(11)どのように、超渡の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。そして、高揚を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔超渡し〕 、さらに、諸々の範疇を超渡していると、心の一境性と散乱なき〔状態〕 としての禅定が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。そして、無明を共具した諸々の 〔心の〕 汚れを〔超渡し〕 、さらに、諸々の範疇を超渡していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕観察が、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、超渡の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「超渡の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(12)どのように、無相の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして【100】 修行するのか。 〔心の〕 高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕 としての禅定が、一切の形相 (概念把握)から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、一切の形相から無相のものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、無相の義 (意味) によって、〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無相の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(13)どのように、無願の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕としての禅定が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。無明を捨棄していると、随観の義 (意味) によって、 〔あるがままの〕 観察が、一切の切願から無願のものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。かくのごとく、無願の義 (意味) によって、〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察 〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「無願の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行します」と。

(14)どのように、空性の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行するのか。 〔心の〕高揚を捨棄していると、心の一境性と散乱なき 〔状態〕 としての禅定が、一切の固着(固定観念) から空なるものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕 。無明を捨棄していると、随観の義 (意味)によって、 〔あるがままの〕観察が、一切の固着から空なるものと成り、止滅を境涯とするものと 〔成る〕。かくのごとく、空性の義 (意味) によって、 〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕 観察〔の両者〕は、一味のものと成り、双連のものと成り、互いに他を超克することがない。ということで、それによって説かれる。「空性の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行します」と。「修行します」とは、四つの修行がある。……略……。習修の義 (意味)によって、修行となる。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、空性の義(意味) によって、 〔心の〕止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。これらの十六の行相によって、 〔心の〕 止寂と〔あるがままの〕 観察を双連のものとして修行する。このように、〔心の〕 止寂と 〔あるがままの〕観察を双連のものとして修行する。

〔以上が〕経典についての釈示となる。

2.1.2. 法 (教え) にたいする 〔心の〕 高揚の部についての釈示

どのように、法 (教え) にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有るのか。無常 〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。 【101】 〔彼は〕 「光輝が、法 (真理) である」と、光輝に〔心を〕 傾注する。その 〔光輝〕から 〔生起する、心の〕 散乱が、 〔心の〕 高揚である。その 〔心の〕高揚によって執持された意図は、無常 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法 (教え)にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

無常 〔の観点〕から意を為していると、知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕 「欲念が、法 (真理)である」と、欲念に 〔心を〕 傾注する。その 〔欲念〕 から 〔生起する、心の〕 散乱が、〔心の〕 高揚である。その 〔心の〕 高揚によって執持された意図は、無常 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無我 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法 (教え)にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

苦痛 〔の観点〕から意を為していると……略……。無我 〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。……略……知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕 「欲念が、法 (真理)である」と、欲念に 〔心を〕 傾注する。その 〔欲念〕 から 〔生起する、心の〕 散乱が、〔心の〕 高揚である。その 〔心の〕 高揚によって執持された意図は、無我 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。 【102】それによって説かれる。「法 (教え) にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。

形態を、無常 〔の観点〕 から意を為していると……略……。形態を、苦痛 〔の観点〕 から意を為していると……。形態を、無我 〔の観点〕 から意を為していると……。感受 〔作用〕を……略……。表象 〔作用〕 を……。諸々の形成 〔作用〕 を……。識知 〔作用〕 を……。眼を……略([107–116]参照) ……。老と死を、無常 〔の観点〕 から意を為していると……略……。老と死を、苦痛 〔の観点〕 から意を為していると……。老と死を、無我 〔の観点〕から意を為していると、光輝が生起する。……略……知恵が生起する。……略……喜悦が生起する。……略……静息が生起する。……略……安楽が生起する。……略……信念が生起する。……略……励起が生起する。……略……現起が生起する。……略……放捨が生起する。……略……欲念が生起する。〔彼は〕 「欲念が、法 (真理)である」と、欲念に 〔心を〕 傾注する。その 〔欲念〕 から 〔生起する、心の〕 散乱が、〔心の〕 高揚である。その 〔心の〕 高揚によって執持された意図は、無我 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、無常 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがなく、苦痛 〔の観点〕から、現起を事実のとおりに覚知することがない。それによって説かれる。「法 (教え)にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有ります。すなわち、その心が、まさしく、内に、確立し、静止し、専一と成り、定められる、その時となり、彼に」〔と〕。「道が生み出されます」とは、どのように、道が生み出されるのか。……略……。このように、道が生み出される。……略……。このように、諸々の束縛するものが捨棄され、諸々の悪習が終息と成る。このように、法(教え) にたいする 〔心の〕高揚によって執持された意図が有る。

〔そこで、詩偈に言う〕(1) まさしく、そして、光輝にたいし、 (2) かつまた、知恵にたいし、 (3)さらに、喜悦にたいし、 〔心が〕 動き、 (4) 静息にたいし、 (5)まさしく、そして、安楽にたいし、それら 〔の静息や安楽〕によって、心が動揺する。
(6)そして、信念にたいし、 (7) 励起にたいし、 (8) さらに、現起にたいし、 〔心が〕 動き、(9) まさしく、そして、傾注する 〔作用〕 の放捨にたいし、さらに、 〔あるがままの観察の〕放捨にたいし、 (10) 欲念にたいし、 〔心が動く〕
これらの十の境位があるも、智慧が、彼に遍く蓄積されたなら、法(教え) にたいする 〔心の〕高揚に巧みな智ある者と成り、そして、迷妄に至らない。
(1)まさしく、そして、 〔心が〕 散乱し、さらに、 〔心が〕 汚れ、心の修行が死滅する。 【103】(2) 〔心が〕 散乱し、〔心が〕 汚れず、修行が衰退する。
(3)〔心が〕 散乱し、 〔心が〕汚れず、修行が遍く衰退しない。 (4) そして、 〔心が〕 散乱せず、心が汚れず、心の修行が死滅しない」 〔と〕

これらの四つの境位によって、心の、退縮と散乱と執持された〔意図〕 を、十の境位において正知する。ということで⸺

双連のものについての言説は 〔以上で〕 終了となる。

注釈【0】