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翻訳【5】

融通無礙についての言説

2.6.1. 法 (真理) の輪を転起させることの部

【147】このように、わたしは聞いた。或る時のことである。世尊は、バーラーナシー 波羅奈 に住んでいる。イシパタナ 仙人堕処 の鹿園 鹿野苑 において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げた。

「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、二つのものなのですか。(1)そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義 (道理) ならざることを伴ったものである、諸々の欲望 〔の対象〕 における欲望の安楽への専念であり (快楽主義)(2) さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理) ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義) 。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕中道が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

比丘たちよ、では、どのようなものが、その中なる 〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

(1)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛という聖なる真理です。生もまた、苦痛です。老もまた、苦痛です。病もまた、苦痛です。死もまた、苦痛です。諸々の愛しくないものとの結合怨憎会は、苦痛です。諸々の愛しいものとの別離 愛別離 は、苦痛です。すなわち、また、求めるものを得ないなら 求不得 、それもまた、苦痛です。簡略 〔の観点〕 によって 〔説くなら〕 、五つの〔心身を構成する〕 執取の範疇 五取蘊 は、苦痛です。 (2)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の集起という聖なる真理です。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕 ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛欲愛 であり、生存の渇愛有愛 であり、非生存の渇愛非有愛 です。 【148】 (3)比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の止滅という聖なる真理です。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕 基底なき 〔状態〕です。 (4) 比丘たちよ、また、まさに、これは、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

(1)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

(2)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

(3)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

(4)比丘たちよ、わたしに、『これは、苦痛の止滅に至る 〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。

比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見如実知見が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、 【149】 天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天 〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。

比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。

世尊は、この 〔言葉〕を言った。わが意を得た五人組の比丘は、世尊が語ったことを大いに喜んだ、ということである。

また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕 塵を離れ、 〔世俗の〕垢を離れた、法 (真理) の眼が生起した。「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質) である」と。

また、そして、世尊によって、法 (真理) の輪が転起させられたとき、地居の天 〔の神々〕たちは、 〔歓呼の〕声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法 (真理) の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕 によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵 〔天〕 によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない 〔法の輪〕 が」と。地居の天 〔の神々〕 たちの〔歓呼の〕 声を聞いて、四大王天 〔の神々〕 たちは、 〔歓呼の〕声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法 (真理) の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕 によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵 〔天〕 によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない 〔法の輪〕 が」と。四大王天 〔の神々〕 たちの〔歓呼の〕 声を聞いて、三十三天 〔の神々〕 たちは……略……耶摩天 〔の神々〕たちは……略……兜率天 〔の神々〕 たちは……略……化楽天 〔の神々〕 たちは……略……他化自在天 〔の神々〕たちは……略……梵身天 〔の神々〕 たちは、 〔歓呼の〕 声を上げた。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天 〔の神〕 によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵 〔天〕 によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない 〔法の輪〕 が」と。

まさに、かくのごとく、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔歓呼の〕声音が上がった。かつまた、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺した。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現した⸺天〔の神々〕 たちの天の威力を超え行って、ということである。

そこで、まさに、世尊は、この感興 〔の言葉〕を唱えた。「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ) 」と成った。

(1─1)「『これは、苦痛という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき 【150】諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」 〔とは〕

「眼が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「眼が生起し」とは、 〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義 (意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義 (意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義 (意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義 (意味)によって、である。

眼は、法 (教え)である。知恵は、法 (教え) である。智慧は、法 (教え) である。明知は、法 (教え) である。光明は、法(教え) である。これらの五つの法 (教え) は、法 (教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法 (教え) についての知恵が、法 (教え)の融通無礙となり」 〔と〕

〔あるがままの〕見の義 (意味) は、義 (意味)である。所知の義 (意味) は、義 (意味) である。覚知することの義 (意味) は、義(意味) である。理解の義 (意味) は、義 (意味) である。光輝の義(意味) は、義 (意味)である。これらの五つの義 (意味) は、義 (意味) の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義 (意味)についての知恵が、義 (意味) の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義 (意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)についての諸々の知恵がある。五つの義 (意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」 〔と〕

