「比丘たちよ、財貨を有する喜悦が存在し、財貨なき喜悦が存在し、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦が存在します。財貨を有する安楽が存在し、財貨なき安楽が存在し、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽が存在します。財貨を有する放捨が存在し、財貨なき放捨が存在し、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨が存在します。財貨を有する解脱が存在し、財貨なき解脱が存在し、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱が存在します。比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する喜悦なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、五つの欲望の属性を縁として生起する、喜悦は、比丘たちよ、これは、財貨を有する喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき喜悦なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩の滅尽者たる比丘が、貪欲から心が解脱したのを注視していると、憤怒から心が解脱したのを注視していると、迷妄から心が解脱したのを注視していると、〔彼に〕生起する、喜悦は、比丘たちよ、これは、財貨なき喜悦よりもより財貨なき喜悦と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する安楽なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽と悦意は、比丘たちよ、これは、財貨を有する安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき安楽なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを注視していると、憤怒から心が解脱したのを注視していると、迷妄から心が解脱したのを注視していると、〔彼に〕生起する、安楽と悦意は、比丘たちよ、これは、財貨なき安楽よりもより財貨なき安楽と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する放捨なのですか。比丘たちよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。……略……。身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。比丘たちよ、すなわち、まさに、五つの欲望の属性を縁として生起する、放捨は、比丘たちよ、これは、財貨を有する放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき放捨なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、財貨なき放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを注視していると、憤怒から心が解脱したのを注視していると、迷妄から心が解脱したのを注視していると、〔彼に〕生起する、放捨は、比丘たちよ、これは、財貨なき放捨よりもより財貨なき放捨と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨を有する解脱なのですか。形態(色)と結び付いた解脱は、財貨を有する解脱です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき解脱なのですか。形態なきもの(無色)と結び付いた解脱は、財貨なき解脱です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、煩悩が滅尽した比丘が、貪欲から心が解脱したのを注視していると、憤怒から心が解脱したのを注視していると、迷妄から心が解脱したのを注視していると、〔彼に〕生起する、解脱は、比丘たちよ、これは、財貨なき解脱よりもより財貨なき解脱と説かれます」と。〔以上が〕第十一となる。
百八の教相の章が第三となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「シーヴァカと百八のもの、比丘、過去、そして、知恵があり、比丘たちとともに、三つの沙門や婆羅門たち、そして、単純なるもの、財貨なきものがあり、〔章となる〕」と。
感受に相応するものは〔以上で〕完結となる。
注釈【1】
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