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翻訳【16】

第三の六つの接触ある〔認識の〕場所の経

「比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、比丘が、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しないなら、彼によって、梵行は完成されず、彼は、この法(教え)と律から遠く離れています」と。

このように説かれたとき、或るひとりの比丘が、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、ここにおいて、わたしは消え行き、消え去りました。まさに、わたしは、六つの接触ある〔認識の〕場所の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに覚知しません」と。

「比丘よ、それを、どう思いますか。眼は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

「尊き方よ、無常です」〔と〕

「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

「尊き方よ、苦痛です」〔と〕

「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

「耳は……。「鼻は……。「舌は……。「身は……。「意は、あるいは、常住ですか、あるいは、無常ですか」と。

「尊き方よ、無常です」〔と〕

「また、それが、無常であるなら、それは、あるいは、苦痛ですか、あるいは、安楽ですか」と。

「尊き方よ、苦痛です」〔と〕

「また、それが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)であるなら、いったい、それは、『これは、わたしのものである。これは、わたしとして存在する。これは、わたしの自己である』と等しく随観するに健全なるものがありますか」と。

「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

「比丘よ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、眼にたいしてもまた厭離し、耳にたいしてもまた厭離し、鼻にたいしてもまた厭離し、舌にたいしてもまた厭離し、身にたいしてもまた厭離し、意にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。〔以上が〕第十一となる。

ミガジャーラの章が第七となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「ミガジャーラによって、二つのものが説かれ、さらに、サミッディによって、四つのものが〔説かれ〕、ウパセーナ、ウパヴァーナ、三つの六つの接触ある〔認識の〕場所があり、〔章となる〕」と。

注釈【0】