(1─2)「『また、まさに、この、苦痛という聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と……略 ([1558–1563]参照) ……。 (1─3)「『……遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」 〔とは〕

【151】「眼が生起し」とは、どのような義 (意味)によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義 (意味)によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義 (意味)によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義 (意味)によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義 (意味)によって、であるのか。「眼が生起し」とは、 〔あるがままの〕 見の義(意味) によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義 (意味) によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義 (意味) によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義 (意味) によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義 (意味) によって、である。

眼は、法 (教え)である。知恵は、法 (教え) である。智慧は、法 (教え) である。明知は、法 (教え) である。光明は、法(教え) である。これらの五つの法 (教え) は、法 (教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法 (教え) についての知恵が、法 (教え)の融通無礙となり」 〔と〕

〔あるがままの〕見の義 (意味) は、義 (意味)である。所知の義 (意味) は、義 (意味) である。覚知することの義 (意味) は、義(意味) である。理解の義 (意味) は、義 (意味) である。光輝の義(意味) は、義 (意味)である。これらの五つの義 (意味) は、義 (意味) の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義 (意味)についての知恵が、義 (意味) の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義 (意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)についての諸々の知恵がある。五つの義 (意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」 〔と〕

苦痛という聖なる真理において、十五の法 (教え) があり、十五の義 (意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

(2─1)「『これは、苦痛の集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。 (2─2)「『また、まさに、この、苦痛の集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と……略……。 (2─3) 「『……捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し 【152】……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。

苦痛の集起という聖なる真理において、十五の法 (教え) があり、十五の義 (意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

(3─1)「『これは、苦痛の止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。 (3─2)「『また、まさに、この、苦痛の止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と……略……。 (3─3) 「『……実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。

苦痛の止滅という聖なる真理において、十五の法 (教え) があり、十五の義 (意味)があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

(4─1)「『これは、苦痛の止滅に至る 〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。(4─2) 「『また、まさに、この、苦痛の止滅に至る 〔実践の〕 道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と……略……。 (4─3) 「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。

苦痛の止滅に至る 〔実践の〕 道という聖なる真理において、十五の法 (教え)があり、十五の義 (意味) があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

四つの聖なる真理において、六十の法 (教え) があり、六十の義 (意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十 〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

2.6.2. 気づきの確立の部

(1)比丘たちよ、わたしに、『これは、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

(2)比丘たちよ、わたしに、『これは、諸々の感受における……略……。 (3)比丘たちよ、わたしに、『これは、心における……略……。 (4)比丘たちよ、わたしに、『これは、諸々の法 (性質) における法(性質) の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、諸々の法 (性質) における法 (性質)の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕

(1─1)「『これは、身体における身体の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。 【153】(1─2)「『また、まさに、この、身体における身体の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。 (1─3) 「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」〔とは〕

「眼が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「眼が生起し」とは、 〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義 (意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義 (意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義 (意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義 (意味)によって、である。

眼は、法 (教え)である。知恵は、法 (教え) である。智慧は、法 (教え) である。明知は、法 (教え) である。光明は、法(教え) である。これらの五つの法 (教え) は、法 (教え)の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法 (教え) についての知恵が、法 (教え)の融通無礙となり」 〔と〕

〔あるがままの〕見の義 (意味) は、義 (意味)である。所知の義 (意味) は、義 (意味) である。覚知することの義 (意味) は、義(意味) である。理解の義 (意味) は、義 (意味) である。光輝の義(意味) は、義 (意味)である。これらの五つの義 (意味) は、義 (意味) の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義 (意味)についての知恵が、義 (意味) の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義 (意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)についての諸々の知恵がある。五つの義 (意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」 〔と〕

身体における身体の随観という気づきの確立において、十五の法(教え) があり、十五の義 (意味) があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

(2─1)「『これは、諸々の感受における……略……。 (3─1)「『これは、心における……略……。 (4─1) 「『これは、諸々の法(性質) における法 (性質)の随観である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。(4─2) 「『また、まさに、この 【154】 諸々の法 (性質) における法(性質) の随観が、それが修行されるべきである』と……略……。(4─3) 「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔とは〕 ……略……。

