このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ラージャガハに住んでおられます。ヴェール林のカランダカ・ニヴァーパにおいて。また、まさに、その時点にあって、世尊は、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)の得者として〔世に〕有ります。比丘の相談もまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者として〔世に〕有ります。いっぽう、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、〔人々から〕尊敬されず、尊重されず、思慕されず、供養されず、敬恭されず、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちではなく〔世に〕有ります。
また、まさに、その時点にあって、スシマ遍歴遊行者は、大いなる遍歴遊行者の衆と共に、ラージャガハに滞在しています。そこで、まさに、スシマ遍歴遊行者の衆は、スシマ遍歴遊行者に、こう言いました。「友よ、スシマよ、さあ、あなたは、沙門ゴータマのもとで梵行を歩みたまえ。あなたは、法(教え)を遍く学得して、わたしたちに教授するのです。わたしたちは、その法(教え)を遍く学得して、在家者たちに語りましょう。このように、わたしたちもまた、〔人々から〕尊敬され、尊重され、思慕され、供養され、敬恭され、諸々の衣料や〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品の得者たちとして〔世に〕有るでしょう」と。「友よ、わかりました」と、スシマ遍歴遊行者は、自らの衆に答えて、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、スシマ遍歴遊行者は、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます」と。
そこで、まさに、尊者アーナンダは、スシマ遍歴遊行者を携えて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この者は、スシマ遍歴遊行者は、このように言いました。『友よ、アーナンダよ、わたしは、この法(教え)と律において、梵行を歩むことを求めます』」と。「アーナンダよ、まさに、それでは、スシマを出家させなさい」と。まさに、スシマ遍歴遊行者は、世尊の現前において、出家を得ました⸺〔戒の〕成就を得ました。
また、まさに、その時点にあって、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされるところと成ります。「『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。まさに、尊者スシマは、「どうやら、大勢の比丘たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたらしい。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と耳にしました。そこで、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらの比丘たちを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、それらの比丘たちに、こう言いました。「本当に、まさに、尊者たちによって、世尊の現前において、了知が説き明かされたのですか。『「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と覚知します』」と。「友よ、そのとおりです」と。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか⸺それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか⸺それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか⸺それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか⸺それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか⸺それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知しますか。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知しますか。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知しますか。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知しますか。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知しますか。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知しますか。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知しますか。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知しますか。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知しますか。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知しますか。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知しますか。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、無数〔の流儀〕に関した過去における居住(過去世)を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた、三生をもまた、四生をもまた、五生をもまた、十生をもまた、二十生をもまた、三十生をもまた、四十生をもまた、五十生をもまた、百生をもまた、千生をもまた、百千生をもまた、無数の展転されたカッパ(壊劫:世界が拡散し崩壊する期間)をもまた、無数の還転されたカッパ(成劫:世界が収縮し再生する期間)をもまた、無数の展転され還転されたカッパをもまた。『〔わたしは〕某所では〔このように〕存していた⸺このような名の者として、このような姓の者として、このような色(色艶・階級)の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、某所に生起した。そこでもまた、〔このように〕存していた⸺このような名の者として、このような姓の者として、このような色の者として、このような食の者として、このような楽と苦の得知ある者として、このような寿命を極限とする者として。その〔わたし〕は、その〔某所〕から死滅し、ここ(現世)に再生したのだ』と、かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして⸺〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ』と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして⸺〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、また、では、あなたたちは、このように知っている者たちとして、このように見ている者たちとして、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか⸺すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱(無色界禅定)です」と。「友よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「尊者たちよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。友よ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。「友よ、スシマよ、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。
「まさに、わたしは、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。尊者たちは、どうか、わたしに、すなわち、尊者たちの、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「友よ、スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、智慧による解脱者たちとして、わたしたちはあります」と。
そこで、まさに、尊者スシマは、坐から立ち上がって、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者スシマは、すなわち、それらの比丘たちを相手に議論と談論として有ったかぎりの、その全てを、世尊に告げました。「スシマよ、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります」と。
「尊き方よ、まさに、わたしは、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって了知しません。世尊は、どうか、わたしに、すなわち、世尊によって、簡略〔の観点〕によって語られた、このことの義(意味)を、詳細〔の観点〕によって、わたしが了知できるように、そのように語ってください」と。「スシマよ、あるいは、あなたが了知するとして、あるいは、あなたが了知しないとして、そこで、まさに、前に、法(性質)の止住の知恵があり、後に、涅槃についての知恵があります。
