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翻訳【19】

等しき随観の経

サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、無数〔の流儀〕に関した自己を等しく随観しつつ等しく随観するなら、彼らの全てが、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇を等しく随観します⸺あるいは、これらのなかのどれか一つを。どのようなものが、五つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、形態を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、形態あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、形態を〔等しく随観し〕、あるいは、形態のうちに、自己を〔等しく随観します〕。感受〔作用〕を、自己〔の観点〕から……。表象〔作用〕を……。諸々の形成〔作用〕を……。識知〔作用〕を、自己〔の観点〕から等しく随観し、あるいは、識知〔作用〕あるものを、自己と〔等しく随観し〕、あるいは、自己のうちに、識知〔作用〕〔等しく随観し〕、あるいは、識知〔作用〕のうちに、自己を〔等しく随観します〕

かくのごとく、まさしく、そして、この等しき随観があり、さらに、彼に、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕離れ去らないものと成ります。比丘たちよ、また、まさに、『〔わたしは〕存在する』という〔思いが〕離れ去らないとき、五つの〔感官の〕機能の⸺眼の機能の、耳の機能の、鼻の機能の、舌の機能の、身の機能の⸺顕現が有ります。比丘たちよ、意が存在し、諸々の法(意の対象)が存在し、無明の界域が存在します。比丘たちよ、無明の接触から生じる感覚によって接触された無聞の凡夫には、彼には、『〔わたしは〕存在する』という〔思い〕もまた有り、彼には、『これは、わたしとして存在する』という〔思い〕もまた有り、彼には、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『形態ある者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『形態なき者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象ある者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象なき者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有り、彼には、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有ります。

比丘たちよ、まさに、まさしく、そこにおいて、五つの〔感官の〕機能は、まさしく、止住します。そこで、ここにおいて、有聞の聖なる弟子には、無明が捨棄され、明知が生起します。彼には、無明の離貪あることから、明知の生起あることから、彼には、『〔わたしは〕存在する』という〔思い〕もまた有ることなく、彼には、『これは、わたしとして存在する』という〔思い〕もまた有ることなく、彼には、『〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕……『〔わたしは〕有ることなくあるであろう』という〔思い〕……『形態ある者として……『形態なき者として……『表象ある者として……『表象なき者として……彼には、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、〔わたしは〕有るであろう』という〔思い〕もまた有りません」と。〔以上が〕第五となる。

注釈【1】