諸々の法 (性質)における法 (性質) の随観という気づきの確立において、十五の法(教え) があり、十五の義 (意味) があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

四つの気づきの確立において、六十の法 (教え) があり、六十の義 (意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十 〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

2.6.3. 神通の足場の部

(1)比丘たちよ、わたしに、『これは、欲 〔の思い〕 (意欲) の禅定と精励の形成 〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、欲 〔の思い〕 (意欲) の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました。

(2)比丘たちよ、わたしに、『これは、精進の禅定と……略……。 (3)比丘たちよ、わたしに、『これは、心 (専心) の禅定と……略……。(4) 比丘たちよ、わたしに、『これは、考察の禅定と精励の形成〔作用〕 を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、考察の禅定と精励の形成〔作用〕を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。比丘たちよ、わたしに、『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕

(1─1)「『これは、欲 〔の思い〕 (意欲) の禅定と精励の形成 〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。(1─2) 「『また、まさに、この、欲 〔の思い〕 (意欲) の禅定と精励の形成〔作用〕 を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。(1─3) 「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました」 〔とは〕

「眼が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「知恵が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「智慧が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「明知が生起し」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「光明が生起しました」とは、どのような義 (意味) によって、であるのか。「眼が生起し」とは、 〔あるがままの〕 見の義 (意味)によって、である。「知恵が生起し」とは、所知の義 (意味)によって、である。「智慧が生起し」とは、覚知することの義 (意味)によって、である。「明知が生起し」とは、理解の義 (意味)によって、である。「光明が生起しました」とは、光輝の義 (意味)によって、である。

【155】 眼は、法(教え) である。知恵は、法 (教え) である。智慧は、法 (教え) である。明知は、法(教え) である。光明は、法 (教え) である。これらの五つの法 (教え) は、法(教え) の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の法 (教え) についての知恵が、法 (教え)の融通無礙となり」 〔と〕

〔あるがままの〕見の義 (意味) は、義 (意味)である。所知の義 (意味) は、義 (意味) である。覚知することの義 (意味) は、義(意味) である。理解の義 (意味) は、義 (意味) である。光輝の義(意味) は、義 (意味)である。これらの五つの義 (意味) は、義 (意味) の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と 〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の義 (意味)についての知恵が、義 (意味) の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)を見示するために、文型と言語と話法がある。五つの義 (意味)を見示するために、文型と言語と話法がある。これらの十の言語は、言語の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の言語についての知恵が、言語の融通無礙となり」 〔と〕

五つの法 (教え)についての諸々の知恵がある。五つの義 (意味)についての諸々の知恵がある。十の言語についての諸々の知恵がある。これらの二十の知恵は、応答の融通無礙にとっての、まさしく、そして、対象と成り、さらに、境涯と〔成る〕 。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の対象であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯である。それらが、その 〔融通無礙〕 にとって、諸々の境涯であるなら、それらは、その 〔融通無礙〕にとって、諸々の対象である。それによって説かれる。「諸々の応答についての知恵が、応答の融通無礙となる」 〔と〕

〔の思い〕(意欲) の禅定と精励の形成 〔作用〕 を具備した神通の足場において、十五の法 (教え)があり、十五の義 (意味) があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

(2─1)「『これは、精進の禅定と……略……。 (3─1) 「『これは、心(専心) の禅定と……略……。 (4─1) 「『これは、考察の禅定と精励の形成 〔作用〕を具備した神通の足場である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。(4─2) 「『また、まさに、この、考察の禅定と精励の形成 〔作用〕 を具備した神通の足場が、それが修行されるべきである』と……略……。 (4─3) 「『……修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔とは〕 ……略……。