スシマよ、それを、どう思いますか。形態は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「感受〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「表象〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。……略……。「諸々の形成〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。「識知〔作用〕は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。「尊き方よ、無常です」〔と〕。「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。「尊き方よ、苦痛です」〔と〕。「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、それゆえに、ここに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形態は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の感受〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の形成〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の、あるいは、内なるものも、あるいは、外なるものも、あるいは、粗大なるものも、あるいは、繊細なるものも、あるいは、下劣なるものも、あるいは、精妙なるものも、あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、一切の識知〔作用〕は、『これは、わたしのものではない。これは、わたしとして存在しない。これは、わたしの自己ではない』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって見られるべきです。
スシマよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。
スシマよ、『生という縁あることから、老と死がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存という縁あることから、生がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取という縁あることから、生存がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『渇愛という縁あることから、執取がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『感受という縁あることから、渇愛がある』と……『接触という縁あることから、感受がある』と……『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』と……『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所ある』と……『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』と……『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』と……『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「スシマよ、『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです(見ます)」〔と〕。「スシマよ、『生存の止滅あることから、生の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。「スシマよ、『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』と……『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』と……『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』と……『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』と……『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』と……『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』と……『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』と……『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』と……『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』と、〔あなたは〕見ますか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した〔種々なる〕神通の種類を体現しますか。一なる者としてもまた有って、多種なる者と成りますか。多種なる者としてもまた有って、一なる者と成りますか。明現状態と〔成りますか〕。超没状態と〔成りますか〕。壁を超え、垣を超え、山を超え、着することなく赴きますか⸺それは、たとえば、また、虚空にあるかのように。地のなかであろうが、出没することを為しますか⸺それは、たとえば、また、水にあるかのように。水のうえであろうが、沈むことなく赴きますか⸺それは、たとえば、また、地にあるかのように。虚空においてもまた、結跏で進み行きますか⸺それは、たとえば、また、翼ある鳥のように。このように大いなる神通があり、このように大いなる威力がある、これらの月と日をもまた、手でもって、撫でまわし、擦りまわしますか。梵の世に至るまでもまた、身体によって自在に転起させますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天耳の界域によって、そして、天〔の神々〕たちの、さらに、人間たちの、両者の音声を聞きますか⸺それらが、遠方にあるも、さらに、現前にあるも」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、他の有情たちの〔心を〕、他の人たちの心を、〔自らの〕心をとおして探知して、覚知しますか。あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知しますか。……略……。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知しますか。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ますか。……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知しますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、また、では、あなたは、このように知っている者として、このように見ている者として、それら〔の解脱〕を、身体によって体得して〔世に〕住みますか⸺すなわち、諸々の形態を超越して形態なくある、それらの寂静なる解脱です」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「スシマよ、ここにおいて、今や、かつまた、この〔了知の〕説き明かしがあり、かつまた、これらの法(性質)への入定なき〔状態〕があります。スシマよ、これは、まさに、どのようにあるのですか」と。
そこで、まさに、尊者スシマは、世尊の〔両の〕足に、頭をもって平伏して、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、わたしは、過誤を犯しました⸺あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、わたしは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。尊き方よ、世尊は、〔まさに〕その、わたしの、過誤を過誤として受け容れたまえ。未来に統御あるために」と。
「スシマよ、たしかに、あなたは、過誤を犯しました⸺あたかも、愚者であるかのように、あたかも、迷乱した者であるかのように、あたかも、智者ならざる者であるかのように。すなわち、あなたは、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者として出家したのです。スシマよ、それは、たとえば、また、〔人々が〕盗賊の犯罪者を捕捉して、王に見せるとします。『陛下よ、あなたにとって、この者は、盗賊であり、犯罪者です。すなわち、それを、〔あなたが〕求めるなら、この者に、棒(刑罰)を課したまえ』と。〔まさに〕その、この者のことを、王は、このように説きます。『君よ、赴きなさい。この男を、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切りなさい』と。〔まさに〕その、この者を、王の家来たちは、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るでしょう。スシマよ、それを、どう思いますか。さて、いったい、その人は、それを因縁として、苦痛と失意を得知するでしょうか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「スシマよ、すなわち、まさに、その人が、それを因縁として、苦痛と失意を得知するとして、すなわち、このように見事に告げ知らされた法(教え)と律において、法(教え)を盗む者の出家であるなら、この〔出家〕は、それよりも、そして、より苦痛なる報い(異熟)あるものとなり、かつまた、より辛辣なる報いあるものとなり、さらに、また、堕所〔への再生〕のために等しく転起します。スシマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたが、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔することから、わたしたちは、あなたの、その〔懺悔〕を受け容れます。スシマよ、まさに、これが、聖者の律における増大なのです。すなわち、過誤を過誤として〔事実のとおりに〕見て、法(教え)のとおりに懺悔するなら、そして、〔彼は〕未来に統御を惹起します」と。〔以上が〕第十となる。
大いなるものの章が第七となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「二つの無聞の者が説かれ、そして、他に、子の肉とともに、さらに、『貪欲が存在する』があり、城市、触知、葦の束、コーサンビー、そして、『上り行く』があり、さらに、第十のものとして、スシマとともに、〔章となる〕」と。
注釈【1】
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