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翻訳【21】

ブーミジャの経

サーヴァッティーに住んでおられます。そこで、まさに、尊者ブーミジャは、夕刻時に、静坐から出起し、尊者サーリプッタのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サーリプッタを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者ブーミジャは、尊者サーリプッタに、こう言いました。

「友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、かつまた、自作されたものとして、かつまた、他作されたものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、また、或る沙門や婆羅門たちが存在します。行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知します。友よ、サーリプッタよ、ここに、まさに、世尊は、何を説く者であり、何を告げ知らせる者ですか。そして、わたしたちは、どのように説き明かしているなら、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者たちとして存していますか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか」と。

「友よ、まさに、楽と苦は、世尊によって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、世尊の説いたことを説く者として存しています。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕

友よ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません」と。

まさに、尊者アーナンダは、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手にする、この議論と談論を耳にしました。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、すなわち、尊者サーリプッタの、尊者ブーミジャを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。

「アーナンダよ、善きかな、善きかな。サーリプッタは、それを、そのとおりに、正しく説き明かしつつ説き明かします。アーナンダよ、まさに、楽と苦は、わたしによって、縁によって生起したものと説かれました。何を縁として〔生起したのですか〕。接触を縁として〔生起しました〕。かくのごとく説いている者は、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者として存しています。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません。

アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。それもまた、接触という縁あることから〔生起します〕

アーナンダよ、そこで、すなわち、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作されたものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの……略……。すなわち、また、それらの沙門や婆羅門たちが、行為の論ある者たちであり、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものとして、楽と苦を報知するとします。彼らが、まさに、接触〔という縁〕より他に、〔別の何かを縁として、楽と苦を〕得知するであろう、という、この状況は見出されません。

アーナンダよ、まさに、あるいは、身体が存しているとき、身体にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、言葉が存しているとき、言葉にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します。アーナンダよ、まさに、あるいは、意が存しているとき、意にたいする思欲を因として、内に、楽と苦が生起します⸺そして、無明という縁あることから。

アーナンダよ、あるいは、自ら、その身体の形成〔作用〕身行を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その身体の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その身体の形成〔作用〕を行作し(無意識的に行為する)、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

アーナンダよ、あるいは、自ら、その言葉の形成〔作用〕口行を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その言葉の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

アーナンダよ、あるいは、自ら、その意の形成〔作用〕意行を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、他者たちが、彼に、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知ある者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。アーナンダよ、あるいは、正知なき者が、その意の形成〔作用〕を行作し、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起します。

アーナンダよ、これらの法(性質)においては、無明〔という縁〕が起こっているのですが、まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その身体は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その言葉は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その意は有ることなくあり、それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その田畑(環境)は有ることなくあり……略……その地所(基盤)は有ることなくあり……略……その場所(縁)は有ることなくあり……略……それを縁として、彼の内に、その楽と苦が生起する、その事因(契機)は有ることなくあります」と。〔以上が〕第五となる。

注釈【1】