考察の禅定と精励の形成 〔作用〕 を具備した神通の足場において、十五の法 (教え)があり、十五の義 (意味) があり、三十の言語があり、六十の知恵がある。

四つの神通の足場において、六十の法 (教え) があり、六十の義 (意味)があり、百二十の言語があり、そして、四十 〔の知恵〕があり、さらに、二百の知恵がある。

2.6.4. 七者の菩薩の部

【156】(1─1)比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン菩薩に、『集起である。集起である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました。 (1─2)比丘たちよ、まさに、ヴィパッシン菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔と〕 。ヴィパッシン菩薩には、 〔教えの〕説明において、十の法 (教え) があり、十の義 (意味) があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

(2─1)比丘たちよ、まさに、シキン菩薩に、『集起である。集起である』と……略……。「 (3─1) ……ヴェッサブー菩薩に……略……。「 (4─1) ……カクサンダ菩薩に……略……。「 (5─1)……コーナーガマナ菩薩に……略……。「 (6─1)……カッサパ菩薩に……略……過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、眼が生起し……略……光明が生起しました。 (6─2)比丘たちよ、まさに、カッサパ菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」 〔と〕 。カッサパ菩薩には、 〔教えの〕説明において、十の法 (教え) があり、十の義 (意味) があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

(7─1)比丘たちよ、まさに、ゴータマ菩薩に、『集起である。集起である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました。 (7─2) 比丘たちよ、まさに、ゴータマ菩薩に、『止滅である。止滅である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え) について、眼が生起し……略……光明が生起しました」〔と〕 。ゴータマ菩薩には、 〔教えの〕 説明において、十の法 (教え) があり、十の義(意味) があり、二十の言語があり、四十の知恵がある。

七者の菩薩には、七つの 〔教えの〕 説明において、七十の法 (教え)があり、七十の義 (意味) があり、百四十の言語があり、そして、八十〔の知恵〕 があり、さらに、二百の知恵がある。

2.6.5. 証知等の部

(1)あるかぎりの、証知の、証知の義 (意味) が、 (1─1) 〔すでに〕 知られたものとなり、(1─2) 〔すでに〕見られたものとなり、 (1─3) 〔すでに〕 見出されたものとなり、 (1─4)〔すでに〕 実証されたものとなり、 (1─5) 智慧によって 〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていない証知の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。証知の、証知の義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

(2)あるかぎりの、遍知の、遍知の義 (意味) が……略……。 (3) あるかぎりの、捨棄の、捨棄の義 (意味)が……略……。 (4) あるかぎりの、修行の、修行の義 (意味) が……略……。 (5)あるかぎりの、実証の、実証の義 (意味) が、 【157】 (5─1) 〔すでに〕 知られたものとなり、 (5─2)〔すでに〕 見られたものとなり、 (5─3) 〔すでに〕 見出されたものとなり、(5─4) 〔すでに〕実証されたものとなり、 (5─5) 智慧によって 〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕体得されていない実証の義 (意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。実証の、実証の義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

証知の、証知の義 (意味) において、遍知の、遍知の義 (意味)において、捨棄の、捨棄の義 (意味) において、修行の、修行の義(意味) において、実証の、実証の義 (意味) において、百二十五の法 (教え)があり、百二十五の義 (意味)があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。

2.6.6. 範疇等の部

(1) あるかぎりの、〔五つの〕 範疇の、範疇の義 (意味) が、 〔すでに〕 知られたものとなり、〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕 見出されたものとなり、 〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって 〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕 体得されていない範疇の義 (意味) は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。〔五つの〕 範疇の、範疇の義 (意味) において、二十五の法 (教え)があり、二十五の義 (意味) があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

(2) あるかぎりの、〔十八の〕 界域の、界域の義 (意味) が……略……。 (3) あるかぎりの、〔十二の認識の〕 場所の、 〔認識の〕 場所の義 (意味) が……略……。(4) あるかぎりの、諸々の形成されたものの、形成されたものの義(意味) が……略……。 (5)あるかぎりの、形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義 (意味)が、 〔すでに〕 知られたものとなり、 〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕見出されたものとなり、 〔すでに〕 実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていない形成されたものではないものの義 (意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

