読み込み中

翻訳【17】

七つの状況の経

サーヴァッティーの因縁となります。「比丘たちよ、七つの状況に巧みな智ある比丘は、三種類の近しき注視ある者であり、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます。比丘たちよ、では、どのように、比丘は、七つの状況に巧みな智あると成るのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、(1)形態を覚知し、(2)形態の集起を覚知し、(3)形態の止滅を覚知し、(4)形態の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、(5)形態の悦楽を覚知し、(6)形態の危険を覚知し、(7)形態の出離を覚知します。(1)感受〔作用〕を覚知し……略……。(1)表象〔作用〕を覚知し……。(1)諸々の形成〔作用〕を覚知し……。(1)識知〔作用〕を覚知し、(2)識知〔作用〕の集起を覚知し、(3)識知〔作用〕の止滅を覚知し、(4)識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を覚知し、(5)識知〔作用〕の悦楽を覚知し、(6)識知〔作用〕の危険を覚知し、(7)識知〔作用〕の出離を覚知します。

比丘たちよ、では、どのようなものが、形態なのですか。そして、四つの大いなる元素であり、さらに、四つの大いなる元素に執取して〔形成された〕形態です。比丘たちよ、これは、形態と説かれます。食の集起あることから、形態の集起があります。食の止滅あることから、形態の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、形態の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

それが、形態を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、形態の悦楽です。すなわち、形態が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、形態の危険です。それが、形態において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、形態の出離です。

比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して、このように、形態の集起を証知して、このように、形態の止滅を証知して、このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、形態の悦楽を証知して、このように、形態の危険を証知して、このように、形態の出離を証知して、形態の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、形態を証知して、このように、形態の集起を証知して、このように、形態の止滅を証知して、このように、形態の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、形態の悦楽を証知して、このように、形態の危険を証知して、このように、形態の出離を証知して、形態の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔形態を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、感受〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの感受の体系があります。眼の接触から生じる感受であり……略……意の接触から生じる感受です。比丘たちよ、これは、感受〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、感受〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、感受〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

それが、感受〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、感受〔作用〕の悦楽です。すなわち、感受〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、感受〔作用〕の危険です。それが、感受〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、感受〔作用〕の出離です。

比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して、このように、感受〔作用〕の集起を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅を証知して、このように、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、感受〔作用〕の悦楽を証知して、このように、感受〔作用〕の危険を証知して、このように、感受〔作用〕の出離を証知して、感受〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、感受〔作用〕を証知して……略……彼らに、〔感受作用を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、表象〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの表象の体系があります。形態の表象であり、音声の表象であり、臭気の表象であり、味感の表象であり、感触の表象であり、法(意の対象)の表象です。比丘たちよ、これは、表象〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、表象〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、表象〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、表象〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。……略……彼らに、〔表象作用を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の形成〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの思欲の体系があります。形態の思欲であり、音声の思欲であり、臭気の思欲であり、味感の思欲であり、感触の思欲であり、法(意の対象)の思欲です。比丘たちよ、これらは、諸々の形成〔作用〕と説かれます。接触の集起あることから、諸々の形成〔作用〕の集起があります。接触の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、感受〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

それが、諸々の形成〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の悦楽です。すなわち、諸々の形成〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、諸々の形成〔作用〕の危険です。それが、諸々の形成〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、諸々の形成〔作用〕の出離です。

比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、諸々の形成〔作用〕を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の集起を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の悦楽を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の危険を証知して、このように、諸々の形成〔作用〕の出離を証知して、諸々の形成〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。……略……彼らに、〔諸々の形成作用を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、識知〔作用〕なのですか。比丘たちよ、これらの六つの識知〔作用〕の体系があります。眼の識知〔作用〕であり、耳の識知〔作用〕であり、鼻の識知〔作用〕であり、舌の識知〔作用〕であり、身の識知〔作用〕であり、意の識知〔作用〕です。比丘たちよ、これは、識知〔作用〕と説かれます。名前と形態の集起あることから、識知〔作用〕の集起があります。名前と形態の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅があります。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道は、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。

それが、識知〔作用〕を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、識知〔作用〕の悦楽です。すなわち、識知〔作用〕が、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるのは、これは、識知〔作用〕の危険です。それが、識知〔作用〕において、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の調伏であり、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕の捨棄であるなら、これは、識知〔作用〕の出離です。

比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の悦楽を証知して、このように、識知〔作用〕の危険を証知して、このように、識知〔作用〕の出離を証知して、識知〔作用〕の、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者たちとなるなら、彼らは、善き実践者たちです。彼らが、善き実践者たちであるなら、彼らは、この法(教え)と律において依って立ちます。

比丘たちよ、さらに、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、このように、識知〔作用〕を証知して、このように、識知〔作用〕の集起を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅を証知して、このように、識知〔作用〕の止滅に至る〔実践の〕道を証知して、識知〔作用〕の悦楽を証知して、このように、識知〔作用〕の危険を証知して、このように、識知〔作用〕の出離を証知して、識知〔作用〕の、厭離あることから、離貪あることから、止滅あることから、〔何も〕執取せずして解脱した者たちとなるなら、彼らは、善き解脱者たちです。彼らが、善き解脱者たちであるなら、彼らは、全一者たちです。彼らが、全一者たちであるなら、彼らに、〔識知作用を〕設置するための〔輪廻の〕転起は存在しません。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、七つの状況に巧みな智ある者と成ります。

比丘たちよ、では、どのように、比丘は、三種類の近しき注視ある者と成るのですか。比丘たちよ、ここに、(1)比丘が、界域〔の観点〕から近しく注視し、(2)〔認識の〕場所〔の観点〕から近しく注視し、(3)縁によって〔物事が〕生起する〔道理〕縁起:因果の道理)〔の観点〕から近しく注視します。比丘たちよ、このように、まさに、比丘は、三種類の近しき注視ある者と成ります。比丘たちよ、七つの状況に巧みな智ある比丘は、三種類の近しき注視ある者であり、この法(教え)と律において、『全一者にして〔梵行の〕完成者たる最上の人士』と説かれます」と。〔以上が〕第五となる。

注釈【1】