〔五つの〕範疇の、範疇の義 (意味) において、 〔十八の〕 界域の、界域の義 (意味) において、〔十二の認識の〕 場所の、 〔認識の〕 場所の義 (意味)において、諸々の形成されたものの、形成されたものの義 (意味)において、形成されたものではないものの、形成されたものではないものの義 (意味)において、百二十五の法 (教え) があり、百二十五の義 (意味) があり、二百五十の言語があり、五百の知恵がある。

2.6.7. 真理の部

(1)あるかぎりの、苦痛の、苦痛の義 (意味) が、 〔すでに〕 知られたものとなり、 〔すでに〕見られたものとなり、 〔すでに〕 見出されたものとなり、 〔すでに〕 実証されたものとなり、智慧によって 〔すでに〕体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていない苦痛の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。苦痛の、苦痛の義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

(2)あるかぎりの、集起の、集起の義 (意味) が……略……。 (3) あるかぎりの、止滅の、止滅の義 (意味)が……略……。 (4) あるかぎりの、道の、道の義 (意味) が、 〔すでに〕 知られたものとなり、〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕 見出されたものとなり、 〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって 〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕 体得されていない道の義 (意味) は存在しない、ということで、眼が生起し……略……光明が生起した。道の、道の義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

四つの聖なる真理において、百の法 (教え) があり、百の義 (意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。

2.6.8. 融通無礙の部

(1)あるかぎりの、義 (意味) の融通無礙の、義 (意味) の融通無礙の義 (意味) が、〔すでに〕 知られたものとなり、 〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕見出されたものとなり、 〔すでに〕 実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていない義 (意味) の融通無礙の義(意味)は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。義 (意味) の融通無礙の、義 (意味) の融通無礙の義(意味) において、二十五の法 (教え) があり、二十五の義 (意味)があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

(2)あるかぎりの、法 (教え) の融通無礙の、法 (教え) の融通無礙の義 (意味) が……略……。(3) あるかぎりの、言語の融通無礙の、言語の融通無礙の義 (意味) が……略……。 (4)あるかぎりの、応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義 (意味) が、〔すでに〕 知られたものとなり、 〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕見出されたものとなり、 〔すでに〕 実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていない応答の融通無礙の義 (意味)は存在しない、ということで、眼が生起し……略…… 【158】光明が生起した。応答の融通無礙の、応答の融通無礙の義 (意味) において、二十五の法(教え) があり、二十五の義 (意味) があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

四つの融通無礙において、百の法 (教え) があり、百の義 (意味)があり、二百の言語があり、四百の知恵がある。

2.6.9. 六つの覚者の法 (性質) の部

(1)あるかぎりの、機能の上下なることについての知恵が、 〔すでに〕 知られたものとなり、〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕 見出されたものとなり、 〔すでに〕実証されたものとなり、智慧によって 〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって〔いまだ〕体得されていない機能の上下なることについての知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。機能の上下なることについての知恵において、二十五の法(教え) があり、二十五の義 (意味) があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

(2)あるかぎりの、有情たちの志欲と悪習についての知恵が……略……。 (3)あるかぎりの、対なる神変についての知恵が……略……。 (4)あるかぎりの、大いなる慈悲の入定についての知恵が……略……。 (5)あるかぎりの、一切知者たる知恵が……略……。 (6) あるかぎりの、妨げなき知恵が、〔すでに〕 知られたものとなり、 〔すでに〕 見られたものとなり、 〔すでに〕見出されたものとなり、 〔すでに〕 実証されたものとなり、智慧によって〔すでに〕 体得されたものとなり、智慧によって 〔いまだ〕体得されていない妨げなき知恵は存在しない、ということで、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起した。妨げなき知恵において、二十五の法(教え) があり、二十五の義 (意味) があり、五十の言語があり、百の知恵がある。

六つの覚者の法 (性質) において、百五十の法 (教え)があり、百五十の義 (意味) があり、三百の言語があり、六百の知恵がある。

融通無礙という事因において、八百五十の法 (教え) があり、八百五十の義 (意味)があり、そして、千の言語があり、さらに、七百の言語があり、そして、三千の知恵があり、さらに、四百の知恵がある。ということで⸺

融通無礙についての言説は 〔以上で〕 終了となる。

注釈【0】